【閑話・夫婦の絆】
「義姉上。兄上は誰も入れるなと言ってました。ですが、義姉上なら気付いてくれるはずです。そしておそらく……兄上は正気を失っています。ですが、このままでは兄上の命が危ない……」
「大丈夫です。私がここに来たのは何かの縁でしょう。ディートリヒ様の事は私にお任せください。
……その代わり、犯人の場所を特定して下さいね」
「必ず!……兄上を頼みます」
カトリーナはふわりと微笑んだ。
深呼吸して扉をノックし、返事を待たずに中へ入る。
部屋中に漂う異様な空気に顔を強張らせながら、寝台にいるディートリヒに近寄った。
「誰だ……
入って来るなと……ッフ……言ったろう……」
浅く息をしながら横になってやり過ごしているディートリヒに、妻は言葉をかける。
「私です。あなたの妻、カトリーナです」
胡乱な目線を妻と名乗る女性に投げ掛ける。
カトリーナは王都で待っているはずでは?
ならばこの女性は罠か?
薬物中毒により視界がぼやけ、自分に近寄る女性が誰なのか判断できない。
もしもカトリーナならば。
遠慮はいらない。
衝動を全てぶつけられる。
そうでないならば。
一刻も早く立ち去って欲しい。
妻以外を抱くなど畜生にも劣る行為、例え媚薬を盛られていてもしたくない。
抗い難い衝動が誘惑するが、妻を裏切るくらいならば舌を噛み切った方がマシだ。
実際に何度噛み切ろうとしたのか。
だが、生きて帰らねば。
カトリーナを遺して逝けない。
どちらを選んでも、妻を悲しませてしまう。
正気を失いそうになるのを、何度もやり過ごしていたのだ。
ディートリヒはやがて自分に近寄る女性の顔が、かすみながらも最愛の女性である事を確認すると、驚愕で目を見開いた。
「なぜ……」
「マダムリグレットの軟膏を辺境伯邸に送る役目を代わったの。
来てみて正解でした。だんなさまが大変な目に遭ってるなんて」
言いながらカトリーナは唇を噛んだ。
「……すまな……っ、情け……なくて……っハァ…」
久しぶりに会えたカトリーナに、つい弱音が漏れる。
今すぐにでも彼女をこの腕に収めたいと願うが、これが幻覚ではないのか、ディートリヒには自信が無かった。
そんな夫を前にして、カトリーナは決意の眼差しを向けた。
「旦那様、私を抱いてください」
その言葉はかすかに震え、しかし声音は強く、ディートリヒの理性に訴えかける。
だが万が一、これが罠ならばという考えが彼を慎重にさせた。
「……君が…本物とは限らない…クッ……」
「本物です。あなたの妻です。だから……っ」
「本物じゃ…ないなら……俺は自分を許せなくなる……っ」
その言葉はカトリーナに響いた。
ディートリヒは裏切らない。
カトリーナの元婚約者が不貞をし、婚約破棄された事も関係あるが、第一前提として自分の快楽の為に妻を裏切る行為をする事を良しとしない。
むしろ嫌悪していた。
自分が一時の快楽を得るだけの行為など。
最愛の女性を悲しませてまでする事では無い。
ディートリヒも健全な男性だが、どうしてもの時は一人でやり過ごす事のできる大人だ。
カトリーナを悲しませるくらいなら、自分が苦しんだ方がいい。
だから衝動に抗い、時が過ぎるのを待っている。
そんな夫の、自分に対する誠意と愛情をまざまざと見せられ、受け取ったカトリーナは、緊張しながらも口を開いた。
「では、私に質問して下さい。二人しか知らない事を」
まず自分がディートリヒの妻である事を信用してもらう必要がある。
夫婦だけしか知らない事ならば誤魔化しようが無い。
ディートリヒは胡乱げな目をしたまま逡巡し、質問を投げ掛けた。
「………君の…記憶が戻ったあと、俺の傷に……した事は……」
カトリーナはディートリヒの傷に軽く口付ける。
だが、それでもまだ信用に足りない。
だから、あの時の言葉を。
二人が再び結ばれる前の言葉を。
手を延ばし、声に乗せた。
「『もう、離してやれない……、愛人を作ることも許さない』……っハ」
カトリーナはディートリヒの指に口付ける。
「『愛人なんて、いりません。あなたがいれば、それだけで』」
その言葉を聞き、ようやくディートリヒは目の前の女性を抱き締めた。
息を荒くし、縋るように腕を回す夫に、カトリーナの鼓動は高鳴る。
「なぜ……君がここに……?これは夢か?それとも、俺はもう死んでしまったのか?」
戸惑いと劣情の狭間で揺れながら発された言葉に、カトリーナは苦笑した。
先程も同じ質問をされたからだ。
だが、それだけ正気を失い掛けているのかと思うとやるせなくなるが。
「軟膏を……。マダムリグレットの軟膏を届けに来たのです。その……配達の方が急病で、代わりを手配もできなくて、だから……偶然場にいた私が名代を買って出ました。
だんなさまに、会いたかったとかじゃ……」
言いながらぎゅっと夫の服の裾を握り、きつく目を瞑り頭を振った。
「嘘、嘘です。会いたくて、来てしまいました。来て良かった!
こんなに苦しんでる貴方が、他の方をと思うと、私は今ここにいられる事に感謝しているのです」
もしもカトリーナがこの場にいなければ。
最悪娼婦を呼び発散させられていただろう。
女性の潤いでのみ解毒できるこの媚薬は、元々は夫婦の交合不和脱却の為に作られたものだ。
相手側の、英雄を潰す事が本気と取れる証拠でもある。
もしも妻を裏切るような事になれば。
それが例え命に関わる事でも。
娼婦を相手にしたとしても。
ディートリヒは一生自分を許せず苦しむだろう。
妻を深く愛し、一途である事は美談であるが、最大の弱点にもなり得るのだ。
だが、運命の女神はディートリヒに微笑んだ。
媚薬の効能はディートリヒの理性を侵食しつつある。
目の前の女性が妻ならばもう遠慮はいらない。
「カトリーナ、ありがとう、君を裏切りたくなかった……
もう、限界……すまない、乱暴に、な、る」
言い終わると同時に、ディートリヒは妻に口付けた。
その視線は獰猛な肉食獣のようにエモノを捕らえて離さない。
乱暴になってしまうが、理性を残さないその行動にカトリーナは奥底で歓喜した。
何度も何度も、本能だけを残した交わり。
いつもは優しい夫から、心の底から全てが欲しいと言われているような錯覚を起こし、媚薬が無くとも何の問題もないくらい溺れていた。
劣情を宿した瞳で見つめられる度ぞくりと粟立ち愛しさがあふれる。
時折「すまない」と掠れた声で謝罪される度、夫を肯定するかのように次を強請った。
求められる事が嬉しい、だからもっと愛して欲しいと気持ちを込めて夫に縋ると再び本能的に戻る。
「愛している、カトリーナ、君だけを愛している」
繰り返し、繰り返し、言葉を刻む。刻まれる。
二人がようやく眠りにつくのは、日付も変わった頃だった。




