生命の灯火
「マリアンヌは寝ているのか」
仕事から帰って来たアドルフは寝室に直行した。
「はい。今日は幾分マシな方で、出された食事の半分はお召し上がりになりました」
「そうか」
産後の肥立ちが悪かったのか、床に伏せる事が増えた。
食事もままならず、産まれたばかりのカトリーナの世話もほぼ乳母に任せきりだ。
そんな自分の情けなさにマリアンヌは泣き暮らしていた。
自身の我儘から望んで子を産んだのに、産んだだけの母親である事への不甲斐なさが彼女の思考を蝕む。
生きる事への活力も消えそうになり、それが余計に体調を悪化させていた。
それでも身体を引き摺り、娘の世話をしようとするが我が子を抱く腕の力さえままならず。
見かねた乳母が時折側に寄せては、頬を撫でるだけに止めていた。
今のマリアンヌを現世に繋いでいるのは、カトリーナの手に指を添えた時にきゅっと握る手の温かさだった。
寝室のドアをノックし、アドルフが入室する。
薄暗い部屋の真ん中辺りの壁際に設置された大きな夫婦のベッドにマリアンヌは身体を横たえていた。
音を立てずに近寄り、眠る妻の頬を撫でる。
青白い顔をした愛する妻を、目を細めて見ていると、マリアンヌは薄らと目を開けた。
「……アドルフ様……、お帰りなさいませ。
……すみません、お出迎えもせずに」
「いいよ。体調はどうだい?」
「今日は……お昼を半分くらい食べれたんですよ」
マリアンヌはふふ、と力無く笑った。
「そうか。頑張ったな。カトリーナもよく乳を飲んでいるようだぞ」
「あの子は私に似ず元気ですから……」
「君もじきに元気になるさ。夕食はどうする?少しは入るかな」
「ええ……、少しは食べないといけませんね」
儚く微笑む妻の頬を撫で、アドルフは侍女に夕食は寝室に運ぶように言い、カトリーナを連れて来るよう伝えた。
夕食までの少しの間、親子の触れ合いは二人の至福の時で。
幸せを実感するマリアンヌは、娘の首が座る頃には僅かながら回復の兆しを見せ始めていた。
「きゃっう~~うぶあぶぷぷぅ」
ご機嫌なカトリーナは、ベビーベッドで手足をばたばたと忙しなく動かしていた。
クッションを背に上半身を起こし、娘をじっと見やる。カトリーナは母の方に向き、何かを訴えるようにしてあぶあぶ言っていた。
「ふふっ、そう。うん、……そうなのね。良かったわね…」
勿論言葉が通じているわけではない。
だが母として、娘が何かを訴えかけてくれるのが嬉しくて、話さずにはいられない。
そのやり取りで、マリアンヌは生きる力を貰っているように感じていた。
愛おしい我が子。
幸いカトリーナは産まれた時から元気が良く、医師からも健康そのものだと太鼓判を貰うくらいだった。
マリアンヌにとって子が五体満足で健康ならばそれで幸せだった。
産まれた時からやりたい事を諦めてきた彼女にとって、自由にいれる事は何よりもかけがえの無いものだったのだ。
「ねぇ、カトリーナ。あなたはきっと、幸せになるわ。このまま元気に成長して、大きくなって、あなたを愛してくれる人と出逢うの。
ふふっ、あなたのお父様がお母様を愛してくれたように、思いやりの深い旦那様だといいわね」
「ぶぅ、うぶあぶぅきゃっうぷぷぅ」
「ええ、そうね。……みんな仲良くて、笑顔の絶えない、結……婚……」
未来を夢見ていた。
娘が成長して年頃になって、誰かと出逢い自分のように恋愛結婚をする、そんな未来。
そして愛する人の隣で幸せそうに笑うのだ。
──自分はそれを見ることができるのだろうか。
諦めたくない。
生きる事を、未来を。
我が子の為にも、夫の為にも。
生来より思い通りにならない身体は、嘲笑うかのように弱っていく。
それでもマリアンヌは生命の灯火を絶やさない。
(私は生きるわ。カトリーナが悲しい時側にいて、嬉しい時は一緒に笑うの)
切実なる願いはやがて、生命力となり、マリアンヌの息を吹き返させた。
「まーまーままままま」
「聞きました!?アドルフ様、カトリーナがママと言いましたよ!」
「うん?……言った、のか?」
「すごいわ。まだ先日一歳になったばかりなのに……」
「そうだね」
娘の成長を見守りたい一心で生にしがみついていたマリアンヌは、起き上がれるまでになっていた。
日中はもっぱらカトリーナと一緒に過ごし、少しの変化を手を叩いて喜んだ。
最近ではソファにつかまり立ち上がる娘の手を持ち、歩く練習も始めた。
よたりよたりと一歩、二歩進むだけで「上手よ!」と惜しみなく褒めキスを送る。
夫が帰宅してからはその日のカトリーナを余す事なく伝えるのだ。
「マリアンヌ、カトリーナの話も良いけれど、私は君と話もしたいんだよ」
夫婦の時間はカトリーナが寝たあとで。
繋がる事はできないが、アドルフは妻を膝に乗せ口付ける。
マリアンヌも夫の口付けを幸せそうに受けていた。
「アドルフ様……すみません、私……閨の相手ができなくて」
夫の胸にもたれ、マリアンヌはすまなそうに呟いた。
「君が生きているだけで幸せだからね。気にしなくていいよ」
「もし……その……、シタくなったら…誰か別の」
「マリアンヌ」
不意に低く響く声に、マリアンヌは思わず肩が跳ねた。
「私は君以外いらないよ。愛しく想うのも、抱きたいと欲するのも、君だけだ。
欲求が無いわけでは無いよ。でも、君を悲しませてまでしたいとは思わない」
「でも」
「私にとっての行為は、君を愛おしむ為のものだ。まあ世の中には妻以外とする男も沢山いるし、愛人を囲う奴もいる。
だけど私のように妻にしかしない男もいるんだよ」
「アドルフ様……。……でも、もし、私が先に死んだら、私に遠慮しないで下さいね」
「君が死ぬ事を考えたくは無いな。だから、ぜひ長生きしてくれ」
夫は妻の手を取り、愛しげに口付ける。
「ええ、もちろんです。カトリーナの幸せを見届けないといけませんから」
マリアンヌは笑った。
未来を信じて。
けれどもその時はひたひたと近付いていた。
カトリーナが三歳になった時。
アーレンス王国を病が襲った。
平民たちの中からぽつりぽつりと患者が出ると、出入りの業者を通して貴族たちにも流行りだした。
そして貴族に流行ると王城にも魔の手が忍び寄り、とうとう国王まで病に倒れたのだ。
王太子ユリウス夫妻は対応に追われた。
宰相を勤めていたアドルフも王城に泊まることが増えた。
状況を正確に把握し、薬師たちを方々に派遣する。
薬を求め街は荒れたが王宮騎士団の巡回を強化する事で闇取引で高値になる事は防がれたのだった。
そして、国王が崩御し、王太子であったユリウスがその座を引き継ぐ。
ようやく病が沈静化の兆しを見せ、人々の生活が元に戻り始めた頃。
王城で寝泊まりするアドルフの下に、公爵家から手紙が届いた。




