第三章-10『この奇妙な世界』
「でェいッキシッッッ!! おおう、右肩に響くゥッ!!」
一方、その頃。キヨシは王宮のどこかで結ばれた秘密の条約を過敏に感じ取ったのか、大きなくしゃみで病み上がり──というか、現在進行で病んでいる身体にダメージを受けていた。咄嗟に鼻と口元を押さえることもできず、監視に就いていたマルコは不快感を露わにした表情でブルーノを庇うように腕を伸ばし、
「うわ、まさか『悪疫』じゃないだろうな?」
「そんな大層なもんじゃないですよ、多分。噂されただけだろ」
「……貴殿は、噂を感知しくしゃみが出る体質か。まっこと面妖且つ面倒な体質、心中お察しする」
「ありがたいけど……それを言うならブルーノ君、おたくのご主人様の方こそ。なんか頭に怪我してね? 打った?」
「朝食の際にね」
「おたくンとこの朝飯は戦場なのか?」
「その通り。未だ、難攻不落の宮の門は、堅く閉ざされている……と言ったところか」
「なんだいそれェ~ッ」
マルコ本人の主観では、『愛の為に戦った名誉の負傷』だろうが、朝食の際に愛しのジーリオの下へと駆け抜け、職務の片手間に撃退されたというのが実のところなのは、キヨシには知る由もなかった。
キヨシは怪訝な顔をしながら、ベッドの脇に置かれた本を取り、
「ところで、せっかくおたくが持ってきてくれた、子供向けの本なんだけど。もっと優しいのありませんか? 読めないと思うんですけど……」
「これ以上に優しいのなんかないよ。本当に全く読めないのかい?」
「まあ、見てみないことには……しかし、アティーズとヴィンツの言語は同じなんですよね? だったら、向こうで読めなかったモンが、こっちで読めるワケが──」
半ば諦観混じりの気のない態度で、本の表紙を見たキヨシは愕然とした。
「『ではない』……『食べる』…………ッ!?」
「ん? なんだって?」
「い、いやいや! 何でもねえさ、何でも……嘘だろ……」
激しく狼狽えるも、キヨシがマルコたちに対して平静を装ったのは、バレると議会での発言に欺瞞があるということになってまうからだ。
──馬鹿な! どうして読めるようになってるんだッ!?
なんと、この世界に来てすぐはチンプンカンプンだったこの世界の言語が、やや不正確ながら自然に読めるようになっていたのだ。
──な、何がきっかけで? アティーズに着いたから? 別にそういう感じはしなかったが……。
これまでの道程を省みるが、文字に関してはほぼ諦め切っていたために文字を読もうとする機会に乏しく、どのタイミングで文が読めるようになったのかが全く分からなかった。少なくとも、カルロッタが書き上げた飛行機の図面をオリヴィーで眺めていた頃はさっぱり分からなかったことは確かが、それだけだと特定には到底至らない。
しかし、別のアプローチをしてみると、朧気ながら答えは見えてくる。つまり、『どのタイミングで読めるようになったのか』ではなく、『どうして読めるようになったのか』。
──……まさかティナちゃん、か? 前に似たようなことが……。
根拠はある。オリヴィーでの抗争、その最終局面──その時になってようやく、キヨシは自身の精神とティナの精神が、セカイを通して繋がっているという実感を得た。それ以降──直近では議会において、口に出さずとも、まるでテレパシーのように心で呼びかけるように会話を交わすことができた。
恐らく、それが理由だ。以前ティナが漢字で彫られたメッセージを読み取ったり、『骨なしチキンのお客様』を理解したのと同じ現象が、キヨシにも現れ始めたのだ。
「この本のタイトル……題名は、何ていうんです?」
「『そのリンゴを食べてはいけません』、だね」
「……『リンゴ』を示す単語は、末尾の部分ですか?」
「ああ、その通りだが」
「これ、どんな風に発音するんですか?」
「そりゃあ君、『リンゴ』だ」
「……ダメだ、日本語に聞こえる。バグった翻訳ソフトみてえだ」
「ばぐ……?」
マルコに確認してみても、やはり間違いないようだ。ただ、制約があることも分かった。
──……本当にそういう題名なのか? まあ、意訳すればそう読めなくもねえけど。
キヨシには本当に見た通りにしか読み取れず、主述の順番を始めとした文法は滅茶苦茶に思える。例えばキヨシが借りている本の場合、タイトルに当たる文は、
─『ではない』『食べる』『その』『リンゴ』─
と、読める。正確に意味を読み取るには、キヨシ本人の読解力でもって、組み立てなくてはならないようだ。
それともう一つ。実際に自他がどのように発音しているのか、という点に関しては直接聞いても分からないということだ。この事実が、キヨシの勉学に励もうという意欲を大きく損なわせた。これでは、単語を音ではなく字面で頑張って記憶するしかなく、中学高校の英語の授業よりも厳しいと言わざるを得ない。その英語の授業でさえ大嫌いだったというのに。
しかし、キヨシの関心事はそんなことではなかった。それは、ページを二、三枚めくると出てくる挿絵──
「……なあ。これ本当に、リンゴなんだな? リン"ガ"とかではなく?」
「なんだい? リンガって」
「……やっぱ変な話だよなァ」
「何が?」
「なんでリンゴがあるんだろう?」
「は? 要領を得ないな」
挿絵のリンゴにやたらとこだわるキヨシに対し、『何を言っているやらさっぱり』といった様子でマルコは小首を傾げる。
「リンゴってのはさ。俺が元々いた世界にもある果物なんだよな。それがこっちにもあるって、結構変な話だろってことです」
「そうかい? そんな事を言ったら、君も僕も同じ人間では? そう考えたら、不思議なことなんて何も──」
「それもハッキリ言って、不思議だと思いますよ」
「え?」
「『異世界転移ファンタジー』というのはな。俺がいた世界においてはかなり大人気な、創作の題材だった。丁度今年、そういうアニメがいくつか人気を博し──」
「……何の話だ?」
「ソーリィ、話が脇道に逸れた」
直近の思い出に浸る余り、余計にワケの分からないだろう話になってしまったことをキヨシは謝罪する。
「昔っから疑問に思ってたんだぜ。『なんで別の世界に全く同じ人間がいるんだろう?』。『なんでこの主人公は、そこんところを疑問に思わないんだろう?』……ってね。まあそれをマジで言ったら絶対ブッ叩かれるし、そもそも本人の立場になって考えたら、その世界でどうにか身を立てるので精一杯で、そんなこと気にしてる余裕なんかないワケよ。実際、俺もそうだったしな」
キヨシの内からとめどなく溢れ出す素朴な疑問たちは、誰もが『当然』、或いは『お約束』と素通りするものばかり。だが、キヨシの性格上気になって気になってしょうがない事柄だ。そりゃあ確かに、マルコの言うことももっともだし、第一それを言うなら人間という存在自体、奇跡そのものと言えなくもない。それに比べれば──いや、その奇跡が二度となれば、やはり奇妙と言わざるを得ない。
「リンゴがあって、オリーヴだってあったし、そういえば馬もいた。挙句の果てには……人間がいる。でもって、議会でこの星を『地球』って言ってたよな? 実は、俺がいたところもそうなんだ。あ、そうそう。おたくもそうだぜブルーノ君。うちの子の目に狂いがなけりゃ、おたくは『ミヤマクワガタ』って品種の甲虫だ」
「『ミヤマ』……」
「ちなみに、ミヤマというのは『深い山』で『深山』というのが有力な説で、別に発見した人の名前とかじゃないんだぜ。覚えておこうぜ!」
「また話が脇道に逸れているぞ。とどのつまり、君は何が言いたいんだい?」
自分という存在についての知識をキヨシのジャンク脳味噌から授けられて、感慨深そうにゆらゆらと飛ぶブルーノとは別に、マルコは結論を急ぐ。乗っていた調子を崩されてガクリと肩を落としつつ、キヨシはマルコに応え、「とどのつまり」と単刀直入に、
「この世界には……俺がいた世界のものが多過ぎる。俺はそれがどうも奇妙に思えてしょうがないんですよ」
全く違う宇宙に、同じような二足歩行の生物がいて、同じ名前の星で生きていて、同じような文化を形成している──キヨシにはそれがとても、偶然とは思えなかったのだ。
「けど、その一方で全く存在しないものだってある。以前、ロッタと『あるなし』の確認をしたことがあったんだけど……国だとか、山の名前だとかはお互い知らなかった。一致が見られたのは、四則計算の答えくらいで──」
「こいつはどうだい?」
「お?」
そう言ってマルコが懐から取り出して広げたのは、この世界の文字表のようだ。
「本当に全く文が読めないのなら、必要になるだろうと思ってね。奴隷の教育現場に依頼して取り寄せておいた」
「フライドさんナイス、デキる男ですよマジに! アレマンノさんを射止める日も近いぜ!」
「ティナさんも言っていたが、『ないす』とはなんだい? でもまあ! そー言われて悪い気はしないなァー、フフフ」
おだてられてニヤつくマルコを他所に、キヨシは提供された文字表をザッと眺めてみる。
──『A』みたいなのはあるけど……隣のこれは『B』には見えない。というか、文字の種類が少ない……やっぱり、アルファベットじゃないのか? しかし……。
見たところ、この世界の文字たちは、キヨシの知っている文字とは思えなかった。
確かにいくつか、アルファベットに近しい形状の文字は存在する。具体的には『A』『H』『I』『M』『O』『T』『U』『V』辺り。だが、その大半は『こういう文字は形状的に被っていてもおかしくはなさそう』と言えなくもないものだ。それ以外の文字はアルファベットに近いと言うことはできない形状。さらに言うと、アルファベットならば二十六種類あるはずだが、五種類程少ない。普通に考えれば、少なくともキヨシの知る文字ではない、と判断するのが妥当だろう。
しかし、キヨシは右手の力を手にする過程で、アルファベットと思われる文章を目にしている。その事実を素通りにはできない──
「……ッかァー! ダメだこりゃ、漠然とやってんじゃどうにもならねえ!」
「堪え性のない男だな」
「しょーがねーじゃねえですかァー、手がかりが少なすぎるんだもんよォー!」
ついにキヨシの思考は焼き切れ、これ以上考えることを放棄した。無論、あれこれと考えを巡らせた末の反応なのだが、客観的に見れば文字を見ただけで諦めてしまうという、『幼子でももう少し頑張る』と言わざるを得ない態度にしか見えないためか、マルコは呆れるばかりだ。そういう気分があることを過敏に感じ取り、酷くぶー垂れるキヨシに、マルコはやれやれといった風に頭を振り、
「……まあ。とりあえず、文字の書き取りから始めたらどうだい? そも、君の本分は『静養』のはずだ。あまり根を詰めない方がいい。そろそろ、呼び付けた医師も来ることだし」
「それもそうか……つーか、よくよく考えてみれば、こういう話はロッタがいるところでするべきだよな」
「カルロッタさんのことかい? それはしばらく望めないだろうね。朝食の際にティナさんと一緒に働いていたが、すでに疲弊していたようだったから」
「うわ、気の毒。ロッタのことだ、『一体いつになったら考古学者らしいことできるんだろ』とかなんとかボヤいてそうだな。ティナちゃんは……アイツが迷惑かけてなきゃいいけど……」
「アイツ?」
「あー、ホラ。昨日話したじゃないっスか。ティナちゃんはな、知らん間に他人のベッドに潜り込んで、一緒に寝たがるんですよ。流石に止められたのか、今日は俺のとこに来なかったけど……順当に考えたら、なあ?」
「いいんじゃないか? 姉妹なんだし。君のところにとなると、問題視せざるを得ないが」
「俺もそう思う。別に嫌じゃねえけど……おっと」
余計な一言を漏らしそうになり、キヨシは無理矢理に口をつぐんだ。
キヨシの新生活は、奇々怪々──或いは、戦々恐々、かもしれない。




