第三章-85『眼鏡に適う?』
床から吹き出ていた水が、蛇口を閉めたようにピタッと収まる。戦いの終わりを示す合図だ。
「……セカイ?」
「ジーリオさん超フカフカぁ。このまま寝ますみー……」
「はい?」
「むにゃ…………ぴゃあああっ!? すみませんすみませんすみませ──ぷふっ」
「いい抱き枕だこと。私も寝ますみー」
「えっ、ええ!?」
入れ替わりで出てきて、赤面しすぐさま跳ね退こうとしたティナを捕まえ、ジーリオはわざとらしく寝息らしきものを立て始める。あれが狸寝入りなこと、そしてどういうつもりでやっているのかなど誰の目にも明らかだろう。助平趣味の件と言い、ジーリオはこれで結構お茶目なようだ。
そうしていると、ギャラリーとして立ち合いを観戦していたマルコが近づいてきて、その辺に転がるソルベリウム片をしげしげと見つめ、
「しかしなんだね。どういう理屈でここまでそっくりに創れるのか……」
「たぶん、セラフィーニさんのおかげだ。アトリエの講義で、解剖学やらなんやら少しかじったんだ。元々、多少の補完はしてくれる能力なんだけど、ちゃんと形やらが頭に入ってればそれだけ精巧に生成できる。俺は成長しているのだ」
「って、横倒しで言ってもねえ」
「ふん縛られて動けない奴に言われたかねえぜ」
「まあ、そう言われちゃ返す言葉もないわね」
「お互い様ってことで」
「へいへい」
一方の勝利者たちも、ジーリオと同じく地べたに倒れ込み再起不能となっていた。というか、倒れる姿すら瀟洒なジーリオと比較するのもおこがましいほど、間抜けな絵面なのは否めない。とはいえ、どういう形であれ、勝つことができたなら構わないだろう。アティーズでの日々が、確実に身になっているワケだ。こんな形で役に立つとは思っていなかったが。
「なるほど。で、解剖学というものは、ティナの容姿まで教えてくれるのかい?」
「どう答えても失言になるじゃねーか、やめなさいよ!」
「ハハ、それもそうか。失敬失敬」
カルロッタをがんじがらめにしているエプロンを解きつつ、キヨシをからかうマルコの顔には、久方振りの笑顔が戻っていた。他方、助け出された方はあまり気分が優れないらしく、深い、深い溜息を吐いて、
「やれやれね。いくら偽物っても、粉々になった妹ってのはちょっと、クるモンがあるわ……」
「俺も正直そう思ったんだが、すぐ思いついたのがこれだったんだ。ティナちゃんにも悪かった」
「あ、あはは……。けれど、これが最善だったワケですから」
ジーリオを欺くのに使ったティナの姿は、文字通り粉砕されてその辺に散らばっていた。見様によってはかなりショッキングな光景だ。仕方がなかったとはいえ、申し訳ない気持ちでキヨシの胸はいっぱいだ。
「ちょっ、キヨシさん!?」
「俺の故郷じゃ謝罪の際は、相手の頭よりも高い位置に頭を置いてはならんのだよ」
「ジーリオさん、離してください! なんだか胸のところがチリチリする!」
「仕方がないでしょう? 立てないのだから」
「ド、ドレイクぅ~……」
「エーッ、ジーリオさん様が火傷しちゃうのは俺ちゃん嫌だなァ」
「~~~~~~~~ッッッ!!」
そういうワケなので、額を地面に擦り付けて謝意を示すのも当然と言える。なんだか変な受け取り方をされているようだが気にしない。
などと緊張感なくイチャついていると、そそそっとこちらへ近づいてくる影が一つ。
「ご納得いただけたかしら?」
どこか貼り付けたような、薄っぺらい微笑みをたたえたセレーナが、おもむろにジーリオの顔を覗き込んできた。
「ええ。私としましては、彼らは信頼に足ると──」
「私は、貴方への信頼を、ほーんの少し、ちょっぴりだけ損ねちゃった。ウンディーネ様に助力賜って敗北するなんて」
「……はい。申し訳ありません」
言葉だけ聞けば、確かにセレーナの言うことも理解できなくはない。マノヴェルも近しい立場故の共感を覚えたのか、顎髭を弄りながら、ほんの少し頷いている。いくら三人がかりとはいえ、国の守護神の加護を受け、余裕たっぷりの態度で戦って敗れるというのは、醜態と言えば醜態だろう。
傍から見れば、だが。
「セラフィーニさんや。諜報部隊が甘かねえのは分かってるけどよ、この人メチャクチャ強かったですぜ。こんな強ええ人たちに守られてんなら、この国は安泰さ」
しかし、実際に戦った人間としては、見解が異なる。
ウンディーネの力が理外のそれなら、キヨシの右手の能力、そしてセカイの『手管』とて同じこと。その上、例によって袋叩きで倒したに過ぎない。
「それによ。フライドさんに実戦の厳しさを説きつつだけど、マジにブッ殺そうと思ったら、他にやりようはあったはずだ。アレマンノさんの本気ってのは、まだまだ……」
と、このように。本当にキヨシたちを殺そうと思えば殺せたタイミングは、戦いの中で何度かあったと思われる。これはあくまで腕試し。腕試しと仕事の本気は全然違うのは、誰にでも分かる話だ。『それが分からないセレーナ・セラフィーニではあるまい』と、キヨシは圧をかけていた。ジーリオが過小評価されると、それを倒した自分たちの評価も下がりかねないという事情もあるが。
「ま、余裕綽々の鼻っ柱へし折れて、気分良くないかと言われれば嘘になるケド」
「もう、キヨシさんったら……」
結局は鼻で笑いながらこんなことを言ってしまうあたり、やはり品性はひん曲がっている。後ろで『アタシも言いたいけど弱味握られてんだよなァ』と考えている、カルロッタも含めて。
受けてセレーナの微笑みは作り笑いではなく、心からのそれとなった。
「ウンディーネ様にも謝罪しておくように。それと、事が済んだらしばらく、仕事終わりにこの部屋に来なさい。一からみっちりと仕込んであげましょう」
「うえッ、ご愁傷様……」
いや、その心からの笑顔が逆に怖いかもしれない。アトリエで教示を受けている身からすると。
「む。……何?」
半ば和気藹々とした空気の中、マノヴェルが突然、誰かに話しかけられたかのような反応を示し、
「セレーナ。気取られておるぞ」
「あらぁ……いけません。全員、ここで待機してください」
何かの忠告を受けたセレーナが、内容の割に緊張感のない気の抜けた声を上げ、来た道を足早に戻っていった。キヨシたちには、何がどうなっているのかさっぱり分からない。とはいえ、マノヴェルが誰に話しかけられたのかについてだけは、およそ見当がつく。
「今、ひょっとして?」
「ああ、ウンディーネの奴がな。分かっているとは思うが、お主らの戦いも始終見ておった」
「意図せず守護神様の御前試合になったってワケか。お眼鏡に適えばいいんだけどもね。あ、ガッカリしてませんようにってことね」
「安心せい。二転三転する戦況に、そこそこはしゃいで観戦しておったわ。全くうるさいったらなかったわ」
「あ、そうなの? それでずっと黙ってたのか。んで、気取られたってのは?」
「そんなモン決まっておる。この隠し部屋のことじゃ。ただの国防兵らしいが、知られるワケにはいくまい」
「えッ、マジィ!?」
「やっぱ防音機構ブッ壊したのはヤバかったか。ゴメン、ジーリオさん」
「いえ、この程度で外部に悟られるとは思えない。肝心の防音も、ウンディーネ様が再構築してくださったようだし……?」
ティナの頭を撫で回しながら、ジーリオは怪訝な顔で小首を傾げていた。再構築というのは、吹き出ていた水がひとりでに鎮まったあたりがそうなのだろう。しかしそうなると、国防兵に隠し部屋が見つかる道理はない。アトリエに毎日通っていたキヨシでさえ全く気づかなかったような隠し戸が、そう簡単に見つかるとは思えない。よもや未だ正体不明の敵がすでに──という考えがよぎったが、
【あ、ここに来るときに入口蹴り壊しちゃった。メーンゴ☆】
「前から聞こうと思ってたんだけどさ、なんでどいつもこいつも入口を蹴破るンすか?」
そんな心配はないらしいことを、キヨシはすぐに悟った。もっとも、危機的状況には変わりない。
「国防兵のことであれば僕が──」
「放っておけ、セレーナが何とかする。それより使ったソルベリウムの後片付けじゃ」
「しかし」
「判断に従わんか。お前のように今日一日ぽやっとしておるのが、役に立つか」
「……はい」
何もそこまで言わなくても、と一言キヨシは言ってやりたくなったが、マルコが足早に作業に取り掛かろうと動き始めたのを見て止めた。
こうして、四肢に力が戻り始めたのを感じながら、キヨシはマルコが集めたソルベリウムを一つ一つ分解して、指で突き刺して処理していくのだった。




