プロローグ『反抗する奴隷たち』
──ねえ、どこにいるの? 一緒じゃなきゃ嫌だよ!
街が、暖かな橙の光に照らされていた。
間もなく夜のとばりが降り、人々は家族の待つ自分の居場所へと戻っていく。
しかし、その少女は違った。
少女の容姿は、誰でも着ていそうな服の上から、目立たない色のローブを羽織り、フードを目深に被っているという、まさに『地味』を体現したようなもので、人目を引くのは片手に持ったカンテラと、その大きな瞳を覆い隠すほどに長い前髪くらいのもの。
そんな少女がその小さな足を懸命に動かして、人の流れに、真っ当な流れに逆らって走っていた。
『こんな私を育ててくれてありがとう。これから私は、私の道を歩みます──って、父さんと母さんには上手く伝えておいて。本当にごめんなさい。私の大好きなティナへ』
少女の手に握られてくしゃくしゃになった手紙の内容は、おおよそこのようなものだ。
手紙を受け取った少女──ティナはこの差出人の無い、便箋にすら入っていない粗末な置手紙が誰からの物なのか一目で見抜き、陽が沈みそうなのも構わず家から飛び出して、手紙の主をずっと探していた。ティナは手紙の主が自分の夢を持っていることを知っていたし、その夢を誰にも理解されず満たされない日々を送っていたことも知っていた。
──そんなの嫌! 行かないで!
そう、知っていたし理解もしていた。
だからこそ、いつまでも一緒にいたかった。
「どこにいるの? こんなお別れ嫌だよ、『カルロ』……」
十二年間の生涯を共に過ごした、最も敬愛し羨んだ家族と共に。
──────
僅かばかりの時が流れ、遠くの山の陰に陽は沈もうとしていた。
『手紙のインクが乾いていなかった。手紙の主はまだ近くにいるかもしれない』
ティナが持っている手掛かりは、これだけだ。そしてその手掛かりが探し人へと至る可能性は、インクが乾いていくと共に目減りしていく。
されどどんなに走っても、いくつ曲がり角を曲がっても、そこに探し人はいない。そうして無策に奔走している内に、人気のない地区までやってきてしまっていた。
──もう、ダメなのかなあ。
そう思うだけで、ティナの顔を覆い隠す前髪の隙間にちらりと覗く、大きな緑色の瞳から、堪えていた涙がほろりほろりと零れ、もうすでに乾き切った手紙のインクを滲ませた。
「見つかったかよォ? つーかあんまり揺らすんじゃねえよ、気持ち悪いったらありゃしねェ」
その涙に呼応するかのように、ティナ以外誰もいないはずのこの場に何者かの声が響く。ティナにとって非常に慣れ親しんだこの声は、ティナのカンテラの中で煌めく炎から発せられていた。
「……ううん、まだ見つかってないんだ。本当に心当たりは無い?」
「ああ、無いね。昔っからよく分かんねえからな、カルロの言うことはよォ」
「そう……ありがとう。今度はなるべく揺らさないように気を付けるから、もう少しだけ火を見ていてね」
ティナが謝辞を述べると、粗暴な口調のカンテラの火は「ケッ」とだけ吐き捨ててそれっきり静かになった。
──足だけは動かしていなくっちゃ。
心持的にはどん底にいたティナだったが、カンテラの火との会話で少しだけ平静を取り戻していた。
立ち上がって服に付いた汚れを払い、今度はもっと人のいるところを中心に探そうと歩を進めようとしたその時、すぐそこの裏路地から、
「とぼけんなやコラ! お前が『考古学者』であることは、疑いようがねえんだぜ」
と、確かにそう聞こえた。
「──ッ!!」
『考古学者』──この単語が耳に入った瞬間、すでにティナは動き始めていた。カンテラが音を立てて揺れて先の声がティナに文句を垂れ始めていたが、ティナの右耳から入って左耳へと抜けていく。
裏路地の入口に声を殺してピタリとはりついて、そうっと覗き込むが時分も相まってよく見えない。
「やいティナ! テメエ揺らすなっつってんのが分かんねえのか!」
「ゴメンって! 今はちょっとだけ静かに──」
瞬間、言い争う二人を制止するが如く、何かが爆ぜる音と共に裏路地から勢い良く大きな何かが転がり出てきて、ティナの背後にあった木箱を粉砕した。心底驚いて声を上げそうになったのを手で抑え、飛び出てきたものの方を注視すると、そこには四肢を投げ出して倒れる男がいた。
その男は直線的な、恐らく礼服と思われる上下黒の装いに、首に細長い赤の装飾物を締め、さらに若々しい顔立ちに反して白い髪をところどころ鮮血で染めていて、総じてティナにとって──というよりもここらに住んでいる者にとって『風変り』、あるいは『奇妙』と思える姿をしていた。
「兄貴ィ、何すんだよォオオオ~~~。首を狙ったつもりが、弾道が逸れて腹に当たっちまったじゃねーかアアアア」
「首狙ってたから逸らしたんだよ。連中、異端審問をやりたがってるだろうからな。殺すと値が下がっちまうかもしれねえだろう」
息吐く間もなく、この白髪の男が転がってきた方から別の二人の男の物騒が過ぎる台詞が聞こえ、足音が少しずつ近づいてくる。ティナの背中に冷たい汗が流れ、苦悶の表情を見せる男に気付かれる前に、すぐそばにあった別の大きな木箱の陰に隠れてしまった。
「あーあー血を流して。さっきどこかにぶつけたのかい? 悪かったな兄さん。でも安心しろよな。今のは水の塊をぶつけただけで、別に死にゃしないからな。水の魔法はガーゴイルの得意技……ってな。知らない? ま、それを知らなくても、この国で歴史を探ろうとするとどういう扱いを受けるかは、知らんわけではないだろう」
ティナが隠れてからすぐに、裏路地から二人の異形が現れる。片方の異形が白髪の男の胸倉を引っ掴んで強引に起き上がらせるが、出血の割に大した傷ではないことを確認すると、すぐにまた乱暴に地面に放った。
人型のシルエットに大きく湾曲した角と、鳥類のような嘴。さらに、紋章のあしらわれただぼったいローブの翼と思われる背中の膨らみ。そして水の魔法。
亜人種『ガーゴイル族』の特徴だ。
「さて、これから『ヴィンツェスト』に仇なし、歴史を探ろうなどという不心得者の考古学者を、教会に売りつけるワケだが……おっと喋らなくていいぞ。腹への一撃で息もできまい」
「にしてもテメーこのご時世に、しかもこのヴィンツで考古学者やろうなんてよオオオオオ、馬鹿なんじゃねえのか? イカレててもこうして酒の種くらいにはなるからいいけどよォ~~~ッ」
そしてこの二人の物言いで、ティナは確信した。白髪の青年は『姉と同じく』──このティナが住まう『ヴィンツェスト』という国において、最大の禁忌に触れているのではないか、と因縁をつけられているのだ。
姉の名前はカルロッタ。一週間前から家を空けて帰ってこないと思ったら、置手紙を残して家出していたティナの姉だ。故に、路地裏から聞こえた考古学者というフレーズに強く惹かれ、期待した。そこに姉がいるのかもしれない、と。
その期待は裏切られる。そこにいたのは暴虐のガーゴイルが二人と、会ったこともない白髪の青年だった。
「やめとけ」
物陰でどうしたものかと悩むティナの心情を察して意見したのは、カンテラの火だった。
「オメーとも長い付き合いだから、何考えてるのかは見当つくけどよォー。ハッキリ言って俺たちにゃ関係ねーし、そもそもこんなことしてる場合じゃねーだろ?」
「でも」
「カルロ探すんだろ?」
そう、確かにティナは関係ない。
ティナが気にかけたのはあくまで路地裏に我が姉がいる可能性であって、あの白髪の青年ではない。いないと分かった以上ここに用は無いし、悩んで立ち止まるくらいなら隙を見て即刻立ち去るべきと言える。第一、今白髪の青年に暴行を加えているのは、ティナとは身体のつくりからして違う、屈強な亜人種。敵わない相手ではないが、これまでティナは荒事とは無縁に生きてきた、か弱い少女。小さくない恐怖が心を支配するのも無理からぬことだった。
しかし、そうは言ってもティナの中の良心が、そういった薄情さに待ったをかける。
──どうしよう。カルロ……あなただったら、こんなときどうするの?
この場にいない探し人に問う不毛なティナの思考は、隠れていた木箱が軋む音で遮られた。
「痛ッて……異世界なんざ、クソだチクショ──あ?」
「ッ!?」
反射的に音のした方を見たティナは、直後フードの端を引っ張って俯く。蹴られた拍子に転げてきた白髪の青年と、バッチリと目が合ってしまったのだ。それと同時にティナの胸中に押し寄せたのは、大きな罪悪感と自己嫌悪。今、ティナが無意識にとった行動は、完全に人を見捨てる者のそれだった。
ティナの探し人がこんな時どうするか? それは本人にしか分からないが──ティナの中では唯一、確信を持って言えることがあった。
──隠れてやり過ごすなんて、カルロは絶対にしない!!……ッ!?
良心が勝り、ティナが救いの手を差し伸べようとしたのも束の間、白髪の青年はそれよりも早く右手をティナに向けてバッと突き出してそれを制止し、
「……人間様を捕まえて、酒浸りの怪物風情が『馬鹿』はないんじゃないの?」
「ンだとおおお?」
──……えっ!?
なんと傲岸不遜な態度を激しく表面化させ、ガーゴイルを挑発しだしたのだ。
「フン、やはりさっきの奴の仲間か? 行方を教えるなら見逃さんでもないが」
「俺はさっきの奴のことなんざ知らないし、どうなろうが知ったことじゃねえ。けどそれ以上に、おたくらの態度がヒッジョーに気に入らねえ。マジに知ってたって教えてやらんわ」
ガーゴイルたちは機嫌を損ね、青年を激しく睨みつける。その裏で青年はティナに向けて突き出した手のひらを『シッシッ』と振って意思表明をした。一瞬青年が何を言いたいのか理解できず戸惑うティナだったが、青年の心はすぐに伝わってきた。
恐らく、彼はこう言いたいのだ──『放っておけ』と。
だが、ティナは見逃さなかった。ティナと目が合った瞬間、彼は何かを口走りそうになって、その口をつぐんだ。本当は助けを求めたくてしょうがなかったが、それをしなかったのだろう。よって、彼の真意をより分かりやすく、棘がないように訳するとこうなる。
『俺のことはいい』。『巻き込まれない内に立ち去れ』。およそこんなところだ。
発言から察するに、白髪の青年はこの国の事情など全く知らない旅行者の類なのはほぼ間違いない。藁にもすがりたい状況だろうに、青年の言動は異様なまでにタフ──
「……何か用かい、お嬢ちゃん」
「お、おいッ──!!」
だからこそ、ますます放っておけなくなってしまった。ティナは青年が伸ばした手を押し退けて、顔が割れないようフードをさらに目深に被り、少し体を震わせながらガーゴイルの前に立ち塞がる。
何故か?
白髪の男がひょっとしたら本当に考古学者で、姉の行方の手掛かりになる可能性もあるから。この二人のガーゴイルが白髪の男を通して、尊敬する姉を激しく侮辱したように思えたから──等々、理由らしい理由はいくつもあったが、
「ドレイク……」
白髪の青年の顔を、そして彼の立ち振舞を見て、どこか他人とは思えなくなってしまった。自分でも不思議に思ったが、これこそが『正しき道』──ティナはそう確信していた。
「へいへい。やめとけっつったのによ」
『ドレイク』と呼ばれたカンテラの火が言い終わるや否や、炎が激しく煌めいてカンテラから飛び出した。
「な、なんだァアアア~~~~~!?」
飛び出したカンテラの火はティナの体中を這いずり、途中で分かれた火が足を伝い石造りの地面へと降りて、自身と倒れている白髪の男を守るように燃え上がった。
が、それに留まらず周辺の民家の壁や先ほどまでティナが隠れていた木箱、さらに道から道へとまるで導線を伝うように見る見るうちに伝播していく。
このあまりの光景に、水の魔法への造詣を謳うガーゴイルもたじろぎ、一瞬固まってしまっていた。
「ド、ドレイク! やりすぎ! もっと抑えてっ!」
一番驚いていたのは、この大火を使役している側だったが。
「うるせーなァ、『精霊サマ』の火は燃えないようにしてるし、消すのもすぐなんだから好きにさせろよな。どぉれ、まだまだイクぜッ!!」
「うわっ!?」
主人への悪態と同時に炎はますます勢いを増し、ついに目深に被っていたティナのフードを吹っ飛ばす。そうしてがら空きになった頭に炎が集まり、トサカを持った赤黒いトカゲになってへばりついた。
この高慢なトカゲこそ、先ほどからティナの一挙手一投足に口を出していたカンテラの火の正体であり、ティナのパートナーである、火炎蜥蜴の精霊ドレイクだ。
「兄貴ィ、黙って見てないで早えとこ火をオオオーーーーッ!」
そうこうしている内にも、ガーゴイルの水の魔法による必死の抵抗も空しく、火は不自然なスピードでどんどん広がっていき、今や離れたところからでもこの惨事が視認できる規模になっていた。
「退くぞ」
「兄貴イイイ! ここまでやって俺たちの今日の酒を諦めるのかよオオオオオ!! 相手は火なんだから、二人でやりゃあどうにでも……」
「むしろ、ここまでやっちまったからだ。ここらに人気がないとは言っても、この規模となると警邏の衛兵なりが気付いてやってくるだろう。それに例え考古学者を売ったとしても、俺たちがこの惨事の原因とあっては、教会の連中も俺たちの身分を庇い立てできまい」
「で、でもよォ。この火はあのガキがやったことで──」
「ダメだ。今日の酒のためだけに、そんな危ない橋を渡れるか」
それだけ述べるとすぐに、兄貴分の方は羽織っているローブをはためかせて翼を出し、さらに街はずれの方へ飛び去っていく。
残された方はかなり迷っている様子だったが、結局ティナと白髪の男を口汚く貶しながら兄貴分のガーゴイルを追いかけて行ってしまった。
「……びっくりした。もう大丈夫だから、この火を消して」
「あいよ。ったく、やっつけろっつったり消せっつったり、注文の多いヤツだなァ」
フードを被り直すティナに呆れ半分、といった様子のドレイクが少し念じると、暗くなった空を赤く染めていた火炎は発生源のティナを中心に、広がった時と同じくらいの速さで引いていく。しかも火が燃え移っていた廃墟や物には焦げ付き一つついていない。
ともかく、およそティナの思惑通りに事は進んだ。ただ惜しむらくは、
「……もう、ダメかも」
この一悶着の間に完全に陽が沈み、少なくとも独力で姉を探し出すことは不可能に近くなってしまったことだろうか。
「で、どーすんだ? 家に帰るのか?」
「どうって言われても……どうすればいいんだろう──」
と、ここまで思案しながら振り返ると、足元で片膝を付いてこちらを窺っていた青年の表情が、驚愕で固まっているのが見て取れた。ただならぬ雰囲気と嫌な予感にたじろぎ固まっていると、青年はおもむろに立ち上がり、よろめきながらも一歩、二歩と寄ってくる。だからといって何かしてくるワケでもなく、何かを言おうと口をパクパクとさせているが、衝撃の余り喉のあたりで言葉が支えているようだ。
「あ、あの……えと」
とりあえず、青年を救うことには成功した。先を急ぐ状況下、そしてこの気まずい沈黙。
「ご、ごめんなさいさよならっ!!」
気弱なティナが逃げ出そうとするのは、自然なことだった。
しかし、逃げる者が追われるのもまた自然。
「ちょ、ちょい待てッ!! 待ってくれ! "セカイ"ッ!!」
「セっ──!?」
足早に去ろうとしたティナが被っているローブのフードに、青年は手を伸ばし、今再び彼女の素顔が──
これは、『セカイ』を解き放つための、二人の運命。
彼の名は『伊藤喜々』。
ティナがキヨシと、キヨシがティナと出会った──これが恐らく、事の始まり。