スモーカー、ドランカー
【登場人物】
藤上沙弥子:24歳。社会人二年目。会社での雑事や人間関係に疲れている。メンソール系のタバコを愛用。
桐ケ谷めぐみ:18歳。高校三年生。一人暮らし。部屋のベランダでこっそりと酎ハイを飲んでいる。
人生ってなんだろうか。沼地から水が染み出てくるように、ふとした拍子にその言葉が脳裏に浮かんでくる。
朝起きて仕事に行き、誰がやっても変わらないデスクワークの雑事をやらされ、愛想を振り撒き上司の機嫌を取り、したくもない残業を自主的にさせられる。家に帰れば散らかった部屋でバラエティの笑い声を聞きながら出来合いの総菜を食べ、溜まった洗濯物を見ない振りしてシャワーを浴び、お肌のケアもそこそこにベッドに入る。
毎日毎日その繰り返し。
苦痛とかつまらないを通り越して、無だ。なにもない。私の人生において私が得るものはなにもない。多分、それは死ぬまで変わらない。
割り切ればいいのは分かっている。仕事とは生きるための糧を得る手段であり、目的ではない。それはそうなのだが、そうやって仕事をてきぱきこなし空いた時間を楽しめるような人物というのはアクティブで精力に溢れ、友人もたくさんいるような一握りの人達だけだ。私みたいに趣味もない友人も少ないではプライベートを充実させることなど到底出来るわけもない。加えて新しく何かを始める体力も精神力もないので結局のところ閉塞感に苛まれながら日々を過ごしていくしかないのだ。
そんな私にも唯一の楽しみがある。晩ごはんの後の一服だ。
会社では吸わない。服についた匂いや口臭で嫌な顔をされるから。仕事を終えて疲れて家に帰り、晩ごはんを食べた後ようやくタバコに火を点ける。そうして吸うこの一口目の解放感たるやたまらない。一日我慢したからこそ煙が肺から体中へと染み渡り疲れが消えていく。死んでいた心が生き返ってくるようだ。
タバコを咥えて灰皿を引っつかみ、ベランダに出る。最近は夜も冷えてきて他の部屋もほとんどガラス戸を閉めているので気にせず吸える。ホタル族なんて言葉があるくらい厳しく見られている昨今、気を遣わなければいけないことは多い。私自身、洗濯物にタバコの匂いがついていたら嫌だし、仕事中に濃いヤニの匂いを放つ相手と話す時に『うっ』となるので気持ちは分かる。互いが相いれないのなら棲み分けるのは大事なことだ。
ベランダの手すりに肘をつき、ふぅ、と煙を吐き出す。
暗い空には欠けた月とちっぽけに光る星たち。眼下には点々と広がる街の明かり。百万ドルとはほど遠いこの夜景は、けれど私には十分だ。静寂の中、風に当たって夜空を眺めてタバコを吹かす。それさえ出来るのなら後はどうでもいい。
カラカラと網戸の開く小さな音が近くから聞こえてきた。続いて吐き捨てるように呟く声。
「――うぇっ、タバコくさ」
声は隣から聞こえた。隣人がベランダに出てきたようだ。話したことはないが朝に何度か見かけたことがある。たしか高校生の女の子。
音が出ないように嘆息する。タイミングの悪い。あと五分でもずらしてくれれば気分よく吸えたものを。
最後に一度だけ吸いベランダの内側に煙を吐き出す。部屋に戻ろう。
灰皿にタバコを押し付けてから傾いた体を起こした。ふと気まぐれに、こんな時間にベランダで何をしているんだろうかと気になったのでベランダの仕切りから少しだけ顔を出して覗いてみた。
そこには、椅子に座って夜空を見上げながら飲み物の缶を傾けている女の子がいた。しかもその缶はアルコール入り飲料に見える。
「…………」
見なかったことにするのが一番いいのは分かっていた。しかし、月明かりに照らされた彼女の横顔からどうしても目が離せなかった。寂然としたその面持ちは悲哀と虚しさをたたえていて何故か胸を締め付けられる。もしかしたら直観的にシンパシーを感じていたのかもしれない。彼女と私は似ている、と。
「ひとりで月見酒? 風情があるわね」
気が付いたら声を掛けていた。
「っ!」
途端に警戒した様子で私を睨む彼女に手を振って敵意がないことをアピールする。
「隣の藤上よ。コレの匂いで迷惑掛けてごめんね」
灰皿を見せると彼女は気まずそうに首を横に振って「いえ……」と言った。そういう反応になるのも無理はない。私だってほとんど面識のない隣人にベランダで話しかけられたら不審に思ってしまう。
なるべく威圧をしないように声の調子を上げて気さくに話しかける。
「まぁ、私なんかよりよっぽど悪いことしてる子がいるみたいだけど」
私の視線が彼女の持っている缶に注がれていることに気付き、ラベルを手で隠した。
「こ、これはジュースです!」
「あぁそうだった? ごめんね、暗いから見間違えちゃった。まぁなんでもいいよ。退屈しのぎにちょっとお話ししない?」
「……別に話すことないですけど」
「じゃあ私が勝手に話すから聞いてよ」
「初対面なのにすっごい慣れ慣れしいですね」
「お互い一人暮らしでしょ? お隣さん同士仲良くするのもいいもんじゃない?」
「ここに住んでもう二年以上経ちますけど今更じゃないですか」
「だってベランダで会うの初めてだし。いつもここで飲んでるの?」
「たまにですよ。飲み始めたのは割と最近ですし。あ、飲んでるのはジュースですからね」
「はいはい。そんじゃまぁ適当に喋ってるから適当に相槌打ってよ」
「……相槌打たないとダメなんですか」
「そりゃそうよ。かかしと喋ってるんじゃないんだからさ」
彼女は深く溜息を吐いたあとに缶を傾けて一口飲み、渋々呟いた。
「……どーぞ好きに喋ってください」
「ありがと。あ、もう一本吸っていい?」
「くさいからイヤです」
「あなたのそれ、見なかったことにするから」
私が彼女の持っている缶を指さすと顔をしかめてから諦めたように「一本だけですよ」と答えた。
この夜から、私、藤上沙弥子と桐ケ谷めぐみの奇妙な交流が始まった。
何故隣人の女の子にいきなり声を掛けたのかは今でも正直分からない。寂しそうな彼女を放っておけなかったのか、それとも私の寂しさに共感してくれる相手が欲しかったからなのか。
少なくとも、一人ベランダでタバコを吸うよりは幾分かマシだなと思った。
「――そしたら何て言ったと思う? 『藤上さんはまだ結婚とかしないようだから安心ね』。うっせーわ。いちいち人のプライベートに口突っ込んでくんなっての」
「ホントそれ。そういうこと言う人ってわざとこっちの神経を逆撫でしてくるよねー」
夜のベランダで私達は仕切りを挟んで肩を並べ、一方は片手にタバコを、一方は酎ハイの缶を持ち、会話の合間に各々好き勝手に嗜みながら夜空に向かって愚痴を撒き散らしていた。近隣住民に配慮して声量は抑えめだ。
「沙弥子ちゃんもびしっと言い返せばいいのに」
めぐみがタメ口なのは私がそうして欲しいと言ったからだ。こんなところで上下関係を作りたくない。その方がお互い胸に溜まったものを吐き出せるというもの。
「言い返すってどんな風に?」
「んー、『結婚しないんじゃなくて出来ないんだ!』とか」
「うっせーわ」
私が返すとめぐみがくすくすと笑った。まったく、失礼なやつだ。まぁ冗談だというのは分かっているが。
ゆっくりと紫煙を吐き出してから尋ねる。
「そういうあんたの方はどうなの? 学生なんだから恋愛話多いんじゃない?」
「まぁそこそこは。それなりに進学校だから真面目ちゃんばっかりだけど」
「あぁ、ここにいるのは不良生徒だもんね」
「これはジュースだってば」
否定をするということは少なくとも飲酒に対して後ろめたさを感じているということ。つまりはこの子も根は真面目なんだろう。
「はいはい、ジュースね。たまに飲むくらいならいいけど、習慣になると依存症になるわよ」
「タバコ依存症の人に言われても全然説得力ない」
「一日に何箱も吸うヘビースモーカーじゃなし、仕事の疲れをとるための1、2本なんて可愛いもんよ」
「沙弥子ちゃんの話聞いてるだけでストレス多そうだもんね」
「そうそう。つまりこれは社会人にとって必要不可欠な精神安定剤であり、明日も仕事に行く為のエネルギーなの」
「こうやって人は薬に溺れていく、と」
「誰がヤク中じゃ」
紫煙をくゆらせる私の顔をめぐみがじっと見ていた。
「何?」
「私にもタバコ吸わせて」
「は? ダメダメ、あんた何歳よ」
「ほぼ二十歳」
「四捨五入せずに答えなさい」
「……十八」
「あと二年経てば吸えるんだから今吸う必要ないでしょ」
「今吸いたい」
「あんたねぇ……」
苦言は呈するものの、正直察してしまう部分はある。十八歳の女の子が夜に一人でお酒を飲んでいる時点で何もないということはないだろう。ともすれば、つらい生活を経て酒やタバコに逃げ道を求めようとするのもよく分かる。ほかならぬ私がそうだったから。
でもだからこそ、軽々しく私の判断で若い女の子を逃げ道に案内してしまうことは憚られた。
「だいたいタバコの匂い嫌いじゃなかったの?」
「嫌いだからって吸わないとは言ってない」
「吸えないけどね」
「……ケチ」
「未成年の法律違反を未然に防いだの」
「現在進行形で違反を見逃してるくせに」
「ん? なんのこと? それってジュースじゃなかったの?」
「……ジュースだけど」
「じゃあ何も問題なし」
短くなったタバコを灰皿に押し潰し、むー、と頬を膨らませるめぐみの頭をわしわしと撫でた。
「そろそろ部屋に戻るわ。めぐみも早く中に入りなさいよ」
一本吸い終わったら話をやめる。それが長過ぎず短すぎずちょうどいい時間だ。
「おやすみ」と挨拶を交わし部屋に戻ってガラス戸を閉め、しばしその場で考える。
なんだろうか。この胸の中のもやもやは。
あの子と話していると寂しさを紛らわせられるし、なにより楽しい。それはきっとめぐみも同じはずだ。でないと私がベランダに出るタイミングを見計らって出てくるはずがない。
二人とも楽しいならそれでいいじゃないかと思うのに、近頃は話し終わったあとに急に不安になる。
私自身がめぐみにとって悪影響になっていないだろうか、と。
私は成人しているし体がどうなってもいいが、あの子はまだ若い。私と接することで悪い部分だけを見習われると困る。
あぁそうか。軽く笑いの息が漏れる。
私は心配しているんだ。最初に声を掛けたあのときからずっと。
まさかこの前まで会話もしたことがなかった女の子に対してこんな風に考えることがあるなんて。コンビニにたむろしている高校生を見たところでまったくなんとも思わないというのに、あの子に対しては違うというのだろうか。
自分の意外な面に気付くと同時に、そんな私に対してそういうのも悪くないな、と思った。
「あ、タバコ変わってる」
翌日の夜、ベランダで会うなりめぐみが私の手元を指さしてきた。パッと見は大きいペンか化粧道具のようにも見える長細いメタリックな外観。
「そ。電子タバコ。煙も少なめだし外でも吸いやすいと思って」
ほとんどめぐみの為に変えたようなものだが、それは伏せておく。
めぐみがすんすんと匂いをかいだ。
「……甘い果物みたい」
「グレープのフレーバーだって。タバコっぽくなくていいでしょ」
「うん、これなら私も吸えるかも」
「ダメだっつってんでしょ」
「えー、そのために変えてくれたんじゃないのー?」
「んなわけないって。あんたにはコレ」
私は用意しておいた小さな紺色の箱を渡した。パッケージにはタバコのイラストが描かれている。めぐみの表情が一瞬喜んだかと思うとすぐに失望の色へと変わった。
「……なにこれ?」
「知らない? ココアシガレット」
言わずと知れたタバコを模した駄菓子。ココアの風味とハッカの後味が絶妙にマッチしたロングセラー商品。
「知ってる。知ってるから聞いてるの」
「嫌いだった?」
「そういうことじゃなくて――こんな駄菓子で誤魔化そうったってそうはいかないからね」
「いらないなら返して。私が食べるから」
「も、もらったんだから私が食べる!」
催促した途端にめぐみが箱を開封して中からココアシガレットを一本取り出した。そのまま口に咥えてタバコを吸う真似をしながら私の方を見る。
「ふぅ……どう? 吸うのうまい?」
「うまいうまい」
「全然心がこもってないんだけどー」
文句を言いながらココアシガレットをぽりぽりとかじり、続けて缶に口をつける。
「……あんまり合わない」
「だろうね」
「買ってきたの沙弥子ちゃんなんだから責任とってよ」
「じゃあジュースの方私がもらってあげようか?」
別に本気で言ったわけじゃない。ただちょっとだけ、めぐみが飲むなら私が代わりに飲んであげたいと思ったから。そんなことをしても何が変わるわけでもないけど。
「……そんなに欲しいならあげる」
意外にもめぐみはすんなりと缶を渡してくれた。
「あ、ありがと」
みずみずしいレモンがプリントされたその缶を一口飲む。確かにレモン味のジュースだ。アルコール入りの。
お酒は久しぶりだったがこのくらいの度数ならスルスル飲めそうだ。
「沙弥子ちゃんお酒好きなの?」
ココアシガレットを指で弄びながらめぐみが聞いてきた。
「嫌いじゃないけど別に好んで飲むほどじゃないかな」
「……お酒に逃げたりはしないんだ」
その台詞には『私みたいに』の言葉が隠されているように思えた。私がタバコに救いを求めたように、めぐみはお酒に救いを求めた。手段こそ違えど求めていたものは同じ。
私は電子タバコをゆっくり吸い込み、ふっとか細い煙を吐いた。
「ま、その辺は個人の好みによるんじゃない? 私は酔って忘れるとかは性に合わなかったのよ。どうせ完全に忘れられるわけもなし、だったら翌日に残ったりしない方が都合いいでしょ?」
酩酊状態が気持ち良いという人もいるだろうがそういう人は好きに飲めばいいだけ。
「一番いいのは根本的な原因を解決することなんだけど、なかなかどうしてそううまくいかないもんで」
「……そうだね」
何か含みがあるのには気付いていた。話を聞いてあげるべきかそれともめぐみが話してくれるのを待つべきか。どっちが正解かは分からない。ただ一つ言えるのは今のこの時間が無くなるのは嫌だということ。へたに関わろうとしてギクシャクするのならば今のままの方がずっといい。
私はわざと鼻で笑った。
「もしこんなものに頼らなくても大丈夫ってなったらすぱっとやめてやるんだけどね。めぐみだってそうでしょ」
「私は…………うん」
言いかけた言葉を飲み込んで、めぐみが頷いた。多分今はこれでいい。少なくともめぐみもお酒に頼りたくないと思ってくれているのが分かっただけで。
私の言葉がきっかけなのかたまたまか、その日以降のめぐみは缶に口をつける回数が減ったように見えた。部屋に戻ったあとに残りを飲んでいれば意味はないのだが、それでも前向きな変化として捉えよう。
かくいう私の方も、めぐみと話している間はなるべく吸わないようにしようと思うようになった。人生の先輩としてお手本を見せるというのもそうだが、どんな形であれめぐみに煙を吸って欲しくなかった。この感情は例えるなら妹を案じる姉の心のようなものだろうか。私に兄弟姉妹はいないが、私にとってめぐみはそのくらい大切な相手になっていた。
「次の日曜、うちに晩ご飯食べに来ない?」
いつものベランダで私はめぐみに提案した。家の中の方が気楽に話せるし、めぐみが来てくれるなら久しぶりに料理をするのも悪くない。
めぐみが申し訳なさそうな表情を浮かべて謝る。
「ごめん、次の土日はお父さんとお母さんに会わなきゃいけなくて。その次なら多分行けると思う」
「全然いいよ。じゃあとりあえず来週の土日のどっちかにしといて、都合悪くなったらまた言って」
「……うん、ありがと。でも沙弥子ちゃん料理できるのー? そうは見えないけどなー」
「失敬な。これでも社会人になって最初の数カ月は頑張ろうとしてたから」
「意気込みだけじゃん」
「ちゃんとレパートリーもあるし」
「なに?」
「カレーとかシチューとか」
「もしかしてルーも手作り?」
「いや市販だけど」
「…………」
「なんだそのバカにしたような目は。野菜切ったり炒めたりしてるんだから立派な料理でしょうが」
「料理じゃないとは言わないけど、もうちょっとなんかないのかなーって」
「肉じゃがみたいな和風の煮物もいける。酒と醤油とみりんを同じ量入れて砂糖で甘くすればいいだけだからね」
「んー、まぁ及第点かな」
「そんな偉そうに言うってことはめぐみは料理してんでしょうね」
「してるよ。今日は豆腐ハンバーグ作ったし、この前はチキン南蛮作った。タルタルも手作り」
「え、本当に?」
「ホントホント。明日の朝ごはん用に残してるやつ持ってこよっか?」
「いやいい……私が高校生のときなんてお米炊くくらいしかしたことなかったのに」
「一人暮らしだからねー。ある程度は自分で出来るようになっとかないとって」
「……偉いね、めぐみは」
「そ、そうかな? レシピもネットで見ながらだし、沙弥子ちゃんとそんな変わらないと思うけど」
「いやいや、その歳でそれだけ出来ればすごいよ。うん、本当に偉い」
「めっちゃ褒めてくれるのは嬉しいけど何かたくらんでる?」
「たくらんでるというか、めぐみに料理してもらった方が美味しいもの出来そうだなーと」
「沙弥子ちゃんが誘ってくれたんだからちゃんと手料理でもてなしてよ」
「はぁ、そうなるよね……」
「その代わり、次に私が沙弥子ちゃん招待して美味しい手料理をご馳走してあげる」
それはなんとも魅力的な提案だった。
一週間以上先の予定を楽しみにするなんていつぶりだろうか。たいてい土日っていうのは家事を終わらせるだけでいつの間にか時間が過ぎ、月曜以降のことを考えて憂鬱になるものなのに、そういったネガティブな感情はまったく湧いてこない。むしろ早く月曜になって来週にならないかなとさえ思っている。
楽しみ過ぎて一週間前だというのに土曜に部屋の大掃除をしたりレイアウトを変えてみたり、調味料の賞味期限をチェックしたりしてしまった。水回りも綺麗にすると半日以上かかったがまったく疲れていない。それくらい気力が充実していた。
夜になって一応ベランダに出向いたがめぐみの部屋の明かりが消えていたのですぐに部屋に戻った。ひとりで吸っていても楽しくない。楽しいとか楽しくないで吸っていたわけじゃないのに、おかしなものだ。
日曜は買い物に行って減っていた日用品と、料理の勘を取り戻すために食材を多めに購入した。めぐみの方が料理上手だとしても、やはり年上の威厳は見せておかねば。
夕方、家の台所でレシピを見ながら何品か作っているとき、隣から物音のようなものが聞こえた。多分めぐみが帰ってきたのだろう。よし、今日はさっそく私が作った料理の話をするとしよう。本気を出せばこのくらい楽勝よ、と。
晩ごはんを終えていつものように電子タバコを持ってベランダに出る。仕切りの向こうに部屋の明かりが見えた。やっぱり帰ってきているようだ。ここで一服していればそのうちやってくるだろう。
仕切りの隣の定位置に身を置き、電子タバコを点けようとしたとき視界の端に何かが見えた。「ん?」とめぐみのベランダに視線を移す。
「めぐみ!?」
そこには項垂れるように椅子に座っためぐみがいた。足元には見覚えのある缶が何個も散らばっている。
脳裏に嫌な想像が走り声を荒げた。
「めぐみ! 起きてる!? ねぇ、めぐみ!!」
「……ん」
反応がありひとまず胸を撫で下ろした。頭をあげためぐみがぼんやりと私の方を見る。
「……沙弥子、ちゃん?」
「そうだよ。そういうあんたはめぐみでいいの?」
意識が混濁していないかの確認だ。
「……うん」
「大丈夫?」
「……うん」
受け答えは出来ているが酔いがひどいのか頼りない。
「とりえず私の部屋きなさい。外に居たら風邪ひくから」
「……沙弥子ちゃんは優しいなぁ。ずぅっと私のこと気遣ってくれて」
「ちょっと聞いてる?」
「聞いてるよ。沙弥子ちゃんがいてくれるから、こんなのに頼らなくていいかもって思ってたのに、結局ダメだった」
あはは、と乾いた笑い声がベランダに虚しく響いた。その様子を見て胸が痛む。何故この子がこんなにつらそうにしなければいけないのか。
助けてあげたい。力になってあげたい。本心からそう思った。
「……私でいいなら話くらい聞くよ」
「……うん」
憑き物が落ちたかのように、めぐみがぽつりぽつりと話し始めた。
めぐみの両親が別居をしていること。どちらに付いていくかをめぐみが決めなければいけないこと。お父さんもお母さんもどっちも大好きだったこと。決められなくて高校三年間の猶予をもらったこと。その間に両親を仲直りさせようとしたけど結局無理だったこと。受験前に最終決定をするように催促され、逃げ帰ってきたこと。
全部を話し終えて、めぐみは大きく息を吐いた。その表情は少しだけすっきりしたように見えた。
正直なんて声を掛けるべきか迷った。部外者の私があれこれ口に出す問題ではないし、余計にめぐみを傷つけることになるかもしれない。それでも、この子のために何かをしてあげたかった。
「めぐみ、こっち来て」
手招きをすると多少ふらつきながらめぐみが近づいてくる。
「頭、こっちに寄せて」
私に言われるがままに仕切りの向こうから頭を差し出してきた。その頭を優しく労うように撫でる。
「よく頑張ったね」
「…………」
「めぐみは頑張った。だからもう無理しなくていいよ」
両親の離婚なんて今の時代珍しいことじゃない。でも珍しくないからといってめぐみが傷ついていいわけがない。
つらさに耐えて抗おうとしたこの子を愛おしいと思うし、慰めてあげたいと思う。どのみち私にはそれしか出来ないだろうから。
めぐみが目元を手で押さえた。鼻をすする音が聞こえてくる。その音が聞こえなくなるまで私は撫で続けた。
今ほどベランダの仕切りが邪魔だと感じたことはない。もしここが繋がっていたのなら、抱き締めて体を温めてあげることも出来たのに。
「……ありがと」
しばらくしてめぐみが恥ずかしそうに呟いた。気にする必要なんてないと軽く笑い飛ばし、ぽんぽんと頭を軽く叩く。
「たまにはいいんじゃない? 誰かに甘える日があってもさ」
「……沙弥子ちゃん」
「ん?」
「なんでそんなに私に優しくしてくれるの?」
「んー、まぁ簡単に言えば私と似てたから、かな」
「似てた?」
「そ。私と同じで寂しくてたまらないって顔してた」
「そっか……沙弥子ちゃんは今でも寂しい?」
めぐみは私の手から頭を抜け出すと、指と指を絡ませるようにその手を握り言葉を続ける。
「私は、もう寂しくないよ。沙弥子ちゃんがいてくれるから」
冷たくなっていためぐみの手が徐々に私の体温によって温もりを取り戻していく。それだけじゃない。手を握っているだけで体の奥の方からあたたかくなってきて耳の後ろがむずむずとくすぐったくなる。
最初は私に似た彼女がほうっておけなくて、彼女を救うことで自分を救ったつもりになりたかった。けどいつの間にか、ただ純粋にめぐみと話すことが楽しくて、めぐみが笑って私に冗談を言ったりつっこんだりしてくれることが嬉しくて、それ自体が目的になった。
そうだ。私は毎日ベランダに行くのが楽しみだった。そこには一抹の寂しさも不安も含まれていなかった。
「私もめぐみのおかげで、もう寂しくない」
めぐみの手を強く握る。それに応えるようにめぐみが強く握り返してくる。言葉を交わさなくてもたったそれだけでたくさん想いが伝わるし伝えられる。
めぐみが胸に秘めていた感情も、私が抱いていた守りたいという欲求も、どちらも同じものだった。
あぁ、きっと心と心が繋がるこの瞬間を、幸せと言うのだろう。
星々が見下ろすベランダで私達は手を繋ぎ、仕切り越しにそっと寄り添いながらその幸せを味わっていた。
その夜、私は一度もタバコに口を付けなかった。
「沙弥子ちゃんもいい加減タバコやめたら? そんなのなくてももう平気なんじゃないの?」
最近事あるごとにめぐみが禁煙を勧めてくる。いや全然悪くないどころか良いことではあるのだが、私にはちょっと耳が痛い。
ベランダにもたれて電子タバコを指でくるくると回しながら答える。
「ちょっとずつ減らしていってるとこなの。そろそろやめられるから」
「そればっかり。前に『すぱっとやめてやる』とか豪語してたのに、結局口だけなんだー」
「一度習慣になったらそんな簡単にいかないの」
「私はお酒すぱっとやめたよ? 私に出来て沙弥子ちゃんには出来ないの?」
「煽りおって……。こういうのは強制されると余計に出来なくなるから優しく見守っといてよ」
「そんな宿題をやれって言われたこどもみたいなこと言って」
「大人ですー!」
私がムキになって否定するとめぐみが呆れたように笑った。実際めぐみに偉そうに言っておいてこのざまなので反論のしようもないのだが。
「明日沙弥子ちゃんの部屋に行ったときに吸わないでよ」
明日は土曜日。晩ごはんを私の部屋でご馳走することになっている。
「吸わないよ」
「私の部屋に来たときもだからね」
「吸わないって」
明後日の日曜日はめぐみの部屋に行って晩ごはんを食べることになっている。どんな献立かはお互い内緒にして相手を満足させた方が勝ち、らしい。
「でもどうせベランダに出て一服する気でしょ?」
「う……」
「まったく、本当にやめる気あるの?」
「あ、あるよ! ただちょっと、やっぱり口寂しくなるというか……」
「ガムとか飴とかは試した?」
「試した。ココアシガレットも」
「ダメだった?」
こくりと頷く。するとめぐみが少しそわそわとしながらぶっきらぼうに呟いた。
「代わりになりそうなの、もういっこあるけど試してみる?」
「何? パイポ?」
めぐみが手すりに頭を乗せて無言で私を見上げた。その緊張と恥ずかしさの混ざった表情は薄暗いベランダであっても赤く染まっているように見えた。
彼女の言いたいことを汲み取って聞き返す。
「……いいの? 初めてがここで」
「……ここがいい。沙弥子ちゃんとの想い出の場所だから」
言葉も合図もなく、仕切りを挟み互いが顔を近づけて唇を重ねた。
長い長いキスの後、照れくさそうにはにかんだめぐみから「香りは甘いけど、ちょっと苦い」と感想を言われ、本気で禁煙をしようと決意した。
人生ってなんだろうか。もしもそんな疑問が頭をよぎったなら私は迷いなくこう答えるつもりだ。
『大切な人のためにある』。
もちろんこれは私の出した答えであって人によって違うのは当たり前。
自分のために生きてもいい。社会のために生きてもいい。誰か一人と決めなくても、大勢の人のために生きてもいい。
でも私は、すぐ隣にいてくれるこの子のために生きたい。
この子が待っていてくれるから毎日仕事を頑張ろうと思えるし、嫌なことがあっても自然と楽しいことが忘れさせてくれる。
まるで所帯を持ったお父さんみたいなことを言っているが、その辺の感性は結局社会人なら誰しもが持ち得ることなのかもしれない。
もとより何も無かった私の人生、残りのすべてを誰かにあげたっていいじゃないか。それでめぐみが喜んでくれるのなら何も惜しいことはない。いつだって私は、めぐみのことを想っているのだから。
「沙弥子ちゃん、またタバコ吸ったでしょ! うがいしても分かるんだからね!」
少しばかりの息抜きをしつつ。
終
昨年の終わり頃にpixivの第二回百合文芸コンテストに応募した作品です。
結果が出たので他の作品も順次こちらにも投稿していきます。
ベランダで仕切りを挟んでキスするシーンが頭に浮かんだのがきっかけで書きました。
めぐみをもっとさばさばにするべきか悩んだんですが、そうするとちょっとキスとかがドライになりすぎるなぁということでこのような感じに。
ビタースイートを目指してみたんですが、割といつも通りな感じですね。