#22 激動にもすれ違い
彼に、両親はいないという。私の母から聞いた。私には、何も話さない。彼は私の母と話すとき、とても楽しそうだ。今も、抑揚を制御できないで、喋っている。母と喋っているときだけ、やや明るい人になる。私の目は、それでも光っている。嫉妬はない。母には、尊敬の眼差しをぶつけていた。
夕方のリビングに、疲れを感じない。誰も、疲れを持ち込んでいない。いいニオイがする。これは、味噌のニオイで、合っているだろうか。鼻から喉にかけて、やや爽やかだ。腕の中にいる娘が、馴染んできた。赤ちゃん特有のニオイが、たまらなくなっていた。
今日は、母のお姉さんがいる。台所で、反復横跳びの如く調理をしている。口には、唾液が溜まり始めた。美味しそうだから。娘が、笑っている。それが、錯覚かは分からない。ただ、カラダが、ぬくぬくと暖かくなっていた。だから、それはどっちでもいい。母のお姉さんだが、義理の方のお姉さんだ。だから、父の姉ということだ。
「もう少しでできるから、待っててね」
「ありがとうございます」
「みそちゃんこ鍋だけど」
「あっ、美味しそうですね」
「ごめんね。私の弟が、メンタル弱くて」
「えっ、どういうことですか?」
「あれっ、聞いてなかった? あなたが蝉人間だって分かった瞬間、倒れてね」
「ああ。そうだったんですね」
父に会いたい気持ちは、強くなっていた。両親は、大切な存在だから。彼に、両親の記憶は、残っていないみたいだ。だから、私の母に近づきたいと、思ったに違いない。彼と母が、話ながら、食卓へとやってきた。一週間仕事を休んで、私に尽くしてよ。そう言いたかった。でもそれを言うと、駄目な気がした。今の、目がしっかり開いた彼が、いなくなる気がしたから。
一週間の長い夢を、見ている感覚。それが味わいたい。でも、この世界の流れの中に溶け込んで、人生を普通に費やす。それも、いいかもしれない。娘が、私の手の甲を叩く。それが、柔らかすぎた。その感触が、ずっと皮膚に残った。一人では、病院に高くて行けない。お断りの店も多数ある。そんな彼に、何か残したい。そう、また思っていた。
殴られても命令されても、逆らえない。誰にも文句が言えない。夢なんか、見ていられない。昨日、彼はそう言っていた。あなたは、過度の支援を嫌う。でも、あなたのためなら、何でもしたい。これから、あなたを取り巻く世界を、変える運動を起こしたい。そんな考えをしているとき、チャイムが鳴った。母が玄関に行った。それから、しばらく経った。すると、玄関の方向から、弱々しい声が聞こえてきた。それは、すみませんという、謝罪の言葉のリピートだった。




