ディアの過去 前編
そこは世界の底にて外。ダンジョンに組み込まれた「封印の間」にて、当時ディアは静かに終わりの時を待っていた。
(もはや時の感覚も失われて久しいが、あれからどれほどの時が経ったのであろうか? 今もまだ封印が健在であるなら、我が染め上げた世界はまだ存在しているのであろうが……いや、考えても意味のないことか)
幾久しく途絶えていた思考に、ほんのわずかな小波が奔る。だがそれも刹那のこと。今のディアに許されているのは定められた「終わり」に向かって時を過ごすことだけであり、閉ざされたこの空間は、正常な思考を維持し続けるにはあまりにも過酷。
故にディアは、開けていても閉じていても同じ瞼を改めて閉じる。これが夢でも現実でも違いなどない。再びその思考が無明の闇へと沈み込もうとした、まさにその時。
パリン
「いった!? お尻打った!?」
不意に軽い音が響き、目の前の空気が揺らぐ。それに合わせて響いてきたのは、遙か昔に忘れ去り、心の底から渇望した自分以外の何かの声。
「……………………」
「もー、何なの!? 何で急に足下に穴が……って、何ここ? 暗い!? 真っ暗じゃん! えっと、ケータイ、ケータイは……」
あまりにも予想外の出来事にディアが絶句している間にも、落ちてきた何者かが制服のポケットをまさぐる。そうして二つ折りの携帯電話を取り出すと、その蓋をパカッと開いてわずかな光源を生みだした。
「よかった、壊れてなかった! でも電波来てない? えー、どうしよう? 一一〇番って電波なくてもできるのかな?」
「……………………おい」
「あーっ! スカート破れてる!? 嘘でしょ、お母さんにメッチャ怒られる!」
「おい!」
「えっ、誰かいるの!?」
慌てた少女が、ケータイを外側に向ける。だがその光はあまりに弱く、ディアの黒い鱗をほんのわずかに照らし出すのが限界だった。
「むぅぅ、暗すぎて何もわかんない……ねえ、本当に誰かいるの?」
「ああ、いる」
「何処? 上!? ここ歩いても平気な場所なの?」
「待て、動くな……いや、動いても構わんが、動く意味はない。どうせ貴様も我も、ここからは出られないのだからな」
「出られない? 貴方、何か知ってるんですか?」
「知っていると言えば知っているが……その前に、貴様こそどうして自分がここにいるのかわかっているのか?」
問う少女に、ディアが逆に問い返す。すると少女は暗闇の中でキュッと眉根を寄せ、難しい顔でついさっきの事を思い出していった。
「どうって……私は普通に道路を歩いてたはずなのに、何かいきなりスポッて足が落ちて、そのまま穴? に落ちて……?」
「穴に落ちた……ふむ」
その言葉から、ディアはある程度予想を立てて周囲になけなしの魔力を飛ばす。するとすぐに、結界の一部に極めて小さな綻びがあることに気づいた。
「どうやら貴様は、ダンジョンが創られる際に生じる亀裂に落ちたようだな。通常ならばそのダンジョンのなかに入るだけのはずだが……何とも運のないことだ」
通常、ダンジョンの誕生に巻き込まれた者が落ちるのは、新たに生成されたダンジョンの内部だ。実際ダンジョンが生まれる場所や時間がほんのわずかでも違っていたら……あるいは少女の立ち位置がほんのわずかでもずれていたなら、おそらくこの少女は普通にダンジョン内部のどこかに放り出されていたことだろう。
だがありとあらゆる偶然が奇跡のように噛み合った結果、少女はここに……ディアの封印されている場所に落とされたのだ。それは運と呼ぶにはあまりにも低い、いっそ運命とでも言うしかない確率の果ての出来事であったが、どんな表現をしようと結果は同じである。
「ダンジョン!? え、ダンジョンって凄く危ないんですよね!? そんなところに勝手に入ったってバレたら、お父さんとお母さんと、あと先生とかにだって怒られる……! 出ます! 今すぐ出ます! 出口とかってどっち……あーもー、暗くて何にもわかんない!」
「騒ぐな。というか、今言ったばかりであろう。ここに出口などない」
「出口が……ない? でもじゃあ、私はどうやって入ってきたんですか?」
「……それも今言ったであろう? 新たなダンジョンが生まれる時に生じる、空間の亀裂にはまって落ちたのだ。だがそれは一瞬の出来事であり、今はもう塞がってしまっている。
つまり、出口はない」
「……………………え? じゃあ私、ずっとこのままなんですか?」
「そうだな。外からの助けが来なければ、そうなるだろう」
外からの助けなど、来るはずがない。だがそれを正直に伝えて少女を絶望させるのは、何となく気が進まない。なのでディアはやや婉曲な表現としてそう告げたが、それを聞いた少女はホッとしたように胸を撫で下ろすと、手にしていたケータイをいじり始めた。
「なるほど、誰かが来てくれればいいんですね! なら平気です。私これでも友達多いですし、日が暮れるまでに家に帰らなかったら、お父さんやお母さんだって心配して警察に通報してくれると思うし……そしたらおじさんも一緒に出られますよ」
「おじ!? 我はおじさんなどではないぞ!?」
「えー? でもその声、男の人ですよね? あ、ならもっとこっちに来てもらえます? ほら、この光のところまで来てくれたら、顔とか照らせると思うんですけど」
「それは……」
少女がケータイを動かすと、閉じた世界で唯一の光源がヒラヒラと舞い踊る。ディアがそこに顔を近づけるのは簡単だったが……
「……やめておこう。今は人前に姿を晒したくない」
「そうなんですか? 私おじさんの見た目がどんなでも気にしませんよ?」
「貴様が気にせずとも、我が気にするのだ」
「むー、そう言われると見たくなるのが乙女心……でも無理矢理はよくないですよね。仕方ないので我慢します。
あー、でもでも、誰かが迎えに来てくれるまでの間、話し相手になってもらえませんか? 私どうもこう、黙ってるのが苦手なんで……友達にはいっつも喋りすぎって言われるんです。
でもでも、黙ってるって何か勿体ないじゃないですか! 人生は短いんですから、いつだって全力で楽しまないと! そう思いません?」
「……………………」
「あっと、失礼しました! そう言えばまだ名前も言ってなかったですよね。私は本城市立南央中学校の三年生で、有田 理香っていいます。おじさんの名前は?」
「我が名は悪心竜デアボリック・ローズフェラート・アイゼン・イルム・ストラダ・シード・イニシエートだ」
「……………………が、外国の人、ですか? えっと、キャンユースピークジャパニーズ?」
「……? 何だ突然?」
「いやだって、外国の人って言うから……英語通じない? でも私、英語くらいしかわかんない……」
「……気にするな。我は貴様の言葉を理解しているし、貴様も我の言葉を理解できているはずだ」
「はっ!? 言われてみれば……日本語お上手なんですね」
「ニホンゴ……そうだな。言葉に困ったことはない」
ドラゴンには他者の意識を直接読み取り、理解して伝える能力がある。それは獣の遠吠えどころかクラゲの発光信号ですら模倣して使いこなせるものなので、高い知能によって完成された言語……日本語を使いこなすことなど造作もなかった。
「すごーい! 私もそんな台詞言ってみたいなぁ。って、その前に名前ですよね。あくしんりゅう……あくしん流? のデアボリックさん……じゃあリックさんって呼んでもいいですか?」
「好きにせよ」
「やった! じゃあリックさん、私のことも理香って呼んでいいですよ? ふふふ、現役の女子中学生を呼び捨てにするという中年男性の憧れを叶えちゃいます!」
「…………好きにせよ」
少しだけ投げやりな感じのディアの言葉を受け、ケータイの画面がもたらすわずかな光で、楽しげに笑う理香の口元が映し出される。それが罪深きドラゴンとごく普通の少女の交わす、初めての会話であった。





