#09 激動と過去をゆく
彼の笑顔は薄れた。お腹を押さえていた。少しの間、立ち止まってしまった。突然のことに、喉はフリーズしていた。目は、瞬きをはやくすることしか、出来ないでいた。また、体調不良になった。それなら、おおごとだ。心配になった。しかし、彼はすぐに、なめらかに歩を進め始めた。
ゲームセンターから出た。車が通れないほどの、細い道を行く。病院の近くには、お店が結構ある。美味しそうな香り。スパイスのような香り。香辛料の食欲をさそう香り。カレー屋だ。黄色の看板。その香りに誘われるように、近づいた。
彼からは、お腹の鳴る音がした。病人と分類されるような人を、私が連れ出した。でも、体調に問題ないと言っていた。さっきのお腹を押さえていたのは、空腹だったのだ。座るとすぐに、シンプルなカレーが出てきた。メニューはそれしかないみたいだ。量もトッピングも選べない。カスタムは全くない。店に入れば、勝手に出てくる。スプーンで掬い、すぐ口に入れる。甘さと辛さが融合していて、おいしかった。
「僕、カレーは久し振りです」
「結構、前ってことですか?」
「はい。小さいときに一度だけ」
「そうでしたか」
「あなたは、カレーは初めてですか?」
「はい、たぶん。まだ人生で、オムライスしか食べてないと思います」
「そうでしたか」
「おいしいですね」
「はい、とても。あなたと食べているから、余計にですね」
「ありがとうございます」
私は、スプーンが折れてしまうくらい、大量に乗せた。そして、思い切り食らっていた。スプーンを動かす道筋も、掬うルーとライスのいい割合も知っている。自然と、身に付いているものだろう。食の大切さを学んだ。彼も、大口で食らう。縦にうなずきながら、水で流し飲み込んでいる。
肌に、扇風機の風が当たる。それが、汗を冷やしてゆく。夏の蝉の気持ちで、カレーを平らげた。これから、短い人生を全うする。その気持ちで、まだ冷たいコップを握る。そして、一気に飲み干した。雫がまとわりつく手のひらが、夏を感じさせた。
私は蝉人間だ。でも、蝉の声を聞いたことがない。蝉人間という名称で、呼ばれている。なら、蝉に会わずには消えられない。まだ季節的に早いのか。彼の水を飲み干したあとの、氷のぶつかる音が涼しい。夏の音楽が止み、休憩に入った。そこに、顔を覗かせた風鈴の音が、すべての音を圧倒していった。