第三章「水源なき溺死事件」
――深夜・港区高層マンション前 駐車場
「……まだ出てこないっすね」
亜佳里は助手席の窓から顔を出し、深夜のタワーマンションを見上げた。コンビニ袋から取り出したパンドーナツを頬張り、五嶌の助手席でペットボトルのジュースをちゅっと吸い込む。
「不倫の現場張り込みだぞ。真っ当な時間に帰宅するとは思うな」
「でも、何か……誰も幸せにならない調査って、気が滅入りますよ」
「同感だ。俺もこの手の仕事は嫌いだ」
二人は沈黙し、フロントガラス越しに灯る部屋の明かりを見つめた。
数十分後、ターゲットの男が高層階の部屋から出てきた。隣には20代後半と思しき華やかな女性。腕を絡め合いながら、夜の街へと消えていく。
「写真、撮りました!」
亜佳里が即座にカメラを構え、証拠を確保した。
しかしその直後、向かいの歩道からフラッシュが瞬いた。
「ちょっとぉ、そっちも張ってたの?」
痩身の男がこちらに近づいてきた。首から下げたパスには「週刊実声」の文字。
「まさか浮気調査の探偵とバッティングするとは。そっちは依頼?こっちは芸能枠。あの男、CM出てる歌手だよ」
「失礼します。こちらもプライバシーの遵守が義務ですので」
「……へえ、でもそっちの助手さん、可愛いねぇ。事務所のHPに顔出してる?」
「してません!」
亜佳里が睨むと、男は肩をすくめて去っていった。
「……嫌な感じ」
「仕事の質が違う。気にするな」
――翌朝・探偵事務所
「……依頼人に確認したが、あの旦那、まだ帰ってないそうだ」
「えっ。ってことは……」
「そう。例の“女”と夜を共にして、そのまま」
五嶌が報告をまとめる中、ニュース速報がテレビに流れる。
《都内で歌手の水島純一さんの変死体が発見されました。死因は“溺死”。しかし、発見現場は水源のないアスファルトの歩道。荷物や衣類にも水は……》
「水がないのに、溺れた……?」
「科学的にはありえん。だが──それが現実に起きてる」
――都内 警視庁 特別対策室
「これが三件目だ」
鬼頭がタブレットを操作し、現場写真と検視報告を見せる。
「死因はいずれも肺、胃、腸に水が満たされた典型的な“溺死”。でも、現場には水がない」
「事故ではないな。連続殺人だ」
「犯人は何らかの方法で、水を“生成”または“転送”している。しかも標的は全員成人男性」
「雨宮という人物を追っている。昨日の浮気相手と酷似した姿だった。が、身元を調べると“霧島アヤ”名義で生活していたことがわかった」
「……整形か」
「声も偽装されていた。声帯模写と発話特性のAI操作。元の名前は“雨宮洸介”。理工学部出身で、水資源研究の論文を複数書いている」
「つまり“水”に関する知識をもとに、犯行方法を構築していたと」
――同日夜・事務所・鬼頭との通話
「……なあ、鬼頭。霧島アヤ本人……奴も“本物”だった可能性、あるか?」
「……ああ。過去の未解決事件のいくつかが、やつの能力と照合して説明がつく」
「つまり、雨宮は霧島の模倣者ではあるが、霧島自身の“実在”も……」
その通話を、ソファのクッションの影で毛布に包まり“寝たふり”をしていた亜佳里が耳をそばだてていた。
(“本物の超能力者”……やっぱり、いるんだ)
唇を引き結び、静かに目を開けた。
――翌日、事務所
五嶌は手元のPCを操作し、現場写真と気象データ、死因報告を付き合わせながら独り言を呟く。
「水がないのに肺が満たされている……生理学的に可能なのは、“気体の水”──水蒸気だ」
彼は亜佳里に声をかけた。
「過去の現場周辺の空調機器、配管点検、室外機や蒸気発生装置の稼働状況を洗ってくれ」
「……はいっ!」
数時間後、情報が揃った。
「全部の現場、近くに高出力のヒートポンプか業務用スチーマーがあった。そしてそのすぐ近くで“雨宮”が映ってる」
「つまり……局所的に“高濃度水蒸気”を発生させて、気道から強制的に吸引させる……?」
「圧力と温度を調整すれば、肺内で水分が凝縮する。それを利用した、文字通りの“ガスによる溺死”だ」
亜佳里の声が震える。
「まさか……水で“溺れさせる”んじゃなくて、水に“変える”なんて……」
鬼頭からの報告が入る。
「雨宮の過去の研究室関係者から情報が入った。彼は卒業後、水資源研究の企業に就職したが、2年前に突如退社。理由は“研究倫理の違反疑惑”。“水を自在に操る”という妄執的研究にのめり込んでいたらしい」
「どこに潜伏している?」
「過去に共同研究していたベンチャーの旧ラボ。現在は閉鎖されているが、名義上は雨宮の“個人契約”として維持されている。位置は──お前たちの事務所から2駅先の工業地域だ」
――潜入・科学的決着
夜。五嶌と亜佳里はラボ跡地へ向かう。ドアは破壊されておらず、電子ロック。
「解除できそうです。古い型ですし」
亜佳里が手早く端末を接続し、数分でロックを破る。
「窓の時もそうだが、カギを破るのだけは天才級だな」
五嶌が皮肉っぽく言う。
「うるさいですねっ。行きますよ!」
中は雑然とした研究機材とケーブル、ポータブル加湿装置、そしてヒートポンプによる特殊チャンバー。
奥の空間で、雨宮洸介が待っていた。
「……君たちが来ると思っていたよ」
亜佳里が鋭く問う。
「どうして……そんなことを」
「水は人類の“神”だ。支配すれば人は動く。……でも、もう限界だった。誰も、僕を見なかったから」
彼はチャンバーのスイッチに手を伸ばす。
「止まれ!」
五嶌が構えていたスプレーノズルを噴射。特殊な撥水性樹脂が部屋の空気中に放たれる。
「“親水性”を失わせた空間では、お前の“溺死装置”は作動しない。肺への凝縮も、水の付着も起こらない」
「そんな……そんなことで……っ!」
雨宮が取り出そうとした装置を亜佳里が背後から抑え込む。
「終わりです! あなたの“神”は、科学で否定されました!」
――事件後・事務所にて
数日後、報告を終えた鬼頭がファイルを手渡す。
「雨宮は、過去に霧島アヤの事件を知り、彼女が本当に“超常の存在”だったと信じ込んだ。霧島に接触はしていなかったが、ネット上の模倣と整形で彼女になりきろうとした」
「結局、霧島本人との関係は?」
「接点はなかった。……だが、五嶌、お前の言った通りかもしれん。霧島アヤは──“本物”である可能性がある」
――深夜の事務所
ソファの影に毛布をかぶって眠るふりをしていた亜佳里が、そっと耳を澄ませていた。
五嶌と鬼頭の通話。
「超常的な能力の“元凶”が霧島だったとすれば、それに影響された者が次々に現れている……そう考えると説明がつく」
「つまり“感染”や“覚醒”という現象が、彼女を中心に起きていた……?」
「……この件、公安本部でも極秘案件に切り替える」
亜佳里は毛布の中で拳を握る。