第一章「孤狼たちの序章・1」
――五年前・都内 某所
雨が降っていた。
六月の夜、湿り気を帯びた風がビルの谷間を吹き抜ける。都心の一角で発生した大規模火災の現場には、すでに規制線が張られ、真夜中にもかかわらず騒然とした空気が立ち込めていた。
その中心で、ひとりの男が膝をついていた。
黒ずんだ制服に焼け焦げた血がにじむ。男の名は、五嶌亮伍。そして、彼の目の前には──
動かぬ肉塊と化した、かつての相棒の姿があった。
新妻和昭。
信頼し、慕い、共に正義を語った男だった。
「……応答しろ、和昭」
無線機からはただノイズが流れる。どこかで鉄骨が崩れ、火の粉が舞った。
そのとき、空気が揺れた。
すぐ上の非常階段から、ひとつの影が降りてくる。
「大切な奴を失った気分は、どうだ?」
声が響いた。
灰のように冷たく、空虚で、吐き捨てるような声音。
現れたのは、深い黒のフードを被った青年──その瞳は、薄く赤く光っていた。
五嶌は即座に拳銃を構えた。だが、引き金にかけた指が震える。
「テメェ……!」
「人は、奪われなきゃ何もわからない」
そう言って、黒づくめの輪郭は音もなく姿を消した。
五嶌は、拳銃を構えたまま動けなかった。
足元の血だまりが、じわじわと広がっていく。
雨と混ざった血が、靴底を濡らす。
この夜を境に、彼は“公安の人間”ではなくなった。
――五年後・未明/都内 某探偵事務所
針の音だけが、静寂を刻む。
室内に置かれた時計が、午前三時を告げた。
雑居ビルの一角にあるその部屋は、まるで倉庫のようだった。
乱雑に積まれた書類、淹れかけのインスタントコーヒー、壁に立てかけられた猟銃。光の届かない場所に潜むように、五嶌はそこにいた。
微かな物音が、静けさを破る。
……窓の鍵が、外れる音。
五嶌はわずかに目を細めた。
「──侵入者、か」
引き出しにしまってあったエアガンを引き抜き、音を立てずに立ち上がる。
足音が、確かに部屋の中へと近づいてきた。
「動くな。撃つぞ」
その声に、侵入者がピタリと止まった。
「わ、わわっ!? ちょ、ちょっと待って! 敵じゃない、ってば!」
灯りをつける。
現れたのは、童顔の若い女だった。
肩までの茶髪、目はくるくると動き、動揺を隠せていない。服装はジャージ姿で、背負ったリュックがやけに大きい。
「……誰だ、お前」
「新妻亜佳里。和昭の妹。」
「……そうか」
「入るから」
「勝手に入るな」
「もう入ってる。で、あんたが五嶌亮伍でしょ? だったら──弟子にして」
言い切った。
表情は真剣で、どこか突き刺さるような目をしていた。
五嶌はため息をつき、銃を下ろす。
──雨の朝。
再び始まる戦いの幕開けだった。