第三章-35『密会─揺籃─』
「一席」
「儂をくだらん肩書で呼ぶなと言ったはずじゃ」
キヨシたちがうんうん唸っていた頃のこと。
議会が終わってからしばらくして、正面から一人で、介助もなしに王宮から出ようとするマノヴェルの大きな背中を、セレーナが呼び止める。マノヴェルは彼女を突き放すような物言いであしらおうとするが、セレーナは大して意に介した様子もなく──いや、むしろ口角をニヤリと歪ませ、
「困ったわねえ、じゃあどう呼べばいいの? 我が儘な『ジョー』」
「──!! 上からものを見ようとする悪癖は、相変わらずか」
「年齢が年齢だから。きっともう、変わることはないでしょうね。お互いに」
セレーナはマノヴェルを『ジョー』と呼び、彼が明らかに狼狽えたのを見て、口元を抑えてコロコロと笑った。笑われた側は『チッ』と舌を鳴らして悪態をつくぐらいしかできなかったようだが。そうして、ひとしきり笑い終わったセレーナはマノヴェルの手を引いて、眼前の王宮を見上げる。
「どうだったかしら。十五年、私たちが積み上げてきたものは。道中、復興した街も見てきたでしょう?」
マノヴェルは見えない目をセレーナと同じ方向へと向けて、そのうち「フン」と鼻を鳴らし、
「セシリオに言ってやった通りじゃよ。戦前はろくすっぽ国の運営には関わらなかったくせに、痛い目を見て今度は自分でこの国を、そしてヴィンツを操りたくなったか。しかも言うに事欠いて『私たちが積み上げてきたもの』などと……傲慢も甚だしいわい。この国の復興はあくまで、国民たちの努力の賜物じゃ。無論、奴隷も含めてな」
「なるほど……仰る通り。私が傲慢というところも含めてね」
「開き直りか。つくづく腹立たしい女じゃ」
「私から見た私も傲慢に見えるというだけの話。貴方の言った通り……ヴィンツを出て、人々を見守って、それが間違いだったと気付いて、ならばとかつての決意を翻して。こうして転機が訪れたら訪れたで、その転機を運んできた彼を、手元に置いておきたくて仕方がない……これが傲慢でなくて何なのかしらね?」
見上げていた顔を今度は地へと向けて、セレーナは小さな溜息を吐く。
「きっと私は、『あの人』と同じように……地獄に堕ちる」
「堕ちる地獄があればいいがな。というか堕ちる云々以前に、この現し世こそが──」
「フフッ。言えてる」
マノヴェルの憎まれ口とも、一種の同情とも取れる返しに、セレーナは自嘲に塗れた笑みを浮かべた。
二人のやり取りは、キヨシたちの知らないセレーナが全面に押し出されているような、そしてまるでパトリツィアと話しているときのような、身内用の態度とでも言える非常にフランクなもので、マノヴェルに詰られながらも、セレーナは非常に楽しげだった。そのパトリツィアと決定的に違うのは、お互いが自身のことを事細かに知っているという体で話しているということだ。
例えば、『マノヴェルに別の名前がある』こと。『セレーナがヴィンツェストの出身』だということなど。
さらに、お互いに知っていることがもう一つ。
「しかし、あの小僧。今更あのペンの力をこちらに運んでくるとはの。それだけならともかく、よもや扱えるとは」
「もっとも、『真の使い方』には気付いていないようだけれど」
「あんなもん、気付けという方が無理じゃろう。が、あの小僧は何かの拍子に気付く可能性はあるかもしれんな」
「何故?」
「貴様と同じで、俗に染まり切っておる」
「まあ! 芸術家として最大級の賛辞ね。彼も聞いたらきっと喜ぶわ」
「本気でそう思っとるのか……そんなワケないじゃろ。そういうところも全然変わらんな」
「変わらないことが、私唯一の取り柄だから。生まれたときから、ずうっとね」
「フン、良いように言いよるわ」
そう。キヨシの右手の力について本人よりも詳細に、それも─キヨシが知るところではないが─かのヴィンツェスト現教皇、ダンテの言う『真の使い方』を知っているというのだ。形状自由なソルベリウムを無尽蔵に生み出す以外にも、何かしらの秘密があり、二人はそれを知っている。
セレーナはさらに「私のことはともかく」と続け、
「キヨシが『あの人』とどういう繋がりなのかは分からないけれど……あの力を使えるということはつまり──」
「『神の眷属』である、と?」
マノヴェルの口から語られたのは、キヨシを称するには似つかわしくない大仰なワード。それは口走った本人が一番分かっているようで、半ば呆れたような笑みを浮かべて肩を竦めた。
「よもや。貴様や『あの男』とは似てもいないし、それ程の知性は感じんぞ」
「血の繋がりがあるとは思ってない。そも、私には血の繋がった人間なんて有り得ない。いたらいいな、と思うことはあるけれど……」
「では、ペンの力を使えたということ……それのみを証拠と? ただの偶然という可能性は?」
「もちろん、そういう可能性も考えないではない。けれど、キヨシがペンを入手した際、ソルベリウムになった大地に文章が刻まれたという事実。それに、この世界の文字と元いた世界の文字がかなり類似しているという点も、素通りはできない」
「単に保管されていた木箱が破壊された場合に、そうなるように仕込まれていたんじゃろ。『あの男』は、それくらい平気でやってきそうなもんじゃわい」
「それも分かる話ね。まあいずれにせよ、近くオリヴィーの件を洗っていた諜報部が、いい加減報告を上げてくるはずだし、それ待ちになるかな」
二人は思案げに会話を続けるが、今はいくら勘繰っても結論の出ない話だ。三週間そこそこ経過しても情報を一つも上げてこない諜報部の怠慢は問題だが、今はそれ頼りになる他ない。
「それで? 教えるつもりは?」
「何を?」
「あのペンの使い方じゃよ。小僧を囲うつもりならば、知らせておいた方が御しやすくはなるじゃろ」
マノヴェルの提案はセレーナにとって一考の価値はあるものだったようで、顎に指を当てて思案を巡らせ始めた。実際、一理ある話だ。あの能力の使い道を指南してやること、そしてそれがキヨシにとって明確な利点として働くのなら、キヨシからの信頼を勝ち取れる可能性が出てくるのは確かだ。
だが、セレーナはたちまち表情を曇らせて、
「いえ……やはりやめておきましょう。彼一人を、我々の手勢とするだけなら、確かに知らせるという手もあったでしょうけれど……彼は、一人ではないから」
「あの小娘共か」
「ええ。それに『あの子』も。運命すら感じるわ」
「ああ……アレか。儂も正直驚いたぞ」
「とにかく、よ。キヨシが神の眷属であるならば、大して動じないかもしれないけれど……あのペンの使い方を、そうでない人が知ってしまったなら……きっと全てに絶望する。そうなると彼の心は離れていくだろうし、何より彼女たちにとっても酷よ」
「問題は、そやつらの内一人が考古学者ということじゃな……辿り着かれる可能性もある」
「それは大丈夫。彼らが正しい道筋を歩んで辿り着く分には、ね。何事にも順序があるという話だから」
「それも幾分かマシ、というだけじゃろ」
「大丈夫、彼等も中々やる。これから降りかかる苦難に打ち勝ち、自らの使命を含めた全てを理解し、その道の果てにきっと──」
そう語るセレーナの眼に強く現れたのは、
「『あの人』を、共に殺してくれる」
強く鋭く、そして確かな殺意だった。
マノヴェルは、その殺意が向けられている者が何者かを知っている。普段の柔和で温かな立ち振舞いからは想像もできないような、おぞましい感情が隠されていることを改めて実感し、マノヴェルは底冷えするような感覚に襲われ、表情には出さずとも恐れおののいていた。その眼は、地獄を知っている者にしかできない眼なのだ。
そして、それには遠く及ばないものの、近しい気配を放ち相対した者──キヨシに対し、改めてより強く興趣を惹かれていた。
「そのためにできることがあるとしたら、歩むべき道を示すこと。絵を教えるのもその一環。ジョーはどうする?」
話しかけられてマノヴェルが気付くと、─盲目なのに奇妙な言い方だが─セレーナはいつもの明るい微笑みを携えて、彼の顔色を窺っている。婉曲した言い回しこそしているが、とどのつまりは『私に協力する気があるか』と聞いているようだった。
しかしマノヴェルはろくに考えることも、逡巡することもなく、
「……付き合っていられるか。儂はこの国の益にならんことはせん。帰るぞ」
「待って」
「くどい」
「いえ、そうじゃなくて……」
セレーナはおもむろにマノヴェルの太い腕を取り、彼の服の袖を捲くって肌を顕にさせる。
「『痕』の具合はどう? やっぱり、ずっと痛むの? 診よっか? 治してはあげられないけれど……」
そこにあったのは、浅黒い肌に刻まれた、いくつにも枝分かれした血染めの樹木のような、痛々しい痕だった。そしてそれは腕だけではなく、服の下を通って身体の中心に向かう程に太く、大きくなって全身に残っている。キヨシの傷とは比べ物にならない、常人なら堪えがたい苦痛がマノヴェルを蝕み続けている──これもまた、セレーナだけが知っているマノヴェルの秘密の一つ。
こんなにも優しく、献身的な彼女の内面に、あんなドス黒い感情が押し込められているなどと、誰にも想像はできないだろう。
マノヴェルは腕に絡みつく細い指をにべもなく振り払い、
「何のことはないわい、こんなもん。先日、誰かに頭を引っ掴まれて、机に叩きつけられたときに比べればな」
「あまり強がるのは損よ。後で痛いって言っても知らないからね。『泣き虫ジョルジョ』」
「ッ──! 消え失せい、セーラ!!」
背伸びした彼女に角を人差し指で撫でられた上に抱き着かれ、顔を赤くしたマノヴェルが怒鳴りつけると、セレーナは『おお、怖い怖い』とでも言わんばかりに笑いながら、足早に王宮へと戻っていった。
そうして彼女を追い払った後で、マノヴェルは光の届かない目を遠く、遠くへと向けて深い溜息を吐き、王宮に戻ったセレーナが介助のために遣いに出した国防兵が追いかけてくるのも構わず、帰路についたのだった。




