第二章-3『満身創痍』
有翼の少女の鼻歌は心底から嬉し気に跳ねて、夕暮れの風に乗って一行の耳を心地良く撫ぜていく。
キヨシたちはハルピュイヤ族の少女、アレッタに連れられてオリヴィーに入り、彼女の住まいへと向かっていた。『砂漠よりずっと暑い場所』と聞いていたのだがそのようには感じない。キヨシはこれまでオリーブの香りを意識して嗅ぐ機会はなかったが、こうしてオリーブの畑の脇を通るだけで、『ああ、これがオリーブの香りか』と自然に感じることに、どこか不思議な気持ちになっていた。
不思議といえばもう一つ。
「こういう田舎にも、やっぱあるんだなあ」
「当然よ。この国の基盤が創造教なんだから」
この一週間である程度見慣れてきたが、一つの街にいくつもの教会がそこら中にあって、頻繁に集会が開催されているようだ。あんな風にわざわざ教会に足を運ぶような人というのは、熱狂的な信者であるワケで、信仰の自由が認められた場所で平々凡々と生きてきたキヨシはある意味、亜人種以上に物珍しい目で見てしまう。
「そっちじゃ、ああいうのは見ないの?」
「俺の周りでは見たことねえな、なくはないんだろうけど。俺の国じゃ宗教絡みは結構大らかで、信仰の自由ってもんがある。無論、無宗教もな」
「うわ、羨ましい。そっちに移住する方法も探そうかな……」
「よせよせ、隣の芝が青く見えるだけだって」
「へえ、そーゆー言い回しするんだ。こっちじゃ『隣の畑は豊作』って言ったりするのよね……気に入った! もっと他にない?」
「カルロッタさん、さっきから何の話をしてるの?」
こっちの事情を何一つ知らないアレッタには、会話の内容がよく分からなかったようだ。とはいえ、別に説明してやることもない。そもそも、信じてもらえるかどうかも微妙なところだ。
「そういえば、こっちの自己紹介がまだだったな。俺はキヨシ……特別背景はないぜ。そんでこっちが」
「セカ──」
「アタシの妹のティナ! うん、そうティナ!! 前に話したことあるでしょ、『前髪長い妹がいる』ってさ」
「ちょ、カルロッタさん! き、きー君」
鬱陶しい前髪を首を振って払いのけ、カルロッタの説明に対する訂正を求める旨をつぶらな瞳でキヨシに訴えるセカイだったが、
「……うん、ティナちゃんね、ティナちゃん」
「きー君んんんんーーーっ!!?」
──スマン、セカイ。説明しちゃうと色々面倒を生みそうだし、そも信じてもらえるかどうか……。
もちろん、セカイについてもだ。
彼女のことをアレッタに説明するということは、順を追っていくとキヨシの右手についても説明していくことになる。そこだけ虫食いにして説明してもかえって気になって追及されること請け合いだ。『ちょっと別の人格が云々』とだけ話すのも、ティナ本人の名誉にもかかわるだろう。説明せずに済むならその方がいい。
「へー、この子がそうなのか! 小っちゃくて可愛いなあ」
「小っちゃい言うなあっ!!──もがっ」
「まあまあまあまあ落ち着けよティナちゃん……お前ちょっとこっち来い」
「ゴメンアレッタ、ちょっと待ってて……」
キヨシはがなるセカイの口を押さえ、キョトンとして立ち尽くすアレッタに声が届かないよう、引き摺るようにカルロッタと共に少し離れたところまで移動した。
「ぷはっ……もう、無理矢理だなんて、きー君ってば大胆♥️」
「やかましゃあァァァーッ! アンタそろそろティナの体を間借りしてるって自覚持て! アンタが変なことすっとティナに迷惑かかるって分かんないの!?」
「えー、だって私本当は小っちゃくなんかないのにぃ……」
カルロッタの憤慨も何のそのといった様相。カルロッタが言って聞かぬならば、キヨシが言うしかない。
「お前がまあ色々デカいことは俺が知ってる、それで十分じゃないか。頼むから大人しくしててくれ、俺も結構肩身狭くなるからさ。というかそろそろ引っ込んでくれ」
「……はーい」
セカイは若干不貞腐れているようだったが、『まあ、きー君がそう言うなら』と不満気に口を尖らせ、渋々引っ込んでいく。とにかくキヨシが言えば聞くという性質を今のうちに知ることができて良かったと、そうでなかった場合の未来を想像して安堵の溜息をついた。
が、引っ込むと同時に肉体を制御する心が不在になったためなのか、その場にふっと倒れ──
「うおっとォ!?」
そうになったのをキヨシが慌てて抱きかかえるが、遠くで見ていたアレッタからすると、青年に無理矢理連れて行かれた少女が何か叱られて意識を失い、という状況。
「……おーい、何もそんな気絶するほど叱らなくても」
「あー違う違う違う、違うんだぜアレッタさん! クッソ、毎度毎度セカイが出入りする度に気絶するのどうにかなんねえのか!?」
セカイはこれまでの逃亡生活中に何回か出てきたが、もう一度ティナが起きるまではこれだった。キヨシとしてはセカイと話す時間は楽しいし充実している。しかし毎回これでは先ほどキヨシが言ったように、どんどん肩身が狭くなっていく。ティナは「気にしていない」と言ってくれているのだが、それが逆につらい。
まあ、今考えていても解決策など出るわけがない。今のキヨシはそういった不可思議な現象についてまるで無知なのだから。なのでとりあえずそれについては棚上げとして、ティナの体を背負ってアレッタの方へと戻ろうとした時、
「キヨシ」
カルロッタに呼び止められて振り返ると、カルロッタはどこか納得がいかないような顔でキヨシ──というよりは、ティナをじっと見ていた。意図を察したキヨシは、
「俺がおぶるよ。おたくは無理するな」
「……アタシが──」
「まだ本調子じゃないんだろ? さっき崖で俺を受け止め損なったのも、そういう理由でしょ。砂漠越えだって、相当キツかったはずだ」
「ぐ……」
実はカルロッタは一週間前の一悶着の際の、チャクラの使い過ぎがかなり尾を引いているのだ。常に体は気怠く、足取りは重い。魔法もボロボロの土塊を生成するのがやっとといったところ。生成する土をごく小さく絞れば堅牢にもなるだろうが、カルロッタの使役する精霊はドレイクのように融通が利かないため、『加』ができても『減』ができない。
キヨシはカルロッタの魔法の豪快さや強靭さを、戦跡の森で身をもって味わっている。味わっているが故の気付きだった。
「無論、気持ちは分かる。妹は大事だろうってことも」
──これまで素通りしてきた、妹の気持ちを汲もうとする『贖罪』の意識があるだろうことも。
そう、味わっているが故の気付きである。が、わざわざ口に出すことでもあるまいと、キヨシはその言葉を飲み込んだ。
「とはいえ、休息は大事だぜ。ただでさえ心休まらない逃亡生活が続いてんだ、こういう細かいところで養生を──」
「キヨシさんだって」
自分の耳元で聞こえる少女の声にキヨシの心臓が跳ねた。
「……いつから起きてたんだ」
「キヨシさんだって、身体中傷だらけなのに」
「……俺はいいんだよ。根性論じゃないけど、そんな大した傷じゃない。千切れた指は生えたしな」
いつの間にか意識を回復していたティナに向かって軽口を叩いて笑って見せると、ティナは半ば呆れた様子で、
「もう……私も大丈夫、自分で歩けます」
意識を取り戻したことでキヨシの背から降りたティナは、アレッタの方へと駆け寄って頭を下げた。セカイの非礼を代わって謝罪しようとしているのだ。当のアレッタは何が何やらさっぱりに思えるが。
そして、それが済むとローブを一際目深に被り、追いかけてきたカルロッタの後ろに隠れてしまった。やはり人見知りか。
「……〜〜〜〜ッ、やっぱ可愛いなァーーーーッ!!」
どうやらアレッタの中でティナは小動物的なアレに落ち着いたようで、素早く近付きふわふわの羽毛でティナをもみくちゃにする。恐らく愛情表現なのだろう。
「ティナちゃんってさ、その……アレだよな」
「……うん」
二人の胸の内に去来する思いは様々だが、『ティナがいい子』であることに関しては口には出さずとも一致していた。
──────
「アレッタさん、その、失礼かとは思うんだけど」
「なーに?」
「おたくん家デカくね?」
目的地に到達したキヨシの感想はこれだ。ティナも面食らっているのか、前髪の下で目を丸くしている。カルロッタは見慣れているのか、意に介していない様子だったが。
まずキヨシが言ったようにデカい。キヨシが元いた世界で卒業したどの学校の体育館よりも大きく、家というよりは何かの施設のような印象を受ける。そしてとにかく広く、アレッタと同じ有翼の女性が何人も飛び回っていた。何人かはアレッタの存在に気付いて「おかえり」だの「給料上げてくれ!」だのと挨拶をしていた。そんな色々な意味で気圧されるキヨシの問いを、アレッタは首を横に振り、
「ここは私ん家じゃないぞ、ここは私たち『トラヴ運輸』の倉庫だ」
「運輸? おたくは運送業で生計立ててるのか?」
「この街はオリーブ栽培が特に盛んだけど、それを色んな所へ運べなきゃ意味ないだろ? オリヴィー住まいのハルピュイヤ族は、皆そうやって生きてるんだ。このなりは農業とかそういうのは不向きだしな」
大きく発達した翼と引き換えで退化した手を見せびらかすようにバサバサと振るアレッタを見て、なるほど確かにとキヨシは膝を叩いた。つまりここは言うなれば運輸会社の集荷倉庫のようなもので、この街の運送物が集約されているのだ。そして今倉庫内を飛び回っているハルピュイヤたちは、集荷作業中というわけだ。
「なるほどなるほど、理に適ってるな。ところで、今おたくに賃上げを要求してきた人がいたと思うけど、ひょっとして……」
「おう、私がここの代表みたいなもんだぞ! 凄いだろ!」
「マジィ? ちなみに歳いくつなんだ?」
「十九」
「俺の一個下じゃないか! その歳でスゲーなァ」
──────
「で、こっちが私ん家な」
「いや代表の家ちっさくね!?」
倉庫を出てすぐそばのアレッタの住居は、人が住んでいるかどうかも怪しい突貫工事で建てた『掘っ立て小屋』のようなものだった。いや、アレッタを含めた四人全員が寝泊まりする程度ならギリギリ耐え得る大きさではある。あるが、『小さい』というよりは『ショボい』。
総じて、必要最低限以下の設備等は完全に削ぎ落した造りと言えるだろう。
「キヨシさん、ダメですよ。これからお世話になる場所なのに、失礼じゃないですか」
「全く、礼儀がなってないと一生損するわよ。アタシも大して人のこと言えないけど」
キヨシの口を突いて出た一言をティナとカルロッタが咎める。やはりいい子、キヨシなどよりもずっと人間ができている。
「その、なんだ……代表っていうくらいだから、てっきりもっと栄えた街のど真ん中とかに……なんというかスマン、アレッタさん」
「なんで謝るんだ? だって、小さいのは本当じゃん。分からないこと言ってないで上がりなよ、そしたらメシ食べに行こうぜ」
「あっハイ、どうも……。やっぱこの人スゲーな、色んな意味で」
キヨシは世の中色々な人がいるというのは現実も異世界も変わらない、ということを実感しつつも、今回はただ運が良かっただけだと自分を戒めるのだった。
ただ、キヨシの口から『栄えた街』というワードが漏れたその一瞬だけ、アレッタの表情が曇ったことに今この場の誰も気付いてはいなかった。