第三章-89『前兆』
しばらく経って全てのソルベリウムを処理し、隠し度の修復も済ませ、セレーナとマルコがマノヴェルを連れに地下へ降りている間のこと。
それは突然やってきた。
「あ、いた! ちょっとティナちゃん!!」
「あっ、カプリアナさん……!」
ゆっくりと開いたドアから、怒り心頭といった面持ちで入室してきたのは、名前は初めて聞いたが、キヨシも何度か見たことのあるティナたちの同僚。特につるんでいる三人のうち、可愛いもの好きのキャピキャピとした人だ。
同僚に出くわしたティナの表情は思わしくない。というか、まさしく真っ青も真っ青といったそれだった。カルロッタも額に手を当ててがっくりと項垂れている。となると、おおよそ事情は見当がつく。
「あっちゃあ……そりゃあ仕事中だったよなあ」
緊急時故に向こうのことを考えずに必死で呼びつけてしまったが、ティナは今日、普通に使用人の仕事があったのだ。しかも夕食時間帯という特に忙しいだろう時間に突然飛び出してしまったようで、憤懣やるかたないのも当然だ。
「仕事ほっぽり出して、こんなとこで何してたワケ!?」
「す、すみませんでした! すぐに戻──」
「もうみんなで片づけた。ティナちゃんは丁度もう上がりでしょ」
「ええっ!? すみませんすみません本当に!」
「すみませんじゃなくて! 何してたって聞いてるの!」
必死で頭を下げて謝り倒すのも、むしろ火に油になってしまっている。カルロッタも業務の過酷さを知っているだけに、どうしても擁護ができないらしく、「あー」とか「うーん」とか唸ってなんとか言葉を捻り出そうとしている様子。
ならば、率先して泥を被りに行くしかない。キヨシはそう考えた。
「悪いな、使用人さん。俺が呼びつけてたんだ」
「……どうやって? ティナちゃん、突然思い出したみたいに出てったけど」
助け舟を出したつもりが、ズバッと痛いところを突かれてしまった。しかし、これくらいは想定の範囲内。
「この時間にアトリエに来るようにと言いつけていたんだ。ただ一日勘違いしてた。休みの日は明日だったんだな」
「明日も休みじゃないけど」
「あ、マジィ? まあそこそこ重要な用事だったんで。強めの物言いをしちまったから、この子も断れなかったんだろ」
「……ふーん」
「改めて、本当に悪かった。全面的に悪いのは俺だから。今度菓子折りもってそっちにお邪魔するよ」
「……──────」
「あ、あの……」
と、格好をつけてはみたものの、やはり叱られるというのは怖いし気が重い。知己が叱られているというのもそうだが自分が叱られるとなると、より一層だ。しかも嘘八百の言い訳が、カプリアナはどうにも腑に落ちないようだ。嘘八百なのだから当たり前だが。強いて本当のことがあるとすれば、キヨシが全面的に悪いということぐらいか。
ただ、バレることはないという確信はあった。そもそも念話なんてインチキ中のインチキが露見するなんてことは、普通は有り得ない。
「なんかよく分かんないけど、埋め合わせはするってことね」
「お、おう。重ね重ね申し訳ありませんでした」
菓子折りという文化、風習が通じたかは定かではないが、とにかくこの場はなんとか収めることができたようだ。重ね重ね深々と頭を下げるティナを尻目に、カプリアナは黙ってアトリエから出て行った。と同時に嵐が去ったような安堵感から空気が弛緩して、一行は皆一様に肩を落として溜息を吐いた。
「いつもこんなノリで叱られとんのけ?……って、んなワケねえわな。セカイか? セカイが無茶ばっかしてんのか?」
【ちょっ、きー君酷くない!?】
「いえ、決してそんなことは。セカイさんには、いつもお世話になってますよ」
【だよね! でもでも、ティナちゃんにもいっぱい助けられ──】
「無茶してるのは本当なんですけれど……」
【ちょっとォーッ!!?】
アホの子はともかく、いつもこんな調子で叱責されているのかというとそうでもないらしい。そのことについては、以前の議会直前に気兼ねない友人同士の間柄を構築している様を目撃しているので、変に気を揉むことなくすんなりと信じることができる。だからこそ、今日の様子は異様に感じられた。
「……なーんか荒れてたわね」
「まあ突然仕事押し付けられちゃ無理もねえよ。お前も似たような状況でセカイにキレてたろ」
「けど、あの子……ていうか皆ティナのことはスゴく可愛がってるのよね。というか、仕事の合間にアンタの様子見に行ってたときでさえにこやかで」
「事情が違うだろ? 俺の療養が終わってもうずいぶん経つし、いつまでも甘ったれたこと言ってんじゃねえってことじゃねえか? 多少なり我慢もしてただろうし、どんなに可愛くても憂さが溜まって当たり前だって」
「それもそうか。アタシも気を付けないと」
そこそこの人数で回している職場とはいえ、一人抜けた穴を埋め合わせるのにかなりの労力が伴うということは、カルロッタも体験済み。明日は我が身とでもいうのか、社会人として襟を正すいい機会だったかもしれない。もちろん、奴隷労働に従事しているキヨシにとっても、決して他人事ではない。
「あ、あの!」
「ん? どうした」
などとある種の決意を心に刻んでいた矢先、何か意を決したティナがキヨシに声をかけた。突然どうしたと問おうとした直前、キヨシははたと用事を思い出した。
「あーそうだ、今日色々とショッキングだったからすっかり忘れてた。頼んでたことがあったな。悪いね、猫絡みで張り切ってもらっただろうに、正直つまらな──」
「そのこともそうなんですけれど! えっと……」
いやに歯切れ悪く、煮え切らない態度で俯くティナにキヨシは困惑する。唯一の心当たりが微妙にズレているとなると、何のことやらさっぱりだ。こうなるとただ黙って聞いているより他にない。
【ティーナちゃんっ。頑張って】
その上セカイが何やら激励しているのも聞こえてきて、いよいよキヨシはますます困惑。何を言われるのやらと身構えていると、ティナは先程のカプリアナに対するそれと同じくらいに深々と頭を垂れて、
「ごめんなさい! 一昨日は私、キヨシさんの気も知らないで、あんな……」
ここまで言われても、キヨシはティナが何を気に病んでいるのか理解できなかったが、彼女の言う通り一昨日まで記憶を遡ってようやく得心した。
「ああ、勝手口でのことね。なんだ、まだ気にしてたのか」
「へ?」
「ありゃ俺が無神経な物言いをしたのが悪かったんだって。いやはやお恥ずかしい、むしろ忘れてくれた方がありがた……おうい、聞いてっか?」
口をぽかんと開けて呆然とするティナの眼前で、キヨシが手の平を振ると、彼女は気恥ずかし気に後ずさり、そっぽを向いてしまった。
【ねー? 人にはこう言うクセに、本人は一生引きずるんだよ。さっきのこともさ。もっとスカッと生きればいいのに】
「あ、あはは……」
「ん?」
キヨシが怪訝な顔をするのも仕方がない話で、ティナが勇気を振り絞って謝罪した出来事は、キヨシにとってとっくに過ぎ去った過去と化していた。しかもとことんまで自己評価が低い故に、悪いのが自分一人だと勝手に思い込んでいる上、他人には忘れろと言いながら自分の心の片隅には残し続けるのだからたちが悪い。
取扱注意とはこのことだ。
「して、頼んでた件はどうだった?」
「あ、そうですね。えっと──」
「儂も聞いておいた方が良い話か、それは」
「お、爺さん。やっと来たかい」
セレーナとマルコがマノヴェルを連れて戻ってきた。確かにマノヴェルには聞いてもらった方がいい話、丁度いいタイミングだ。
せめてこの時。この時気付いてさえいれば──。
この時、キヨシたちはカプリアナの説教を既に忘却の彼方に追いやっていた。しかしこれが災禍──キヨシたちの苦境が本当に始まるターニングポイント、その前兆になるとは、この時は誰も知らなかった。




