第三章-86『母なる罪』
「賊か?」
「ああ。王宮内で、しかも議会員の部屋に入るなんて、命知らずだけどな……」
陽の落ちた時分。静寂に包まれた、鍵がこじ開けられたアトリエ。不審に思って入った先で見たのは、破壊された壁と、どこまで続いているやら分からない地下行きの階段。警らの国防兵二人が驚くのも無理はない。
「でもヤバイぞ。警備を誰にも気付かれずに抜けられたなんで知れたら、恥の上塗りだ」
「上塗り?」
「げッ」
何の気なしに放った、本当にちょっとしたボヤキを聞いた同僚が、睨み殺さんとばかりの視線を突き刺してくるのを感じ、警らの男は思わず潰れたような声を漏らす。
「何が恥なんだ、言ってみろ」
「い、いやあ。ホラ、俺たちもうすぐ国防兵になって一年だけどさ。兵士っぽいこと特にしてないだろ? 諸先輩方もそんな感じだろ? 模擬戦最優秀のフライド先輩でさえそうなんだし」
「その兵士っぽいこととは?」
「そりゃもちろん、戦うってことさ。皆言ってるじゃん。国自体がクソ貧乏なのに、出番のない兵隊にかける金がもったいないって」
「兵士が活躍するというのは、それつまり有事。ないに越したことはない」
「そりゃそうだけどさあ。あーあ、もうちょっとだけでもいいから、ちやほやされたいよォ」
「そんなもの期待して務まるか。全く」
こういうのも、世知辛いと表現するのだろうか。
アティーズは極めて安定した国だ。国同士の争いはしばらく経験していないし、国内も──実際はそうでもないことを彼らが知る由もなかったが──不満分子、反乱分子の動きはなく、まさに平和そのものと言える。しかしそういう情勢で、真っ先に世論の槍玉に挙がるものの一つが、彼ら兵隊の維持に使われる血税だ。
政を執行する側としては、当然手を抜けない。今日の平和が明日乱れない保証など、どこにもないからだ。一方国民からすれば、平和な国の兵隊に使われる予算は無駄と取られる。それも仕方がないことと分かってはいるのだが、愚痴となってどろどろと吐き出されてしまったのだ。
確かに、並大抵の覚悟では務まらない仕事と言える。
職務への情熱を失った同僚に呆れ果てて溜息を吐きつつ、懐から兵士招集用の笛を取り出したそのときだった。
「御二方。お待ちになって」
通路の奥から出てきた女性に動揺した警らの手から、笛がするりと滑り落ちていく。
「せ、セレーナ様!」
「あら、ここは私のアトリエですよ? 私が出てきて、何をそんなに驚くことが?」
「そ、それは……いえ、これは一体!? それに、その隠し通路は──」
「なんでもありませんよ?」
「な、なんでも!? しかし──」
そんなワケがない。そう言いたげな警らに向けて、セレーナは語気を少し強めて、
「私は、なんでもないと言いました」
そうは言われても、そこら中に散乱している瓦礫を見るとそんな風には思えない。どういう方法かは計り知れないが、明確に誰かの意志で破壊されているのが見て取れる。それを『セレーナ様が言うのだからまあそうなのだろう』で流すことなどできはしない。国防兵全体への共有のみならず、臨時で議会を開き、対策を協議して然
「あ……ぅ…………」
まあよくよくかんがえてみればそこまであせるようなことでもないかもしれないほんにんがそういっていることだしそもそもなにがもんだいなのかもだんだんわからなくなってきた。
「持ち場に戻りなさい」
「は……は、い…………?…………」
さてセレーナの言う通り、警らの仕事を放棄して油を売ってなどいられない。今日も愚痴を吐きつつも、今ある平和を守るため、国防兵は警らの任務に戻っていくのだった。その心中からは、この部屋で見聞きしたことなど丸ごと抜け落ちてしまっていたが、思い出せないということは、きっと大したことでもないに違いない。
部屋を後にした二人の背中を見送ったセレーナは、心からの満面の笑みにより吊り上がった口角を、手で無理矢理元の位置に戻す。そして振り返った先、地下に続く通路をしげしげと見つめる。
──私一人だと、今日はこれくらいが限界ね。それにしても……キヨシたち。思ったよりも、この部屋に辿り着くまでが早かった。ジョーが頑張りすぎているところはあるけれど、もしかして本当に近々で……。
自分の心中、巡らせていた思考にセレーナはハッとした。
──結局、私も人を使って……。これが本能だとは分かっているけれど、やはり抗えないのかしら。これではまるで……。
アトリエの鍵をかけ直し、先の笑みとは打って変わり自嘲に染まった乾いた面を下げて、セレーナは今しがた昇ってきた階段を再び降りていく。そして乾いた面は、みるみる自己嫌悪──いや、それ以上の『自己憎悪』で染まっていった。
彼女は、自分がどういう存在かを知っている。
忌むべき性。呪わしき本能。それを生まれながらに持っている、社会にとって害悪なる存在。抗って抗って抗って抗って、ようやく人並み。
それが自分。これがセレーナの自己認識。
──……忌まわしい。
こんな奴、苦しんで死んでしまえばいい。セレーナは自分のことを本心からそう思っていた。だが、死ぬワケにはいかない。死ねないのだ。
少なくとも『彼』を殺すまでは。そのために必要なことであれば何でもする。そう決めたのだ。キヨシに絵を教えるのも、議会の重鎮として国政に携わるのも、パトリツィアの親代わりをすることに至るまで、全てはそのために──
──皆の目で見て、私はどう見えましたか?──
──母親の役を、務めを、果たしているようには見えていたでしょうか?──
「何故私は、こんな質問を……?」
目的達成のために必要なことは何でもする。だが、こんな質問は全くもって必要のないものだ。あの時、場の空気と勢いで口を突いて出てしまったこの問い。どうして出てしまったのか、自分にも理解できない。というか、そもそも少し前からどうも調子が狂うことが多い。
いつからか? それは分かっている。
同じくらい自己評価の低い青年に対する、単なる共感だろうか。
彼の人となりを知ってからというもの、自分の中で、決して変わるはずのない何かが変わり始めているのをセレーナは感じている。それが何なのかも、やはり分からない。
そう思うと、ほんの少し顔がほころぶ理由さえも。
セレーナは、自分で自分が分からなくなってきていた。




