16.絶望の中の真実
アーベルに手渡されたのは、アンネリーゼが結婚する前からつけていた日記だった。
護衛している時に見慣れた文字に懐かしさがこみ上げる。
内容は他愛のないものばかりだが、ある部分から一人の名が出てきた。
『今日、私に護衛が着いた。
アーベル・トラウトという名前。
濃い碧の瞳は吸い込まれそうにきれい』
『夜会でアーベルにエスコートをお願いした。婚約者でも親族でも無いのにいいのかしら?
兄のふりをしてくれるみたい。
バレないかしら?ちょっとドキドキ』
『アーベルのエスコートは頼もしかった。
男の人ってこんなに頼りになるのね。
お父様はちょっと背が低いから知らなかったわ』
『カルラが新しい薬を開発したみたい。
私は何もできないから羨ましいわ。
私に役立てるのは政略結婚くらいかしら。
でも、私は……
いえ、これは抱いてはいけないわ』
『カルラとアーベルが親しそうに話していた。仕事の話みたいだけど、なんだかもやもやするわ』
『押さえなきゃいけないのに、気持ちが止まらないの。
私はどうしたらいいんだろう』
『お願い、誰のものにもならないで』
『とうとうアーベルに言ってしまった。
私の中にこんな激情があったなんて知らなかった。
アーベルが好き』
『何度目かの告白で、ようやくアーベルが頷いてくれた。
嬉しい。
でも秘密にしようって。それでもいい。
ずっと、そばにいたい』
『アーベルが好き。
だから結婚なんかしたくない』
『お父様がお見合い話を持って来た。
私はアーベル以外は嫌だ』
ここまでが、結婚前の日記だった。
アーベルも知る、アンネリーゼの姿だ。
『アーベルが死んだなんて思いたくない』
『結婚が決まってしまった、』
『旦那様になったのは、ルトガー・リーデルシュタイン様
私は、愛する人がいると宣言した』
その文を読んだ時、アーベルの手が止まる。
宣言した?
されたの間違いでは?と。
『ルトガー様は優しい。私の気持ちを思いやって下さる。
それが時折申し訳なくなる』
『アーベルを愛しているのは変わらない』
『ごめんなさい。
アーベル、ごめんなさい』
『ルトガー様と本当の夫婦になった。
義務を果たさなければならない。
本当は、私は』
『ルトガー様は相変わらず優しくて、苦しい』
『ルトガー様を愛してしまった。
だけど、結婚した時に契約をした。
二人、子ができたら離縁すると。
ルトガー様にも愛する人がいるから気にするなと言っていたけれど。
ルトガー様は私が気にしないようにする為、嘘をつかれている』
『ルトガー様は婚約前には確かに平民女性と付き合っていたらしい。
けれど、私と婚約する為に別れたそうだ。
それを聞いて、何だかショックだった』
では自分が見たのはこの女性──。
アーベルは手を震わせながらページを捲る。
『今日、お医者様に診て頂いた。
ルトガー様との子が宿ってくれたらしい。
嬉しい。きっと元気な子を産むわ』
『今日、ルトガー様がアンリを連れて来た。
彼はアーベルにとてもよく似ている。
でも名前が違う。別人?』
『アンリには記憶が無いらしい。
もしアーベルとしても、私を忘れているわね。
ちょっと寂しいけれど、仕方ないのもしれない。
きっと、忘れろというお告げなのかもしれない』
『カルラの作った薬が違法薬物として認定されたらしい。実家は取り潰し、工場も閉鎖されたそうだ。
でも私の事はルトガー様が守って下さった。
有り難い』
『娘が産まれた。待望の赤ちゃん。
かわいい。私に似てる?
でもきっと、性格はルトガー様に似て優しい子になるわ』
『ルトガー様が元恋人と偶然会ったらしい。
でもきっぱり別れていると言われた。
そして、私を愛していると言って下さった。
嬉しい。
嬉しくて、涙が止まらなかった』
「────っ」
──次の一文を見て、アーベルは息を止めた。
『私も、ルトガー様を愛しているから』
その一文は、アーベルの心に突き刺さった。
ずっと、アンネリーゼの気持ちは自分にあると信じていたのだ。
彼女が望んでいなかったから。
政略結婚で、契約して。
二人の間に愛など無いと思ったから。
安心して読み進めていたのに。
ルトガーが裏切ったから、アンネリーゼを傷付けたから。
だが実際には、アンネリーゼはルトガーが元恋人と会った事を知っていた。
そして、その関係は自分が思っているようなものでは無かった。
ルトガーはどんな男だった?
アーベルは記憶を辿る。
彼は実直で、素直で、明朗快活、思いやり溢れ、優しく強い。
記憶の無い自分を保護し、庇ってくれていた。
それを、俺は───。
アーベルは思わず拳を握り締めた。手のひらに爪が食い込み濡れていく。
『ルトガー様が亡くなった。
崖から転落してしまったらしい。
アンリはアーベルと名乗った。
アーベルに睨まれるのは、ルトガー様を愛してしまったのを責められているみたい。
あなたはルトガー様を殺してしまったの?』
『ルトガー様がいない事が苦しい。
アーベルの時より悲しくて辛い。
もう、生きていたくない』
『ルトガー様に、お会いできますように。
リーゼ、身勝手なお母さまでごめんね……』
日記はそこで終わっていた。
まっさらなページがパラパラと捲れ、アーベルの空虚な気持ちを映しているかのようだった。
「──はっ…………なんだ、それ………」
自分の中で、何かが崩れていく。
「─なんだ、それ……………」
アーベルは、言葉にできぬ虚しさと、してしまった事へのやり切れなさに言葉を失ってしまった。




