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BL

さよならモノクローム

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

1.放課後のふたりごと


 押見塁には友人と呼べるような人物がいない。なのでいつも、学校が終わって予備校へ行くまでの間、暇を持て余していた。放課後は、いつも学校裏の寂れた小さな神社の境内で過ごしていた。暇で学校周辺を歩き回っていた時に見つけた、人が来ない穴場なのだ。

 拝殿の前の石段に座り、予備校へ行く前に腹ごしらえをしておこうとスクールバッグから惣菜パンを取り出したその時、ふいに風が吹いた。目に何か入ったような気がした押見は、一旦パンを膝に置いて眼鏡を外し、目を擦る。

「ねえ、それ半分ちょうだい」

 声に気付き、眼鏡をかけ直しながら顔を上げると、ちょうど鳥居の下あたりに、ふわふわした頭髪の、ぴかぴかした笑顔の人物が立っている。同じクラスの三木直洋だ。三木とは話したことはなかったが、自分とは真逆で明るいやつだという印象はあった。

「それって、これ?」

 押見は未開封のパンを少し持ち上げて見せる。

「そう。腹減っちゃって」

 言いながら、三木は押見の座る石段に近付いてきた。

「だめ。これは、俺の晩ごはんだから」

「え、晩ごはんてそれだけ?」

「うん」

 三木は、いつの間にか隣に座ってしまっている。そして、当たり前のように押見に話しかけることをやめない。

「そういや、ずっと聞きたかったんだけど、押見って野球やってんの?」

「やってないよ。野球部入ってたら、こんな時間にこんなとこにいないだろ」

「でも、塁って名前からして、おまえの親はおまえに野球やらせたかったんじゃないの?」

「それは当たってる。親父は少年野球の監督やってて、俺にも野球やらせて甲子園行かせた後にプロ入りさせたかったみたいなんだけど、でも俺、野球普通に下手だったし、努力してもまあまあ下手で、全然上達しないもんだから、いっつも親父に体罰当たり前にめちゃめちゃ怒られてて、野球嫌いになったんだよ。グローブはめたらゲー出るくらい」

「え、ゲー出るの? やばい。よっぽどじゃん」

「もうあの革のにおい嗅ぐだけでゲーだよ。拒否反応がえげつなくて。だから俺、もう野球できない身体なんだ。親父の期待通りに育たなかった俺を親父は認めてくれなくて、家ではずっと無視されてる。母親も親父に倣ってごはんとか作ってくれないから、金だけ渡されてて、だからこれが今日の晩ごはん」

「いやだ、もう聞きたくない」

 視ると、三木は顔を歪ませ、泣きそうな表情をしている。

「自分で聞いといて」

「予想の斜め上に話が重たいんだって」

 野球をしないならせめて勉強をしろ、と高校一年生の今から、ほとんど無理矢理に予備校に通わされている。しかし、これは押見にとって悪いことではない。大学受験をがんばって、家から遠くても文句を言われないような有名大学へ進学し、一人暮らしをするのが目下の押見の目標だ。

「だから、このパンはやらない」

「もういらない。おまえの話聞いてたら食欲なくなった」

「ごめん。俺、友だちいたことないから、どこまで家庭の事情を話していいのかの加減ができなかった」

「いいよ、いいよ。そういうの、これから少しずつ覚えてこ」

 三木はわざとらしく優しげな微笑みを浮かべ、押見を見ていた。

「謎の上から目線やめろよ」

 押見はパンの袋を開封し、かぶりつく。押見がパンを食べ終わるまで、三木はずっと隣に座っていた。


   *


 それ以来、三木は毎日神社にやってきて、当然のように押見の隣に座る。

「山本さんていいよね」

 開口一番、三木が言った。

「同じクラスの?」

「当たり前じゃん。他に誰がいるっていうの」

「結構ありふれた名字じゃん。他のクラスとか上の学年にもいるだろうし、先生にもいる」

「いや、山本さんはオンリーワンだから」

「面倒くさ。いいって、そういうの」

「山本さん、めっちゃかわいいじゃんか」

「まあ、そうかもな。一般的に見て」

「なにその薄い反応。興味ないの? 山本さんに興味ないとか、目ぇおかしいんじゃないの。よっぽどだよ、その節穴具合」

「……山本さん、幼なじみなんだよ。まあ、小学校高学年くらいであんま話さなくなって、引っ越しもあったし、高校入るまでずっと疎遠だったんだけど。だから、そんなふうには見られないっていうか。興味ないのも本当だけど」

 それだけではなく、先日、山本はどういうつもりなのか押見に好意を告白してきた。それを断ったばかりだった押見は、話題を山本からそらしたくて三木との会話をのらりくらりとかわす。

「なに言ってんの、押見。おまえって妄想癖でもあんの? かわいい異性の幼なじみがいる男なんて、想像上の生物だよ。実在すると思ってんの?」

「ここにいるよ」

「おお、フィーチャリング青山テルマ」

「いや、そんなつもりはなかった」

「じゃあ、自慢だ。俺にはかわいい異性の幼なじみなんていないっていうのに」

「まあそりゃ、いるやつはいるだろうし、いないやつもいるだろ。自慢とかじゃないよ」

「なにそれ。この世には二種類の人間がいます、みたいな」

「そんなつもりはなかったけど」

「じゃあ、どんなつもりなんだよ」

「事実を述べてるだけだろ」

「押見のそういうところ、なんかイラつくよね」

 眉間にきゅっとしわを寄せ、半笑いのような表情で三木は言う。言われ慣れている言葉なので、押見はなんの反論もしなかった。

「俺、知ってるんだよ。女子たちがおまえのこと、ちょっといいよね、って言ってんの。眼鏡が知的でかっこいいんだって。そういう、陰で女子に人気あるところも気に食わない」

 三木は急に、イライラの導火線に火が着いたかのように饒舌に押見への文句を発し続ける。

「言いがかりはやめろ。それに、そいつらが勝手に言ってるだけだろ。俺の耳には届いてないんだから、そんな人気はないのと同じだ」

「今、俺がちゃんと届けましたけど」

「あ、なんか汚い猫がいるぞ。野良猫かな」

 話題を変えたくて、押見は視界に入った猫のことを、そのまま三木に伝える。

「本当だ、猫だ。かわいいな。おまえ、汚いとか言うなよ」

「かわいいか?」

「かわいいじゃん。俺、猫好きなんだよ。うちにも猫いるし」

「そうなんだ。でもあの猫、なんかボロボロで悲壮感あるし、かわいいっていうよりもかわいそうな感じだな」

「え、うそ! あれウタマロだ!」

 三木が急に声を張り上げた。

「ウタマロ?」

「俺んちの猫だよ! 脱走したんだ!」

「三木家ではあんな汚い猫飼ってんの? 毛並とかケバケバじゃん。風呂入れてやれよ」

「いや、違うって。昨日、風呂入れたばっかりなんだって。どこであんなに汚れて来てんだよ」

 ウタマロはふたりのほうをうるさそうに一瞥し、そのまま知らんふりをすると、のそのそと行ってしまう。

「なんか冷たくない? 本当におまえんちの猫なの? めちゃめちゃ他人のふりされてるじゃん」

「ウタマロ、おまえは本当……なんなんだよ、もう!」

 三木は立ち上がり、ウタマロを追いかけて行って捕獲する。本気で逃げる気はないのか、それともあまり若い猫でもないのか、ウタマロはあっさりと捕まってしまっている。

「どうせ母ちゃんが窓かなんか開けっ放しにしてたんだろ。気をつけろって言ってんのに」

 制服が汚れるのを気にした様子もなく、三木はウタマロを抱いて押見の隣に戻る。ウタマロはふてぶてしい顔をして、しかしおとなしく抱かれている。

「ちょ、あんま猫近付けんな」

「猫じゃない。ウタマロだよ。名前で呼んだげて」

「洗濯せっけんみたいな名前だな」

「そんな名前のせっけんあんの?」

「まだ野球やってた時、ユニフォーム洗うのによく使ってた。懐かしいな」

「ストップ。野球の話はやめよ。気分が重くなるから、俺の」

「わかった」

「押見は猫嫌いなの?」

「猫がっていうよりも、動物が苦手なんだよ。言葉が通じないから」

「なに、おまえ。だったら外国の人も苦手なの? そういうのよくないよ」

「いや、俺英語なら少し話せるし、人間同士なら言葉が通じなくてもボディランゲージでどうにかなるから」

「ちょっと待って、おまえ英語話せんの?」

「少しな。親父の仕事の都合で、中学ん時、ちょっとの間海外に住んでたから」

「なにそれ。おまえの親父、少年野球の監督じゃないの」

「少年野球の監督は仕事じゃないよ。あれはほとんどボランティアだ。それに今はもうやってないし」

「あれ。そしたらおまえ、帰国子女なの?」

「まあ、そうなるかな」

「なんだ、そっか! 納得したわ。前から、おまえのそういうスカした雰囲気が鼻につくと思ってたんだよね。帰国子女なら納得だわ」

「急にディスってくるじゃん。そんで、おまえのその帰国子女へのえげつない偏見なんなの」

「自分でもわからない。なぜか急激にカッとなってしまって、感情が抑えられなかった」

「もう潜在的に帰国子女を嫌悪してしまってるじゃん」

「イラつくから帰国子女の話はやめよ」

「わかった」

「押見。ちょっとウタマロ抱っこしてみ。かわいいよ」

「やだよ、ウタマロめっちゃ汚れてるもん」

「おまえはなんでそういう心無いことが言えんの。ウタマロ傷ついてるよ」

「汚れてるのは事実だろ。それに、ウタマロは俺らの話なんて聞いてないよ」

「ウタマロは人間の言葉がわかるし、聞いてるんだよ。耳だけこっち向いてるでしょ。聞いてないふりして聞いてるんだから」

「本当かよ」

「ウタマロはおとなしいから大丈夫だよ。いいから抱っこしてみ」

「おとなしい猫は脱走なんかしないだろ」

 三木は文句を言う押見に、無理矢理にウタマロを押し付けてくる。拒否するとウタマロが落っこちてしまいそうで、押見はしぶしぶとウタマロを受け取った。

「かわいいでしょ」

 三木が自慢げに言う。

「まあ、あったかいな。おとなしいし」

 押見は、知らない人間に抱かれても抵抗せずじっとしている、警戒心のない小動物を不思議に思う。

「ああ、そうか。ウタマロは、大事にされてきたんだな」

 思わずこぼれてしまった言葉に、自分でも驚いた。

「どうしたの、急に」

「なんでもない」

 三木がキョトンと押見を見る。

「ウタマロ大事にしてるよ。ケバケバなのはたまたまだって」

「うん」

 ウタマロを、一瞬でも羨ましいと思ってしまった自分を恥じて、押見は素っ気ない返事をした。押見の腕の中で、ウタマロは鼻を変にピスピスと鳴らしている。

「なあ、三木。ウタマロ鼻水出てるぞ。大丈夫なのか」

「あ、本当だ。風邪ひいたのかな」

 押見は、心配そうにしている三木にウタマロを返す。

「制服、めっちゃ汚れた」

「もう、押見は。ウタマロが気にするから、そういうこと言うのやめよ」

「いや、これはウタマロのせいじゃなく、おまえのせいだからな」


   *


 コンビニで晩ごはんを買って神社の境内へ行くと、拝殿前の石段にはすでに三木が座っていた。

「押見って、勉強できるんでしょ」

「うん」

 三木の隣に座りながら、押見は短く返事をする。

「ちょっとは謙遜しなよ」

「謙遜したとしても感じ悪いだけだろ。実際、入学してすぐの実力テストは学年一位だったし」

「まあ、普段から感じ悪いおまえが謙遜したら余計感じ悪いかもね」

「なんなの。今日、俺への当たり強くない?」

「ほら、押見って帰国子女だから」

「帰国子女のこと、そんなに引きずるもん? その話題、こないだもう終わったやつじゃん」

「英語話せるし」

「少しだって言ってんじゃん。それに、英語話せるやつなんて俺以外にもごまんといるだろ」

「俺は少しも話せないよ」

「まあ、話せるやつもいるし、話せないやつもいるよな」

「出た! 二種類の人間!」

「だから、そんなつもりはないんだって。これ前も見た。再放送かよ」

 押見は、コンビニの袋から山賊むすびを取り出して、かぶりつく。

「おむすびでかくない?」

 隣で見ていた三木が、さほど興味もなさそうに言う。

「そういうおむすびなんだよ。具が何種類か入ってる」

「山本さんが押見のこと好きだって、押見は知ってた?」

 唐突に変化球を投げられて、押見はむせた。

「な、なん……」

「昨日さあ、勇気出して山本さんとライン交換できて、舞い上がってたんだけど」

 むせる押見の背中をさすりながら、三木は淡々と言う。

「山本さん、押見のことばっか質問してくんの」

 言葉が見つからず、押見はむせた時の前傾姿勢のまま黙っていた。

「山本さんは押見のことが好きなんだ。あからさますぎて、いくら俺でもわかっちゃった」

 トゲトゲしい口調とは逆に、押見の背中をさすり続ける三木の手の感触は優しい。

「確かに、山本さんには一度告白されたことがある」

 押見は正直に言った。

「でも、断ったよ」

「なんで断ったの? 俺が山本さんのこといいって言ったから?」

「違う。そういうわけじゃない。三木から山本さんのこと聞く前のことだし」

「本当?」

「うん。それに俺は、そもそも山本さんには興味がないから」

「山本さんにはって。そもそも押見って、他人に興味持つことなんてあんの?」

 そう尋ねられて、一瞬考え、押見は三木の顔を見た。興味のある人物と聞いて思い浮かんだのが、三木しかいなかったのだ。

「あるよ」

 押見は答える。

「たとえば、誰?」

 しかし、その問いに正直に答えることには抵抗があり、

「安藤百福」

 押見は答えをはぐらかす。

「誰それ」

「カップヌードルとかチキンラーメンを開発した人。日清の創業者。現在進行形ですごくお世話になってるし、尊敬してる」

「え、なにそれすごい人じゃん。偉人じゃん。俺も尊敬するよ」

「おまえも興味持っちゃってんじゃん」

「今の、山本さんに教えてあげよ」

「なんで?」

 三木の手もとのスマホの画面を覗きこむと、三木はラインのトーク画面を開き、山本に『押見の好きな人 あんどうももふくさん』と送信している。

「山本さんに押見の情報流すとよろこんでくれるんだよね」

「やめろよ」

 三木のスマホが震える。ふたりで覗き込むと、『誰それ』という山本からの短い返信が届いていた。


   *


 いつもの神社、拝殿前の石段に座った押見がビニール袋から寿司のパックを取り出し、割り箸を割ったところで、

「お寿司食べてるじゃん」

 隣に座っていた三木が言った。

「急に贅沢してるじゃん」

「いいだろ、たまには」

「ねえ、晩ごはんずっとそんななの?」

「だいたいこんなだけど、休みの日とかは両親と時間ずらして自分で作ったりもするし、姉ちゃんがごはん作ってくれることもあるから」

「へえ、押見、お姉さんいるんだ。どんな人? かわいい?」

「なんていうか、おっとりした人だな。おっとりゆっくりしてんのに、親父の意向で高校、大学と野球部のマネージャーやらされてる」

「ということは大学生なんだ。いいなー。ていうか、おまえの親父のそのしつこいまでの野球へのこだわりなんなの。いびつだよ。気持ち悪いな」

 三木の物言いに、押見は声を上げて笑った。

「そうだよな。俺の親父、気持ち悪いよな」

 言いながら、救われたような、妙に清々しい気持ちになる。

「そんで、お姉さんかわいいの?」

「結局、興味はそこかよ」

 姉がかわいいかどうかなど、押見は考えたことがなかった。なので、

「かわいいかどうかはわからないけど、俺に似てるよ。いや、俺が姉ちゃんに似てんのか」

 なんだか変な答えになってしまった。

「おまえに似てんのかあ……」

 三木は押見の顔をまじまじと見つめる。

「そんなら、まあ、美人さんだね」

 三木のその言葉に、押見は驚いて、箸で挟んでいたサーモンの握りを落としてしまった。すると、どこからともなく現れた猫がものすごいスピードでサーモンを咥えて去って行った。

「なに、今の」

 驚いたように三木が言う。

「ウタマロがまた脱走したんじゃないの」

「いや、ウタマロ昨日死んだから、別の子だよ、野良かな」

「え、ウタマロ死んだの?」

 押見は驚く。先日会って、この腕に抱いたばかりなのだ。

「うん。あの時、やっぱり風邪ひいてたみたいで、こじらせて。もう、おじいちゃん猫だったから仕方なかったんだけど」

「なんで黙ってたんだよ。言えよ」

「言っても俺が勝手に湿っぽくなるだけだし、空気壊すじゃん。おまえに言ったからってどうかなるもんでもないし」

「悲しみを共有することくらいはできるだろ」

「どうしたの、押見。らしくないな。心にもないこと言ってない?」

「うん、ごめん。心にもないこと言った」

「おまえ、そういうとこよくないよ」

「うん。よくないって、自覚はある」

「自覚あるんだ」

 三木が薄く笑う。どこか無理しているような笑顔だった。押見は考えて、

「俺もウタマロには会ったことがあるから、死んだって聞くとちょっと寂しい気がするんだよ。不思議だけど」

 今の自分の素直な気持ちを口にしてみた。三木は一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに笑顔をつくる。

「そういうもんなんだよ、押見。おまえ、人間らしい感情もあったんだね」

「俺のこと、マシーンみたいに言うじゃん」

「ウタマロにもう会えないって思ったら、昨日は散々泣いちゃって。こういう気持ち、感情のない押見にはわかんないかもしれないけど」

「マシーン扱いやめないじゃん。俺だって、泣くことくらいあるよ」

「どんなとき?」

「親父に殴られた時とか」

 言ってから後悔した。こういう話題を、三木は嫌がる。

「今でも殴られてるの?」

 しかし、三木は嫌がらず淡々と尋ねてくる。

「いや、野球やめてから体罰はなくなったから、今はわりと平穏で快適だ」

「それって、快適とは違うんじゃないの?」

「家出るまでのことだって思ったら、普通に快適だよ」

「高校卒業したら、家を出るの?」

「うん。遠くの大学に行くつもり」

 自分で口にしたものの、これ以上掘り下げられたくなくて、

「俺のことはいいよ。ウタマロの話しよ」

 押見は話題の軌道修正を図る。

「やだ。ウタマロの話したら、俺泣いちゃうから」

 三木は言った。

「いいよ、泣いても」

「俺が泣いたら、おまえ、誰かに言うんでしょ」

 三木の声は、すでにぐずぐずに濡れている。

「言う相手なんていないよ」

「そっか。おまえ、俺以外に友だちいないもんね」

 鼻と目を真っ赤にした三木が、それでも笑って言った。

「押見も、卒業したら遠くへ行っちゃうんだ」

 三木の言葉に、

「俺は死ぬわけじゃないから。遠くに行っても、会おうと思えばまた会えるよ」

 すんなりとそう答えて、およそ自分らしくないことを言ってしまったな、と押見は複雑な気持ちになる。

「うん、そうだね」

 三木はそんな押見をからかうこともせず、泣きながら笑っていた。


 予備校へ行くまでの三木と過ごす短い時間。なにをするでもなく、ただ話をしていた。内容があるようでないくだらない会話だったが、押見は楽しかった。そんな他愛のない会話をする放課後がずっと続けばいいと、本気で思っていた。モノクロだった押見の世界に、三木は少しずつ色を塗っていったのだ。



2.微睡む金魚


 押見塁は途方に暮れていた。自分のサイズが、こんなにも変化してしまうなんて、初めての経験だったからだ。それも、徐々にではなく突然に、だ。どうしてこんなことになったのか。考えてみるが、原因はあれしか思い浮かばない。

 先刻まで、押見はいつものように神社の拝殿前の石段に座っていた。放課後、予備校までの時間を潰すためだ。しかし、それは建前で、実際のところは友人である三木直洋との他愛ない会話を楽しむために押見は毎日ここに来ている。

 今日も、いつもとさほど変わらない、しかしそれなりに楽しい時間を過ごすはずだった。ただひとつ違っていたことは、魔が差してしまった、ということ。

 発端は、休憩時間に教室で山本優美が教えてくれたおまじないだった。

「押見くん、放課後また神社へ行くの?」

 山本はいつも前触れなく話しかけてくる。実際、他人に話しかけるのに前触れもなにもありはしないのだが、それでも、山本のそれは妙に唐突なのだ。

「いいだろ、別に」

 煙たさを隠そうともせずに押見は答えた。山本からは一度告白され、断っている。しかし、その気まずさをものともせずに山本は以前よりも頻繁に押見に話しかけてくるようになった。そもそも、どうして押見が放課後は神社へ行っているということを山本が知っているのか。

「三木から聞いたの?」

 三木が自分の情報を山本に流していたことを思い出し、尋ねる。

「神社のこと?」

 山本に問い返され頷く押見に、「うん、そう」と、山本は軽い調子で肯定し、そして、

「神社行くんだったら、最近流行ってるおまじない教えたげる」

 などと言い出した。内心、面倒くさいなと思いながらも押見は黙って山本の話を聞いていた。

「簡単に言うと、神社に参拝するのとあまり変わらないんだけど、やり方がちょっと違ってて。左足を三回踏み鳴らしてー、手を三回叩いてー、そんで三回まばたきするの。まばたきしてる間に心の中で願いごとをしたら、神様が叶えてくれるんだって」

 それは、おまじないというより普通に神頼みではないのだろうか。しかし、基本的な神社への参拝の作法とは少し違う手順なので、やはり「おまじない」なのかもしれない。本当にこんなもんが「最近流行ってる」のか? 押見は呆れながらも、

「山本さんは、おまじないとか、そういう非科学的なこと信じる人?」

 一応会話を成立させる努力をする。

「そこは曖昧なラインだよね。叶ったら信じるし、まあ臨機応変に。日本には八百万の神様がいるんだって。だから、そのうちのひとりくらい、願いごとを叶えてくれるかもしれないでしょ?」

「ふうん」

 それほど興味を持たれていないことに気付いているのだろう、

「押見くんはこんな非科学的なことなんて信じないだろうし、やってみようなんて思わないかもしれないけど、三木くんは興味あるかもしれないよ。教えたげたら」

 山本は三木の名前を出した。三木の名前を出すと、押見の気を引けると思っているのかもしれない。見透かされているようで納得いかないが、実際のところ、押見が関心を示すような人物はやはり三木しかいない。

「さすがに三木もやらないだろ」

「そんなの、わからないじゃない」

 そんなどうでもいい会話だったのだが、放課後の神社で三木を待つ間、押見は確認作業のように山本に教えてもらった動作をしてみたのだった。

 拝殿の前に立ち、左足を三回踏み鳴らして、手を三回叩いて、そんで三回まばたきするんだったかな。

 山本に言われたとおり、三木に教えてやろうと思い、そのための動作確認をしようとしたのかもしれない。なんにせよ、「魔が差した」としか言いようがなかった。

 まばたきを三回し終えた瞬間だった。急にめまいを感じた押見は思わず目をきつく閉じてその場にへたり込んだ。

 なんだこれ。気持ちわる。

 吐き気と戦いながら必死で呼吸を整え、くらくらする頭を押さえて、押見は目を開く。言い様のない違和感を覚え、押見は辺りを見回して、違和感の正体に思い当った。周りのすべてが大きくなっている。

「いや、違う。俺が小さくなったんだ」

 いつも座っている石段の真ん中あたりの段に押見はいたのだが、見上げれば自分の背丈ほどの壁、下は自分の背丈ほどのちょっとした崖だ。下りようと思えば下りられるかもしれないが、上るとなるとなかなか難しそうだ。

「どうするんだよ、これ」

 途方に暮れて呟き、ぼんやりと立ち尽くしていたその時、地響きと共に、目の前に黒いスニーカーが現れた。ただ、その大きさがやはり尋常ではない。

 あ、三木だ。そう思った瞬間、

「なんだ、これ」

 雑に胴体を掴まれ、押見の身体は勢いよく上昇した。ひゅっと内蔵が縮んでかきまぜられたような感覚を味わいながら、逆バンジーってこんな感じなのかな、と、どこか冷めた頭でそんなことを思う。

「よくできてる。押見によく似た人形だ。押見くん人形かあ。気持ち悪いなあ」

 聞きなれた声のはずなのに、身体の大きさのせいかいつもと違う、全身にわんわんと響くような三木の声。押見の身体は三木の手によって持ち上げられ、現在、三木の顔が目の前にある。それにしても、三木がでかい。

「人形じゃない。本人だ」

 押見は言う。小さな自分の発した声が、ちゃんと三木に届いたのか不安になり、

「おい、押見だ。本人だ、三木」

 脚をばたつかせながら押見はできうる限りに声を張り上げる。

「キャンキャンうるさいな。聞こえてるよ。驚きで言葉を失ってたんだって」

「驚くよな、やっぱ。俺も今驚いてたところだ」

 三木はなにも言わず、とりあえず、というふうに石段に座り、押見を膝の上に置いた。

「どうしてこんな状態なの」

「知るか」

 三木は押見が抱えている鞄を確認し、

「なんで眼鏡とか服とか鞄まで小さくなってんの?」

「知らない」

「知らないことばっかりじゃん」

 三木が困ったように言う。

「おまえ、どうすんの? そんなんで今日予備校行けんの」

「予備校とか行ってる場合じゃないだろ、今は」

「なら、どうするの? 家帰る?」

「家は……」

 この状態の自分が家に帰ったとして、果たして家族は受け入れてくれるのだろうか。今まで以上に冷遇されるのではないか。そう思うと押見の心は暗くなった。

「帰りたくない」

 ぼそっと呟いた押見の声は三木に届き、

「それなら、うちにくる?」

 軽い口調で三木は言い、

「うん、行く」

 軽い口調で押見は言った。三木は押見をカッターシャツの胸ポケットに押し込み、「『南くんの恋人』みたいだねえ」と、なぜだかうれしそうに笑った。

 恋人じゃないけどな、と押見は内心で呟く。


   *


 家へ帰り、自室の机の上に押見を下ろすと、三木は押入れから金魚鉢を出してきた。それをタオルで拭いて、中にそのタオルを畳んで敷く。そして、

「ちょっと、ここにいてね」

 中に押見をそっと降ろした。

「なに、これ」

「昔、夜店で掬った金魚飼ってた時のやつ。ちょうどいいでしょ」

「観賞魚扱いじゃないか」

「ウタマロが遊んでて金魚殺しちゃって、それ以来使うことなかったんだけど、まだ残っててよかったよ」

 金魚鉢の中を覗き込み、三木は笑う。

「安心しなよ。こないだそのウタマロも死んじゃったし」

「笑えないって」

 押見は観賞されているむず痒さを我慢しながら、靴を脱ぎ、抱えていた鞄を下に置いた。

「ていうか、タオル拭いたやつ使い回すなよ。新しいの敷いてくれ」

「家に着いた途端、さっそく我儘言うじゃん。猫かおまえは」

「いや、普通、誰でもそう思うだろ」

「おまえ、今はなんていうか……ちょっと普通と違うんだから、別にいいでしょ」

 三木の無茶苦茶な理屈に呆れながら、そもそもこれが現実なのかどうかも判断できない押見は、タオルの使い回しなんてどうでもいいような気持ちになった。多少は気持ちが落ち着いたので、三木の部屋をぐるりと見回してみる。六畳ほどの和室で、扉は襖。いつ、誰が入ってきてもおかしくない。

「こんなセキュリティの甘い部屋で大丈夫なのか」

 不安になり、押見は三木に確認する。

「大丈夫だよ。母ちゃんは父ちゃんと大喧嘩して、今ちょうど実家帰ってるし」

 制服を脱ぎ、ティーシャツに着替えながらもごもごと三木が言う。

「父ちゃんは日中仕事に出てるし、ばあちゃんは入院してるし、じいちゃんはボケてて俺のことすらよくわかってないし、誰もここにはこないから」

「おまえんちも、結構大変なんだなあ」

 三木の家の事情を知らなかった押見は、なんだか毒気を抜かれてしまう。言わないだけで、誰にでも抱えているもののひとつやふたつあるのだろう。着替えが終わった三木は再び金魚鉢を覗き込み、

「押見が静かにしてたら、気付かれないよ」

 押見の頭を人差し指でぐりぐりと撫でて言った。やめろ、と言おうと思った押見だったが、三木に触れられた頭頂部から徐々に安心が全身に浸透していくような気がして、結局黙っていた。

 そのまましばらく、いつものようにふたりはただ他愛のない話で時間を潰した。

 夕方になると、三木がごはんと魚の形の醤油さしに水を入れて持ってきてくれた。

「いいじゃん、これ。三木にしては気が利くじゃん」

 魚の醤油さしを抱えて押見は言う。

「俺にしてはって、なに。見くびるなよ」

 今の押見のサイズでは水を飲むのも一苦労なのだ。この醤油さしならば、ぴったりとまではいかないがまあまあのサイズだ。

「今の押見の大きさだったら、ごはんなんてちょっとでいいんだね。ウタマロよりお金かからないよ」

 金魚鉢から出してもらい、ごはん粒をおにぎりのように頬張る押見を眺めながら三木は言う。おかずは、焼き魚とほうれん草のお浸しだった。いずれも小さくちぎってある。それでも食べ切れないくらいの量だ。

「これ、三木が作ったのか?」

「いや、母ちゃんがこっそり作りに帰ってきた」

「それ、実家帰ってる意味あるの?」

 箸の代わりになるものがないので、手掴みで食べなくてはいけないのが少々不便だが、誰かが作ってくれた夕飯を食べるのは久しぶりだ。腹が減っていたこともあり、がっつくように食べたのだが、やはり残ってしまった。残ったごはんを回収し、三木はウェットティッシュで押見の手を拭いてくれた。

「ありがとう、三木」

「なになに、気持ち悪いな」

 心から出た言葉だったが、三木はそう言って笑っただけだった。


 三木が風呂に入ると言うので、押見もついでに連れて行ってもらう。押見サイズの服が今着ているもの一着しかないので、風呂上りにまた同じものを着なくてはいけないのが気持ち悪い。

「おまえ、髪濡らしたらそんなふうになるんだな」

 洗面器に浅く張ってもらった湯に浸かりながら押見は巨大な三木を見上げて言う。いつもふわふわの三木の頭は、濡れてぺたんとなっている。なんだか少し幼く見えた。

「そう。結構かわいいでしょ」

「かわいいとは言ってない」

「女子はこういうギャップにぐっとくるんじゃないの?」

「俺は女子じゃないからなあ」

 そんなふうにして笑い合った後、三木が言いにくそうに口を開いた。

「なあ、押見。あのね、その……オシッコ、とか、今のうちにしといたらいいんじゃない?」

「ああ……うん」

 下のことを気遣われ、押見は赤面する。洗面器からばしゃばしゃと這い出て、排水溝のそばに立ち、三木にあっち向いてて、と言おうとしたら、三木は普通にこちらに背を向けていた。わかっていたつもりだが、不便だなこの身体。思いながら、押見は用を足す。

 風呂から上がり、三木に乱暴に身体を拭かれ、文句を言いながら服を着ると、差し出された三木の手によじ登り、押見は三木家内を移動する。こんなに三木と密着したことなんて今までなかった。熱い三木の体温を感じながらそんなことを思っていたら、そっと金魚鉢へと戻された。


「これね」

 部屋を出て、しばらくして戻ってきた三木が、なにやら分厚くて四角い紙のようなものを金魚鉢へと入れた。

「ウタマロが生前使てたペット用のオムツ。小さく切ったから、置いとくね。ウタマロの形見なんだから、大事に使えよ」

 三木はわざとふざけた調子で言う。押見が黙っていると、「あと、これも」と、さらに三木は畳んだティッシュを一枚金魚鉢へと入れる。

「ちぎって使ってね」

「うん」

 押見は三木の顔を見ずに、ただ頷いた。なんだか介護されているみたいだ。自分がなにもできない赤ん坊になってしまったようで、恥ずかしい。

 この先への不安や、寝床が変わったせいもあり、その夜、押見は眠れず、寝返りばかり打っていた。掛布団の代わりだと三木がガーゼのハンカチを入れてくれたので、それにくるまって考える。

 やはり家に帰ったほうが良かったのかもしれない。ここにいたら、ひとりではなにもできない自分の無力さが浮き彫りになり、羞恥心を刺激されて居たたまれない。今のところ、三木は黙って押見の世話を焼いてくれているが、内心どう思われているのだろう。

 そういえば、と押見は思う。今日みたいに、無条件に、なんの見返りを要求するでもなく世話を焼いてもらったことなんて、今まであっただろうか。もしかしたら、本当に、赤ん坊のころ以来かもしれない。

 『南くんの恋人』みたいだねえ。という三木の言葉を思い出す。

 昔、姉が両親に隠れてこっそり読んでいた漫画を、自分もこっそり貸してもらって読んだことがある。小さくなったちよみは、結局事故で死んでしまった。普通の人間なら助かったかもしれないところを、ちよみの小さな身体は耐えられなかったのだ。俺も、そんなふうにちょっとしたことで死んでしまうのかもしれない。だったら、俺は三木のそばにいたい。恥ずかしい思いをしても、三木が内心では迷惑だと思っていても、最後は三木の手の中で死にたい。家に帰るより、南くんと一緒にいることを選んだちよみのように。

 金魚鉢の底で、押見はそんなふうに覚悟を決める。

「ごめんな。ありがとうな、三木」

 金魚鉢の中から、三木の寝顔を見下ろして、押見は呟く。ハンカチからは、三木の家の匂いがした。


   *


「おまえも学校行く?」

 朝ごはんを食べ終わり、制服に着替えながら三木が言った。

「いや、いい」

 昨晩、眠れなかったために、押見の頭は重だるい。

「こんな機会なかなかないだろうし、今日はひとりでゆっくりするよ」

 タオルの上で寝転がり、ハンカチにくるまって押見は言う。ズル休みだの怠け者だのぶつぶつ文句を言っていた三木だが、出かけに、ペット用オムツとティッシュを取り換えて、小さくちぎったパンと、新しい水の入った醤油さしを置いてくれた。

「寂しいだろうから、ティーポットにゃんこちゃん入れといたげる。仲よくしてね」

 そう言って、ティーポットの蓋から猫が顔を覗かせているガチャフィギュアを金魚鉢の中に入れると、まるくなっている押見の頭を人差し指でぐりぐりと撫でた。

「いい子にしててね」

 部屋を出て行く三木の背中をぼんやりと見送りながら、

「なんだよ、もう」

 押見は呟いた。撫でられた頭を確認するように触り、押見は起き上がって、三木が置いていったティーポットにゃんこちゃんに目をやる。今の押見の頭部くらいの大きさだ。

「こんなもん置いてかれてもな」

「こんなもんとは失礼やな」

 かわいらしいアニメ声と共に、にゃんこの目がくるりと動いた。え、生きてる? 驚いた押見はにゃんこを凝視する。

「あんな、うち、神様。ほんまはちょっとちゃうねんけど、みんなそう呼ぶし。ニックネームみたいなもんやな。今はこの姿やから、にゃんこちゃんでもええで」

「にゃんこちゃん」

 言われたとおり、押見はそう呼んでみる。

「押見塁くん」

「はい」

 表彰式のように改まって名前を呼ばれ、思わず敬語になってしまった。

「塁くんは、うちに願いごとをしてくれたけど」

「しましたか、俺」

「あれ?」

「俺、しましたかね、願いごとなんて」

 まばたきを三回する間、なにも考えていなかったような気がする押見は、にゃんこに問いかける。

「なんや、自分で気付いてへんの? ほんなら、あれ無意識やってんな」

 にゃんこは言い、

「あんな、うちは願いごとを叶えることはでけへんねん。でもな、チャンスを与えることはできんねん。ちょっとすごいやろ」

「これが? この状態ってチャンスなんですか?」

「そういうことやな」

 にゃんこは、パチパチと瞬きして満足そうに頷いた、ように見えた。

「塁くんの願いごとが叶ったら……あー、叶ったらいうんもなんかちゃうんかなあ。ええとな、塁くんの気持ちが『これでよし!』いうて満足したら、ちゃんともとに戻れるわ。そんじゃ、健闘を祈ってるで」

 ぺらぺらとそう言い残してにゃんこはバチッとティーポットの蓋を閉じてしまい、再び動かなくなった。

 そんな曖昧な。自分がなにを願ったのかもわからないのに、満足したらだなんて。

「おーい、にゃんこちゃん」

 押見はただのティーポットと化してしまったそれをコンコンと遠慮がちにノックしてみるが、もうティーポットの蓋は開かなかった。その後、急激な眠気に襲われ、押見はティーポットを抱きしめてストンと落ちるように眠ってしまった。


「おかしいんだって」

 学校から帰ってきた三木は、制服のまま金魚鉢を抱えると胡座をかいて座った。ハンカチにくるまってうとうとしていた押見はその振動で目を覚まし、出たか出ないかわからないような声で、「おかえり」と、三木を迎えた。

「あれ、寝てた?」

「ん……」

 まだぼんやりとしている頭で押見はむにゃむにゃと返事をする。

「学校行ったら、誰もおまえのこと覚えてないんだよ」

 三木は構わず話を続ける。押見はハンカチにくるまったまま三木を見上げ、「ん」返事とも寝言ともつかない声を出す。

「押見が小さくなったこと教えてあげようと思って、山本さんに言ったらさ」

 そこで、ようやく頭がはっきりしてきた。

「どうしておまえはそんな重大っぽいことを軽々しく口にするんだよ。普通こういうことは秘密にするもんじゃないのか」

「そこは今はいいじゃん」

 三木は誤魔化し押し切る。

「でね、山本さんに押見がねーって話しかけたら、山本さんキョトン顔で、押見って誰? って。ありえないでしょ、山本さんが押見のこと忘れるなんて。冗談言ってる感じでもないし、他のやつらにも確認したんだけど、誰も押見のこと知らないって」

「なにそれ。どういうこと?」

「知らないよ。俺だってわけわかんないんだから」

 押見はもそもそと起き上がり、あくびをする。眼鏡をかけたまま眠ってしまったな、などと思いながら、脳の別の部分で三木の言ったことを考える。きっと、両親や姉も、自分のことを忘れてしまっているだろう。しかし、押見はどこかほっとしてもいた。期待外れで出来損ないの自分が失踪騒動を起こすよりも、最初からいないほうが、あの家はたぶんうまくいく。誰も自分を覚えていないのならば、迷惑をかけることもない。

「あ。ねえ、それ」

 三木が、押見が抱えているティーポットに気付く。

「蓋閉じてるじゃん。ただのティーポットになってる。なんで? 俺が今朝入れたげた時はにゃんこちゃんが顔出してたのに」

「そうだったか? 最初から閉じてたぞ」

 とぼける押見に、

「うそだ。ティーポットにゃんこちゃんのガチャにただのティーポットなんてなかったもん」

 三木は食い下がる。

「シークレットのやつじゃないの。思いのほか地味だったから、当たってるのにおまえ気付かなかったんだろ」

「んなわけあるか。ティーポットから顔出してるにゃんこのシリーズだぞ。いくら俺でもにゃんこ要素なかったら気付くよ」

 そりゃそうだよな、そう思いながら押見はティーポットをぎゅっと抱え直す。

「ちょっと、押見。それ貸して」

「いやだ」

 ティーポットを抱え込むようにして押見はまるくなって防御する。

「アルマジロか」

 三木が笑って、押見を掬い上げるようにして金魚鉢から持ち上げ、なにを思ったのか、ほお擦りをしてきた。

「な、なに?」

 驚いて、押見の声は裏返る。

「ごめん。なんか、まるまってんの、かわいかったから」

 三木は戸惑ったように言い、

「気持ちわるっ」

 押見は激しくなった動悸を隠すように吐き捨てる。


   *


「そろそろ、この服洗濯したいんだけど」

 小さくなって以来、数日間着倒した制服が、なんとなく匂うような気がしてきた押見は、その日、学校から帰ってきた三木にそう切り出した。

「したらいいじゃん。あ、風呂ん時しよ? 手伝うし」

「着替えが欲しい」

「ついに本格的に贅沢言い始めたな」

 三木が身構えるように押見を見る。

「一着くらいいいじゃん。ねえ、いいでしょ、買ってぇ」

「パパに洋服ねだる女子高生みたいな声出すなよ」

 三木のかいがいしい世話のおかげで、押見は金魚鉢の中でなかなか快適に過ごしていた。しかし、服の替えがないのだけは耐えられなくなってしまったのだ。

「おまえの服なんだから、おまえがお金出せよ」

「確か、二千円くらいならあったと思う」

 言われて押見は鞄を探り、見つけた財布から紙幣を取り出して三木に見せた。

「ちっさ! そんなちっさい金でなにが買えるんだよ!」

 三木は言い、「ちょっと、見せて」と押見から紙幣を、指でつまむようにして受け取る。

「わー、本当に小さいな。すごいね、これ」

「リカちゃんって、ボーイフレンドがいただろ」

 紙幣に感心している三木を無視し、押見は言う。

「誰、リカちゃんて」

「リカちゃん人形。ボーイフレンドがいたはずだけど」

 姉が子どものころに遊んでいた人形の知識を、押見は思い出していた。

「そう言われればいたような気がする」

「そいつの服でいいよ。おもちゃ屋とかにあるんじゃないか」

「男ひとりでお人形の服なんて買えないよ。恥ずかしいもん」

 ごねる三木に、押見は奥の手を使う。

「親戚の女の子に贈り物するとか適当なこと言って、山本さん誘って選んでもらったら?」

「おまえ、天才か」


 次の日、三木はうきうきとした足取りで、鼻歌交じりに学校へと出かけて行った。

 夕方になり帰ってきた三木が、

「押見の存在がないことになってるから、山本さんと会話が続かないんだよ」

 しょんぼりして言った。しかし、ちゃんと誘うことはできたようだ。

「いつも押見の話題ばっかりだったからなあ」

「それで、服は?」

「思春期の恋の悩み無視か」

 そう言いながら、三木が押見に見せたのは青色のワンピースだった。

「おい、三木」

「待って。これには深いワケがあるんだ」

 三木が重々しく口を開く。

「説明してもらおうか」

 金魚鉢の中でワンピースと向き合いながら押見は言う。

「そもそも、はるとくんの服だけっていう商品は置いてなかったんだよ」

 三木が言った。

「誰だよ、はるとくんて」

「リカちゃんのボーイフレンドじゃんか」

「初めて名前を知った」

「男ものの服を手に入れようと思ったら、もれなく人形とセットなんだって。いくらすると思う? 三千二百円だよ。おうじさまハルトくんに至っては三千八百円だ」

「それは……高いな」

 力説する三木に、押見も肯定せざるを得ない。しかし、王子様の服はいらないな、とも思う。

「でしょ? 必要ない人形まで買うの馬鹿みたいじゃん。金魚鉢の中に裸の男の等身大人形とかあるの、押見も嫌でしょ」

「なんで、はるとくんをこの中に入れようと思ったんだ」

「だから、これ。ハッピーワンピースコレクション。一着九百円とお手頃なお値段で種類も全八種類と豊富。押見は男の子だから、青いワンピースにしてみました」

「青が男の子の色だとか、いつの時代の人だよ」

「プラネットワンピだよ。宇宙は男のロマンでしょうが」

 確かに、青いワンピースには黄色で宇宙っぽい柄がプリントされている。

「洗濯した服が乾くまでの間じゃん。ちょっとだけ我慢してよ」

 唐突に真面目なトーンで三木が言うので、

「しょうがないな」

 押見は折れるしかない。

 風呂の後、プラネットワンピを身に着けた押見を三木はげらげらと笑った。

「しかもノーパンて」

「仕方ないだろ。パンツは一着しかないんだから」

 押見は憤然として言い返す。金魚鉢の淵に干した制服と下着を見上げ、早く乾かないかな、と溜息を飲み込んだ。


   *


「ねえ、押見。神社へ行ってみようか」

 夕方、学校から帰ってきた三木が言った。ハンカチにくるまって微睡んでいた押見は、むくりと起き上がる。ここ最近は身体がだるくて仕方がない。

「ちょっとは外に出たほうがいいよ。日光にあたらないと病気になっちゃうよ」

「うん」

 押見は金魚鉢に入ってきた三木の手によじ登り、めまいを感じて、そこに座り込む。

「最近、ずっと寝てるじゃん。俺が学校行ってる間も寝てるんでしょ?」

「うん」

「そんで、うんしか言わないじゃん」

 三木は、押見の頭を人差し指でちょんちょんと撫でる。

「押見が元気ないとつまんないよ」

「ごめんな、三木」

「なに謝ってんの?」

 三木は気にしてないよ、という感じに笑みを見せる。


 押見は、三木のカッターシャツのポケットの中でうとうとと微睡んでいたが、ふいに外気に触れて目を覚ました。眩しい、と思い目を瞑る。もう一度目を開けると、オレンジ色の大きな夕日が鳥居の向こうにあった。涼しい風が、押見の頬をかすめる。

 いつも座っていた石段に三木は座り、押見を自分の右横にそっと下ろした。

「やっぱ、小さいなあ。目線が下向いちゃう」

 三木が言った。

「俺、ずっとこのままなのかな……」

 押見は呟く。小さいままで三木と過ごす時間も楽しいが、やはり自分がずっとこのままなのかと思うと不安に押し潰されそうになる。

 にゃんこちゃんが言っていた俺の願いごとって、なんだろう。考えても、願いごとなんてひとつしかないし、それが叶うということもおそらくない。叶わなくても構わない。ずっとそう思っていた。そう納得したつもりでも、全くもとに戻らないということは、結局、自分は満足してなんていないのだ。

「心配しなくていいよ」

 三木の声が押見の思考を遮った。

「俺が、一生面倒見てあげる」

 きっぱりとした口調で三木は言った。

「俺がずっと守ってあげるから。ね、押見」

「おまえ、それ本気で言ってんの?」

 呆れと驚きと喜びがぐちゃぐちゃに入り混じり、押見の頭は混乱する。

「だったら、どうなの」

「なんか、プロポーズしてるみたいだぞ」

「プロポーズでもいいよ」

「おまえ、山本さんが好きなんじゃないの」

「男の中では、おまえがいちばん好きだよ」

「なんだよ、それ。都合がいいな」

 言いながら、押見の目からつるりと涙が滑り落ちた。

「俺、なんか三木にしてやれることあるかな」

「ん? なんで?」

「なんか、してもらってばっかりだから」

「元気になってくれたら、それでいいよ」

 三木は穏やかに笑う。気持ち悪いくらいにやさしい三木を見上げて、押見は眼鏡を外して涙を拭う。そういえば、この男は猫とかそういう小動物にはやさしかったよな、と押見は思い至り、ひとりでおかしくなって笑ってしまった。

「あ、ひとつあった。してほしいこと」

 三木が言った。

「なに?」

「こないだ買ってあげたワンピース代、返して」

「プレゼントじゃないのかよ」

「九百円ね」

「しょうがないな」

 そう言って、押見は晴れ晴れとした心地で笑った。

「帰ろうか」

 そう言って、差し出された三木の手によじ登り、押見は安心しきって目を閉じる。

 その夜は、金魚鉢の中ではなく、三木の布団の端っこでいっしょに眠った。


   *


 気が付くと、押見はいつもの神社の石段に立っていた。今までのあれはなんだったんだろう。妙にリアルな夢だったな。押見は思う。

 スマホを確認すると、小さくなったはずのあの日の日付が表示されている。

 白昼夢でも見たのだろうか。三木があんなにやさしいとか、ありえない。夢なんだろうなあ、やっぱり。溜息を吐き、押見は、がっかりしたようなほっとしたような、複雑な気分になった。

 程なくしてやってきた三木が、なんの前触れもなく、がばっと押見に抱きついた。

「な、どう、なんだよ、おまえ、いきなり」

 押見は焦って、三木の腕の中で身体を捩る。

「やっぱ、押見はこんくらいの大きさのがしっくりくる」

 淡々と事実を告げるように三木は言った。その言葉に、押見はびくりと震えた。

「今日ね、授業中、変な夢見だんだ。押見が小さくなる夢」

 三木は言う。三木も同じ夢を見たのだろうか。そう思いながら、

「授業中、思いっきり寝てるじゃん」

 押見は笑い、三木を抱き返した。途端、どちらともなく我に返り、ゆっくりと離れると、いつものように石段に並んで座る。その時、制服のズボンの左ポケットに少し違和感を覚えた押見は、ポケットに手を突っこんでその違和感を引っ張り出した。

「蓋の閉まってるティーポットだ」

 押見の手の中を覗き込んで、三木が言った。押見は三木を見る。顔を上げた三木と目が合い、その瞬間、三木がティーポットの乗った押見の手に、自らの手を重ねてきた。押見はそのぬくもりを黙ってそのまま受け入れる。

「九百円ね」

 三木が言った。

「しょうがないな」

 押見は鞄を開けて財布を探す。



3.さっきまでは素敵


 その小さな虎が三木たちの住む地方で大量発生し、「猛虎出現!」などとテレビや新聞を賑わせたのは、およそ一週間ほど前のことだった。激しい雷雨の後に突如出現した仔猫ほどに小さな虎たちは、その見た目の愛らしさから最初は歓迎されていた。しかし、彼らが人間にとっての脅威と化したのは、指先をほんの少し噛まれた十代の男性が一瞬にして昏睡状態に陥ってしまったからだ。その「十代の男性」というのが、押見塁。三木直洋の友人であった。


   *


 ふたりが高校二年生に進学した年の、夏が始まる前の放課後のこと。三木はいつものように押見とふたりで神社の拝殿前の石段に座っていた。周りには、ふにゃふにゃと転がるようにして遊ぶ小さな虎たちがいた。

「かわいいな」

 自然と緩む頬を自覚しながら三木は言った。

「ほら、あの子なんてあの野良によくなついてるよ」

 そう言って、野良猫の後ろをのしのしと付いて歩いている一匹の虎に近付き、手を伸ばそうとした三木を、

「おい、あまり触るなよ。どんな菌とかウィルスとか持ってるかわからないってニュースでも言ってたぞ」

 押見が制止する。

「大丈夫だって。いくら虎でも、こーんな小っさいじゃん。猫と変わんないよ」

「やめとけって」

「ちょっとくらいいいじゃんか。抱っこしてみたいんだもん」

 押見の制止を聞かず、三木は虎を抱き上げ、嫌がってぐねぐねと身体を動かし手足をじたばたと上下させて力いっぱい暴れているその虎にほお擦りをする。

「おまえ、すぐそうやって……。虎、明らかに全力で嫌がってるじゃないか。顔に変なブツブツとか出ても知らないからな」

「平気だって」

 押見はいっつも文句ばっか言う、そんなことを思いながら三木は、

「押見もほら、抱っこしてみ」

 虎の両脇を持って押見に差し出した。

「いい。いらない」

 案の定、押見は拒否を示す。虎は相変わらずぐねぐねじたばたと全身で暴れているが、小さいのでたいした力ではない。

「虎を抱っこできることなんて、そうそうないよ。これはチャンスだよ、ほら」

「なんのチャンスなんだよ」

 不満げな押見に暴れる虎を無理矢理に押し付けると、押見は嫌がりながらもぎこちなく抱きとめる。

「ほら、猫と同じでしょ?」

「同じじゃない。ウタマロはこんなにぐねぐね暴れなかった」

「あたりまえじゃん。ウタマロは稀に見るいい子だったんだから」

「稀に見るいい子が、あんなボロボロになってまで脱走しないだろ」

「あ、気を付けないと落っことすよ」

 三木が言った瞬間、

「痛っ」

 押見が声を上げた。

「どうしたの。噛まれたの」

 三木のその問いに返事はなく、押見はその場にぱたんと倒れてしまった。

「おい、押見。どうしたの、大丈夫?」

 呼びかけてみたものの、返事がない。

「おい、押見」

 慌てて顔を覗き込む。押見は白目を剥いていた。どくん、と三木の心臓が嫌な感じに収縮した。

「お、おしみ……?」

 ぺちぺちと頬を叩いてみるも押見はぴくりとも動かなかった。これはまずい、と三木は異常なほどに脈打ち始めた心臓を自覚しながら思った。そして、自分の意に反してぶるぶると震える指を気力で動かし、なんとかスマホを操作すると、もつれる舌で無理矢理に言葉を絞り出し、救急車を呼んだのだ。


   *


 あの日以来、押見は目を覚まさない。市立病院本館病棟の個室で、ずっと眠ったままだ。押見が入院してから、三木は毎日、市立病院へ通っていた。もともと別館に入院している祖母のもとへ通ってはいたので、見舞い自体は苦とも思わなかった。そればかりか、押見のところへ通わないとなんだか落ち着かない。今日も眠っているのはわかってはいるけれど、押見の様子を知りたくて妙に焦れたような心地になるのだ。数日間、個室の扉にかけられていた面会謝絶の札も、現在は外されている。その札がかかっているうちは、押見の顔も見ることができず、もしかしたら押見はこのまま死んでしまうのではないかと不安で不安で仕方がなかった三木だが、その札が外されてからはぼんやりとした希望のようなものを感じ、ほっとしたものだった。

 押見の両親に会うことがあったら謝ろう、と三木は思っていた。事故みたいなものではあったが、押見がこんなことになってしまったのは自分が虎を無理矢理抱かせたせいだ。見舞いは苦ではなくとも、押見の両親に会うことに対しては少し恐怖を感じる。押見の言葉の端々から滲む家庭の妙ないびつさが、三木の先入観をすでに作り上げてしまっていたからだ。しかし、押見の病室で両親と顔を合わせることはなく、代わりに押見の姉が病院に通い、押見の世話をしているようだった。

「すみませんでした。俺のせいで、押見くんが……。あの日、俺が押見くんにむりやり虎を抱かせたんです。それで……それで、こんなことに」

 病室で初めて押見の姉と鉢合わせた時、三木は身体を九十度に折り曲げて頭を下げ、捲し立てるように言っていた。

「もしかして、三木くん?」

 彼女は持っていた花束の生けられた花瓶を棚に置き、やわらかい声でそう言った。尋ねられて初めて、三木は自分がまだ名乗っていなかったことに気付く。

「は、はい。初めまして、三木直洋です」

「やっぱり。塁くんね、いつも三木くんのこと楽しそうに話してくれるんだよ」

 やわらかく微笑むその顔は、やはり弟の押見と面立ちがよく似ている。有体に言えば、美人だ。押見はこんなにやわらかく微笑んだりはしないけれど。

「あの、押見くんのお父さんとお母さんは?」

 三木の問いに、「あの人たちはちょっとおかしいから。情が薄いっていうか。気にしなくてもいいよ」と、感情のこもらない声で彼女は言った。

「あのちっこい虎の唾液にね」

 ふいに、彼女が「虎」と口にしたので、三木の身体は緊張に固まる。

「睡眠薬によく似た成分が混じってるんだって。舐められたくらいだったら無害なんだけど、噛まれたり引っ掻かれたりして、それが体内に入ってしまったら、長いこと眠ってしまうんだって」

 三木は、淡々と医師から聞いた事実だけを話そうとしているであろう彼女の横顔を見つめる。彼女の視線は、眠る押見の穏やかな顔へと向いている。

「その成分が、代謝で体外に排出されたら目覚めるんじゃないかって、そういう話なんだけど」

「それなら、その時がきたら、押見は目を覚ますんですね!」

 ぼんやりとしていた希望が、はっきりと光を放ったような気がして、三木は明るい声を発した。押見は、死なない。目尻に涙が滲む。

「うん。まあ、理論上はね。そういう可能性があるっていう話。けど、こんなこと前例がないでしょ? 睡眠薬的な成分も、なんだか随分強力なものらしいし。実際のところは、よくわからないっていう」

「わからないって、どういう……」

 きりきりと音を立てて心臓が縮み、急に翳った光に戸惑いながら三木は口ごもる。

「塁くんが目を覚ますのか、このまま眠り続けたままなのか、わからないってこと」

 彼女は、やはり淡々とそう言った。

「せめて、ゆっくり休めたらいいね」

 その言葉は、三木へ向けたものではなく、押見へ向けたものだったのだろう。彼女は押見の額を一度だけ撫でると、

「三木くん、また来てやってね。塁くんも私より三木くんが来てくれたほうがうれしいだろうし」

 まるで親戚のおばちゃんのような台詞を残し、彼女は洗濯物を紙袋に詰めて病室を出て行った。

「押見」

 ベッドの横に立ち、三木は押見の顔を覗き込む。

「ごめんね、押見」

 当然ながら返事はない。

「本当に、ごめん」

 三木はベッドの脇にしゃがむと、布団の中に手を突っ込み、押見の左手を探り当て、それを両手で握った。押見の手は思いの外あたたかく、そこに生命があることを三木に教えてくれた。目を閉じて集中すると、その脈も感じられる。

 穏やかな温度と脈に幾分か安心を得た三木は、名残惜しくも手を離し、立ち上がる。

「またね、押見。明日も来るから。毎日来るから」

 そして、そう言い残して病室を後にした。


   *


 あれから数日が経っても、押見が目を覚ます気配がない。

 市役所では、虎の対策部署が設立されたらしく、三木も何度か話を聞かれた。押見の昏睡状態のきっかけに居合わせたのは三木だけだったからだ。

 押見の件の後、昏睡に陥る市民がぽつぽつと出始めた。あんなに歓迎されていた小さく愛らしい虎だったが、もう自ら近寄るような人間は少なくなり、毒を持つ昆虫やヘビのように避けられる存在になりつつあった。避けてさえいれば、虎から攻撃してくることはなく共存も可能かもしれない。しかし、これ以上昏睡する人々が出るようならば、駆除も止む無し。というのが、三木がニュースで聞いた国の見解だった。危険な生物に違いはないが、あの小さくかわいらしい虎たちが駆除されることを思うと、三木は悲しくなる。

 病室で丸椅子に座り、押見の穏やかな寝顔を見つめながら、世界から色が消えたみたいだ、と三木は思う。窓際の棚に置かれた花瓶には、野生のヒナゲシが生けられている。道路脇に生えていたものを、三木が摘んできたのだ。押見の姉が、「ヒナゲシだね」と花の名前を教えてくれて生けてくれた。その赤い花を見た時、三木は久しぶりに色を感じたような錯覚に陥った。その赤が、押見の体温や押見の脈拍と重なって見えた。体温や脈拍に色なんてあるわけがない。わかってはいるが、三木はその美しく可愛らしい花を押見に見せたいと思ったのだ。

 押見が眠り込んでしまってから、三木は毎日を、明確に「寂しい」と思うようになった。自分の中の大切な何かを、どこかにぽろりと落としてしまったような感覚だ。放課後の神社へ行ってみても、隣に座る押見がいない。他愛のない話題で盛り上がってくれた押見がいない。くだらない口喧嘩に付き合ってくれた押見がいない。ウタマロのことで三木のことを気遣ってくれた押見がいない。あたりまえのように享受していた日常が、こんなにあっけなく失われてしまうものなのか、と三木は愕然とした。あの日、さっきまでそこにあった日常じゃないか。

 押見がいる日常があたりまえだった。いつまでもいっしょだなんて思っていたわけではない。そもそもいつまでもいっしょになんていられるわけがない。それでも、自分たちが高校生の間だけは、押見の隣にいられるものだと信じ込んでしまっていた。もちろん、そんなふうに意識して考えていたわけではなく、無意識にそう感じてしまえるほど、三木の日常の楽しみのほとんどは、押見との時間だったのだ。失ってみて初めて気付くって、本当なんだな。三木はそんな間抜けな自分を少し笑ってしまう。そして、馬鹿、と自分を叱りつける。

 まだ、失ったわけじゃない。

 布団に手を潜り込ませ、三木は押見の左手を握った。両手に感じる生命は、変わらず赤く温度を保ち脈打っている。

「ねえ、押見。聞こえてる?」

 ふたりきりの病室で、三木の言葉を受け止める声はない。キャッチボールの成り立たない会話が、こんなにも虚しいものだなんて知らなかった。

「早く目を覚ましてよ。山本さんも心配してる。ここへもよく来てるんでしょ? こないだ泣いてるとこ見かけたもん。もう、本当に腹立つけどさ、山本さんが押見のこと好きなんだったらもう仕方ないよね。他のみんなも、クラスのやつらとか、先生たちもみんな、みんな心配して待ってるんだよ。ていうか、おまえ、女子だけじゃなくて先生たちにもめっちゃ好かれてて、すごいな。びっくりした」

 やはり返事はなく、三木は立ち上がり、いつものように「またね」と笑顔を作る。

「また、明日も来るから」


   *


 それでも、希望を感じられる出来事はあった。虎に噛まれて昏睡した人々の中に、意識を取り戻す人がちらほら出始めたのだ。押見よりも後に噛まれた人たちだった。そして、激しい雷雨の後に突如、あの小さな虎たちの背中には、妙なことに羽根がはえはじめた。一匹、また一匹と虎たちは空へと飛び立ち、飛び立った虎はもう戻ってこないのか、その数はどんどん減っているという。もうこれは超常現象だ、と三木は不謹慎を自覚しながらも、妙にわくわくした気持ちになった。空へと昇って行く虎たちの姿はどこか幻想的で、それを眺めながら三木はこの光景を押見と共に見ることができなかったことを残念に思う。そして、自ら去っていく虎たちが駆除されることはどうやらないだろうと思うと、安心もしたのだった。

 放課後、いつものように押見の病室へ行くと、押見の姉が来ていた。三木が今日も摘んできた野生のヒナゲシを受け取り、花瓶に生けてくれる。

 目覚めた人がいるというその事実は、三木の心だけでなく、押見の姉の表情をも明るくした。

「塁くんも、そろそろかもしれないね。三木くん、塁くんの目が覚めたら、また遊んでやってね。塁くん、ずっと友だちがいなったから、高校に入って、三木くんみたいな友だちができてよかった。塁くんはね、三木くんといっしょがいちばん楽しいんだよ。お願いね」

 また親戚のおばちゃんのような台詞を残し、病室を出て行く彼女の後ろ姿を見送りながら、結局この件で責められることはなかったな、と三木は思っていた。病室で鉢合わせても、いつも穏やかな態度を崩さない彼女ではあったが、内心ではきっと三木に対して恨むような気持ちもあったはずだ。それなのに、三木を責めたり詰ったりすることは一度もなかった。

「おまえのお姉さん、すごい人だね。美人だし」

 穏やかな寝顔を見ながら三木は言う。いつものように丸椅子に座り、押見の左手を両手で握る。

「ねえ、もう目を覚ました人もいるんだよ。おまえは、まだなの?」

 返事はないが、三木は喋り続ける。

「ねえ、押見。おまえがいないと楽しくないんだ。俺、おまえがいないと……なんか、なんて言えばいいんだろ。とにかく、だめなんだ」

 しっくりくる言葉が見つからず、三木は拙く繰り返す。

「おまえがいないと、だめなんだよ」

 ふいに、三木の手の中の押見の指が、ぴくりと動いた。驚いて三木は手を離してしまう。

「押見! 押見!」

 渾身の腹式呼吸で三木は押見の名前を呼ぶ。息を止め、押見の顔を見つめていると、唐突にカッと押見の目が開いた。

「押見!」

 何を言おうか、と考える間もなくただ名前を呼んだ三木に、押見が放った第一声は、「眼鏡とって」だった。そこらじゅうをごそごそと探し回り、引き出しに入っていた眼鏡を見つけた三木は、それを押見に渡そうとする。

「悪いけど、かけてくれ。腕が……というか、身体が思うように動かない。あー、声も出ない。カッスカスだ」

「ずっと眠ってたからだよ」

 用心深く押見に眼鏡をかけてやりながら、三木は言う。

「さっきまで、手があったかくて気持ちよかったんだ」

 目を細めて微かに笑い、かすかすの声で押見が言った。なんだったんだろう、と独り言のように呟かれたその言葉に返事はせず、三木は両手で押見の左手を包み込むように握った。

「ああ、これだったのか」

 押見は呟き、気持ちよさそうな表情で、また目を閉じてしまった。驚いた三木は、

「おい、押見!」

 大声で名前を呼ぶ。

「うるっさいなあ、耳もとで。起きてるって」

「なんだ、もう。よかった。また眠っちゃったのかと思って」

 三木はぐずぐずと洟をすすりながら言う。

「なに泣いてんの?」

 かすれた押見の声が、心配そうに揺れる。

「ごめん、俺のせいで。ごめん、ごめんね、押見」

「ああ」

 ため息のような声をもらし、押見は納得したように言った。

「そうだった、俺、虎に噛まれたんだったな。把握した」

「俺のせいで、ごめん」

「いいよ、あんなのただの事故だろ」

「でも」

「気に病んでたのか」

「うん」

「あの花も、三木が?」

 窓際の棚に視線を向け、押見が言う。

「うん、かわいいでしょ。押見に似てると思って」

 押見に見せたいと思っていた花を押見が見てくれた。それだけのことが、こんなにうれしいとは思わなかった。そして、自分の言葉に押見が応えてくれる。それだけのことが、こんなに幸せなことだったなんて思わなかった。

「別に似てないだろ。なに乙女なこと言ってんだ。でも、赤くてきれいだな」

「でしょ」

 三木が笑い、押見も笑う。

「なあ、今日って何月何日? ずっと眠ってたって、俺はどのくらい眠ってたんだ?」

 聞かれて日付を答えると、押見は驚いたように目を見開いた。

「え、待って。本当に? 俺、本当にそんなに眠ってたの?」

「ねえ、どんな夢見てたの?」

 妙に乙女な三木の問いに、「そんなの後でゆっくり話そう」と押見は言い、

「三木、ナースコール押してくれ」

 事務的に指示を出してくる。

「なんだよ、おまえ。なんでそんなに冷静でいられるんだよ」

 涙に濡れている自分の声を聞き、滲む視界に押見の顔を、その目がしっかりと開いていることを確認し、三木はナースコールを強く押しながら声を上げてわんわん泣いた。



4.終末前夜


「正直、怖いよね」

 押見塁の左手をがっちりと握って離さない三木直洋が言う。

「まあ、そうだな。普通に怖いな」

 言いながら、握られた手にかいた汗が、一体どちらのものなのか押見は考えていた。こんなに寒いのに、三木とくっついている部位だけは熱いのが不思議だ。思考をそらすように空を見上げてみた押見だが、平常時、申し訳程度に見える星空はそこにはなく、視界一面に真っ暗な闇が拡がるばかりだ。

「よりによって、アジア全域に直撃って。さすがにでかすぎじゃない? 小惑星なのに」

 小惑星が迫ってきていると聞いても、現実感を持てなかったのは数ヶ月前までのことだ。しかし、小惑星は少しずつ、そして確実に地球に接近してきていた。直撃を免れない日本を含めアジアあたりは消滅、それ以外の地域も多大な被害を被ることは想像に難くない。専門家たちの口からも楽観的な未来は一切語られず、人々はじわじわと終末への覚悟を迫られることとなった。世界各国協力のもと、いろいろと対策は練られていたようだか、どうにもうまくいかず、地球は現在、人類滅亡の危機的状況に瀕していた。高校三年生になったふたりは受験シーズンを迎えていたが、全くそれどころではなくなってしまった。

 外出制限がかかり、ほとんどの企業や学校は実質機能していないというような状況で、押見と三木は夜中にこっそりと家を抜け出して、いつも放課後を共に過ごしていた神社にやってきていた。あの頃のように隣り合って石段に座るふたりだったが、あの頃と違うことがひとつあった。三木が押見の手を握って離さないのだ。

「なんか、寒くない?」

 言いながら、三木は押見の左肩に自分の右肩をぴったりと密着させてきた。十二月に入ったとはいえ、確かに、例年の気温よりもかなり寒いように思う。いつも以上に厚着をしているはずなのに、寒さは全く解消されない。

「小惑星のせいで、気温が下がってるんだよ。ほら、日光も遮られてるし」

 握られた手や、密着した肩を気にして、押見の脈拍は駆け足になる。空気が冷たい分、三木と密着した部位が妙に熱を持っているように感じられて、やたらと照れくさいのだ。もっと他に気にすべきことがあるだろう、と押見自身も思うのだが、こんな非常時でも気になるのは三木のことばかりだ。自分もそうだが、三木もきっと不安なのだろう。そう思い、押見は文句も言わず三木の好きにさせていた。

「小惑星のせいで、昼も夜も変わんないくらい暗いし、こうやって恐竜たちは滅亡していったのかな」

 三木が、甘えるように押見の肩に額を擦り付けて言う。ふわふわのやわらかい髪の毛が頬を掠めて、くすぐったいな、と押見は思った。そして、涙が出そうなくらい、三木のことを愛しいと感じてしまった自分に驚く。三木に気付かれないように押見はまばたきを繰り返し、滲んだ涙を誤魔化そうとする。上まぶたと下まぶたがくっ付いたような感触で、涙が凍ったことを知った。

「ねえ、いつぶつかるんだっけ」

「予定では明日の午後とか、テレビでは言ってたな」

 眼鏡の内側に指を入れ凍った涙を爪で落とし、三木の問いに答えながら、押見は自分からも三木に身を寄せる。明日には、三木が、そして自分もこの世から消えてなくなってしまう。そう思うと、今この瞬間、三木から離れたくないと思う。三木もそうなのだろうか、と、なんとなく考える。そうならばうれしい。この非常時に、そんなことを思ってしまえる自分は、まだ少し余裕があるのかもしれない。しかし、この非常時だからこそ、三木が自分を必要としてくれているのかもしれないと思うと、よろこびを感じずにはいられない。

「テレビとか、まだやってんのも不思議だね」

「なにもせずに死を待つよりも、なにかやるべきことをやってたほうが正気を保てる人も多いんじゃないか」

「かと言って、俺ら今さら勉強しようとは思わないでしょ?」

 お互い、一月にはセンター試験を控えていたが、世界がこんな状態では、それももうどうでもよくなってしまった。

「まあ、そうだけど。勉強するのと毎日やってた仕事を続けるのとは、たぶんちょっと違うんじゃないか。外出制限がかかってるとはいえ、別に勉強しなくても学校へ顔だけ出してるやつらとかも、普通にいると思うし」

「そんなもんなのかな。うちの父ちゃんはここ最近ずっと仕事行かずに、家で酒ばっか飲んでるよ。そもそも、仕事も休みなんだろうけどさ」

「そういう人も、たくさんいるよ。どのみち、みんな怖いんだって。三木の親父さんばっかりがそんなふうなわけじゃないよ」

 ふいに沈黙が降りる。ふたりはくっついたまま、しばらく黙ってじっとしていた。その沈黙を破ったのは、三木が洟をすする音だった。

「どうした、三木。泣いてんの?」

 この三年弱の付き合いで、三木がわりと泣き虫であるということを押見は知っている。

「泣いてないよ。寒いだけだって。寒いと鼻水出るだろ」

「泣いてても、別に変じゃないよ。こんな時なんだし」

 押見のその言葉には答えず、

「俺ね、押見に言わないといけないこと、結構あるんだ」

 三木は神妙な声色でそんなことを言う。

「なに?」

「押見に借りた英和辞書のエッチな単語のところに落書きしたの、俺なんだ」

 真面目になにを言うかと思えば、三木はぐずぐずと洟をすすりながら結構どうでもいいことを言い始めた。

「ごめんね」

「うん、もういいよ。そんなのずっと気にしてたのか?」

「おまえのカバンにこっそりネズミのおもちゃ入れたのも、ごめん、俺なんだ」

「ああ、あの猫用のシャカシャカ言うやつ。まあ、おまえ以外に誰が入れるんだって話だけど」

「ウタマロの形見にと思って」

「そうなんだ。ちょっとその意図は、はかりかねたけど」

「あと、山本さんに、押見がティーポットにゃんこのガチャ集めてるってデマ流したのも……」

「確かに山本さん、俺にティーポットにゃんこくれたことあったわ」

「え、それどうしたの?」

「おまえにやっただろ」

「あー、あれか。でも、もらったものを他の人にあげるのってどうなの?」

「別にいいじゃん。集めてんの俺じゃなくておまえなんだし、必要としてるやつのところに行ったほうが、にゃんこちゃんだっていいだろ」

「それもそうだね。あと、それから……」

「もういいって。いつの話してるんだよ。それに、全部おまえがやったって知ってたし」

「え、知ってたの? 知っててずっと黙ってたの? おまえ、やっぱ陰険だな。陰険眼鏡」

「咎めだてせずに知らんふりしてやってるんだから、陰険とは違うだろ」

 どこか乾いた笑いを漏らし、押見は自分が震えていることに気付く。それが、寒さのせいなのか、迫りくる死への恐怖のせいなのか、押見にはわからない。

「それからね」

 握った手に、三木がくっと力を込めた。

「まだあんの?」

 呆れて尋ねる押見に、

「誕生日、おめでとう」

 三木はかなりの腹式呼吸で朗々と言った。

 そう言われて初めて、押見は今日が自分の誕生日だということに気が付いた。

「一昨年は押見の誕生日なんて知らなかったし、去年はすっかり忘れてて祝いそびれたから、今年こそはって思ってた。こんな状況で『おめでとう』って言うのもどうかと思たんだけど、一応」

「まあ、うん。一応、ありがとうな」

 世界が終わる前日に、この世に生まれたことを祝ってもらうだなんて、なんだかシュールだ。

「不思議なもんだね」

 三木がしんみりとした口調で言った。

「もうすぐ世界が終わるっていうこんな時にね、最後に顔見たいって、会いたいって思っちゃうのは、山本さんじゃなくて、おまえなんだよ」

 押見は固まってしまう。三木がそんなことを言うなんて、夢にも思っていなかったのだ。もう死んでもいい。思わずそう考えた押見は、ああ、俺らこれから死ぬんだったな、と思考の軌道修正を図る。いま、三木はどんな表情をしているのだろう。左に視線をやると、

「押見が虎に噛まれた時も、あんなに押見のこと大事だって思ったはずなのに、こんなことになるまで、本当の本当には気付けてなかったんだ」

 眉間に皺をよせ、三木は自分の足元をぼんやりと見つめていた。その横顔を眺めながら、ひりついた心を誤魔化すように押見は三木に握られた手の指をにじにじと動かす。三木の指も応えるように微かに動いた。

「こんなことになるんだったら、おまえともっといろんな話をしといたらよかった。大事なこともくだらないことも、いっぱい。おまえの家の話だって、嫌がらずに聞いてやればよかった。そんで、もっと、いろんなとこ遊びに行ったりして、もっといっしょに過ごしたらよかった。飽きて嫌んなるくらい、いっしょにいろんなこと、もっと……できたのに……」

 ぽつりぽつりと呟かれる三木の言葉を聞きながら、押見は苦しくなってきた咽喉を引き攣らせ、必死に声を抑える努力をしていた。

「押見?」

 押見の様子を訝しがった三木が、

「さっきから震えてるじゃん。寒い? 大丈夫? 押見」

 言いながら、顔を上げて押見を見た。

「……泣いてるんだよ」

 驚くほど素直に、押見はそう自己申告していた。しゃくり上げながら、頬を伝う涙を、凍ってしまう前に急いで右手で拭う。

「まあ、こんな時だからね」

 三木は言い、握っていた手を離すと、押見をそっと抱きしめ、その肩口に顔を埋めた。首筋に三木の息がかかり、湿った温度に押見は思わず身を捩る。

「誕生日おめでとう、押見。生まれてきてくれて、俺の前に現れてくれて、ありがとう」

 もう一度、囁くように三木は言い、

「三木、ありがとう。本当に、今までずうっと、ありがとう」

 三木を抱き返し、涙声で押見は言う。三木が非常時のある種の陶酔状態の中で照れもせずに放った言葉は、押見の気持ち、まるごとそのままだった。あの日、三木が目の前に現れた瞬間から、自分の世界は色付いた。それまで、ただ退屈でモノクロの毎日を流れ作業のようにやり過ごすだけだったのが、明日を楽しみに思うようになった。明日も、この先も、三木の言動をそばで見守りながら生きていたいと思うようになった。それなのに。

「押見」

 三木が、押見を抱く腕に力を込める。

「苦しいって」

 押見が笑うと、

「小惑星のせいで、離れらんない」

 甘えたような声で三木は言った。

「なんでもかんでも小惑星のせいにすんなよ」

「いいじゃん。死ぬ間際くらい、いっしょにいようよ」

 そう言われて、押見の内側から、死にたくない、という強い思いが沸き起こった。もう死んでもいい。先刻そう思ったばかりの同じ頭で、生きたい、と強く願ってしまった。いっしょに死ぬよりも、いっしょに生きたい。もっと、ずっといっしょに。でも、それももう叶わないのだ。だから、押見はその気持ちを押し殺し、三木が放った絶望的なまでに甘い言葉に従順に頷こうとした。その時。地面がぐらぐらと激しく揺れた。

「なに、地震?」

 耳のすぐそばに三木の声を聞き、抱き合ったままその場で固まっていると、ばらばらと灰とも砂ともつかないようなものが降り始めた。これはまずい、と瞬時に判断したふたりは俊敏に立ち上がり、背後の拝殿の扉を躊躇いなく蹴破って、その中に逃げ込んだ。降り始めたものが、絶望だったのか希望だったのか、その時の押見にはわかっていなかった。けれど、三木とふたりで咄嗟に生きるために神様にやってしまった粗相は、きっと希望に繋がった。


   *


 小惑星衝突前夜、各国の首脳たちはとうとう最後の手段に踏み切った、らしい。某国が隠し持っていた大型の核爆弾を宇宙船で運び、数日前には小惑星に開けた穴に埋め込んでいたのだ、そうだ。ぎりぎりのところで核はうまいこと爆発し、小惑星は粉々に砕け、その断片がばらばらと地球上に降り注いだ。それはそれで大変な災害ではあったのだが、「小惑星の衝突よりはマシだろう」と某国の首脳が言ったとか言わないとか。すべてがすべて、インターネット上に出回っている噂だ。これらのことに関しては各国の首脳たちがそろって口を閉ざしてしまっているため、真相はわからない。メディアも、どうにも歯切れが悪い。それに対して、人々が不満を口にしていたのは最初だけで、時間が経つにつれてそれらの噂は半ば都市伝説と化し、皆は日常を取り戻していった。


「なんにせよ、生きててよかったね」

 いつもの神社、扉の壊れた拝殿を背に、崩れかけた石段に座り、押見の左手をがっちりと握った三木が言う。

「砂が降ってきた時は死ぬかと思ったけど」

「そうだなあ」

 降り注いだ小惑星の破片の除去も進み、学校も再開した。日常が戻りつつある中で、押見は三木ほど単純に考えることができないでいた。一度は諦めた命だ。ここで終わるのだと覚悟を決めた途端、実はまだ続きがありました、と言われても素直に生きる気力が湧いてこない。あの日のあの瞬間、あんなに生きたいと願ったにも関わらず、だ。

「あれ以来、押見は燃えつき症候群だね」

 三木に笑われ、そんなことない、と反論しようとした押見だが、確かにあの瞬間に生命力を使い果たしてしまったような気もする。

「そうかもな」

 ため息と共に三木の言葉を肯定し、

「なんていうか、情緒も不安定だし」

 そう付け加えられた言葉に、押見は顔を赤らめた。あの日のことを思い出す度に、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなる。ここで終わりだと思ったからこその、あの言動だったのだ。まだ続きがあるなんてわかっていたら、あんなに泣いたりしなかった。思わず大声で叫びまわって羞恥を発散したくなる気持ちを必死に抑え、押見はなんでもないふりをし続けていた。そのため、三木の目には、押見の情緒が不安定に映ったのだろう。

 三木は恥ずかしくないのだろうか、と押見は思う。今も、あの日のように握られた手に視線を落とし、どういうつもりなんだ、と不満とも満悦ともつかない思いをぐるぐると混ぜ返している。

「続きがあるなんて、聞いてない」

 ぼそりと呟いた押見に、三木がキョトンとした表情を向けた。しかし、すぐに、「俺は、続きがあってうれしいよ」と、のんきそうに笑った。

 押見は再びため息を吐き、続いてしまったこれからの長い人生のことを思う。もうしなくていいと思っていた大学受験も控えている。少し憂鬱になってしまったが、三木に握られた手を見て、腹の真ん中あたりがくすぐったくなり、これから三木と共に過ごすであろう新しい季節への期待が膨らんだ。

 そういえば、自分はもともと、三木に出会うまで生きる気力なんてあってないようなものだった。突然目の前に現れて自分を生かしたのは三木なのだ。だから、一時的に無気力になったとしても、三木がこの世に存在している限り、自分は生への執着を捨てられないだろう。それが、喜ばしいことなのか煩わしいことなのか、やはり押見にはわからない。

「ところで、いつまで手、こうしてんの」

 握られて汗ばんだ左手を軽く持ち上げてみせると、

「いつなんどき、世界が終わるかもわかんないのに」

 三木はちらりと押見を見て、すねたように口を開いた。

「もう、離れらんないよ」

「卒業しても?」

「当たり前じゃん」

 三木の言葉に、押見は何度でも救われる。



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