第4話 『明日』①
いつかの記憶。
むせ返るような血と油の匂いと、何処かから運ばれてきたゴミと死体の山で溢れかえった街、廃棄街で、若干の猫背でありながら、真面目さを感じさせる黒髪と、知性を感じさせる丸眼鏡をかけた、その風貌からして性格の穏やかさを見て取れる顔つきの男が、飢えた狼の様な目つきをした盗賊たちに取り囲まれていた。
それはこの街では珍しくもない、いつも通りの日常だった。
男と盗賊の間に暫く膠着状態が続くと、ついに盗賊たちはその腰にぶら下げた得物を次々と抜きながら、手慣れた顔で男を脅し始めた。
『どこ行くんだ?優男さんよ…』
『テメェ……余所者だな』
『ここを通りたきゃあ、とりあえず食いもんか金を置いてくってのが常識なんだぜ?』
それを聞いた男は爽やかな仕草で丸眼鏡を外し、やれやれといった顔で溜息を吐きながら盗賊たちへと微笑むと、素早くその場で土下座をし始める。
『すいません! これで勘弁してください!』
男はそう言いながらゆっくりと顔を上げて、外した丸眼鏡を両手で盗賊たちの前へと差し出し、少し間を置いて、上目遣いで恐る恐るその顔色を伺い始めた。
『……』
思わぬ出来事に少し唖然としていた盗賊たちは、当然の事ながら次第に怒りの表情を浮かべていき、やがて次々と男に蹴りを食らわせた。
『こんなもんで俺らが満足するわけねぇだろ!! 舐めてんのかテメェは!!!』
ぎゃああああああああ、と男の悲痛な叫び声が街にこだましたその時、その一部始終をボロボロの古屋の屋根から見ていた、薄茶色の髪をした少年が軽やかに屋根から飛び降りて着地し、やれやれといった表情で盗賊たちの元へと向かって止めに入る。
『おーい、その辺にしとけよ……お前ら』
その声に盗賊たちがなんだ?と言わんばかりの険しい表情で振り向くと同時に、その顔は仲間から仲間へと伝染するかの様に次々と恐怖に染まり、
『バ…バケモノだぁぁあ!』
『い、命だけは! 命だけは勘弁してくれえええ!』
と、そう言いながら一目散に逃げ出して行く盗賊たちを見て、うんざりしたような、それでいてどこか寂しそうな顔で溜息を吐くと、少年は思い出したかのようにその場にうずくまっている男の側へとすぐさま駆け寄り、声をかけた。
『おい、大丈夫か? 怪我は?』
男は周りに誰もいなくなったのを確認すると、踏まれてボロボロになった眼鏡をかけ直し、おもむろに立ち上がって、あちこち埃を払いながら、少年へと礼を述べた。
『ありがとう……お陰で助かったよ』
『君…名前は何て言うんだい?』
男がそう尋ねると、少年は一瞬迷った様な顔をしてから、寂しい笑顔で、
『バケモノ』
とだけ答えて、すぐさま後ろへと振り返り、歩き出してから、
『じゃあな、オッサン』
そう言って立ち去ろうとする少年の腕を、男はやや強引に掴むと、砂と埃まみれの笑顔で話しかけた。
『これは失礼…人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るのが礼儀だったね』
『初めまして、僕の名前はオッサンじゃなくて…ええええええ!?』
続けてそう言いかけた時、腕を掴まれた事に驚いた少年が反射的に腕を振り払った事による衝撃で、情けない叫び声と共に男の体は200mほど先の積み重ねられたゴミの山へと向かってとてつもない速さで吹き飛ぶと、やがて凄まじい音と共に激しく衝突し、生き埋めとなるのだった。
『あ……やっべ』
少し焦ったような表情で、少年は急いでその場に駆けつけ、男に呼びかける。
『おっさーん、大丈夫かぁ!?』
返事はない。
ただのゴミ山のようだ。
まさか…殺っちまったか?
次第に焦りを隠せなくなっていく少年の肩を、誰かが指先でドアをノックするかのように叩いた。
『うわ!? いや違う! 俺は殺ってねぇ! これはその、事故っつーか……!』
ピクりと体を跳ねさせた後にそう言って、汗だらけの顔で苦笑いをしながらゆっくりと振り向くと、少年の表情は凍りついた。
振り向いた先にいたのは、なんと先ほどの丸眼鏡の男だったからだ。
『おっさん…あんた、何者だ?』
確かに自分が吹き飛ばした筈の男が、その体に傷一つ付けずに、にこやかにその場に立っているのを見て、ただならぬ悪寒と、身の危険を感じた少年は、後ずさりしながら恐る恐るそう問いかけた。
『人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るのが礼儀だよ?』
ニヤリと笑みを浮かべながら軽口を叩く男に、少しだけイラっとしてから、少年は答えた。
『そりゃ悪ぃな、俺の名前はフィストってんだ……つかてめぇ、よく見たらその丸眼鏡も、汚れた服もいつの間にか綺麗に直ってやがんじゃねぇか……』
さらに後退りしながら、フィストは更に警戒を強める。
(この異常な修復能力に身体の頑丈さ……こいつは、間違いなく超越者だ…!)
(このままじゃ、あの日みてぇに……何も出来ずに、俺は……!!)
(それだけは、それだけは絶対にさせねぇ!!)
やがて十分な間合いを確保すると、臨戦態勢を取りながらフィストは男に問いかけた。
『おい、お前がこの街に来た目的は何だ?』
自身が警戒されているのを察知した男は、掛けている丸眼鏡をクイ、と人差し指で上げてから、再びニヤリとした笑顔でその問いに応えた。
『君たちさ』
その言葉に返事をするかのように、フィストは怒号を上げながら全力で踏み込み、すぐさま男へと殴りかかる。
すると、男はおおっと、といった顔で、その場から微動だにせず、右手でその左拳を受け止めてみせると、嘘くさい笑顔で話しかけた。
『落ち着いて。僕は悪いお兄さんじゃないよ』
『そりゃあ、典型的な……悪いオッサンのセリフだろ…がっ!』
(俺のパンチを止めやがった!? しかも片手で?)
(嘘だろ……!?)
軽口を言いながら掴まれた拳をなんとか振り解くと、それだけで感じ取ってしまった自分と相手との圧倒的な実力差により生じた恐怖の感情を全て振り払うかのように叫ぶと、フィストは続けざまに追撃を仕掛けた。
『本物のバケモン野郎が…だったら…コイツを食らいやがれ!!』
『爆裂拳!!』
その常人外れの肉体による凄まじい踏み込みと共に生じた爆撃のような音と共に放たれる、まるで隕石のような目にも止まらぬ速さで男に襲いかかったその拳を、今度は少し驚いたようなわざとらしい顔で、次は左手のみで受け止めて見せた。
だが、その威力を完全には受け流しきれなかったのか、その技の衝撃波により、辺り一体の建物や壁が木っ端微塵に吹き飛んでゆく。
(これでもダメかよ…! クソッ!)
今度は振り払われないよう、拳を掴んでいるその手に強い力を込められたのを感じると、フィストは即座に男の脳天を目掛けて、左足でのハイキックを仕掛ける。
それを空いている右手で防ぐと、男は拳を掴んでいる左手を相手の身体ごと持ち上げ、勢いをつけてそれを振り下ろすと、その身体は木の枝を折るような音と共に激しく地面へとぶつかって、それと共にフィストは苦しげな表情でその場を転げ回る。
痛みに耐えながらも、次の攻撃から身を守る為に両手で頭を庇いながらも、硬い地面に勢いよく背中からぶつけられた事により肋骨が何本か折れたのを認識すると、思い出したかのように襲いかかって来る凄まじい痛みによって、フィストは堪らず呻き声を上げた。
『ぐうううぅ……』
『手洗い真似をしてすまない、すぐ治してあげるからね』
自身が傷つけたであろう少年を気遣うように、男は地面に横たわるその体に触れると、すぐさま回復魔法を唱え始めた。
『修復』
みるみる痛みが引いていくにつれて、フィストの心は絶望に染まっていった。
(俺の全力の技が……あんなに簡単に…?)
そんな考えを全て読み取るかの様に、男は治療を続けながら話し始めた。
『君が持っているその烙印…限界超越は、確かに凄まじい力だ。』
『だが、君のその幼い体ではまだ完全に扱いきれていない。』
『この調子で全力を出し続けると、いずれ君の体は……』
男が話している途中でフィストの傷が完全に癒えると、もう痛く無い筈の脇腹を庇う様にゆっくりと立ち上がり、男を睨みつけた。
『この力の事についてよく知ってるみてぇだな…』
『だったら教えてくれ…この呪われた力についてよ……』
フィストは男の言葉を遮りながらそう言い、悔しそうな表情で俯くと、
『俺の家族を奪ったこの力を……! あの忌々しいバケモンが俺に与えやがったこのクソッタレの呪いの事をよ!!!!』
と、続けざまに男へと向かって吠える。
静かにそれを聞いていた男はフィストへと歩み寄り、その身体を抱き寄せてから、
『うん…辛かっただろうね……すまない、僕がもっと早くに君を、見つけていれば……』
『すまない、本当にすまない……』
なぜか自分の事のようにひたすら謝るのだった。
だが、そう言いながら謝る男を横目に、力強く抱きしめられたフィストは何故かニヤリと笑うと、そのまま男の体を拘束するように締め上げて、続けざまに雄叫びを上げる。
『アぁネモネぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!』
その声が響き渡ってからしばらくの沈黙が流れた後、その声に呼応するかのように、凄まじい速さで何かがこちらへと向かってきているのを二人がお互いに認識すると、ニヤリと笑って、
『かましてやれ』
とそう言ったフィストには目もくれずに、突如現れたその気配に男は危険を感じたのか、必死に体を振り解こうと踠くも、抵抗も虚しく、やがてその顔面に強烈な蹴りが浴びせられてしまう。
すると、抱きついていたフィストも巻き添えを食らいながら瓦礫の山へと吹き飛ばされてしまうが、すぐさま飛び上がり、怒りの表情で、蹴りを浴びせた張本人でもある、肩より少し長く伸びた薄桃色の髪を風にたなびかせながら、どこか気品を感じさせる顔立ちで、涼しげな表情をしている少女へと怒声を放つ。
『てめぇ! 何しやがんだ!!』
それを聞いた少女は、そのどこか儚げな表情を、はぁ?と言わんばかりにしかめながらフィストを睨みつけ、
『助けを求めたのはアンタでしょうが……』
と静かに正論を放つと、
『ぐっ……まぁ、何はともあれ助かったぜ、サンキューな、アネモネ』
と、何も言い返せなくなったのか、フィストは素直に感謝を述べた。
その言葉にアネモネはふん、と自慢げな表情をしてから、すぐさま不思議そうな顔でフィストを見つめ、
『ゴリラの化け物と名高いあんたがそんなに手こずるなんて、ほんとに珍しいわよね…』
『もしかして相手はスーパーゴリラだったの?』
と、冗談まじりにそう問いかけると、それを聞いたフィストは心底呆れた顔で、
『いーや……ありゃあどっちかっつーと、アルティメットゴリラだぜ……』
と、真面目に答えた。
それと同時に、男を吹き飛ばした方角の瓦礫からガラガラと音が鳴り始め、二人は同時にその方へと向かって振り向くと、その顔は驚きに染まった。
『まったく…ひどい言い草だなぁ……』
そう言いながら、瓦礫の山からゆっくりと起き上がり、やれやれと言った顔で笑う男を見て、アネモネは戦慄した。
『私、首の骨を折るつもりで蹴ったのに』
『あいつ…なんでピンピンしてるの?』
『だから言ったろ…ハイパーゴリラだってな』
『でも…それにしては自分の発言さえも覚えてないアンタよりは幾分も知的そうに見えるけど……』
『うるせぇ! 余計なお世話だっつの!!』
言い合いながらも、二人は再び構える。
『合わせろ、アネモネ』
『はいはい…』
アネモネと息を合わしながら、二人はゆっくりと横に並ぶと、男はやはり余裕の表情で、
『来なさい』
と、そう言うかのように二人へと手招きをするのだった。
次回第5話 『明日』 ②