#33 激動から抜け出す
とても楽しい。幽霊にも、楽しさがある。幽霊にしかない感情も、ある気がする。母は出掛けていった。オシャレもせず、上下モノトーンの服装で。私は、ついていくことにした。ハイハイをしている娘も、今は、気になっている。でも、母を追うことにした。私の実の母だけど、まだ知らないことだらけだから。
鼻息が荒くなった。意外に、母の歩きははやい。大股で、かなりのスピードで足を動かしている。ようやく止まった。甘い香りがした。駅前の、名前を知らないピンクの花の前。母はそこで、何かを取り出した。私がずっと使っていた、トートバッグから。それは、バインダーと紙だった。
幽霊になってから、今までで一番、母に近づいた。気付かれないから、普通に近づける。口内が、優しい唾液に包まれた。優しい香りも、そこにいた。バインダーの紙を見ると、署名らしき枠が設けられていた。唾を呑んで、文章の内容を読み進めた。そこには、準人間の法改正という言葉が、書いてあった。
「準人間の法改正についての、署名をお願いします」
「あっ、すみません。急いでいるので」
「あの。署名をお願いします」
「ごめんなさい」
「あっ、私もごめんなさい」
「準人間の法改正のご署名を」
「いいですよ。私にも、準人間の弟がいますから」
「あっ、ありがとうございます」
「あなたのまわりの準人間は、どなたが」
「義理の息子でして。娘の夫です」
「まだ若いですよね?」
「ああ、娘は蝉人間なんですよ」
「そうでしたか」
「あっ、署名ありがとうございました」
地道に、署名活動をする母の姿に、ウルウルきた。誰にも私は、見えていない。だから思う存分、顔を崩せる。彼は、準人間から純人間になるための、試験をまた受けたみたいだ。さっき知った。その発表は今日だ。そのことを、思い出した。慌てて、家に走る。
走って戻った。すり抜けて、家に入った。何の肌の感覚もない。すり抜けたが、もちろん玄関から律儀に入った。彼がいた。ソファに座っていた。スマホで、何かチェックしている様子。娘を抱きながら、祈っていた。小さく胸の前で、片方の拳を握る彼。受かって、普通に戻れたみたいだ。安堵した。
幽霊でも、楽しさはある。でも、天に昇らないとダメだ。これで安心して、天に昇ることができる。最後に、彼の声が聞きたかった。だけど、無音が続いた。耳は、小さな音に集中する。娘の小さい声は、聞こえてきた。可愛かった。娘のことを彼に、安心して任せられる。だから、私の気は済んだ。




