第三章-73『通い妻?』
「こんなことだろうと思った!」
「あ?」
時は少し遡る。事の始まりは、難民群に移り住んだキヨシを、アマミヤ姉妹が訪ねて来た瞬間だった。
「え、何? 俺どう思われてんの?」
「こんな汚い部屋で過ごす気なんですかって聞いてるんです!」
「引っ越しを手伝おうと思ってアンタの部屋に行ったら、マノヴェルの爺さんが『アイツならもういない』って言うもんだから、まさかと思ってね」
この度、キヨシが元いた部屋──マノヴェルがかつて住んでいた部屋から移った掘っ立て小屋は、セレーナに曰く門出を果たした、つまり奴隷身分から脱却に成功した人が残したもの。しかしそれももう一年近く昔の話で、その間放置されていたためところどころ薄汚くなってしまっている。確かに、普通の人の感覚で言えば『さっさと掃除しろ』と一言言ってやりたくもなる有様だ。
無論、そんな環境を受容し、ござを敷いてゴロ寝を決め込む程度にくつろいでいることについても。
「いいじゃん別に、散らかってないし」
「荷物が無いから散らかりようがないだけでしょ、もう」
「いやあ、まあ……雨風さえしのげればいいと思ってるんだよな。あんまり環境が良すぎても、他の奴隷の手前アレだろ? 大体、寝る時以外はほぼ奴隷の業務で出払ってるし。寝に戻るだけなんだから」
「ダメですよ! 疲れて帰る部屋がこんなじゃ、気が滅入ります」
「ええ……めんどくせー」
「いいから掃除! 手伝いますからっ」
──────
「というワケだ」
「やっぱりおじちゃんのお母さんなんじゃねーの、この人」
「おじちゃんのお母さんって、なんかヘンな言い回しだな」
面倒臭い、と言っているところを口うるさくするところなど、まさに通い妻、あるいはジーノの言う通りお母さんとでも呼ぶべき風情。しかもこのティナという少女、控え目なようで案外頑固者なので、キヨシが言っても聞きやしない。ジーノもキヨシへの同情の念を禁じ得ない様子だ。とはいえ、キヨシはもう慣れているので、あまり同情されても妙な気分にはなる。
「キヨシさん、喋っていないでください! 力仕事はいいですからっ」
【怪我人さんは無理せず毎秒掃除しろォ~、にししッ!】
──ンだよ、セカイまで。
が、ジーノが絶対に窺い知れない苦労もあるので、やはり同情は沁みるものがある──かもしれない。
「力仕事は……って、怪我はもういいの?」
「ああ、その辺は医者からも大丈夫って聞いてる。でなきゃ、王宮の外に居を構えるなんて許されねえだろ」
「ふうん」
「あ、なんか心配かけてる?」
「ううん。奴隷の割にちやほやされてるなって思っただけ」
「ん? んー……まあ、そうだな」
「心配してる人はいたけどね。いらん世話だったって言っとくよ」
「ああ、そうしてくれると助かる」
実際、奴隷としてはかなり厚遇されているのは確かだ。あまり今の立場にあぐらを掻いて、ルサンチマンの対象となっては堪らない。故に、王宮にいる間もできるだけ質素な生活を心がけていたし、小屋もそのままにしておきたかった。
が、ジーノの物言いから察するに、努力の効果は薄いようだ。もっとも、王宮で静養などしていれば、大なり小なり抱える問題ではある。気にしていても仕方がない。
「キヨシさん、掃除!」
「だァーもう、分かった分かった! じゃあな少年。これ以上、寄り道するなよ」
「へッ、うるせー」
子供っぽい半笑いの悪態をついて、ジーノは出ていってしまった。とりあえず、嫌われていたりはしていなかったと見たキヨシは、大袈裟に溜息を吐いて、胸を撫で下ろす。
そして、先程自分が散らした埃を掃きつつカルロッタに、
「いやはや申し訳ない。別に、お前まで付き合うことなかったんだぜ?」
「あのね。理屈じゃそうでも、雰囲気的にはどうよ? わざわざここまで訪ねといて、身内の世話を妹に丸投げするってのは」
「ハハ……そりゃそうかもしれんけどな。しかしアイツ、なんだかここに来てから性格変わってねえか?」
「ここに来てからっていうか、ここで働くようになってから、かもね。あんまりもたもたやってると仕事終わんないし、下手な掃除してると、ジーリオさんに叱られるんだもん。アタシも部屋の汚れとか、ちょっと気になるようになったかもって自覚あるわ」
「余程キツイと見えるぞ。セカイにもなんだか、そういう気分があるもの」
「でしょうね。今思うと、実家のアタシの部屋って、案外汚かったんだなー……」
「そりゃ大変だな。しかし昨日の説教といい、出会った頃と比べると人間変わるモンだ」
『性格が変わった』とは、何も綺麗好きになった、というだけの話ではない。ティナとはこれまでも何度か、意見が食い違って言い争いになったことはあるが、昨日のような剣幕で、半ば一方的に叱られたのは初めてだった。初めて会ったあの頃の立ち振る舞いを考えると、凄まじいまでの変化と言える。キヨシは叱られた側なワケだが、それだけ打ち解けた、と考えれば悪い気はしなかった。
「確かにね。けどまあティナの場合、ああいう変化は初めてでもないから」
「そうなのか?」
「あっ……うん。まあ」
さらに以前を知るカルロッタからすれば、そこまで驚くことでもないらしい。キヨシとしては興味深い話だが、カルロッタの口振りからしてあまり触れて欲しくなさそうだと感じて、どこかその辺に興味を投げ捨てた。
何しろ、今はそんなことを根掘り葉掘り聞いている場合でもないのだ。
「おうい、ティナちゃんや。もういいって。あとは俺だけでも大丈夫だから」
「逃げようったってそうはいきませんよ」
「あのなあ……いや、というかお前には別の頼み事がある」
そこそこ片付いてなお、お仕事モードが抜けないティナにやや呆れつつ、キヨシはキヨシでお仕事モードの声色で話し始める。すると賢明なるティナは、キヨシの言わんとすることをなんとなく察し、声を潜めて、
「ひょっとして、例の件絡みですか?」
「おう。使用人にしかできん仕事だ。俺とロッタが調べ物してる間に、王宮の猫について」
『猫』と聞いただけで、ティナの口元がだらしなく緩み──そうになったところを、自覚的に顔を顰めて抑える。自然を装おうとして作られたキリッとした表情が、逆に不自然で笑えてきた。
「目の色変わるじゃん」
「どっちの意味で?」
「常識的な意味で」
彼女の場合、本当に物理的な意味で目の色が変わるのが困ったところだ。
と、精神衛生上はともかく、事件とはなんら関係のない実のない話は続いていった。
事件が大きく動いたのは、翌日のことだった。




