#29 激動と愛の罠
普通の人間になる。普通の人間に、認定される。そんな試験を先日、彼は受けた。あまり、いい顔をしていない。手応えを聞いても、何も言わない。娘に対してだけ、自然なやさしい顔をする。たぶん、引きずっている。もう、結果は発表されているのだろう。口数が減った。たぶん、落ちたと思う。普通の人間は、まだまだ遠そうだ。チャイムが鳴った。彼が玄関に行き、戻ってきた。彼の友達だという、男性を連れて。
彼は、ペコペコしていた。いつもと別人だ。私には、体調不良をだだ漏れにする。素を出してくれているんだ。その男性からは、革のにおいがした。革ジャンから、発せられているものだと思う。それが、考えを鈍らせた。脳みその隙間を、埋めてくる感覚。深呼吸を欲する場面だ。なのに、すればするほど、革に呑み込まれてゆく。
彼は、水道とガスレンジを行き来している。ここからは小さく、見えたり見えなかったりの場所だ。娘はここにいる。私の胸付近にいる。だけど、状況を理解できない赤ちゃんだ。だから実質、初対面の男性と二人きりということになる。唾液が、やや不快に溢れる。いい味はしない。男性は、上からの感じがする。彼が男性に、遣われていた。その光景が、想像できた。彼の友達が突然、愛を言葉にしてきた。求愛された。私は、口を開けたままだった。でも直接、喉に言葉が当たることはなかった。
「僕と一緒になってほしいです」
「すみません。無理です」
「お願いします」
「結婚しているので、ごめんなさい」
「僕にも、チャンスをください」
「私のこと、知ってますよね」
「はい。蝉人間ですよね」
「そうですけど」
「知った上でです」
「はい?」
スマホを見た。時間が、思ったより過ぎていた。彼が、ゆっくりと近寄って来た。足元を、しっかり踏みながら。マグカップ3つが、段々と近づいてきた。彼の目は、見れなかった。同じ蝉人間の美女との、デートの約束。それが、もう近くにあった。彼に目で合図した。それを彼は理解し、微動のうなずきで、返してくれた。
少し動いて、バッグを手に取った。スマホをバッグに仕舞う。支度を整え、スッと玄関へ。靴を急いで履く。手のひらに、バッグのヒモがひっついていた。家から、そっと消えた。逃げるように家を出た。足の裏に、何か違和感がある。でも、ここからすぐに、いなくなりたかった。だから、止まらずに歩いた。
彼の声が好き。だから、思い出してうっとりした。でも、不安になっている彼の声が、脳で鳴っている。娘の泣き声も、脳の違う場所で鳴っている。あの男性が、彼と娘に何もしない。それを、ずっとずっと願った。青信号を知らせるメロディを、突っ切るように進む。約束していた、蝉人間の美女の大きな声が、耳を貫いてきた。




