第二章-14『ヴァイオレット』
温かな闇。
なんだか前にもこんなことがあったような気がする。なのでこういう場合の心得はあった。
まず目を凝らす。そうするとまず見えてくるのは、夢から覚めた先の現実だ。
やはりというかなんというか、栗色の髪をした少女がキヨシのとなりですやすやと心地良さそうな寝息を立てていた。
またしても、セカイはキヨシの布団の中に潜り込んでいたようだ。ここに厄介になってからというもの、布団は女衆に譲りキヨシは床の上で寝るようにしているようにしているというのに、よくもまあといったところ。
「ったく、毎朝毎朝──」
呆れ半分といった面持ちで頭を掻き、セカイ──ティナの肩をつついて起こそうとしたが、寸前でキヨシの指はそれを躊躇した。
キヨシの心胆を硬直せしめるこの感覚。例えるならば、
──なんだこの、『学校の職員室前』みてえな感覚は。
ある種懐かしい感覚だが、正直なところ二度と味わいたくなかった緊張だ。
ティナは狭量ではないと、カルロッタはそう言った。それを疑うわけではないのだが、いざその時となるとどうも緊張してしまう。自分の落ち度なのだから、なおさらだ。
しかし。しかしながら。今更こんな小さなことでつまずいてはいられない。
──だ、大丈夫、別にやめようってワケじゃない。それにホラ安眠してるのを無理に起こすのも悪いし、自然に起きるのを待ってからでも……。
先延ばしにして時間に解決を任せる典型的弱腰思考を携えつつも、できるだけ前向きに。気を取り直し、軽く伸びをしようと両腕を上にあげたその時だった。
その上げた右手首に、何者かのしっとりと湿った細い指が絡みついて来た。寝起き故にキヨシは少し遅れて掴まれた手の方をちらと見ると、
「脈拍、異常なぁし。義指の方も特に問題は見られない、と」
「えっ、誰アンタ」
一瞬で背筋と脳ミソが凍り付き、いつの間にかティナとは反対側にいた、モノクルをかけた初対面の女性に対し、素の反応を返してしまった。
そんな無礼にも女性はまるで意に介さず、キヨシの右手をペタペタと弄くりまわして観察しているようだった。それも終わると今度はこちらをじっと見つめて来る。
視線に耐え切れなくなったキヨシが戸惑いながら目を逸らすと、女性の目が悪戯っぽく歪み、
「はぁい、それじゃあ体温を測定しまぁす」
おもむろにキヨシをひしと抱きしめてきた。
「え、えっ何なになに!? なんなんだよおたくは!!」
何のとは言わないがとにかく危機を感じたキヨシは、女性を引き剥がして突き飛ばした。女性は少しだけ戸惑っていたようだったが、顔を真っ赤にしたキヨシの初心な反応に口角がグイっと上がり、
「……可愛いですねぇ。なんだかゾクゾクしてしまいます」
蠱惑的な微笑みを浮かべ、床を這うようにしてキヨシにじりじりと迫る。
「よ、よせ、やめろ寄るな! つーかそもそもおたくは何モン──」
強烈な色香に思わず後ずさり、背後の床に手を突いた……と思いきや、手を突いた先はどうもグニグニと柔らかく、生暖かい。
嫌な予感に恐る恐る手のついた先を見やると、床だと思って手を突いたのは、隣で安眠していた少女の柔らかな顔面だった。
「むぇ……おはようございまふ……」
──虎の尾を踏んじまった。
キヨシはもうどうにもならないことを悟っていた。
なにせティナの視界に広がっているだろう光景は、傍目から見ると『朝っぱらから男女が乳繰り合う様』にも見えようというそれ。
「──?…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!?」
ティナの寝ぼけまなこは見る見るうちに覚醒していき、キヨシ以上に顔を紅潮させて黄色い悲鳴を上げるまで、ほんの数瞬しかからなかった。
──────
「さあ、説明を求めるぞ! 人の健やかな目覚めを邪魔し腐りやがってッ」
朝食の卓を囲み、キヨシはカルロッタたちに悪態をつく。しれっと面子に交じっている、先の破廉恥な女性に対してもだ。ちなみにアレッタは誰より早く起床し、既に中央都への配達業務に出ている。
「ああ、アンタ昨日はすぐ外に出ちまったから面識無いのか。一応、昨日からここにはずっといたんだけど、こちらはお医者さんの、えーっと──」
「医師兼『エーテル体専師』のヴァイオレットと申しまぁす。昨晩、街にてキヨシ様の火急に偶然遭遇しまして、僭越ながら応急で火傷したエーテル体の手当てをさせて頂きましたぁ。以後、お見知りおきをぉ」
もったりとした喋り方のこの女性、ヴァイオレットはどうも立場としてはキヨシの恩人に当たるようだ。脈拍を測る、突然抱きしめて体温の測定を試みる等の行動は、よもや医者としての本分だろうか。色々な意味で毒にも程がある。
「エーテル体……ああ魂的なアレか。ということは、エーテル体専師ってのはそれ専門の医者とか研究者、ということですかね?」
「はぁい、大体そんな感じですよぉ」
「それは大変、お世話になりました。でもマジで次は無いですからね」
「あんなに可愛い反応をされて悪戯したくならない女性なんて、そうはいないと思いますよぉ」
「……そうなのォ?」
「いや普通に気持ちワリィぞ」
「テメエには聞いてねえぞトカゲェ!」
オリーブを燃やして喰らうドレイクにツッコミを入れると、隣で気まずそうに黙りこくるティナの困り顔が目に入る。
──あんなことがあった後で、なんて話しかけりゃあいいんだ?
しかし、気まずいのはこちらとて同じだ。一応既に誤解は解いているものの、何とか角が立たない切り口が、キヨシには見えないのだ。そういう意味合いでは、その原因となっている目の前で柔らかな笑みを浮かべるモノクルをかけた恩人が、憎たらしくてしょうがなかった。
どうしたものかと考えあぐねていると、カルロッタが首を振りながら深い溜め息をつき、
「……はいはーい、キヨシ君とティナちゃんに任務を与えまーす。母さんと一緒にもう一度中央街に行って、騎士団長様に今回の件について話してきて。あ、母さんはもう中央街に行ってもらってるから、現地で合流するように」
「んなッ!?」
「えっ!?」
何でもない風に言い放ったそれは、キヨシとティナにとっては横暴とも取れるものだった。
「オイオイオイ、今回の件で中央街に近付くのは危険だって思い知ったのに!」
「騎士団長様のお達しよ。『目を覚ましたら出向くように伝えてくれ』って」
「積極的に関知しないって言ってたんじゃあ──」
「……騎士団長込みでお話ししようって言い出したの自体は母さんなのよ。『騎士団長様の前じゃ嘘は吐けないでしょ』って。そしたら騎士団長もノッてきたってワケ」
「つまり、『今回の件について』というのは建前で、その実は『ティナやカルロッタと行動を共にしている理由』を聞こうと?」
「そういうことでしょうね」
「マジィ……?」
キヨシは頭を抱えそうになるが、本当に頭を抱えたいのはカルロッタの方だろうと思い、できるだけ平静を保つ。それにしても姉妹の母親は中々の策士のようで、一周回って感心といったところだ。
「ん? ちょっと待て、そういうことならなんでティナちゃんも一緒なんだ?」
「……今回の件について、という建前を守るために必要なんだと思います。私も当事者なワケですから」
「あ、ああ。なるほどな」
ギクシャクとしている最中のティナが割って入ってきて戸惑うも、ここでも精一杯平静を保とうとした。どれほど効果があったかは分からないが、昨日のように関係が悪化するような兆候は見られない。好転もしていないが。
「……じゃあせめて、向こうに出向いてもらうとか」
「随分食い下がるんですねぇ」
──〜〜〜〜〜ッ!! マジに面倒くせえ女だなッ!!
そして苦肉の策も、丸っきり部外者のヴァイオレットに潰される。確かにこれ以上食い下がるのも不自然というか、いかにも都合が悪そうでよろしくない。狙ってやっているのか天然なのか知らないが、キヨシを引っ掻き回すことに関しては超一流。
大人しく受け入れるしかなさそうだった。
「ま、苦労を押し付けるようだけど。そもそも母さんをここに連れてきたのはアンタだし、責任持ってどうにかしてちょうだい……お膳立てはこんなもんでいいか?」
「……?」
『お膳立て』。
そういえば先程『母さんはもう中央街に行ってもらっている』と言っていた。恐らく二人きりで話せる時間を作るための措置を講じるため、カルロッタが一計を案じたのだ。ティナは何のことだかよく分かっていないようだったが、カルロッタのこの言葉を聞いて、キヨシはようやく『この状況の中でできる限り気を使ってくれている』ことを理解した。
おおよそ心の曇りが晴れたキヨシは、自分の朝食を一気に掻っ込み立ち上がる。
「それが終わったら、今度は一緒にこっちの言い訳も考えてもらうからな。"例のブツ"は進めておくから」
例のブツ、というのは飛行機のことだろう。元より今はキヨシの出る幕ではないので、その辺りは信頼している。
「おう、ありがとうな。ティナちゃん、三杯も食えば十分だろ? 準備して出よう」
「は、はい」
折角の好機。殺してしまっては打ち立てたばかりの覚悟も崩れ去ろうというもの。
キヨシはティナの手を引き、再び中央街へと向かって行った。