第二章-12『薄汚れた希望』
"また"守れなかった。
右の手に絶対的な力を手にしながら、キヨシは守るべきかけがえのないものを奪い取られてしまったのだ。
もう二度と戻らない宝物。手を伸ばしても届かない距離へと行ってしまった。
いや、勝手に落ちていったのは自分の方か。
寒々しい暗がりの中だというのに、矮小なる自身が苦悶しながら、どこまでも落ちていく様だけははっきりと認識できてしまう。屈辱の極みだ。
『お前の自己満足で、母さんは死んだ!』
突如、暗闇の向こうから、脳髄を殴りつける低い唸り声が響いた。
──違うッ!!
怒鳴ろうとしても、声が出ない。しかしそんなことにはまるで構わず、何度でも、何度でも絞り出すように叫ぶ。されど渇いた呼気が漏れるばかりである。
『お前は人間じゃない、最低の人殺しだ』
──違う……違う違う違うッ!!
その先をかき消したいという気持ちが先行し、加速する。
そこから先は聞きたくなかった。何を言われるのか分かっていた──というより、知っていたからだ。
もしキヨシの想像通りなら、言われてしまえばきっと心が張り裂けてしまう。丁度眉間に銃口を突き付けられているように、喉元にナイフを突きつけられているように、精神が追い詰められて──
『お前さえ、生まれてこなければ』
血が滴る。
「違う! 俺はァッ!!」
かけられていた布を蹴飛ばし、汗ぐっしょりのキヨシは覚醒した。
状況が全く掴めず、頭を真っ白にしてふと横に目を滑らすと、心底から驚いた表情のカルロッタが目に入る。一瞬呆然としていたようだったが、
「びっ……くりしたァー、驚かすなよ」
「……ここは? なんでおたくがここにいるんだ」
「トラヴ運輸にアタシがいちゃおかしい?」
言われて辺りを見渡せば、なるほど確かにここはトラヴ運輸の休憩室。そしてキヨシが寝かされていたのは、いくつかの椅子を並べ置きしたもののようだ。
しかしそうなると妙なことがある。
キヨシは意識を絶つ前に、オリヴィー中央街で遭遇した黒衣にコテンパンにのされた上、ヴィンツ国教騎士団の長の技を受けた。
それならば、仮に向こうが我々を大罪人と認識していなかったとしても、衛兵隊の屯所なり、そういった公的機関に連行されているのが普通ではなかろうか? だからこそ、キヨシは意識を絶つ直前に絶望したのだ。
「……俺、どれくらい寝てた?」
「もう真夜中。それにしても……黙って街に行くだけならまだしも、またぞろ面倒クセーのを連れてきてくれやがったわね」
「おいちょっと待ってくれ。面倒クセー云々よりかティナとセカイは──」
言い終わるのを待たずすぐそばの扉が音を立てて開き、誰か入ってきた。そうして扉の方を見たキヨシは愕然とする。
「ティナならもう寝てる。それよりカルロ、ずーいぶん好き放題言ってくれるじゃない? 誰が面倒だって?」
「──なッ!? き、貴様ッ!?」
入ってきたのは、なんとキヨシを倒した黒衣その人だったのだ。
すぐさま臨戦の構えを取ろうとするが、『騎士団長の手管』の影響がまだ残っているのか上手く力が入らず、間抜けにも寝ていた椅子から転げ落ちてしまう。
「無理しなさんな。ジェラルド君の技もさることながら、私と闘ったんだからね」
黒衣のフードをゆっくりと外し露わになったその顔は、ティナほど"生き写し"めいてはいないが、やはりセカイによく似ていた。
「……"母さん"と闘って、よく無事でいられたわねぇ。悪運尽きない男だわ、ホント」
「全然無事じゃねえし、悪運とはどういう……え、何"母さん"? 誰が? 誰の?」
キヨシが頭上に疑問符を浮かべまくっていると、カルロッタは溜め息を吐きながら、
「この人。ティナとアタシの母親よ。アタシたちを連れ戻しに来たんだと」
「あなたね? 中央都でティナと一緒にいた男ってのは。その日にティナまでいなくなったって言うんだから私はびっくり、うちの亭主は怒りの頂点よ」」
「……マジィ?」
なんとこの黒衣、あの日以降失踪したティナとカルロッタを捜索していた、二人の母親だったのだ。そして彼女の言う亭主とは、第八衛兵隊隊長フィデリオのことだろう。
よく考えてみれば、向こうからすれば『我が娘が初対面の男を追いかけて失踪』という犯罪臭満天のヤバすぎる状況。人攫い呼ばわりもされようというものだ。
キヨシの中で、この黒衣については合点がいった。しかしそれではまだ半分だ。
「で、俺が衛兵隊のお世話になってないのは何故? その人攫いとやたらとフレンドリーに話してるし」
「ティナに感謝しなさいよ。嘘かホントかは微妙なところだけど、『きー君は人攫いなんかじゃない、悪い人じゃない』って必死に庇ってたから。情状酌量くらいはしてあげてもいいかなって思っただけ」
「……国教騎士団のお二方は」
「ジェラルド君たちは、元々休暇で来てたらしいからね。日付が変わる頃くらいまでここにいたけど、目を覚ましそうにないから取っていた宿に戻っちゃった。オリヴィーにはしばらく逗留するけど、この件に関しては当事者間で解決できるのもあって積極的には関知しないって」
「騎士団長様とも、結構フランクなんですね」
「昔、亭主を通じてちょっとね」
もう一つの方の疑問も、ごくあっさりと解消された。キヨシのことを"きー君"と呼んでいるということは、ティナというか恐らくセカイだろうが、とにかくキヨシたちは危機を脱することには成功していた。
「……そうですか」
しかしキヨシの表情は、そして心はどうにも浮かない。
確かに危機は脱した。しかし、それはあくまで『不幸中の幸い』でしかない。あの時、あのタイミングでティナとセカイを守れなかったという事実には変わりなく、それどころか逆に守られていた。
何が『それだけは絶対に守らねばならない』か。キヨシは己に課した最低限の誓いも守れなかったのだ。
沈んだ気分と不甲斐なさで、今にも押し潰されそうだ。
「すいません。まだちょっと気分が優れないんで、夜風に当たってきます」
キヨシは溜息を吐きながら立ち上がる。まだふらつく足を引きずって壁に手を突いて歩き出し扉の前に立った瞬間、今日の出来事がフラッシュバックする。
特に、あのガーゴイルと対峙した瞬間のドス黒い自分をだ。
「……はっきりさせておきたい事柄が、ある」
「何よ」
「俺は旅行者で、この国の内情については詳しく知らない。法令についても。なので聞いておきたい。特に、アレッタさんがいないこのタイミングで」
こんな質問をアレッタが聞いたら、気分を害するに決まっているからだ。
「人間が亜人種を殺そうとした場合、罪に問われますか」
「当たり前でしょ」
異口同音に即答だった。
「……そうですよね、当たり前だ。当たり前……。何言ってんだ俺は、恐怖と緊張でマジにどうにかなっちまったのか」
キヨシの中にあったのは、ガーゴイルの口封じを敢行しようという考えを持った自分を正当化しようという、薄ら汚らわしい希望的観測だ。『ソルベリウム払い』と同じように、『どうしようもない、仕方ないこと』として片付けようとしていたのだ。
そしてそんな自分がいることに気付いた時、キヨシの心はとことんまで打ちのめされてしまった。
「チクショウめが……」
精一杯の自嘲を込めてそう呟き、キヨシは休憩室を後にしたのだった。
──────
夜空の黒は、キヨシの心をそのまま象徴しているかのように暗く深かった。
オリヴィーの爽やかな夜風は木々を騒めかせ、慰めるようにキヨシの頬を優しく撫でる。しかしキヨシの心は沈み切ったままだ。
──俺は一体、どこまで落ちぶれていくんだ。
それくらいなら、いっそこのまま消えてしまいたい。キヨシの飾らない願望だった。
「ちょっとキヨシ」
背後から聞こえたのは、思考の沼にズブズブと沈んでいくキヨシを、半ば無理矢理に引っ張り上げる声。
「カルロッタさんか」
「こっちも聞きたいことが山とあるのに、勝手に出てくんじゃねーっつの」
事が動いている間トラヴ運輸で待機していたカルロッタは今まさに何が起こっているのかについては理解できておらず、キヨシの方から一方的になんだかよく分からない質問をぶつけられただけ。
詳細を聞こうとするのは自然だろう。
「……で? どういう経緯で迂闊にも国教騎士団と遭遇した上、母さんにボコられる羽目になったワケ?」
「それは──」
そうして家トラヴ運輸を離れてからの紆余曲折を説明しようとしたその時、
「きー君がティナちゃん泣かせたァーッ」
「ギャッ!?」
いつの間にか背後の木に、逆さにぶら下がっていたセカイが二人の間に割って入った。




