第二章-25『尊敬すべき素敵な人』
その場所は、変わり果てた周りとは違って、いつもと同じに見えた。
徹底的に、そして凄惨なまでに壊された周りとは違い、いつもと変わらぬ様子でそこにあった。
しかしその実周りと同じだけ、いやそれ以上に破壊し尽くされて、それを無理矢理取り繕っているに過ぎない。
「──────」
そう、丁度この有翼の少女と同じように。
我が子に頼まれ、しばらくの間ここでこのハルピュイヤの少女──アレッタの面倒を一緒に見ることになったアニェラだったが、まだ初日だというのにこうして自分がここにいる意味を見失いかけていた。
何せ、彼女は何もしない。何も見えてはいない。自分の周りにあるもの全てを遮断し、受け入れることを拒否して、ただ半分壊れたベッドにぼんやりと横たわっているだけ。
有り体に言って、狂ってしまっていて面倒を見るも何もないのだ。
──……引き受けたときは、こんなにつらいとは思ってなかったなぁ。
今、アニェラの心中を支配する感情は、『ただただ"つらい"』──その一点しかなかった。
アレッタはこのように静かなものだ。だというのにその場の雰囲気は酷く重苦しく、そして刺々しい。そして何より、我が子と同じ年頃の少女がこうしているのは、ただ見ているだけでも筆舌に尽くしがたいほどに堪えるものがあった。
そんな時を漠然と過ごしていると、小屋の少し歪んだ扉が軋むような音を立てて開き、外の光が差し込んだ。その光の向こうには、『創造の使徒』──キヨシが神妙な面持ちで立っていた。
「……よう」
「──────」
容易に想像できたことだが、キヨシの挨拶にアレッタは応じず、一瞥すらくれない。
目を閉じ、ふうっと息吐いたキヨシは、
「お疲れ様です、アニェラさん。ちょっとアレッタさんと個人的なお話がしたいので、すいませんが席を外していただけるとありがたいんですが」
「えっと、使徒様。それはちょーっと」
「いけませんか?」
「いーやいや、私が席を外すのは別にいいんですけどね? 彼女は、その……」
『話をしようとしても無駄』と、できるだけ角が立たないように伝えるべくアニェラが言葉を探していると、
「大丈夫、知っていますよ」
それを見透かしたかのようにキヨシが先の先を取る。
「アレッタさんが今そういった状態なのは既に聞いてますし、だからと言って回復が見込まれているわけでもありませんが……それでも、僕は彼女と話がしたい。どうしても話さなくっちゃいけないことがあるんです。何卒ッ」
そういうことであれば止める理由はない。アニェラは少々心配にも思ったが、「分かった」とだけ言って外へと歩を進めた。
その途中キヨシとのすれ違い様──彼の表情に、ファーストコンタクト時に見た、『覚悟の表情』とはまた違う種類の覚悟を見る。
それと同時に、未だ消えない迷いも。
その表情に様々な意味合いで不安を覚えつつも、キヨシに促されるまま、アニェラは外へと出て行った。
──────
ここに来る道中、キヨシは脳内に予定原稿的な物は組んできたつもりだった。下手なことを言ってアレッタをさらに傷付けてしまう懸念から、慎重に言葉を選んで。
しかし、この小屋に入って実際にアレッタと相対したその時、それは粉々に吹っ飛んでしまった。
──話には聞いていたが、ここまでとは……。
こうして傍にいるだけでも、はらわたがキュッと締まるような心地だ。
アレッタは何も語ることはない。しかし、その無表情と虚ろで昏い瞳が全てを物語っている気がした。
喪失、徒労、これまで培ってきたものが手の中から滑り落ち、無為に還る底なしの絶望……その悲愴。
そしてその気持ちは、キヨシにもよく理解できるものだった。
──『お前さえ、生まれてこなければ』──
キヨシの脳裏をよぎったのは、悪夢にまで見た過去の記憶。
キヨシは、絶望の味を知っている。だからこそ、アレッタの気持ちを理解できるのだ。
慰めは不要。かえって追い詰めるだけだ。しばらく何も言えずにいたキヨシだったが、一切の飾り建てを捨て、本心を話す腹を決めた。
「……何も話さなくてもいい。こっちを向いてすらくれなくってもいい。けど、どうか耳だけ傾けてくれていることを願ってるよ」
物言わぬアレッタへと向けて、ただ頭を下げる。
「すまなかった。結局、ここに来た日に懸念した通りになっちまった。あの時はカルロッタさんを窘めていたけど、いざその時が来てみればよ。ぶっちゃけた話……俺のせいでもある」
キヨシはあの日、危惧していた。実情がどうあれ、立場上は"悪党"であるキヨシたちと深く関わり合いになることで、トラブ運輸そのものに災禍を招く事態になるかもしれないと。
その時においては、災禍とはヴィンツ国教騎士団のことを指していた。しかし実際に起こってみれば、その相手はドッチオーネ空賊団──つまり、このオリヴィーという街の闇そのものという、ある意味ではもっと強大で、もっと厄介な存在になっていた。
それも、キヨシの行動が原因でだ。
「だから、俺は戦うことにしたんだ。放っておける連中でもないわけだしな。膿を絞り出すには丁度いい機会かもしれねえ。ティナちゃんやカルロッタさんも、協力してくれるみたいだ」
「……──────」
「おたくは、これまで頑張ってきたんだろう? トラヴ運輸の皆も、きっとこの街が好きだっただろうし、だからこそ空賊の連中に不満もあっただろう。それをぐっと堪えて、波風が立たないようにこれまでやってきた。『この街のことは放っておいていい』ってのも、そういう意味合いもあるんだろう?」
「──────」
「……今回の一件の代償は、連中に絶対に払わせてやる。トラヴ運輸だって、このまま廃業になんかさせたりはしねえ。俺たちに任せておいてくれ。おたくは、これまで頑張ってきた分ゆっくり休め」
「──────」
沈黙を続けるアレッタに、延々と言葉をかけ続ける──傍目から見たらどのように映るだろうか。
滑稽に映るだろう。あるいは愚かしく映るだろう。それでもキヨシにとってこれは大事な"儀式"だ。
恐らくこの騒動最大の被害者であるアレッタへ向けて、直接声に出して宣誓することに、意義があるとキヨシは思ったのだ。キヨシが何度も繰り返し言っているように、キヨシは今回の騒動の中心にいて、そしてこの悲劇の原因の一つを作ってしまった、言うなら"原罪人"。だからこそキヨシはその罪を清算すると、けじめをつけると誓った。それを被害者たるアレッタに話すということ、つまり『犯した罪を謝罪し、その後それをどう補償するのか』をということ。
難しいことを言っているようで、ごくごく普通の当たり前の行為。それでいて、絶対に避けて通れない、通ってはならない重要な事柄でもあるのではないか。キヨシはそう思ったのだ。
「……でも、まあ。なんというか……やっぱり返事が返ってこないってのは、ちょっとだけ寂しいって思っちまうなぁ」
「──────」
「俺って奴は本当に、どうしようもねえ奴だなぁ……」
「──────」
が、とりあえず今のキヨシの限界はここまでのようだ。罪悪感から来るほんの少しの自嘲を独り言のように口走った後、その胸中、決意の全てを話したキヨシは、礼儀として周囲の木端を片付けた後、小屋を出た。
「また来る……今度はこっちから連中に仕掛ける前に、皆と一緒に」
外に出た瞬間に突き刺さった十一月の夏の陽射しが、キヨシにとっては眩しかった。
──────
空気の重さ故に随分長いこと小屋にいたような気がするが、終わってみればほんの数刻の間だ。だが、そのごく短い時の中でキヨシの決意はより強固なものとなった。キヨシは、そのためにここに来たのである。怖いのは、それに付き合わされたアレッタの傷口を抉るかもしれない、ということぐらいだった。
それも杞憂に終わった今、あとは次に成すべきことを成すだけ。"だけ"と言っても、これまで以上の苦難であることに変わりはないのだが。
しかし、その一方でキヨシは失望を感じてもいた。
「……迷いも一気に晴れるかと思ったけど、そうでもないもんだな」
戦うこと、罪を清算すること。そのことに関して迷いはない。
だが、どうすれば? ドッチオーネ空賊団と戦い、ロンペレと相対したとしてキヨシはどうすればその罪を贖えるのか、皆目見当がつかないのである。
その答えを、アレッタと会うことで見出せるかもしれないと思っていたのだ。
もしもアレッタが心の底から憎悪と復讐心のままに、「殺せ」とそう言うのであれば、むしろそっちの方が楽だったかもしれない。人の道から外れる行為だったとしても、それが悲劇の引き金を引いた償いだというのなら、キヨシはきっと実行するだろう。
だが、あのアレッタを見ていると、これから始まる──いや、もう始まっているこの戦いの本質は、所謂"仇討ち"や"復讐"ともまた違う。そう思えてならなかった。
「使徒様」
そうして小屋を出たキヨシに、席を外していたはずのアニェラが恐る恐るといった様子で話しかけてきた。
「……ひょっとして、立ち聞きしていましたか? 別に聞かれて困る内容でもありませんでしたが」
「いえいえ、そーんな趣味の悪いことしてませんよ」
下衆の勘繰りが外れ、ばつの悪さで頭をポリポリと掻いていると、アニェラはらしくない神妙な表情を携えてこちらに歩み寄る。
「ただその、なんというか……"待っていた"ではあるかな」
「待ってた? 俺を?」
突然、なんとアニェラはキヨシに向かって深々と頭を下げた。あまりの様子に、キヨシは激しく当惑するしかない。アニェラに頭を下げられる謂れなど、どこを探しても見当たらないからだ。
「ごめんなさい。亭主の受け売りなんかで分かったふうに……無責任に止めたりするんじゃなかったかもって。ひょっとしたら、すーっごく自分を責めてるんじゃないかって思って」
「──!」
「これまで偉そうに御託垂れてきたけれど、別に私自身はそんなに大した人間じゃないんです。私の言葉一つ一つを気にして、悩むことなんかない。そう言いたかった。だからこうして待っていました──それだけです」
「アニェラさん……」
思い悩んでいたのは、キヨシだけではなかった。アニェラもまた、この事件に関わり合いになる中で、己の行動とその結果を重く受け止めていたのだ。そして、当初は人攫い呼ばわりしていたキヨシのことさえも思いやっている。
『私も悪い』と。『自分だけを強く責めたりするな』と。アニェラはそう言いたいのだろう。
「……この世界の人々には、いつも驚かされるな」
「え?」
「こっちの話ですよ。頭を上げてください」
アニェラが促されるまま頭を上げると、キヨシは逆にアニェラに向かって頭を下げた。今度はアニェラが当惑する番だ。
「ありがとうございます。過程はどうあれ、決断を下したのは俺ですから。それに──」
キヨシはこれから口に出すことを思い、気恥ずかしさで頬を掻きながらも、
「俺は中央都からこのオリヴィーに至るまでの道を、ティナちゃんやカルロッタさんと共に旅してきました。その短い旅路の中だけでも俺は何度も助けられてきたし、二人は色んな事を教えてくれた。特にティナちゃんは特別──」
「あなた、ひょーっとして童女趣味だったりするんですか?」
「違うぞ! つーかこのやり取りさっきもやったんですけど!? 親子だなあチクショウ! そうじゃなくてですね……俺はこれまでの生涯で、あんなにも人としてよくできていて、素敵な人とはまだ"一人"しか会ったことがない。だから、俺はそんな姉妹を育てたおたくやフィデリオさんも、尊敬してるんです」
「それは……どういう?」
緊張で文脈が若干ズレて、アニェラは意図を汲み取りかねてしまっているようだ。これはいかん、とキヨシは呼吸と気持ちを整え、その心を語る。
「あなたはさっき、『私自身はそんなに大した人間じゃない』と、そう言ったけど……俺はそうは思いません。何せ、あの二人の親だ。あの二人をああ育てて導いてきたその両親が、どれだけ人間として上等なのかなんて、それこそ悩んだり迷ったりする余地はないんです。だから──あのスイマセン。人が恥ずかしいの我慢して真面目に話してるのに、何ニヤついてんですか」
「んー? 気にしない気にしない。続けてください……『だから』?」
キヨシの気恥ずかしさが限界に達し、話を無理矢理打ち切ろうとしたにもかかわらず、アニェラはキヨシの『だから』の続きをご所望の様子だ。
「と、とにかくですね! おたくのとこの姉妹が、確実に俺を救ってくれたんですよ。だから、その……おたくの方こそ、あまり自分を責めないでください。むしろカラカラ笑っていてくれた方が、心持的には楽ですから」
ティナもカルロッタも、キヨシから欠落していた『人間らしさ』を取り戻そうとするきっかけをくれた。その姉妹を育て、導いたアニェラとフィデリオはどんなに素晴らしい人物なのかなど、論をまたないだろう。
様々な意味合いでキヨシは心の底からアニェラを、そしてティナとカルロッタを尊敬しているし、友人でいたいと思うのだ。
羞恥心で早口になりながらも、キヨシはアニェラに対して言葉を尽くした。そしてその言葉に乗せた心は、アニェラにしかと届いていた。
「……んー。やーっぱり、初めて会った時からただの人攫いにしては上等だとは思ってたのよね。性格は悪くない」
「だから人攫いじゃねーって。『使徒様』ぞ? 我、『使徒様』ぞ?」
「アッハハハ! はいはい、そうでしたね。こちらこそありがとうございました、使徒様」
このアニェラの態度に、キヨシは確信する。
──見た目はちょっと面影があるだけだが……性格、つーか人格は誰よりもセカイに似てやがる。
キヨシの羞恥心を感じ取り、それを面白がってからかうような態度をとるアニェラの性格は、この二日間一度も表に出てきていないキヨシの友人であり、先の話に挙げた"一人"であるセカイの性格ほぼそのままなのだ。その感覚にどこか懐かしさと、ほんのちょっぴりの嬉しさを覚え、悪態をつきながらも気分が少し高揚した。
「さて……私はもうちょーっとだけ、頑張るとするかな」
「ん? なんかやることがあるなら手伝いますけど」
「いえいえ、あのハルピュイヤの子の面倒を、娘に頼まれてまして。正直ちょっとだけ、初日にしてつらいなあと思っていたけれど……使徒様のおかげでヤル気出てきた! あの子の事は私に任せといてください」
「ハハハ、頼もしい限りですね。いやホント」
「ですから、あなたは──あなたの成すべきことを」
アニェラのこの激励は、キヨシの迷いを抱えた心に沁み入っていく。
無論、迷いが晴れたりはしない。この程度でどこかへ飛んで行くような小さな迷いではないのだ。だがそれでも、今のキヨシにとってこれほど効く薬はないと言っても過言ではない。
「……任せといてくださいッ」
それは確実に、キヨシの原動力になっていた。
こうしてキヨシは、成り行きではあるがアニェラにも戦いの宣誓をし、ティナとカルロッタの所へと戻っていった。




