第三章-33『束の間の天国』
「なるほどなるほど。『ノー』というのが、『おっけー』の対義語なワケだね? つまり、おおむね否定を意味すると」
「んー、否定は意味するけれど、対義語かというと微妙なとこっスね。ノーの対義語というなら『イエス』だろうし……どう思う、ティナちゃん?」
「キヨシさんに分からないことは、私にも分からないと思います……よ?」
【私も分かんないなー。ロッタちゃんはどお?】
「カルロにも分からないと思いますよ……」
「勝手に決めるなよな。まあ分かんないけど」
雰囲気最悪の議会が終わり、キヨシたちの足は自然とマリオの下へ向かっていた。議会の最中、「言語についても聞かせてね」と言われたのを真に受けた形となったが、マリオは精神的に憔悴したキヨシを快く迎え入れてくれた。頼んだのはマリオの方ではあるが、キヨシの中で──いや、キヨシ一行の共通認識として、マリオは議会唯一の純粋な良心。ありがたがるのはお互い様だ。
そうしてキヨシたちは、本が至るところに山積みにされた執務室と思しき部屋に通されたのだった。
「しかし、飛行機の件はどうなるかしらね……」
とはいえ、不安の種というのは尽きないもの。
概念の継承自体は上手くいったし、爺二人の諍い以降は特別波風が立つこともなく議会は進行した。それでも、その場の空気が空気だっただけに、こうして話しているだけでは拭い切れない不安感が頭をもたげそうになる。それは今溜息を吐いたカルロッタだけでなくキヨシも、そしてティナやセカイすらも同じだ。
「どう運用するか、というかそもそも実際に使うかどうかは、この後何度も議会を開いて、偉い人が決めることだからな。例えばこの、アガッツィさんのような」
「ハハハ……ま、さっき君が言ってた通り、それなりに時間をかけて決めていくことにはなるかな」
「そりゃあそうでしょうね。飛行機ごときで、ちょっと話がデカくなり過ぎな気もしますが。なんだか国家事業染みてるし」
「『それだけ期待されている』で、ここは一つオッケーということで」
「聞いたことを頑張って活用しようとするのは結構なことですが、なんか微妙に使い方が変な気がするな」
「難しいな……君のところの言語体系、複雑じゃない?」
「言い忘れてたけど、『英語』は母国語じゃないんで、堪能というワケでもないんです。渡ってきた海外の言語が俗語と化しているというか。ちなみに俺の母国語は英語と比べてもさらに複雑です。けど、表現の幅がスゴく広いって評判でしてね? バグ翻訳のせいで説明しようがないのが悔やまれる……」
「ハハハ、興味深いなァー! しかしどうしても不可能なの? 君のその……『日本語』について」
「とりあえず、口では説明できない。どうも、無理矢理ヴィンツ語を喋らされてるみたいですから。俺は普通に日本語で喋ってるつもりなんです」
前々から分かっていたことではあるが、キヨシは得体のしれない何かの作用によりヴィンツ語を無自覚に喋っている。よって、口語で日本語を解説することはできない。
「書面ではどうでしょう?」
「ん?」
「書面。文字だったら、強制されたりはしないのでは?」
「なるほどな」
であれば、とティナが提示した次善の策。以前アルファベットを書き出した時には、特に制約もなく書き出せたことを考えれば、問題ないはずだ。
実際に貰った紙へサラサラと書くと目論見通り、キヨシの知っている文字がずらりと並んでいく。
「とりあえず、五十音と呼ばれる日本語の基本文字だ。『平仮名』というんだけども」
「何かの絵みたいですね」
「まあ、平仮名の基になった文字には、物を模ったものもあるらしいからな。そういうのが雰囲気的に残ってるのかも」
「ちなみに、その基になった文字というのは?」
「『漢字』と呼ばれる文字なんだけど……五十とかじゃ効かないくらいたくさんあるんだよな。どう説明すればいいんだろう? どれが平仮名の基になったかなんて知らないし……」
「とりあえず、いくつか書き出してみてくれない? 今はどんなものでも新鮮で面白いよ」
「そ、そうすか?」
適度に肯定的意見を挟んでくる、まさに良心。一行のマリオへの好感度が天井知らずに上がっていく。それに比例するように、向こうのキヨシへの期待度も上がっていく。応えなければなるまい。
「あんまり、凝らなくってもいいですからね? キヨシさん凝り性だから」
と、意気込んでいるのがティナに伝わったのか、キヨシがうんうんと唸りだす前に先回りで忠言してきた。連れの服を選ぶだけで小一時間悩み続けていた男故、まあそういう懸念を持たれるのも致し方なし。
「ティナってば、心配し過ぎ。まあ、アンタの服選ぶだけで小一時間悩んでた奴にそういう懸念を持つのも当然だけど? 元々ある文字を書くのに悩むも凝るもないでしょ?」
「カ、カルロ! それあんまり外で言わないで!」
「何を恥ずかしがってんの。選んでもらったときなんて、あんな嬉しそうに裾つまんでくるくるーって──」
「~~~~~~ッ! ~~~~~~~~ッッッ!!」
からかうカルロッタをポカポカと叩くティナを他所に、キヨシはマリオの要求に応えるべくペンを執る。ティナから忠言を受けつつも、結局悩んでいる辺り、凝り性で見栄張りな成果が滲み出ている。
しかし、ティナの服を選んでいたときとは違って、すぐに書く文字は思いついた。
思いついてしまった。
──────
「せんせー、迎えに来……た…………」
しばらくして、どこからやってきたのか押しかけるように入室してきた、小汚い服を着た子供たちは絶句した。
『鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱』
「スゴイなあ! こんな複雑で難解な文字を常用しているのか、君の世界の人々は!!」
「いいねェー! もっぺん書きなさいよちょっとォ」
「スゴイだろー! イーッヒッヒッヒ!!」
「じゅ、呪詛!」
【うらめしやぁぁぁ~違うかーーーーーー】
子供たちの主観で言えば、机上の紙片に留まらず、壁に貼られた大きな紙いっぱいにぎっしりと並べられた何か。文字の意味を──いや、それどころか文字であると完璧に理解できているのはキヨシとティナ、そしてセカイだけのはずだったが、あまりいい雰囲気のものではないということを子供たちは感覚的にキャッチできたようだ。
これそジャパニーズ言霊──でもないか。
「キヨシさん、キヨシさんってば! 止まっ……ストップ! ストーップ!」
「なんだティナちゃん、せっかく二人共乗ってきてんのによ。英語を見事に使いこなして止めてきよって」
「み、見事? えへへ……じゃなくて! なんですかそれ、何かの呪い!?」
「外国人をカルチャーショックを与えるには、この手に限るってネットで見た♨」
「外国人をバカにしないでください!」
煽てられても流されることなく、偏った知識をひけらかすキヨシを窘めるティナだったが、その偏った知識が二人にクリティカルヒットしているだけに、どうにも責めづらそうだ。
それはさておき。
「ん? おお、君たち。どうしたのかね、もう今日は講義の予定は──」
「今日は一緒にごはんって言ったじゃないですかぁ!」
「あー……確か、そんなこと言ったか。参ったな」
どうやらマリオは過去にこの子供たちと食事の約束をしてすっかり忘れていたらしい。そして『先生』と呼ばれていたことから察するに、子供たちの身分もおおよそ推察できる。奴隷の子供たちだ。
前からの約束となると、無碍にはできないだろう。マリオが申し訳無さそうにこちらを見やるのを、キヨシは一笑に付す。
「いいじゃないッスか、行ってきなさいよ。日本語は興味深いでしょうが、知ったところでなんか役に立つワケでもないし。俺はいつでも話しますが、約束はこのひととき限りでしょ?」
「それは一理ある話だねえ。君たちも一緒にどうだい? 生憎、奴隷の配給飯だけれど」
「昼間に食いましたよ、案外馬鹿にできないくらいウマかった。是非とも」
「ハハ、それは何よりだ」
こうして、キヨシたちはマリオの食事に付き合うことになった。プライベートな約束に突然割り込む形にはなるため、キヨシは一応子供たちの顔色をちらと窺うが、特に気してもいない様子。むしろ歓迎しているような、にこやかな表情すら見てとれる。
そのにこやかな表情を浮かべる少年と目があった瞬間、二人は互いに「あっ」と気の抜けた声を漏らす。
知っている顔だったからだ。
「この間のおじちゃん!」
「おじちゃんじゃねーって! ピッチピチの二十歳やぞ!」
『おじちゃん』呼ばわりにも聞き覚えがある。この少年だけでなく、他の子供たちの中にもちらほらと見覚えのある顔がいる。彼らは奴隷たちの中でも、以前パトリツィアが難民群を訪れていた際に一緒に遊んでいた子供たちのようだ。
「嘘ォ? せんせーより老けて見えるよ」
「髪だけだろ! シワの本数が違うって」
「キヨシさん、マリオさんにスゴく失礼なこと言ってるの分かってます?」
「あ……す、すんません」
ティナに叱られて反省してみると、確かに遠回しにマリオの老け顔をイジっているように聞こえたかもしれない。マリオは全く意にも介さず「ハッハッハ」と笑っているが。全く、イイ性格をしていると言わざるを得ない。
「お姉ちゃんはおじちゃんの彼女なの?」
「ふぇ!?」
やり取りを直で聞いていた少年による、子供特有のオブラートに包まない物言いでティナは黙らせられる。そもそもキヨシが反論をした原因はこの少年にあるというのに。全く、イイ気なものだと言わざるを得ない。
【YESYESYES!! ナイスマセガキ!】
──セカイさぁん!
そしてこのセカイ。言われているのはティナだというのに。全く、イイ根性をしていると──
「いや全然。大人をからかうもんじゃねーぞ」
「……──────」
「え、何……?」
と、このようにバッサリ切ったら切ったで、今度は皆からなんとも言えない微妙な表情でジトリと見られて閉口する他ない。しかし、こんな状況でもあの議会に比べたら遥かにマシ。たとえ、議会の結論が出るまでの束の間だったとしても、天国も同然と言って過言ではなかった。




