第三章-100『恐怖を抱えて走る』
──私は、どうしてこんなところにいるんだろう?
「ティナちゃーん」
【……──────】
「ティーナーちゃーん」
【……──────】
「ティナちゃんティナちゃんティナちゃんティナちゃんティナちゃんティナー、ちゃんティナ」
【……あ、はい。何か言いましたか?】
「身体中ダルいの、ティナちゃんの仕業でしょ。気落ちしすぎで身体も動かないんですけれどもー」
自室へと帰り着き、雨ほども勢いのないシャワーを頭から浴びながら、何度も何度も自らに問いかけ、反芻してきた疑問は、横からぺちゃくちゃと呼びかけてくるセカイの声で霧散した。しかし、すぐにまた頭に霧がまとわりついてくる。
ティナは、悩んでいた。
【……私にはもう、分からないんです】
「うん、私も正直ワケ分かんないや」
【そうじゃないんです。セカイさんが言ってるのと私のは違くって……】
理解を超えた状況に、セカイは既にお手上げだった。無論、それはティナとて同じだ。だが、ティナが本当に困っているのは、そんな話ではない。状況も責任も、何もかもが重たくのしかかってくる。ティナの細く、小さな身体には余るほどに。
【アティーズが、国全部が酷い目に遭っているんだって思って、キヨシさんやカルロがきっと正しいんだって、何も考えずについていって……でも、もしかしたら本当は違うのかもしれなくって。私はもう、何を信じていいのか分からないんです】
「んー……だから、ついてけないって?」
【そ、それは】
「でもそうでしょ? きー君たちから離れて、今はこうして気持ち良くないよわよわシャワーを浴びてる私の中に引きこもってるし」
意地の悪い物言いで、グサグサとティナの心を突き刺すセカイの背後で、彼女を温かく照らしていた照明代わりの火が激しく輝いた。主がこうまでイヤミったらしく貶されているのを聞いては、しもべも黙ってはいられまい。
【…………ごめんなさい。弱虫で】
ドレイクとしては何か言い返してほしかったろうが、心がすっかり弱り切ってしまったティナには、こんな卑屈な返答が精一杯だった。
「……ハァ。もうッ」
もううんざり、といった様子でセカイは溜息を吐き、前髪を手でぐいと上げて、かすかに曇った鏡の前に立つ。そして、困惑するティナを他所に鏡に映った自分──いや、ティナを鼻先の触れそうな距離でじっと見つめ、静かに語り始めた。
ティナらしからぬ、そしてセカイらしからぬ、怒気のこもった表情で。
「あのさ、この際ハッキリ言っとくけど……。そろそろいい加減にしなよ。見ててイタい」
【ッ……!!】
「オイ、ニセてめェ。いつものことながら、あんま調子に乗んじゃね──」
「ドレイク君。今、大事な話してるから。黙ってて」
「あァン!?」
ついに辛抱たまらず口を挟んできたドレイクにも、セカイはまるで意に介さない。
「どうしちゃったの、ティナちゃん。今まで色々あった中で、振り絞ってきた勇気はどこいっちゃったのよ? 今回も同じことするだけじゃん」
【そ、それは……今まではただその場の雰囲気に…………】
「仮にそうだとしてさ。そうだったとしてもさ。化け物に襲われてる人を助けるなんてできるかな? 国の偉い人に楯突くなんてできる? 噴火してる火山に飛行機で突っ込むのは? ティナちゃん以外には絶対無理だよね?」
「リオナも一緒だったじゃねェか」
「ドレイク君、揚げ足取りたいだけなら本ッ当に黙っててくれる? マジで怒るよ?」
「おめェーなんかに怒られたって平気だもォーん」
「……──────」
「……ケッ。なァんだ、マジなのかよ」
まさしく『鬼の形相』といった面持ちで睨みつけられ、さしものドレイクもセカイの本気を感じ取ったのか、言うとおり黙って引っ込んだ。キヨシを超える毒舌で皮肉屋なこのトカゲも、これで結構弁えている。
「だからさ、ティナちゃんは絶対に勇気がないなんてことないんだよ。ただちょっと、こっちが正しいかどうか分からなくなっただけ。けど、実はそれが普通なのかもよ? これまではちょっと話通じない頭おかしい奴らが相手だったから、分かりやすかっただけで」
普段のセカイの言動を思うと驚くほど、的確かつ理路整然とした意見だった。
自分たちの正義が本当に正しいかなど、誰にも分からない。これは先のオリヴィー抗争にしたってそうだ。キヨシたちの行動はヴィンツェストの公益を損なう恐れがあるとして、一時はジェラルドたちに差し止められる事態になっていた。そのときはたまたま彼らの正義とこちらの正義が一致していて且つ、ドッチオーネ空賊団ひいてはロンペレという、分かりやすい絶対悪が存在していただけのことに過ぎない。
キヨシはそれでも戦い続けることを、ごくあっさりと選んでのけた。が、そっちの方がいくらか異常なのは間違いないだろう。
当たり前の話──ティナの方が普通なのだ。
【そう……かも、しれませんけれど】
「今すぐ自信つけろなんて言わない。ティナちゃんが怖いと思うのはもちろんだと思うし。けど、きー君やロッタちゃんも、迷わないにしても怖いとは思ってるんじゃないかなって。でもほっとけないじゃん? だから──」
【怖さを抱えて……走る】
「そゆこと」
怖くて当然。迷うのも当然。しかしそれでも、戦う。たとえそれが、この大仕掛けを施した善人の意志に背くことだとしても。
課せられたのはそんな選択だ。
【私に……できるでしょうか】
「できる。私がきー君の次に大好きなティナちゃんは、すっごく勇気があると思うけどなあ」
【へえっ!!?】
「ちょっとー、なんでそんなに驚きますかァーッ?」
【だ、だって! 大好きって、その……なんていうか…………?】
「勇気があって、力もあって、きー君のお友達で、何より私と一心同体のティナちゃんだよ? 大好きに決まってんじゃん。顔も可愛いし。髪で隠してるのチョーもったいない」
【え……えぇ~~~~~~?】
しかし何より驚いたのは、こういうストレートな告白かもしれない。いや、普段からキヨシへの愛をちっとも隠そうとはしていないのだが、それが自分に向けられるとは、つゆほども思っていなかったのだ。
驚きはした。
しかし、心が少し温かくなった。
「まだ元気でない?」
【あ……は…………?】
「もしもし?」
唖然としていたティナに、セカイはこれまでと打って変わった優しい声をかけた。思いっきり動転し、とにかく変としか言いようのない反応を返してしまったティナを見て、セカイは『もう一声ほしい』と判断したようだ。
「んー…………。よしッ」
意を決したような面持ちで、先程より少し軽くなった身体を動かし、セカイは姿見の前に立って鬱陶しい髪をまとめた。まだ少し心が戻ってきていないティナが呆然と共有されている視界を眺めていると、そこにはあらゆる角度で自分の顔が映っていた。セカイがティナの顔を、舐めるように見ているのだ。
「やっぱり、かわゆいお顔よのう。……フフフッ、食べちゃいたい。食べちゃお」
【へ】
突拍子もない台詞と共に、セカイは鏡にひたりとくっつき──そのまま、虚像に唇を重ねた。
【…………!?!?!?!?!?!?】
「んふっ……れぇ~~~~~~…………」
ちゅ、ちゅ、ちゅ、じゅるり、と。
内なるティナが声にならない悲鳴をあげているのも構わず、細い目でニマニマと笑いながら、セカイは虚像を舐め回す。唇が、舌が、艶めかしく鏡の上を這い回る度に粘着質な音が浴室に響き、二人で共有している心臓が跳ねた。
【セ、セカイさん、やめっ──!?】
「ぷぁッ……」
最後にぐっと押し付けるように、長い長いキスをすると、口周りに垂れた唾液を舐めとってセカイは笑う。
「御馳走様。意外とドキドキしちゃった。……ヤだァ、耳まで真赤になってるー!」
【セカイさん! そのっ……!】
「ンフフ。ゴメンね、嫌だった?」
【嫌、じゃ……ありません、よ。ビックリはしましたけど……】
「だよね。まだ心臓っていうか、身体中がドクドクいってるもん。嫌だったらこうはならないよねぇ。あ、でもこれキスには計上しないから! お互い初めてはとっとくということで」
【あう、ぅ……やめてくださいよ、いきなり】
「ん、じゃあ次からは先に言うね」
【もう! もう!!】
「元気出た?」
【出ました、出ましたから!】
「あぁ~~~~~~~~ん♡ ホント可愛い♡」
蕩けきった恍惚の表情で自らの肩を抱きグネグネと身を捩るセカイの様は、傍から見れば趣味の良いものとは言えまい。当人もそれくらいは分かっている。しかし、ティナ相手にならこれくらい曝け出してもへっちゃらとも思っているようだ。
どういうワケなのか、ティナはそれが少し嬉しかった。
それは恐らく、自分のことを気心知れる仲だと思ってくれていることが伝わったから。少し前まで、親にすら一歩引いた距離感を保っていたティナにとって、ドレイクやカルロッタと同じくらい密接な──いや、身体を共有しているという意味ではそれ以上の関係を持つ人がいるのは心強かったし、何より素敵なことだと感じていた。
あの人とも、そんな関係になれたら──────。
【私。キヨシさんとまた会ったら、もう一度話してみようと思います。まだどうするかはハッキリ決められないけれど……】
「うんうん。それがいいよ」
「今話しゃイイじゃねェか。話せるだろ?」
「もう、馬鹿だなあドレイク君は。こーいうのは直接話すのがいいんだよ。ねー、ティナちゃん?」
【『ねー』って……。ふふっ、でもそんな感じかな】
「そーかよ。……オイ、今俺ちゃんのこと馬鹿っつったかコラ」
「言ったよーだ。謝ってほしかったら、私のこと『ニセティナ』って呼ぶのやめてね」
「チェーッ、居候のクセに態度デカくなったもんだよなァーッ。元からそうだけどよ」
「デカいもーん。色々とー」
馬鹿話をしながら浴室を出て、ふかふかのタオルでわしゃわしゃと頭を拭くセカイを見かね、ティナが交代しようとしたそのときだった。
戸を叩く音が、部屋に響いた。
「あ、噂をすればかな?」
【え? もうですか?……ってセカイさん、服!! 服を着てください!!】
「なんで? たぶんロッタちゃんかジーリオさんでしょ? 今日休みなんだし」
【キヨシさんいたらどうするんですか!】
「いいでしょ、見られるの初めてでもなし」
【そういう問題じゃないですからぁ!】
正直なところ──すっかり気が抜けて油断していたと、後々本人たちは認めて反省せざるを得なかった。ティナもセカイもいくらか気が楽になったために、ドアを開けるその時まで気付かなかった。
王宮内に敵がいることが明らかという状況で、関知している範囲の訪問者を、キヨシが事前に念話で伝えてこないワケがないということを。
ドア一つ隔てた先にいる者が、キヨシの想定にないということを。




