第三章-27『アティーズ王宮キャンパスAO入試』
「貴方がどれ程の腕前をお持ちなのかはまだ計り知れませんが、もしこの世界でも絵で名を上げることを望むのであれば、そのための教育課程を組み、私が預かろうかと考えまして。貴方以外にも、そういう奴隷の方は何人かいらっしゃいますし」
「そうだな……まあ俺の唯一特技と言えるところってそこだしな。いやしかし……」
アティーズで身を立てようと考えるなら──いや、真に絵を生業にしようという気なあるならば、此度の提案、考えるまでもない。即、受けてしまうくらいでなければならない。
しかし、キヨシは気分に任せて飛び込むようなことができなかった。
「あ、すみません。私の腕前を見せもせずに教えようなどと、無礼の極みですね。あちらに飾られている絵などが、私の作です」
「いやいや、そんな失敬な理由で迷ってるんじゃなくて……うおッ!?」
キヨシが尻込みしているのを機敏に感じ取り、セレーナは就活生がポートフォリオを提出するように、自分の作品を示した。
そうして目の当たりにした作品は、
──う、上手いとか下手とか、俺なんぞが判断して良い絵なのか、これは!?
一言で言い表すなら、『神聖』──とでも表現しようか。
大して、大きな絵ではない。決して、色鮮やかな絵ではない。題名や画題は定かでないが、どこか宗教画のような雰囲気を醸し出すその絵は、キヨシが内心驚愕していた門下生の絵と比較しても、図抜けたクオリティを持っていると、キヨシに一目で理解することを強いる。描かれている人物の毛筋一本、足の爪先に至るまで、─恐らくは─解剖学的な知識に根差した完璧な造形を見事に描き、周囲の自然背景も、絵の主役である人物を食わないように描き込みや彩度を緻密に計算し、逆に主役を引き立たせることに成功している。
総じて、今のキヨシがたとえ云千、云万時間かけたとしても、絶対に到達できない領域にある『別次元の絵画』であることは間違いない。最早、光を放っているようにすらキヨシには感じられた。
「あの絵は私が戦前に描いたものです。所々煤けているでしょう? 王宮のこの辺りは、完全な破壊を免れて残っている部分ですので、議会の決定により可能な限り残してあります。三十年程前に描いたものですので、今以上に未熟でお恥ずかしい限りですが……判断の一助となれば幸いです。いかがでしょう?」
「あんな絵、上野の美術館かサイゼの天井でしか見たことがない♨」
「さいぜ……?」
「いや、なんでもない! マジにスゲーッすよ! 俺なんか足元にも及ばないくらい上手い……つーか上手いって表現も失礼なくらいだ! けどそれ以上の表現は知らないしなー。語彙力ないからなー」
「では……」
「あ……ちょっと待ってくれ」
「まだ何か?」
圧倒的な画力に頭をブン殴られたかのような衝撃に流され、危うくそのまま門下に下りそうになっていたキヨシだったが、すんでのところで冷静な思考を取り戻す。そもそも、キヨシの尻込みに、セレーナの腕前は関係ない。
──専門学校に入学したときも、こんな気分だったな。
自分よりも絵が上手い人間など、ごまんといるという現実を再認識させられていた。
絵描きたるもの、描く腕と見る目の両方を養っていかなければならないのだという。特に、ろくに自分で描かずに見る目ばかり肥やしていくのは非常に危険だ。気が向いて自分の絵を描いてみたら、凡庸未満に見えて筆を折る者が大勢いる、とも。今キヨシが覚えているのは、そういう類の劣等感。
キヨシはこの世界で唯一、現代人向けにデフォルメされた絵を描くスキルを持っている人間だ。こういった『自分だけ』の武器を手に入れると、人は大なり小なり増長するものだ。無論、悪いことばかりではない。増長も、ともすれば自信に繋がるからだ。
問題は、増長して伸びた鼻っ柱をヘシ折られたときだ。
自分が持つ技術など、大した武器にはならないのでは? そう感じられてしまう程に、キヨシと門下生たちの間には能力に隔たりがあると言わざるを得ない。それでも、学校入学当時のキヨシには、『食らいついてやる』『盗みとってやる』と、それくらいの気概があった。
自分の絵よりもハイクオリティな絵を見ても、スゴイと思うことはあれど、その地平を目指そうと思わなくなったのはいつからか。
「そんなに緊張しなくてもよろしいのに。どうぞ、変に気負いませんよう」
「いやいやしかし……」
「フフ……時々、貴方みたいな反応を示す方はいらっしゃいます。私の門下にもね。そういう方々に共通するのは、『元々絵の心得がある』という点」
「……そうなんです?」
「先程、私の絵を見たことが原因でしょうね。自分の絵と比べてどうとか、あの絵を描くまでに費やした時間や研鑽を想像できてしまって……そんなところでしょうか? 少なくとも、貴方は私に対して……いえ、門下の皆に対しても、劣等感を抱いている」
「うぐッ」
「図星みたいですねえ」
セレーナにキヨシの心は筒抜けなようで、思っていることをそのまま言い当てられて口ごもる。
「……そんなものは忘れてしまいなさい。結局のところ、初めからアレが描けたなんてことはなく。貴方くらいの腕前だった頃もあったに決まっていますし、貴方も私くらいの腕前になる可能性だってある」
「可能性止まりなのか……」
「無責任に『できる』と断言はできませんから。肩の力を抜いて。怪我、ぶり返しちゃいますよ?」
考えてみれば、セレーナの言うことも当たり前の話だ。どんな巨匠、賢人とて、スタート地点に多少の差はあれど、初めから上手いワケではない。芸術分野のような、感性が物を言うようなものは特に。しかし、セレーナはキヨシの心情を汲み取って励ましつつも、『必ず上手くなる』とは言わなかった。セレーナは、キャンバスに向かい合い絵を描くという単純な行為の──この道の厳しさを知っているのだ。知らなければ、そんな言い回しはしないだろう。
──いいだろう。人生をやり直すことはできないが……教育課程はやり直そう。
異世界にやってきたとて、人生を始めから──というワケにはいかない。しかし、このアトリエの数々の芸術を目にして、ほんの少しでも感動を覚えたのであれば、きっとまだ間に合うだろう。
腕前を養う以上に、あの日の情熱を取り戻すのだ。
「よし、決めた! 俺、セラフィーニさんのアトリエに参加するぜ! やったァー、こんなところでプロ中のプロから絵を学べるなんて──」
「ダメ! きー君を女と二人っきりになんて絶対嫌だからね!」
「……──────」
決意を固め、高らかに宣言したキヨシのすぐそばから、今この場にいるはずのない人間の声が響き渡る。キヨシが呆れ顔で目を向けた先には、少し怒ったような顔でフンフンと鼻で息を吐く少女が一人。
「テメエは何してんだ? 仕事はどうした仕事は? そして片方はどうした?」
「洗濯物の回収を倍速で済ませて暇を作りましたそして片方は寝てみ゛ゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「キヨシ。女の子にそんな──」
「身内の教育に口を挟まないでいただきたいッ」
仕事をサボってストーキングしていたらしいセカイの顔面を引っ掴んで制裁を加えるキヨシに、マルコは苦言を呈してきたが、シメるときはシメなければセカイのためにも、ティナのためにもならない。身体の持ち主であるティナには少し悪い気もするが。
そのうち、セカイは汚いダミ声を上げながらキヨシの手をペチペチと叩いて『降参』の意を示してきたので、キヨシは溜息を吐きつつ手を離して、セカイを解放した。
「ぷぇっ……だってだって! きー君、四六時中見てないとまた無茶して、ティナちゃ……私とロッタちゃんを心配させるんだもん」
「フフ、まあ一理ある話ですねえ」
「茶化すなセラフィーニさん! つーかそもそも二人っきりじゃないし! アトリエの一員になるだけだって」
「クス……二人きりがいいのなら、可能な範囲でそうしましょうか?」
「茶化すなっつってんだろがァーッ!」
女性二人にペースを乱され続け、からかわれた不快感でキヨシの顔が真っ赤に染まる。
「とにかく、きー君が行くなら私も行く! 一日くらいサボったって──」
『へっちゃら』──と、セカイがそう言いかけた瞬間。
「私の目を盗んでサボれるものなら、やってごらんなさい♡」
「ヒエッ……」
またしてもいつの間にか、音もなくセカイの背後を取っていたジーリオに肩を掴まれ、セカイの顔は真っ青に染まる。
「ワーッ! 助けてきー君んんん!!」
「煮るなり焼くなりチンするなり好きにしていいです♨」
「かしこまりました。適度に煮て焼き……え、何? チン?」
助けを求めるセカイにはシカトを決め込み、にべもなく実質的な死刑宣告を言い渡すキヨシに、周囲は苦笑いを隠せない。ジーリオに襟首を引っ掴まれ、部屋の外へと引きずられていくセカイに待っている未来は、恐らく明るいものとは言えないだろう。
「で、俺は何をすれば?」
「……差し出がましいようですが、よろしいのですか? もう一人の方、完全にとばっちりでは? まさかジーリオも本気にはしていないでしょうけど……」
「あー……そこはまあ、考えとく」
「は、はあ……」
雑なフォローをするキヨシの態度に、いよいよセレーナもペースを崩され始めた。
しかし実際、セカイのせいで一緒に何かしらの罰を受けるだろうティナには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。何かしらの埋め合わせはしなければならないだろう。いや、埋め合わせならセカイがするべきなのだが。
「で、俺は何をすれば? 二回目ね。書類とかの手続きとなると、俺はこの世界の文字書けねえから、一旦持ち帰ってってことには……」
「じゃ早速、一枚描いてもらいましょうか。折角ですし。画題は自由に、短時間で描けるラフ画でも」
「ブーーーーッッッ!! ちょちょちょちょっと待て、いくらなんでも急過ぎ……うわ、オイ!」
軽い気持ちで今後のことをセレーナに聞いてみると、突然『絵を描け』と言われてキヨシの口から素っ頓狂な声が漏れる。キヨシの返答を待たず、セレーナはキャンバスやコンテと思われる画材やらを迅速に用意して、椅子にキヨシを座らせてまっさらなキャンバスに向かい合わせる。
──ヤベーよ、マジにヤベーよ。あんな絵を『未熟』と断じちゃうような人の前で何を描けばいいんだオイ! そもそも、よく考えたら絵の方向性が全然違うぞ! うわ皆メッチャこっち見てる! できれば見ないで欲しい!
何も描かれていないキャンバスを恐ろしいと思ったのは、キヨシにとって生まれて初めての経験となる。いや、この世界の主流と思われる写実的な絵とキヨシの絵では、方向性が違うことなど百も承知なのだが、いざ実際にそれを表現しようとなると、緊張するのが人情というもの。しかも方向性を抜きにしても、キヨシなど足元にも及ばないような巨匠の前で、だ。おまけにセレーナのみならず、マルコやマリオも作業が始まるのを今か今かと待っているらしい。
──……いや、馬鹿か俺は。ついさっき、やり直すって決めたばっかりだろうがよ。
が、怖気づいてはいられない。この程度の緊張も跳ね除けられないようでは、過去の情熱を取り戻すなどとても無理だろう。
「了解……分かりました。マジに描きたいように描くからな。多分、皆驚くようなのを描くと思うぜ」
「ウフフ……あらまあ、楽しみ」
これは試練だ。
あえてハードルをあげつつ、震える手でコンテを手に取った。




