#21 激動に感謝感謝
私の母は、蝉人間ではない。普通の人間だ。色々してくれて、優しい。私は、鏡の前に立った。母に似ているみたいだ。父の顔は、分からない。父の話を、母は一度もしてこなかったから。会いたい気はする。でも、私の前に未だ現れていない時点で、そうだ。そういうことだろう。鏡の私は、全然笑っていなかった。
リビングに戻ると、花の香りがした。強くない香りだ。母が、娘を抱いている。蝉人間の親はみんな、おおらかで、こんな感じなのだろうか。そうじゃないと、産む決断が出来ない。そうだと思う。やっぱり、母はいい香りがする。花よりも、優しい香りだ。
私は、二週間しか生きられない。でも、体感的にはみんなと同じ。そう、信じている。母はどんな気持ちなのだろう。考えたら、唇を強く結んでいた。母は私より先に、私の死の覚悟をしたのだろう。そうじゃないと、あんな瞳は出来ない。あんなに、美しい瞳は。私は今、口に潤いを維持できている。
「お母さん、ありがとう」
「何が?」
「特に、決まった項目はないけど」
「なにそれ?」
「まあ、総合的にね」
「そっか。じゃあこっちからも、ありがとう」
「どういう、ありがとう?」
「すべて」
「そうか。ありがとう」
私と母は、違う人間。そう思っていた。でも、思わなくなる瞬間もある。なぜなら、私と同じ仕草をしたりするから。右耳を左手で掻く仕草。それは、ほぼ同じだった。仕草が似ていれば、心も近いだろう。ただ、私と彼も、全く異なる種類だということは、忘れてはならない。
私と彼は、激情に駆られたセミ人間同士。でも、待遇の全く異なる人生だ。あっさりと旅立つ者。長く苦しむ者。直感を信じないと、あっという間に時間は過ぎ去る。手と手を握り合ったり、肌で感じ合うのも大切だろう。今の彼は、部屋のベッドで休憩中だ。彼の肌質を想像し、自分の手を自分の手で握った。
いい出逢いに、感謝しなくてはならない。彼じゃないと、私は幸せではなかったから。彼の部屋に、忍者のように近づき、ドアを開ける。彼は、ずっと寝ていた。右耳を、マクラで塞ぎながら。私はほんのりと、耳元で感謝をした。聞こえているかどうか、分からないのだが。少しだけ、彼のほうれい線が伸びた気がした。




