94
「慌てるなよ、英雄」
ランドルフは、余裕の表情を崩さずそう言った。
その言葉と同時に、ランドルフを取り囲んでいた”黒い霧”が実体化した。
『null null null null null』
『null null null null null』
『null null null null null』
黒い霧は、世界を食らいつくさんとするバグそのものだ。
ランドルフはそれを、己の武器のように展開してみせたのだ。
あの空間に踏み込んでしまえば、何が起こるか分からない。
「このままでは村人たちは全滅する。それを救うためにやるべきことは――シャルロッテ。貴様なら分かっているよな?」
ランドルフはそんな言葉を言い残し、悠々とその場を立ち去っていった。ここでバグに守られているランドルフと戦うことを選べば、倒れている村人たちを助けることは出来ない。
「くそっ……」
結局、僕たちは悠々と立ち去るランドルフを見送ることしか出来なかった。
◆◇◆◇◆
『アイテムの個数増減――エクスポーション、エクスポーション』
その後、僕は最上位の回復アイテムを大量に生み出し村人の治療にあたっていた。パーティメンバーや無事だった村人に、アイテムを使うようにお願いしていたが、
「とても追いつかないです」
「やっぱりか!」
リナリーが、ポーションを抱えながら悔しそうに呟いた。大きな村ではないが、百人を超える人間が生活しているのだ。まして怪我人もどこに居るのかも分からない状態では、すべての命を救うなど不可能な話だった。
ランドルフが生み出した泥人形たちは、ご丁寧に村中の人間を無差別に襲っていたのだ。重傷を負っている者も多く、とても治療が間に合わない地獄の様相。
「なるほど――お兄様の狙いは、これだったんですね」
何やら納得した様子で、シャルロッテが呟いた。
「シャル?」
「ここは私に任せて貰えませんか?」
「どうするつもり?」
「私を誰だと思っているのですか? 私にかかれば――聖女の力があれば、この程度の怪我を治すぐらいは朝飯前です」
シャルロッテは広場の方まで歩いていき、村全体が見える高台の上に立つ。すっと村全体を慈しむように見回し、厳かな口調で告げる。
シャルロッテの周囲に、見えるほどに濃厚な光属性の魔力が満ち溢れていく。
「範囲は村全体。不足分の魔力を生命力に置換──『リザレクション!』」
「生命力に置換……⁉ シャル、もしかして危ないことをしようとしてるんじゃ……!」
僕の問いかけに、シャルロッテは微笑むだけで何も答えてくれなかった。
その覚悟を決めた眼差しに、嫌な予感が膨れ上がっていく。
「もちろん死ぬつもりはありません。だけども私の魔力が足りなかったその時は――どうか後のことは、よろしくお願いします」
この一見底なしに明るいだけの少女は、その実、誰よりも責任感が強い。目の前でたくさんの命が失われる状況を放っておけなかったのだ。たとえそれこそがランドルフの策略だったのだとしても、彼女はそうせずには居られないのだ。
操られるままの人生を是としない――シャルロッテは心優しく、そして何より正義感がとびきり強い少女なのだから。
「アレス、このままじゃ――」
「分かってる」
焦るティアをなだめ、僕はシャルロッテに駆け寄っていた。
「……シャル」
「アレスさん、止めないで下さいね」
シャルロッテにとって、その道を選ぶことは譲れないことなのだろう。
「止めないよ。でも……、少しでも手助けしたい」
時間がない。
僕は現状を打開する方法を考える。
「チート・デバッガー――『特殊効果付与!』」
最後に頼れるのは、いつだってこのスキルだ。
僕は祈るような気持ちで、使えそうな特殊効果を探して画面をスクロールしていく。
探す。探す。探して――見つけた
「『特殊効果付与──聖なる願い!』」
シャルロッテにぴったりの効果を。祈りが与える力を。
回復魔法を最大限強化する──これは【聖女】のみに発揮される固有効果だ。
シャルロッテは、今も天に祈りを捧げている。
淡い光に包まれながら天に祈りを捧げる姿は、いっそ完成度の高い絵画のようですらあった。何人たりとも侵すことは出来ない神聖な儀式。普段のシャルロッテからは想像もできないほど、今の彼女は神々しい。
そんな祈りに呼応するように、村全体が神々しい光に包まれていく。
「傷がみるみる癒えていく!」
「いったい、何が起きているんだ⁉」
死にかけていた村人が、驚きを隠せずに起き上がる。
奇跡はそれだけに留まらない。
廃墟寸前となっていた村が、徐々に修復されていくのだ。モンスターの襲撃の爪痕など、まるで最初からなかったように。ずたぼろだった畑が、もとの彩りを取り戻していく。
それはまさしく――
「奇跡だ──」
「私たちは夢でも見ているのか……⁉」
神が引き起こしたような奇跡。
「これが――聖女の力」
僕は呆然と呟いた。
やがて儀式は終了する。
完全な成功としか言いようのない完璧な結果。
シャルロッテは、まさしく奇跡としか呼べない現象を引き起こしたのだ。しかし彼女は、祈りを捧げてひざまずいたまま、なかなか立ち上がらない。
「シャル⁉」
思わず肩をゆすろうとして、だけどもシャルロッテの神々しさにそれすら躊躇われて。僕は、ただシャルロッテの無事を祈ることしか出来なかった。
そんな僕の心配を余所に――、
「魔力、全然残ってます。すごい……! これがアレスさんの支援効果なんですね」
シャルロッテは、驚くほどケロッとした顔で立ち上がった。さすがに魔力を使いすぎたのか顔色は悪いが、生命力の消費は無くいたって健康体のようだ。
「良かった……!」
「シャル、無事で良かった! 約束して、もう無茶はしないで!」
ティアもうっすら涙を浮かべながら、こちらに駆け寄ってきた。
「ようやくやりたいことが見つかったんです。こんなところで死んでられませんよ!」
お祝いムードのパーティメンバーをよそに、シャルロッテはそう言って楽しそうな笑みを浮かべていた。
神々しい雰囲気は消し飛び、そこに居たのは一人のあどけない少女であった。






