フルートの流れる日常
中身が入れ替わってしまう、
なんてよくあること(?)だろう。
問題は入れ替わった相手。
そんなハチャメチャな出来事で始まった
今回のお話は、どうなることやら。
第5章 フルートの流れる日常
綾野祐介
1 目覚め
目覚めると見知らぬ場所だった。なんだ
か真っ白でどこが境界なのか判らない。
フルートの音が少し煩い。
そして、僕はアザトースになってた。
なぜアザトースになってたか?そんなこと
はこっちが聞きたいよ。
どうしてアザトースになっていると判った
のか?それは、うーん、どうしてなんだろう
ね。何故かそう気が付いてしまったって感じ
かな。そもそもアザトースって何?
鏡がないから自分の顔はわからないけど、
何か混沌とした不定形のぷよぷよした物体に
は違いない。自分でもどこが体で手で足なの
かも自覚できない。
「ナイアルラトホテップ君は居ないかな?」
なぜ、その名前が出てきたのかも判らない
し、どこが口で、その口からでた言葉なのか
も判らない。発音していない気もする。
「こちらに。我が主よ、いかがなされました
か?」
そこには何もなかったはずの場所にいきな
り現れた黒づくめの男が片膝を立てて傅いて
いた。この男の人がナイアルラトホテップと
かいう名前なのかな?
「いやさ~、なんか起きたらこの格好でさ、
自分でも状況がよく判らないんだよね。君、
何か知らない?」
彼に対しての口調はいつもの僕の口調とは
少し違う。似てるけどね。
「少し待ってください。ああ、なるほど何故
か地球という星の人間に中身が変わっていま
すね。」
でしょう。僕はただの高校生1年生。進学
校でもない普通高校で普通の成績を収めてい
る、将来安月給のサラリーマン感あふれたモ
テない高校生なんだよ。この仕打ちは誰の仕
業なの?
「何が何だか判らないんですけど。ねえ、ど
うしたら元に戻ります?」
立場としては、彼よりアザトース(僕)の
方が上みたいなんで、とりあえず全部任せて
一気に解決だ!
2 もう一つの目覚め
目覚めると見知らぬ場所だった。いつもの
所在ではない。
フルートの音がしない。
そして、我は七野修太郎になっていた。
なぜ七野修太郎になっていたのか?そんな
ことはこっちが聞きたい。
どうして七野修太郎になっていると判った
のか?それは、生徒手帳なるものを見つけた
からだ。どうも高校生という種類の人間らし
い。
鏡をみるとさえないニキビ顔の少年が映っ
ていた。意味が判らない。
「ナイアルラトホテップはいずこに?」
我は唯一の下僕の名を呼んだがまともに発
音できなかった。これでは呼べないかもしれ
ない。しかし、この者以外との接触はいまい
ましい奴らの所為で絶たれている。我は万物
の王だぞ。
いつまで経ってもナイアルラトホテップは
来ない。今までこんなことは一度もなかった。
全宇宙の全次元のどこに居ても我の呼びかけ
に応じないことなど初めてのことだ。やはり
真面に発音できない所為か。
「早く起きて朝ご飯食べないと遅れますよ。」
ここは2階らしく、階下から声が聞こえた。
思うに、この七野修太郎という少年の母親の
ようだ。
「あ、おはよう、修ちゃん。早く支度しない
と、また遅刻するわよ。」
1階に降りると母親らしき女性が話しかけ
てきた。相手から見て外見上の違和感はない
ようだ。
「あら、どうしたの、そんな不思議そうな顔
して。」
我は無言で体が覚えている気がする椅子に
座った。そこにはトーストとスクランブルエ
ッグと珈琲が用意されている。これが朝ご飯
というやつらしい。
「変な子ね、具合でも悪い?」
そういうと我のおでこに手を当ててきた。
「熱は無いようね。本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ、かあさん。少し寝ぼけている
だけさ。」
自分で意識していなかった言葉が口という
器官を通して発せられた。我の意志ではなか
ったが、この場をやりすごすにはちょうと良
かった。
「早く着替えて出ないと電車に乗り遅れるわ
よ。」
「わかったよ、すぐに用意するから。」
出されたものを一通り平らげて我は2階に
上がった。高校に行く準備をしなければ間に
合わない。
違う。我は高校生などではない。万物の王
アザトースな筈だ。
もしかして、違うのか?
3 非日常の始まり
「お前はいったいどこの誰なんだ?」
外見上寸分違いないアザトースに向かって
そんな風に問いかけることには違和感がある
が我が主ではないことには確信があった。
「僕はただの高校生ですよ。七野修太郎、○
○県立明星高校普通科1-A、出席番号24
番。」
「そのような細かい情報はよい。なぜ我が主
の中に入っているのか。」
「それが判れば苦労はしません。ナイアルラ
トホテップ君は、このアザトースさんの僕な
んですよね?なら、なんとかしないと『我が
主』から叱られるんじゃないですか?」
確かにそうだった。我が主は忌々しい奴ら
の所為でこの場所に幽閉されて久しい。予定
調和であった先の戦いで、予定どおり敗北し
幽閉された。それは、この宇宙にとって必要
不可欠なことだった。
地球あたりの人類では観測も認識もできな
い、彼らがダークマターやダークエネルギー
と呼んでいる物は我々の存在そのものだ。
その中心たる我が主が勝利しその勢力を増
大させてしまうと宇宙全体のバランスが崩れ
ビッククランチという大収縮が発生してしま
う。我が主はどうしても幽閉されなくてはな
らなかったのだ。忌々しい奴らは我が主を封
印するだけで終わろうとするが、もし我が主
が勝利した時には相手を悉く消滅させてしま
う。そうなると宇宙の危機が訪れてしまう。
我が主には敗北していただくしか方法がなか
った。
しかし私は我が主を開放し、かつこの宇宙
のバランスを保つ方法を模索している。数億
年、数十億年、そんなことを続けているのだ。
我が主は「白痴の王」の名のとおり忌々し
い奴らからその知性をほぼ奪われている。そ
うは言っても人間には到底及ばない高いレベ
ルは保っているのだが。
それが今回のことで我が主の開放を招き、
全宇宙のバランスを崩してしまうのは時期尚
早だ。まだ解決策は見つかっていない。忌々
しい奴らも今は封印されているのではなくた
だの眠りについている。いま、この時期は拙
い。我が主が圧倒的に勝利してしまう。
「とりあえず、お前はここにじっとして居る
のだ。私は我が主、というかお前の体の所に
確認しに行ってくる。下手に動いてもしこの
幽閉場所を壊しでもしたら、この宇宙は吹っ
飛んでしまうと肝に銘じておけ。」
「ええぇ、そんなぁ。じっとしてるのって退
屈じゃないですか。何かパソコンとかスマホ
はないんですか?」
「そんなものがあっても、ここで使えるわけ
がないだろう。くれぐれもじっとしておるの
だそ。」
「できるかなぁ。あ、それとこのフルートの
音はなんとかならないんですか?あんまり好
きな感じの曲じゃないんですけど。」
「お前の好き嫌いは関係ない。この曲を流し
続けないと我が主の体が持たないのだ。我慢
して聞き続けろ。」
そういうとナイアルラトホテップは来た時
と同じように一瞬で消えてしまった。
「ああぁ、ナイ君、行かないでよ~。」
「ナイ君とは誰のことだ。」
またいきなり戻ってきた。
「だって、ナイアルラトホテップって長いじ
ゃないですかぁ。ナイ君でいいでしょ?」
「勝手にしろ。」
そう言い残してナイ君は再び消えたのだっ
た。
4 非日常の始まり2
「修太郎、おはよ~」
外見上寸分違いない七野修太郎に向かって
そんな風に話しかけてきたのは多分知り合い
の一人なのだろう。
「おはよう、向坂健太。」
「ん?何何?今日はフルネームで挨拶する日
なの?」
どうも別の呼び方があるのか。記憶にあっ
た名前を発音するだけでは駄目なのか。面倒
なことだ。
「そんな気分の日もある。」
我はとりあえず誤魔化すことに成功した。
しかし、これが続くようであれば、学校とや
らに行くのを止めようか。我は踵をかえした。
「おいおい、修太郎、どこに行くんだよ、学
校はこっちこっち。」
向坂に連れ戻されてしまった。何故この者
は我の行動を指図するのか。元の力を発揮で
きるのであれば許しはしない。ただ、今は何
の力も出せないので受け入れるしかないのか。
学校というところは不思議な空間だった。
大勢の人間たちが一つの狭い建物の中で集団
生活を送っているらしい。但し、一定の時間
のみなのだ。地球時間で24時間を1日とし
て、棲家と学校を行き来している。今日の我
のように徒歩や電車・バスと呼ばれる乗り物
に乗って。瞬間に遠くに移動する術を持たな
いのだそうだ。
「今日は何だか変な事ばかり聞くけど、どう
かした?」
向坂という人間に問われる。
「いや、色々と再確認しているだけさ。朝か
ら何だかぼぉーっとしているのは確かだけど
ね。」
七野修太郎の話口調も少し真似られるよう
になってきた。徐々に違和感は無くせるだろ
う。しかし、それで何かが解決するのか?
5 ナイアルラトホテップ
「我が主よ。」
帰宅途中に歩いている時だった。黒ずくめ
の男が声をかけてきた。ナイアルラトホテッ
プだ。今頃来たのか、遅い!
「何用だ。今頃来てお前はこの状況を打開す
る術を持っているのか。」
「申し訳ありません、我が主。お探しするの
に手間取ってしまいました。今の所、原因も
何も判っておりませんので対処する術は皆無
と言っていいでしょう。我が主の今入ってお
られるその体の高校生も突然ことで成す術が
ないようです。今は玉座で我が主の外見のま
ま私の帰りを待っている状況です。」
望みの綱だった僕がこの有様だ。どのよう
にこの状況を打破すればいいのか。
「それではお前は何をしに来たのだ。さっさ
と元に戻る方法を探して来い。」
「そこは、少し考えていたのですが、我が主
は元の幽閉された状況をどのようにお考えで
したか?たとえば、この機会を利用し、幽閉
から逃れる方法を探す方がよいのではないか
とすら考えておりました。」
「この格好のままでか。力も何もない状況で
か。そんな自由に何の意味があるのだ。」
アザトースは腹立たしかった。一介の高校
生の生活に何の意味があるのだ。それで人間
の一生を全うしたとして、そこに意義を見出
せるものではない。我は万物の王アザトース
なのだ。
「それは、考えようです。我が主には永劫の
時間が与えられております。その一時をこの
ようなお姿で過ごすことも一興ではないかと
思うのですが、いかがでしょうか。私が何か
の解決法を見つけるまでのわずかな間、とい
うことで。」
「なるほど、それは少し面白そうではある。
では、お前は我を元に戻す方法を探すのだ。
我はその間に退屈しのぎをすることにしよ
う。」
こうしてアザトースの暇つぶしが始まった。
6 杉江統一
「何故、この人間と言う生物は毎日毎日同じ
ことに繰返しに耐えられるのだ。我以上の忍
耐力に感嘆するわ。」
「我が主よ、我が主と比べるには地球人はあ
まりにも矮小だと思いますが。」
応えたのは七野修太郎の家庭教師という名
目で住込みで働いている(家族の記憶にはナ
イアルラトホテップが細工をしたようだ。)
杉江統一という青年だった。最近まで琵琶湖
大学という一風変わった大学に生徒兼助手と
して在籍していたのだが、退学して七野家に
来たらしい。手配はすべてナイアルラトホテ
ップが行った。
「それと、よろしいですか?」
「なんだ。」
「今後暫くはそのお姿で七野修太郎としてお
暮らしになられるのであれば、少し話口調や
人間関係にも慣れていただく必要があります。
僕は七野修太郎の家庭教師になりますので、
『先生』とか『杉江先生』と呼んでいただか
なくてはなりません。そして、僕は『修太郎
君』と呼ぶことになります。」
「なんだ、それは。」
アザトースは不満そうだった。元の身体な
らそうでもないのだが、この人間の身体では
感情が表情にそのまま出てしまう。元々隠す
ような環境になかった所為なのだが。
「お前を『先生』と呼ばなくてはならん日が
くるとは思いもしなかったわ。」
「そう仰らずに。ナイアルラトホテップから
も言われているのではなかったですか?」
「ふん。あいつもあいつだ。早く元に戻る方
法を見つけてくるべきだ。もしかしたら、あ
奴のことだ、この状況を面白がっておるので
はなかろうな。」
「その可能性は否定できません。」
「おい!」
「冗談です。彼は彼なりに真面目に探してい
ると思いますよ。」
「仕方がない、今回はあ奴とお前の言に従う
こととする。一興だと思うことにしよう。」
「よろしくお願いします。では、早速、修太
郎君、今から数学の勉強をしようか。」
「なっ、なんだと。我が勉強をするのか。」
「当たり前です。普通に高校生活を送ってい
ただくのですから、試験もあります。どんな
内容なのか、事前に把握しておかないと、低
い点を取ったら『やっぱり白痴の王なんだ。』
とか言われますよ。」
誰にそう言われるのかはこの際置いておい
ても、全くもって納得のいかないアザトース
だった。
7 向坂健太
「修太郎さぁ、加奈子とはどこまで行ったの
?」
向坂健太だった。この者は一体七野修太郎
にとっての何なのだろう。
「どこって?」
「またまたぁ。キスはしたんでしょ?まさか、
デートしといて手つないだたけで終りってこ
とはないよね?」
加奈子という異性と一緒にどこから出かけ
たイベントが最近あったのか。そんな記憶も
情報もないものを、どう対処しろと言うのだ。
「いや、そんなこと言うべきことじゃないで
しょ。」
「隠す、ってことは、やった、ってことだよ
ねぇ、いいなぁ。あんな可愛い子と。」
一体その加奈子とは、どの人間なのだ!何
かの対処が必要な相手ではあるのだろう。と
りあえず、個体の特定だ。
「加奈子は、今どこに?」
「えっ?、あそこに居るじゃない。見えてな
いのかなぁ、恋は盲目って?」
同じクラスなのか。ここ数日話しかけもし
ていないのは、マズいのかも知れない。さて
どうしたものか。帰って杉江に聞かないと全
く何も判らない。面倒なことが多い。一興な
どと言ってはいられない状況になりつつある
な。
「加奈子さん、また明日ね。」
なんとか声を掛けて教室を出た。後ろから、
なんだか甲高い複数の声が聞こえる。何かを
間違ってしまったのか。ああ、もう面倒だ、
全てを壊してしまおうか。
「ダメです。」
帰るといきなり杉江から言われた。
「その子とはちゃんと話をしてくだいね。そ
して今は勉強に集中しているから、とか何と
か誤魔化して二人っきりで会う機会は少し先
に延ばしてください。」
「そもそも何故我がそんなことに気を配る必
要があるのだ。我が入っているこの七野修太
郎という人間の生活を守る必要があるのか?」
「それは、まあ、そうなのですが、原因がは
っきりしていない現状で彼の生活を壊すこと
がどう影響を及ぼすのか、そこが判らないの
で、ここは我慢していただかないと。」
「そういうものか。ナイアルラトホテップを
呼べ。この人間の口では上手く発音できん。
元に戻す方法が見つかったのか、問いただす
のだ。」
「ちょっと待ってください。彼は今セラエノ
に行っている筈です。そこにある文献の中に
何か打開策があるのではないかと考えている
ようです。もう少し時間を与えてやってくだ
さい。」
「セラエノだと?あんな石板倉庫に本当に答
えがあるのか。」
「それは判りません。今の所、そこしか頼る
とこがない、という事ではないでしょうか。」
「うむ。それにしても不自由さ極まりない。
もう少し元の力を発揮できればいいのだが。」
「それは無理というものです。貴方は他のど
の存在より念入りに封印されているのですか
ら。知性すら奪われて。」
確かに物理的に身体を動かしたり、ほとん
どの知性を奪われた状態での思考しかできな
かった。まだ小さい身体ながら動けるだけマ
シというものだ。少なくとも移動ができる。
「いずれにしても、早々に解決策を見つけて
戻るよう、ナイアルラトホテップに伝えてお
くのだ。」
8 斎藤加奈子
「なんか最近、修太郎君の様子が変なんだよ
ね。」
君塚理恵は親友の斎藤加奈子から相談を受
けていた。付き合いだして間がない、同じク
ラスの七野修太郎が変だと言うのだ。
「どこらあたりが変なの?」
「電話も出ないし、メールもラインも返信な
いから、どうしたの?、って聞いたら、無視
ってか、私の存在に気が付いていないような
感じでスルーされたの。私、何か悪いことし
たのかなぁ。」
「でも、今日の帰りは声を掛けられてたじゃ
ない。」
「それはそうなんだけど、加奈子さん、とか
言って絶対変だよ。付き合う前から、加奈子
って呼び捨てだったのに。幼馴染なんだから
今更加奈子さん、とかあり得ない。向こうか
ら付き合ってくれ、って告白したくせに。」
「そっかぁ。確かに最近ちょっと様子がおか
しいよね。心ここにあらず、って感じで。」
「でしょう?ほんと、この3日ほどは別人み
たいに見える。」
「健太が何か知ってるかもよ。本人に聞きに
くいなら、とりあえず健太を先に締め上げる
ことだね。」
「協力してよ。」
「わかった、わかってる。でも向こうから
告ってきたのに、スルーされると加奈子が
追いかけてるって感じなんだ。」
「それは、まあ、元々ずっと好きだったし、
って何言わせるのよ。」
「ごめん、ごめん。明日にでも健太を拉致
って吐かせよう。」
「うん、ありがと。」
向坂健太は自身は不在の場所で明日の拉致
監禁が決定したのだった。
9 君塚理恵
翌日、君塚理恵に呼び出された向坂健太は
体育館の裏手に呼び出された理由も判らず、
ちょっと期待しながらやって来た。
「こんなところに急に呼び出してなんだよ。」
そこに斎藤加奈子が居たのは意外だったが
友達についてきてもらう、というのは有りが
ちなのでまだ期待は残っている。
「修太郎君のことよ。」
「なっ、なんだ修太郎のことか、まあそんな
ことだとは思っていたけどね。」
向坂健太は背中に流れる変な汗を感じなが
ら平静を装ったが、多分無駄のようだ。
「なんか勘違いしてない?私がアンタなんか
呼び出して告るわけないじゃん。」
「あっ、当たり前だろ、誰もそんなこと思っ
て来てないよ。」
「どうだかねぇ、まあいいわ、それより修太
郎君のことよ、アンタなんか聞いてない?」
動揺が隠せなかったことは、もう仕方ない
と諦めた。
「なんか、って言われてもなぁ。確かに最近
の修太郎はちょっと変だよね。僕の顔を忘れ
てた感じの朝があったし。」
「何よ、それ。」
「朝、おはよー、って声を掛けたら、ちょっ
と思い出そうとしているタイムラグがあって、
向坂健太、ってフルネームで挨拶を返したん
だぜ。」
「それはおかしいわね。」
「それと昨日は加奈子に、加奈子さん、とか
言ってたし。」
「それよ、それ。さん付けとか絶対に変だよ
ね。加奈子、あなたも何かいいなさいよ。」
「わたしは、確かに昨日も変だったし、電話
にも出ないし、一昨日は無視されたし、修太
郎を怒らせるようなことした心当たりもない
し、よく判らないんだ。」
「なんか、確かに別人としやべってるみたい
に感じる事が多いんだよなぁ。外見は全く修
太郎のままなんだけどね。」
「中身が別人と入れ替わってるって言うの?」
「いや、そんなことあり得ないとは思うけど
感じとしては、それしかないんだよな。若し
くは多重人格とか。」
「何馬鹿な事言ってるのよ。加奈子が怖がる
じゃないの。」
「理恵、でも私もそんな感じがしているんだ。
修太郎の顔をしているけど、あれは多分修太
郎じゃない。」
三人はお互いの顔を見回すだけで結論が出
なかった。
「こうなったら本人に直接聞いてみるしか無
いね。今日でも修太郎の家に行ってみる?」
いつの間にか三人のリーダーになってしま
っている君塚理恵が決断した。今日の放課後
だ。
10 家庭訪問
「あなたたちは?」
七野修太郎の家を訪ねると杉江と言う家庭
教師が対応に出た。本人は既に帰宅している
ようだし母親も在宅しているようだ。
「修太郎君の友達です。少し彼と話をしたく
て来ました。電話しても出ないしラインも既
読にもならないので。」
「そうですか。彼は少し体調が悪くて休んで
いますので、今日の所はお引取りいただけま
すか。明日はまた普通に登校できると思いま
すので。お名前だけお伺いして、来られてこ
とは本人に伝えます。」
「そうですか。私が君塚理恵、彼女は斎藤加
奈子、彼は向坂健太の3人です。よろしくお
伝えください。」
3人は諦めて帰ることにした。明日には学
校で会えるのだ。そのときに問い詰めればい
い。
しかし翌日、七野修太郎は来なかった。
「修太郎、どうしたんだろう。相変わらず電
話もメールもラインも駄目だ。」
「今日、もう一度行ってみる?加奈子、どう
する?」
「何か、確かめるのが怖い。触れてはいけな
い事のような気がする。気になって仕方がな
いのはその通りなんだけど、やっぱり怖い、
の方が強いかも。」
「加奈子がそんな弱気でどうすんのよ。わか
った、私と健太で行ってみる。結果はすぐ伝
えるから。」
「伝えられないことは、伝えないで。本当に
怖いから。」
「わかった。ちゃんと判断して言うから。」
放課後。今度は2人で七野家を訪ねた。再
び対応には杉江と言う家庭教師が出てきた。
住込みらしい。そんなに裕福な家庭じゃなか
ったはずだが。
「昨日はどうも。修太郎君、来なかったんで
すけど、そんなに体調悪いんですか?心配で
また来ました。」
「今日は1人少ないですね。たしか斎藤さん
と仰いましたか。」
「加奈子は今日は用事があって。それで、修
太郎君はどうなんですか?少しでいいので会
わせてもらえませんか。」
杉江は少し考えて答えた。
「本人は今、まだ休んでいますので、僕でよ
ければ少しお話させていただきましょうか。
ここでは何ですので、近くのファミレスでで
も。」
この際、情報は少しでも得たい。2人は杉
江の申し出を受けることにした。
徒歩5分ほどで行けるファミリーレストラ
ンに着くと杉江が話し始めた。
「さて、何からお話しましょうか。」
11 宇宙創造
「宇宙について考えたことはありますか?」
杉江統一がいきなりそう問いかけた。
「そんな、いきなり何ですか。宇宙なんて興
味ありませんけど。」
「僕は少し考えたことあります。ちょと好き
なので。」
君塚理恵と向坂健太の間では少し温度差が
ありそうだ。
「宇宙がどうやって始まったか、はご存知で
すか?」
「ビックバンとか、そういうことですか?」
健太は確かに少し知識があるようだ。
「そう、そのビッグバンです。でも、そのビ
ッグバンが起こる以前には何があったと思い
ますか?」
「そっ、それは。何も無かった、というのが
最近の風潮ですよね。」
「そうですね。無が揺らいでインフレーショ
ンが起こってビッグバンが起こったと言われ
ています。無が揺らぐ、というのはなかなか
想像しずらいのかもしれませんが、無は少し
の刺激で大爆発を起こしたりするのです。そ
して、その刺激をするのが最初のアザトース
と旧神のどちらかで、その後の宇宙の基礎が
全く別のものになってしまうのです。マルチ
ユニバースという概念は判りますか?」
「多重宇宙、みたいなもんですか。」
もう理恵には全く付いていけない。
「まあ、そんなものです。アザトースと旧神
は、今まで数多くの宇宙を創造して来たので
す。そして、この宇宙はその一つ、という訳
です。今回は旧神が優位になるよう調整され
た宇宙ということになります。」
「調整、ですか。あの、少しは仰っている意
味が判りますが、それと修太郎の件がどう繋
がるのでしょう?」
「ああ、そうですね。お聞きになられたいこ
とは、それですものね。」
「そうよ、宇宙がどうとか、意味が判らない
わ。」
理解できないことを並べられてキレ気味に
理恵が入ってきた。
「さきほど言いました宇宙を創造する存在で
あるアザトースと旧神の一方であるアザトー
スが七野修太郎君の身体の中に入ってしまっ
ている、ということなのです。」
2人は、ただ唖然とするだけだった。
12 人間原理
「人間原理というものは、ご存知ですか?」
それは向坂健太も知らなかった。君塚理恵
からすると、チンプンカンプンだ。
「この宇宙は人類が観測したから発生した、
とも言えるのです。観測する者が存在しない
宇宙は存在しない、ということと、この宇宙
は地球の人類の為だけに存在している宇宙で
あり、それ以外の他者は存在しない、という
ことでもあるのです。」
「なんだか、観念的過ぎてよく判りませんが
その人間原理がどう関わってくるのですか?」
「この宇宙は人類が発生し観測することによ
って存在している、ということなのです。逆
にいうと観測できる人類が発生するように調
整された宇宙、ということですね。」
「全てが地球の人類のために創られたもの、
ということですか。」
「そうです。そして、この宇宙では予定調和
として旧神と旧支配者の戦いが起こり、それ
は前者の勝利をもって終わることになってい
る、ということでもあります。アザトースと
言うのはその負けた方の主格ですね。」
「確か、昔のアメリカの小説家が残した話に
そんなことが書いてあると聞いたことがあり
ますが、それですか?まさかフィクションで
はないと?」
「ラヴクラフトのことですね。彼はその特有
の精神感応力から真実を導き出した数少ない
存在です。但し、そのまま発表するにはあま
りにも荒唐無稽な話なので小説という形を取
らざるを得なかったようですね。但し、その
業績は今も様々な後継者によって引継がれて
いますが。」
荒唐無稽どころの騒ぎではない。そんな話
を信じろと言う方がどうかしている。
「その負けた方のアザトースが修太郎の中に
入っている、と仰るのですか?」
「そういうことです。理由は今のところ判明
していません。よって七野修太郎の普通の生
活を壊さないように善処している、というと
ころなのですが、近しいあなたたちのように
違和感に気が付いてしまう存在は十分予想さ
れたことです。但し、対処方法は今の所思い
ついてはいないのですが。」
健太や斎藤加奈子が感じていた違和感は
確かにそれで説明できるが、その原因があ
まりにも誇大妄想的で、信用していいのか
悪いのか判断が付かない。
「それで、あなたはどういった関わりをも
つ方なんですか?」
目の前の杉江統一という自称家庭教師も
何かの人類ではない存在だというのだろう
か。
「僕ですか。僕は先日大学を退学してしま
った元学生の杉江統一という者です。それ
以上でも以下でもありませんよ。ただアザ
トースやナイアルラトホテップとは昔から
のちょっとした知り合いではありますけど
ね。」
「ナイ?何ですか?」
「ナイアルラトホテップ、です。今彼がア
ザトースを元に戻す方法を懸命に探してい
るところなのです。本来それは僕の役目の
筈なのですが。とりあえず彼が戻るまで、
しばらくはこのまま何事もなかったかのよ
うに振る舞っていただく訳には行きません
か?」
「そういわれても中身の違う修太郎と今ま
でと同じように接しろ、と仰るんですか?
それはちょっと難しいと思いますけど。」
「さっさと元に戻して修太郎を返してくだ
さい。加奈子もきっとそう言うに違いない
と思います。」
杉江は少し困った顔になった。その方法
が見つからないので、こんな状況になって
いるのだから。
「そうしたいのは山々なのですが僕たちに
とっても不測の事態でして。アザトース本
人や七野修太郎君にとっても全くもって予
想外だった筈です。」
「今、修太郎は、というか入れ替わってい
るとしたらそのアザトースさんとか言う人
の身体は何処にあるんですか?」
「アザトース本体は旧神によって幽閉され
た閉ざされた空間に居ます。四次元とかと
は本当は少し違うのですが、感覚的にはそ
う思ってもらっても強ち間違いではありま
せん。修太郎君とはその玉座、僕たちはそ
う呼んでいる所ですが、そこでナイアルラ
トホテップが接触しています。アザトース
の中に七野修太郎君が入っていることは確
認済です。」
「どうしたら、そこに行けるんですか?」
「いや、そこには僕でもそう簡単には行け
ません。行き来できるのはナイアルラトホ
テップだけです。旧神でさえ自由には出入
りできないのです。まあ、旧神は今眠って
いるので、この現状も知らないままでしょ
うが。」
「そんな無責任なものなんですか、その旧
神とか言う人は。」
理恵は少し腹が立ってきた。意味も解ら
ない、理由も判らない、解決策もない、何
もしてくれない、その旧神とかいうやつは
手を抜き過ぎとしか思えない。
「無責任というか、まあこの事態は想定し
ていなかったのでしょうね。元々地球が消
滅してしまうまでの宇宙ですから。」
「ちっ、地球が消滅するんですか?」
「それはいずれするでしょうね。太陽はい
つまでも今の大きさを保つ訳ではありませ
んから、いずれ飲み込まれて消滅です。」
杉江はあっさりと言う。それは数十億年
も先のことではあるが確実に訪れる未来で
はあるのだ。
「そんな先の話ですか。」
「消滅する運命には間違いありませんね。
まあ、地球より先に人類は死滅してしまう
でしょうが。」
やはり杉江の言い方を聞いていると自身
は人類ではない、と言っているように聞こ
える。
「もしかしたら、その破滅が突然訪れる前
兆なのかも知れない、と言ったら脅し過ぎ
でしょうね。」
「怖いこと言わないでくださいよ、心臓に
悪い。」
「まあ、万が一にもそんなことが起こらな
いように協力してほしい、ということなの
です。」
杉江の話は、結局そこでまとめられてし
まった。
13 セラエノ大図書館
そこはプレアデス星団とよばれる恒星群の
中にある恒星のひとつセラエノの第四惑星に
あった。恒星の名前のままセラエノ大図書館
などと呼ばれている。惑星そのものには決ま
った名前はないが、それは地球から観測でき
ないためであり人類はその存在を確認できて
はいない。
そこには巨石によって作り出されたとは思
えないフォルムとしてはかなり機械的な建物
群が聳え立っていた。
そこを管理しているのは円錐型の生物であ
るが、元々そこに居た者たちではない。旧神
によって作り出され、図書館を管理者するた
めに連れてこられた者たちだ。
そこを訪れる者は、図書館が置かれた時か
ら数十億年のうち、ほんの一握りである。ほ
ぼ訪れる者は居ない。記録として後世に残す
ために設置されただけで、そこを利用する者
たちが居ることは想定されていなかった。そ
のため貸出、というシステムは無く、その図
書館内で内容を確認できるだけだった。複写
などの設備はない。
また、様々な言語や方法にて記録されてい
るので、一人の人間が解読しようとすると、
相当に手間取ってしまう。超過去の言語も多
数存在するからだ。言語ですら無い物も存在
する。触れれば直接脳に内容が流れ込んでき
たりするのだ。
ナイアルラトホテップにしても、ここを訪
れるのは初めてのことだった。この宇宙には
観測者としての人類のような者と創造主、そ
して調整者としての存在の自分や杉江統一の
ような者の他には、この地を訪れようとする
者は皆無な筈だった。調整者が訪れたのも多
分自分が初めてだろうと思った。
建物の玄関口のようなところから入ると、
大きなホールが現れた。そこから各通路が放
射線状に延びていて、その先に様々な書物が
保管されているようだ。探さなければならな
い書物がどこにあるのか、初めてのナイアル
ラトホテップには見当もつかない。探すとサ
イズ的には地球の人類とそれほど大きくは変
わらない円錐状の物が動いているのを見つけ
た。会話が通じるとも思えなかったが、自ら
の本来の言語で話しかけてみた。
「探し物をしているのだが、案内を頼めるの
かな?」
円錐状の生物(無機物なのか有機物なのか
一瞥では判断付かない)は少し考えたような
時間の後、いくもある通路の一つに向かって
動き出した。付いて来いとでもいうのだろう
か。
仕方なくナイアルラトホテップは後を追う
ことにした。
14 日常の再開
「修太郎、おはよう。」
恐る恐る、向坂健太が七野修太郎に声を掛
けた。咬みそうな犬に手を差し出すかのよう
な不安気な態度がいつもの健太と違うので、
周囲は変に思っただろう。
「おはよう、健太。杉江先生から聞いただろ
うけど、まあ、しばらくはヨロシク。」
「そう言われても、中身は修太郎じゃないん
だよね?合わせるの大変だと思うけどな。」
向坂健太らしくなく小声で修太郎に話しか
けた。
「まあ、なんとかなるだろう。気にしていた
らキリがないさ。」
「なんか、確かに日に日に修太郎っぽくなっ
てるのは間違いないんだけど、まだまだ変な
トコばっかだよ。」
「そっか。この口調にも多少は慣れてきたん
だけどなぁ。もっと彼のことを教えてくれな
いか。」
アザトースにしては、神妙な面持ちで頼ん
だ。昨日戻った杉江統一から強く釘を刺され
ていたのだ。健太や斎藤加奈子、君塚理恵を
先生として七野修太郎の振る舞い方を教えて
もらうように、と。その際、頭を下げて教え
を請うように、とも。全くもってアザトース
は納得がいかなかったが、渋々従うことにし
たのだ。アザトースにもさすがにこの宇宙が
完全消滅してしまうにはまだ早いということ
が理解できる。そう簡単に壊してしまう訳に
は行かないのだ。それは旧神と交わした約束
でもある。別のアザトースが勝利する宇宙の
時に逆にすぐに崩壊させられてはたまったも
のではない。
「僕はなんだか面白そうだからいいけど、加
奈子はどうすんの?付き合いだして間がない
のはクラスのみんなも知ってことなのに。」
「それは、もしかしたら大きな問題なのでは
ないか?」
「そうかも知れないね。一旦喧嘩したとかで
距離を置いてることにした方がいいかもな。」
「その加奈子とかがそれでいいなら、僕は問
題ないけどね。」
「いや、問題は大ありだよ。」
「そういう物か。」
「そういう物だね。」
また、さらに気が重くなったアザトースだ
った。
15 日常の再開2
「因数分解って何?これでいったい何が判る
の?いつ、どこで使う物なの?」
「そんなこと僕に言われても。」
アザトースは納得いかなかった。勉強とい
う概念は理解できる。それは教えてもらわな
ければならないことも。だが、そもそも教え
てもらう内容が、どんな役に立つものなのか
を理解もしないで、この者たちは一体なぜ勉
強しているのだろうか?
「使うべきところがあるのなら覚えたらいい
けど、使うかどうかも判らないのに一生懸命
勉強するって、頭おかしいんじゃない?これ
が普通なの?僕が言ってることが間違ってる
のかな?」
「いや、間違ってはいないとおもうけど、学
校で勉強するのは基礎だから、その基礎が出
来ていないと将来困るだろうから、今勉強す
るんじゃないかな。」
「それなら、必要になったら覚えればいいじ
ゃないか。全体を広く浅く勉強するより、実
際に役に立つことをピンポイントで深く掘り
下げて覚える方が合理的だと思うけど。」
「まあ、それはそうなんだけどね。って、な
んで僕が修太郎に怒られないといけないんだ
よ、勘弁してよ、文科省の役人じゃないんだ
から。」
「その文科省の役人が悪いんだな。今から変
えるように言いに行く?」
「やっ、やめてよっ。普通の高校生はそんな
ことしないんだって。特に七野修太郎って人
間は『長いものに巻かれたい』っていう極端
に受動的な人間だったんだからさ。」
「そういうものなのか。それならまあ仕方な
いが、納得は行かないな。」
「もしかして、覚えるのが嫌で言ってない?」
「いっ、嫌、そんな訳ないじゃないか。僕は
万物の王なんだし、なんでも知ってるけどい
ちいち細かいことは覚えてないだけなんだっ
て。」
「でも、杉江さんから聞いたけど、知性のほ
とんどは旧神に封じられて『白痴の王』とか
言われてるんじゃなかった?」
「あっ、杉江のやつ、言わなくていいことを
べらべらと。健太、それは聞かなかったこと
にしといてよ。ほとんど、って言うけど結構
知性は残っているんだから。地球人と比べて
も全然勝ってるってば。」
「だったら、今度のテストで勝負する?負け
たら何でも言うこと利く、ってのどう?」
「えっ。いや、まあ、負ける訳ないし、それ
はいいんだけど健太に不利過ぎないかな、そ
れが心配だけど。」
「そんな心配はご無用!僕は元々ちょっと修
太郎よりは成績よかったんだから。」
「そうなのか。なんでよりによってこんな奴
の中に入ってしまったんだろうな。ちょっと
待ってよ、テストまで何日だっけ?」
「来週の月曜日から4日間だよ。今日は金曜
日だから、もうすぐだねぇ。」
なんだか、向坂健太はこの状況を楽しみだ
したようだ。
16 日常の展開
「喧嘩したも何も、そもそも本人じゃないん
だから、さっさと元に戻しなさいよ!」
この娘は万物の王を何だと思っているのだ
ろう。本来の力が戻れば地球など跡形もなく
破壊できるというものを。
「それを今探しているから、その間はなんと
か繋がないと、ってことでしょ。協力してく
れる、って約束じゃなかったの?」
「それはあくまで仕方なしに、って話よ。大
体加奈子の所為じゃないのに、なんか加奈子
が可愛そうだわ。黙ってないで加奈子も何か
言いなさいよ、でないとこいつ付け上がるだ
けだわ。」
こいつ扱いだと。アザトースはこの君塚理
恵という人間が苦手だ。
「わっ、私は特に何も。早く修太郎が戻って
来さえすれば。一日でも早く会いたい。ただ
それだけ。」
「ほらぁ、加奈子が落ち込んじゃってるじゃ
ない。万物の王だかなんだか知らないけど、
ホント役立たずね。」
万物の王、ということは一応知ってはいる
のだ。それでいて、この扱いなのか。
「元の身体に戻ったら、まっ先にお前を八つ
裂きにしてやろうか。」
「すごんだって駄目よ。元に戻ったって力は
封印されてるんでしょ?杉江さんがそう言っ
てたわ。今すぐっていうなら喧嘩しても私が
勝つわよ。」
アザトースは反論の言葉もなかった。それ
にしても地球の一個人に情報を与え過ぎだっ
た。何を考えているのか、杉江統一という存
在も多少不気味に思えてきた。
そして、中身が七野修太郎のアザトース。
「相変わらずフルートが煩いなぁ。ナイ君戻
って来ないしなぁ。加奈子、怒ってるだろう
なぁ。健太や理恵は驚いてるんだろうなぁ。
お腹すいたなぁ。でも時間の感覚がないから
今が何日の何時か判らないなぁ。餓死したり
しないのかなぁ。母さんどうしてるかなぁ。
ここがあの世だったら父さんにも会えるかも
知れないなぁ。そういや、もうすぐテストが
あったなぁ。健太には負けっぱなしだし、次
は頑張ろうと思ってたんだけどなぁ。」
色々な思いが頭の中をぐるぐると回ってい
る。真っ白な境界も判らない世界。身動きも
できない。そんな中で精神的に崩壊しない人
間は居ない。だが、七野修太郎は大丈夫だっ
た。それこそが、彼が選ばれた要因だったの
だろうか。いずれにしても、打開策は皆無な
のに変わりはなかった。
17 異形の司書
「お前は私がどんな要件でここを訪れたのか
を理解して案内してくれているのか?」
ナイアルラトホテップの問いに円錐型の生
物(?)は答えない。ただ迷路と化した複雑
な図書館内の通路を進んでいく。歩行してい
るのか、浮遊しているのか。足のようなもの
なのか車輪が付いているのか。床が岩ででき
ているにも拘わらず移動音はほぼ無かった。
いくつかの角を曲がったとき、一つの大き
な扉が現れた。円錐型のサイズからすると3
倍はあるだろうか。センサー式なのか、どこ
にも触れずボタンも押していないのに勝手に
扉が開いた。円錐型の司書(?)は躊躇いも
なく入る。ナイアルラトホテップも続く。
中はまた、高い(多分10mはあるであろ
う)天井まである書庫の通路だ。雑多なサイ
ズの書物が煩雑に並べられている。とても整
理整頓されているようには見えない。
「お前たちはちゃんとここで本の管理をして
いるのか?分類も並べ方もいいかげんじゃな
いのか。」
そう言うと円錐型が不意に停止した。こっ
ちを向く。但し顔に表情がある訳ではないの
で、その内心は計り知れない。自らの仕事に
ケチを付けられて憤慨しているようにも見え
る。円錐型はまた向き直して進みだした。結
局何も話さないし精神に直接語り掛けたりも
して来ない。コミュニケーションの方法が見
当たらなかった。
こんどは円錐型がなんとか通れるようなサ
イズの扉の前に出た。自動で扉が開く。中は
天井まで2mもない狭い空間が続いている。
天井まで書庫があるのは同じだ。天井まであ
るので通った通路以外の通路に何があるのか
は判らない。同じように書庫が並んでいるの
であろう。
それにしても、こんなにサイズが違う必要
があるのだろうか。種々雑多な生物が訪れる
かもしれないので、こんなことになっている
のか。だとしたら、もっと汎用サイズに統一
すればいいものを。ナイアルラトホテップは
自らのサイズを自由に変えられるので問題な
いが、大きな生物が来たら今いる通路は通れ
ないだろう。但し、知性のある程度進んだ生
物はほぼ地球の人類サイズになってしまうの
で、問題のだろう。
円錐型司書がやっと停止した。触手のよう
な物を伸ばして指示した時には、また小さな
ドアがあった。その中には人の気配がする。
誰かが書物を閲覧しているのだ。地球の人間
のようだった。ここに来るまでナイアルラト
ホテップは特に不定形で混沌とした形を取っ
てきたのだが、相手を驚かさないよう人間の
形に自身を変えてから入ることにした。神父
の姿だ。最近はこの姿を用いていることが多
い。一応これでも気を使っているのだ。
ドアを開けて中に入った。少し大きめの閲
覧室のようだ。一人だけ熱心に書物を読んで
いる人間がいる。どこかで見たことがあるよ
うな気もするが、見知った顔ではなかった。
「あっ。」
入ると向こうが気が付いた。そして、それ
はこちらがナイアルラトホテップであること
にも気が付いているようだった。やはり見知
った顔ではないが、相手はどうやらこちらを
知っている。
18 閲覧者
「まっ、まさか、ナイ神父その人じゃないで
すよね?」
「我がこの場所に居ることが意外か?お前は
いったい誰だ?」
「私は、ラバン・シュリュズベリィの父方の
従弟の孫でマーク・シュリュズベリィといい
ます。まさか、こんな場所であなたにお会い
できるなんて。」
「ラバンとは、あのラバンか。人間にしては
忌々しいやつだ。旧神と大差ない。」
「それは博士にとってはきっと賛辞になるで
しょうね。あなたたちの目論見を阻止し続け
ることが博士の悲願でしたから。」
「それで、そのラバンはどうしたのだ。確か
普段はこの図書館に居ると聞いたことがあっ
たが。」
「そうです。先日までは確かにここで研究を
重ねていました。もちろん、旧支配者たちの
復活を阻止するため、ですが。ただ、ここで
は人間としての寿命が延びる特性があるので
すが、さすがに天寿を全うされてお亡くなり
になられたのです。それで代わりに私がここ
に来ている、という訳です。」
ラバン・シュリュズベリィとは何度か会い
まみえたことがあるナイアルラトホテップだ
った。敵とはいえ、敬意を払うに値する相手
だ。
「そうか、それは人類にとって惜しい者を失
ってしまったことになるな。あれほど理解と
知識が深かった人間は過去そうは居なかった
はずだ。我ですら残念に思うぞ。」
「ありがとうございます。そして、今後は私
もよろしくお願いします。」
「お前が何者かは判った。ラバンに敬意を表
することは吝かではないが、お前とはそんな
関係ではないはずだ。今ここで滅してやって
もいいのだぞ。」
「そんな怖いこと仰らずに、お手柔らかにお
願いしますよ。でも、あなたがこんな場所に
現れた、とうことは、何が深刻な事態でも起
きましたか?あなたならこんな場所に来なく
ても自らの知識ですべてに対して澱みなく回
答を導き出せる存在であるはずですが。」
「お前に言われるまでもないわ。確かに我の
中にある知識は膨大である。ただ、森羅万象
の全てを網羅している訳ではない。我が主が
その知性を全て取り戻されたなら、足元にも
及ばない程度なのだ。だから、ここを頼るこ
とを思いついた訳だ。」
言ってから、ナイアルラトホテップは失敗
したことに気が付いた。人間に言うには事が
重大過ぎる事態なのだ。実は地球では杉江統
一が君塚理恵と向坂健太に既に話をしてしま
っていたのだが遠く離れたナイアルラトホテ
ップには知る由もなかった。
「それほど重大な事態が起こっているのです
か?私にお役に立てることはあのますか?」
マークとしては事態の全貌を把握したい。
その上で地球や人類に有利になるよう解決し
たかった。ナイアルラトホテップを焦らせる
事態、ということがまず信じられなかったの
だが。
「確かにここはお前たちの知恵も借りた方が
いいのかも知れんな。これは、この宇宙全体
に関わることなのだから。」
19 玉座の日常
「ナイく~ん、放置プレイ過ぎだよ~。忘れ
られてるんじゃないかなぁ。酷いなぁ。あれ
から何日経ってるだろうなぁ。加奈子あたり
は、なんかおかしいって気が付いてくれたの
かなぁ。中身がアザトースさんなんだもの、
普通気が付くよなぁ。」
実際の所、気が付いているのは向坂健太、
君塚理恵、斎藤加奈子の三人だけで、母親で
ある七野祥子ですら気が付いていなかった。
母親は自分の息子が普段から「変な子」とし
か認識していなかった。違和感があったとし
ても、そんなことを息子がわざとやっている
としか思わないような母親だった。全部受け
入れてしまう、というところは母親似だった
のだ。別に息子が嫌いでもない。むしろ父親
が早くに亡くなっているので溺愛していると
言ってもいいくらいだ。だからこそ、息子の
変化は受け入れてしまうべき変化だった。
それにしても、やることがなかった。暇す
ぎた。普段は絶対思わないだろうが、勉強し
たい、とすら思った。
「ここままだったら、嫌だなぁ。いつ元に戻
れるのかなぁ。せめてナイ君でも、戻ってき
てくれないかなぁ。加奈子と付き合いだして
まだ1回しかデートに行ってないものなぁ。
幼馴染なんで、ちょっと付き合っているって
言っても照れくさいしなぁ。2回目には手く
らい繋いでもいいよなぁ。1回目が遊園地っ
てベタだったかなぁ。次は映画でも行こうか
なぁ。中は暗いから、ちょっとくらいいいよ
なぁ。その先は、まあ、考えても仕方ないよ
なぁ。」
頭の中の想像ですらブレーキがかかってし
まう純朴な少年なのだ。
「そういや、どっかで聞いたことあるな。ア
ザトースとかナイアルラトホテップとか。ど
こだったっけ。ネットだな。なんかのサイト
だったな。う~ん、なんだったっけ。」
勉強は苦手だが記憶力は人並み外れていい
方だったが、思い出せそうで思い出せなかっ
た。何かのきっかけがあれば。
「あっ、そうだ。TRPGにそんなのあった
よな。『クトゥルフの呼び声』だっけ。やっ
たことないけどルールブックみたいなものは
読んだことあるなぁ。誰かに借りた本だ。誰
だっけ。なんか強引に薦められた気がするな
ぁ。誰だったかな。あ、加奈子だ。確か、加
奈子の家に遊びに行ったとき、一回これを読
んでみて感想を聞かせて、とか言われて、な
んか中途半端に読んでいい加減な感想言った
ら怒られたんだった。興味を持ったなら、ま
だ読んでほしい本がたくさんあったのに、と
か言ってたなぁ。そんなこと今まで一回も言
ったことなかったのに、今思えば変だなぁ。
自分でも文章書くのが好きで将来の夢は小説
家だとか言ってたはずだよな。」
「たしか、そこに出てきた名前がアザトース
とかナイアルラトホテップとか覚えにくい名
前だったなぁ。内容はどんなのだったっけ。
宇宙的恐怖とかなんとか。旧神と旧支配者と
の戦いがあって旧神が勝ったんで旧支配者た
ちが封印されたんだったっけ。なんでどっち
も『旧』が付くんだ?とか、負けたら死ぬん
じゃないの?とか思った記憶があるな。たし
かアザトースって旧支配者の中心的存在じゃ
なかったっけ。だったら、この身体の人は結
構偉い人なんだ。ナイ君は封印されてないん
だから、格下なのかな。」
「誰が格下だ。」
いきなり黒い塊が現れて人型に収束してい
った。ナイアルラトホテップだ。
「驚かさないでよ。いつも突然現れるんだか
ら。」
「今から出ます、といってヒュ~ドロドロと
でも音楽を流せとでもいうのか。」
「ヒュ~ドロドロって何?」
「いや、もういい。それより、何か変わった
ことはなかったか。」
「何もないよ~。ないから、もう退屈で退屈
で。やっぱスマホくらい欲しいなぁ。」
「そんなものがここで使える筈がないだろう
と前にも言ったはずだが。」
「それくらい覚えてるけど、ナイ君ならそれ
くらいなんとかなるんじゃないかなぁ、って
思ってさぁ。アザトースさんと同じくらいの
力を持っているのに封印されていない唯一の
存在なんでしょ?」
七野修太郎は徐々に思い出していた。頭に
奥に仕舞っているだけで覚えているのだ。そ
れもかなり詳細に思い出しつつあった。
「今、格下だとか言っていたのは我の聞き違
いか?」
「いや、まあ、それはそんなことを言ってた
ら怒って戻ってきてくれるんじゃないかと思
ってさ。」
修太郎としては後付けではあったが、いい
方に理由づけできた。
「まあ、いい。こちらの状況は特に進展はな
い。地球のお前の身体の方には別の者に付い
てもらってある。お前の周辺の者たちへの対
応のためにな。そして解決方法を探す方は、
さっきまでセラエノ大図書館に居たのだが、
そこで会った地球人に頼んできた。あやつも
地球や宇宙の一大事だという共通認識をもっ
て探してくれている。何か見つかったら、す
ぐに対応できるよう、我はフリーで動けるこ
とにしたのだ。はやく解決しないと、もっと
重大な事態を招くとも限らん。とりあえず、
お前はここでじっとしておれ。」
「え~、まだここに居るの?ホントすること
なくて飽きたんだけど。」
「そんなことは知らん。我は今から地球に行
ってくる。何か希望はあるか?」
「特にないけどなぁ。ああ、もし加奈子に会
ったら『愛してるよ』って伝えておいて。」
「そんなことできるか!」
そのまま黒い影となって消えてしまうナイ
君だった。
20 ナイ君の日常
「お前はどうしてそう簡単に人間などに現状
を打ち明けてしまうのだ。」
ナイアルラトホテップは愕然とした。アザ
トースの監視を依頼していた杉江統一は、ア
ザトースが入っている身体である七野修太郎
の友人に中身のことを話してしまっていた。
「いや、彼らはちゃんと中身が違うことに気
が付いていましたよ。だったら本当のことを
話した方がいいと思いまして。ただ彼らが他
の人間にそのまま話をしても誰も信用しない
でしょうから広がる可能性はないと思います
よ。彼らでさえ半信半疑でしょうから。」
「まあ、それはそうだが。我にしても未だに
起こったことが信じられないからな。」
「それで、セラエノはどうでした?」
「うむ、彼の地には膨大な書物、資料が雑多
に保管されておった。円錐型の司書が居った
が役にはたたんな。地球人が一人いたので、
その者に事情を説明し解決策を探すよう依頼
して来た。」
「なんだ、ナイアルラトホテップさんも話を
してるじゃないですか。」
「まあ、それは、そうなんだが。彼の者はお
前も知っているであろうラバン=シュリュズ
ベリィの縁者の者であった。遺志を継いで調
べ物をしておったので、一時休戦というか、
双方にとっても一大事ということで協力して
もらうことになったのだ。信用してもいいの
ではないか、と思ってな。」
「それはいい判断でしたね。あなたよりよっ
ぽど上手く見つけ出せるかもしれません。」
「それは、我を馬鹿にしておるのか?」
「いいえ、向き不向きがある、ということで
すよ。この宇宙であなたほど有能な方はいま
せん。但し、じっくりと何かを探す、という
ことにはあまの向いていないように思います
から。」
ナイアルラトホテップは杉江の上から見た
ような言い方が気に入らなかったが、自身で
も向いていないとは思っていたので、納得す
るしかなかった。
「では、我は他にもやることがあるので、こ
こは任せた。ところで我が主は今どいずこに
いらっしゃるのだ?」
「今日は普通に学校に行ってらっしゃいます
よ。あの方も地道な勉強は苦手なようで、今
度のテストが思いやられます。」
「デストだと?そんなものを我が主は受けな
ければならんのか。」
「それは、高校生ですから当たり前です。ア
ザトースさんも渋々了承されてここに戻られ
てからも本当に家庭教師の仕事をさせていた
だいてますよ。ところで、ちゃんとお給料は
いただけるのでしょうね?」
「金を取るつもりか。いや、お前に貸しは作
りたくないな。いいだろう、それは我がなん
とかしよう。必要以上には支払わないから、
自分で計算をしておくがいい。」
「心配していただかなくとも一般的な金額を
提示させていただきますよ。僕にはこの世界
での普通の生活もありますので。まあ大学を
中退してどうしようかと思っていた時にいた
だいたお話ですから、こちらとしても都合が
よかったので、少しお安くさせていただきま
すよ。」
なぜ世俗的な金銭の話をしなければならな
いのか、というか、そんな話を過去した記憶
がないナイアルラトホテップだった。
21 ナイ君の日常2
星の智慧派極東支部。東京新宿歌舞伎町の
雑居ビル街にそれはあった。様々多様な存在
が雑居している街なので彼らのような存在す
らも受け入れられてしまうことが都合がよか
ったからだ。
ナイ神父がこの建物を訪れるのはこれで5
度目だった。開設以来つい最近までは一度も
来たことがなかったのだが、ここ1年ちょっ
と間で続けて5度も訪れていた。ナイ神父が
訪れたとき、支部長である新城俊彦は無聊を
託っていた。
クトゥルーの復活は阻止されたしツァトゥ
グアの封印も解かれなかった。ナイ神父の思
惑通りに事は進んでいる。神父はこのような
ことを繰返し積み重ねることに意味がある、
という。新城には理解できないことだった。
ナイ神父を迎えたのは支部長の新城と火野
将兵、風間真知子の3人だった。極東支部の
スタッフは極めて少ない。但し、何か事が起
こるとどこからか湧いて出るように人が集ま
った。常時事務所のある3階建てのビルに居
るのはこの3人と電話番でしかない女性が1
人の計4名だった。
「神父、この度はいかような御用でお立ち寄
りされましたか?」
「3人だけしか居ないのか。クリストファー
はどうした?」
「彼は神父のご命令でイギリスに居ると聞い
ておりますが。」
「おお、そうであった。よし、火野、お前で
いい、付いてくるのだ。」
「わかりました。真知子は?」
「いや、1人で十分だ。アーカム財団に行く
だけだからな。」
「なんと神父、アーカム財団に行かれるので
すか?」
「そうだが、何か都合が悪いことでもあるの
か?」
「いえ、神父がそう仰るのなら私がとやかく
言うことはありませんが、お気を付けて。」
「何も気を付けるような事はないぞ。今回は
向こうにとっても協力せざるを得ない話だか
らな。」
ナイ神父は火野と連れ立って同じ新宿にあ
るアーカム財団に向かった。連れが居るので
いきなり相手の事務所に現れる訳にはいかな
かった。高層ビルの一角にアーカム財団極東
支部はあった。
「我は星の智慧派のナイ神父という者だ。こ
こに綾野と言う男が居るはずだか。」
ドアを入るとすぐに受付があった。そこで
そう告げると受付の女性が慌てふためいた。
ナイ神父という存在が何を表しているのかを
知っているからだ。
「ちょ、っちょっとお待ちください。すっ、
すぐに確認させていただきますので。アポイ
ントメントはお取ですか?」
「それは取っていないな。ただ、会ってくれ
ると思うぞ。早々に取次ぐがよい。」
受付からすぐに綾野祐介に連絡が入った。
これも慌てて中から綾野が出て来た。相手が
相手なので迂闊に内部に案内するわけにもい
かない。
「おお、確かにナイ神父。ご無沙汰しており
ます。私かここに居ることをよくご存じでし
たね。」
「それくらいのことは知っておる。話がある
のだ、内々でな。」
「判りました。ここでは何ですので、こちら
へ。」
仕方なしに綾野は応接室に通すことにした。
ナイアルラトホテップがその気になれば、ど
こで話をしても一緒だと思ったのだ。
「私かお聞きするだけでよろしいのでしょう
か?支部長も呼びましょうか?ちょうど在席
していますが。」
「そうだな、呼んでもらおうか。」
「今、ここの支部長は私をここに入れてくれ
たマリア=ディレーシアという女性が務めて
おります。すぐに呼びますね。」
部屋の中の内線で呼ぶとすぐにマリアは現
れた。
「はじめまして、私かここの支部長のマリア
=ディレーシアと申します。」
ナイ神父の前だ。さすがのマリアも緊張を
隠せなかった。
「我が星の智慧派のナイだ。そしてこいつは
火野将兵という。」
「火野さんも初めまして、ですね。綾野さん
も初対面ですか。それで今日のご訪問はいか
がされました?」
ナイ神父はアザトースと高校生の七野修太
郎が入れ替わっていることを淡々と告げた。
誇張も感情もなかった。それがさらに事の重
大さを物語っていた。
「まさか、そんなことが。何が原因なのでし
ょう?」
「判らん。原因も元に戻す方法も今の所全く
判らんのだ。それでセラエノに行ってきた。」
「あのセラエノ大図書館ですか。」
「そうだ。何か策が見つかるかと思ってな。
そこにマーク=シュリュズベリィという人間
が居たので事情を説明したうえで協力を依頼
してきた。」
「マークが今セラエノに?ラバン博士はどう
したのでしょう。」
「なんだ、知らんのか。ラバンは死んだそう
だ。それで代わりにそのマークとやらがセラ
エノに来たらしい。」
「なるほど。事が事だけに彼も協力すること
は吝かではなかったでしょう。それで私たち
にも協力しろ、というお話なのですね。」
「その通りだ。事はあまりにも重大だ。対応
を間違うとそのまま宇宙の崩壊に繋がりかね
ん。この件を解決することは双方にとっても
有意義だと思うが、どうだ?」
「確かにそれは間違いなさそうですね。それ
にこんな話で私どもを騙そうとされても、そ
ちらにとって意味が無さそうに思えます。判
りました、財団としても全面的に協力させて
いただきます。綾野さんを担当として事に当
たってもらいましょう、よろしいですね?」
「もちろん。私で役に立つことならば。」
「こちらの担当はこの火野を当てることにす
る。我はフリーハンドで動き回るので連係は
任せる。よろしく頼む。我が主が入っておら
れる七野修太郎の身体の方は杉江統一が付い
ているので、そちらとも連絡を取るようにし
てもらいたい。」
「杉江君が?彼はそんなところに居たのです
ね。大学を辞めてから連絡が取れなくなって
いたので心配していたのですが。そうですか、
無事でいるならよかった。ところで彼は一体
どんな存在なのですか?普通の人間じゃない
事は間違いないと思いますが。」
「それは軽々しく詮索するようなことではな
い。ただ我が主を任せても問題ない存在であ
ることは安心してもらっていいだろう。」
「判りました。なんとか早急に解決できるよ
う最善を尽くしましょう。」
こうして本来ならあり得ない共闘が成立し
たのだった。
22 玉座の日常2
「結局居なくなっちゃうんだよなぁ。ナイ君
も冷たいよなぁ。」
また一人になった七野修太郎は仕方なしに
自分の思考に沈んでいくのだった。
「なんか家庭教師を住込みさせて監視してい
る、とか言ってたなぁ。家にはそんな余裕な
いからお金とかどうしてんだろ?」
「杉江統一とかいう名前だったなぁ。うん?
なんか聞いたことある名前だなぁ。すぎえも
といち?聞いたことあるなぁ。いつ、どこで
だっけなぁ。」
「あっ、小さいころ、確か小5くらいだった
かな。家の近くの公園で遊んでいると中学生
くらいの男の子が来て話しかけてきた、あの
人の名前がそんなんじゃなかったっけなぁ。」
(君、一人で遊んでいるの?もう暗くなって
きたからおうちに帰った方がいいよ。)
(お兄ちゃん、誰?)
(僕の名前は杉江統一。君は?)
(僕は七野修太郎。)
(修太郎君か。僕はここでやることがあるん
だ。君は早く帰りなよ。お母さんが心配する
よ。)
実際には働きに出ていて帰りが遅い母親は
心配していないはずだった。父親が先日急病
で死んでしまったので母親が遅くまで働かな
いと生活していけなくなってしまったのだ。
修太郎は帰るふりをして少年が何をしよう
としているのか興味があったので木の陰に隠
れて様子を見ることにした。
杉江統一は公園で一番高い遊具であるジャ
ングルジムの一番上に上った。そこで何か小
さな声で空に向かって話をしているようだ。
修太郎は何を言っているのか聞き取るため
に気づかれないように近づいて行った。
(**************)
何を言っているのか、全く聞き取れなかっ
た。日本語じゃないみたいだ。
「そうだ、あの時の中学生が杉江って言って
た。今思うと日本語じゃなくて、地球の言葉
でも無かった気がするなぁ。何者だったんだ
ろう。でもその子が今僕の身体の家庭教師を
しているのかぁ。あの頃から縁があったのか
なぁ。地球人じゃない人に関わりを持つ運命
なのかなぁ。特に優秀でもなく、別に特技も
なく、というか何のとりえもないのになぁ。」
卑下している訳でもなく本当にそう普段か
ら感じているのだ。斎藤加奈子は幼馴染でそ
あたりも知ったうえで好いてくれているから
安心だった。普通、平凡、凡庸、なんと言わ
れても仕方がなかった。
「でも、だったら、何でよりによって僕なん
かと入れ替わってしまったんだろうなぁ。本
当は別の人と入れ替わる予定が間違っちゃっ
たんじゃないのかなぁ。それならただの災難
だよなぁ。」
修太郎の思考はとどまることを知らなかっ
た。というか、それしかやることがないので
仕方ない、というべきか。結論が出る事でも
ないので際限なく続くのだ。
23 マーク=シュリュズベリィ
とほうもない話だった。万物の王であるア
ザトースの中身が一介の高校に入っている。
どんな影響があるのか想像が付かなかった。
マーク=シュリュズベリィはセラエノに来
てまだ間がなかった。ラバン=シュリュズベ
リィが亡くなったのはもう少し前のことなの
だが自分がその代わりにここに来ることにな
るとは思っていなかった。
確かに地球ではCIAに属していたりアー
カム財団に属していたり、そのどちらとも距
離を置いてラバンの手伝いをしたりしていた
だが。
それらのほとんどは自らの意思だった。誰
に言われたわけでもなく、自分の考えで色ん
な組織に所属したりしなかったりしていたの
だ。それは当然ラバンの影響があったのだが
自らの使命感だった。ラヴクラフトの小説の
内容が多分に事実を含んでいることと、それ
に自分の祖父の従兄であるラバンが関わりを
もっていたこと。その辺りのことが徐々に理
解できるようになってきて自らこの世界に足
を踏み入れることにしたのだ。
日本生まれ・日本育ちで日本国籍しか持っ
ていなかったマークは自分を完全な日本人だ
と認識していた。そして帝都大学卒業後はキ
ャリアとして警察庁に入庁したのだった。そ
の中で頭角を現し自らの提案でCIAに派遣
されることとなった。但し、活動は日本国内
に限定されていた。日本におけるCIAのエ
ージェントとして活動していたのだ。
警察庁もCIAも旧支配者やそれに纏わる
話はほとんど信ぴょう性がないと判断してい
た。但し全く無視するとロシアや中国に先ん
じられても困る、という一点で専門部門を創
ることになったのだ。その日本とアメリカの
橋渡し役がマークだった。若さもあって失敗
した時には処分しやすい、ということだった
のだろう。
部署にはマークの他には5名ほどが配属さ
れていた。警察庁からはマークを入れて4名
居たがCIA側は1名だった。形としてはマ
ークはCIA側としてカウントされていたの
で3対2の割合にはなったのだが。
その部署(対C対策室という低俗な名称だ
った。)ではマークはほとんどやることがな
かった。元々誰も信じていないのだ。予算も
無い。稀覯書の収集や閲覧もままならなかっ
た。日本国内にはそれほど重要な文書はなか
ったのだが。
活動の一環としてアーカム財団やアンチ・
クトゥルー協会などと接触しているうちに別
の活動方法があるのではないか、と思い始め
た。そんな時アーカム財団が入手した文書の
解読に協力してほしい、との依頼があった。
対C対策室と協力して解読できる人間を内
々にミスカトニック大学に派遣してほしい、
というのだ。何か重要な文書ではあるが日本
語の素養と暗号解読のプロが必要、とのこと
だった。
早速人選に入った。日本クトゥルー協会と
いうクトゥルー神話ファングラブ程度の組織
があり、それにも一応マークは接触していた
のだが、そのメンバーに綾野祐介という帝都
大学講師かいるのを見つけた。最初に同じ帝
都大学の橘軍平教授が最適だと判断したのだ
が高齢や体調もあって無理そうだった。綾野
はその弟子のような存在らしい。少し調べる
と色んな意味で最適な人材に思えた。そこで
アーカム財団の人間と綾野を直接訪ねて文書
解読を依頼することにしたのだ。
依頼は積極的な承諾もって迎えられた。そ
もそもアーカム財団に入って活動したいよう
な素振りさえ見えた。いずれそうなるかも知
れない。
綾野が訪米中にマークの周辺に異変があっ
た。ラバンから連絡があったのだ。とうの昔
に亡くなっていると思っていた。ところが今
でもセラエノにある図書館で調査・研究を続
けているというのだ。綾野に依頼した文書も
もとはといえばラバン博士の関係者の手で書
かれたものだった。ただ、それは暗号化され
ていて、その解除方法を伝える前に本人は死
亡してしまったらしい。綾野の成功を祈るば
かりだが、その結果をラバン博士にも知らせ
てほしい、とのことだった。
マークはこの際、組織からは離脱しフリー
で地球におけるラバン博士の目として活動を
することを申出で、了承された。それ以後は
ラバン博士の意向で活動を続けていたのだっ
た。
セラエノでは人間の寿命が延びる、という
話があったのだが、それは事実だった。ラバ
ンは地球に居たとしたらとうに100歳を超
えているはずだが、どうみても6~70代に
しかみえなかった。ただ、さすがに永遠に生
きる、ということもなかった。ラバンはセラ
エノで天寿を全うしたのだ。
そして、ラバン博士の弟子であり、方向性
の違いからアーカム財団を辞していたアンド
リュー=フェランの依頼でマークかセラエノ
に来ることになったのだ。
24 アンドリュー=フェラン
アンドリュー=フェランやクレイボーン=
ボイドなどのラバン=シュリュズベリィ博士
と活動をともにしていた者たちは一時亡くな
ったと思われていたが、実際にはセラエノに
避難していただけだった。エンベル=キーン
のように名前を変えて地球に戻り活動を続け
ていた者もいた。ただ、寿命が延びてしまう
セラエノに長く滞在することを良しとはして
いなかった。アリドリューはラバン博士の遺
志を継ぐ者としてマーク=シュリュズベリィ
を派遣し自分たちは地球に戻って普通に天寿
を全うすることにしたのだ。
アーカム財団に所属していた時はまだまだ
旧支配者たちと戦う気力があったのだが、財
団が裏で世界の軍需産業と繋がりがあること
が耐えられなくなってしまったのだった。財
団の首脳部とはどうしても意見が合わなかっ
た。
マークをセラエノに送りだし、他にも数名
を人選して送るつもりだった。若い世代に引
き継いでもらうことが必要だと思ったのだ。
「長く生きすぎた。」
正直な感想だった。
マークについては本人の意思もあり能力的
にも問題なかったので博士の縁者ということ
とは別に人選した。次に彼をサポートできる
人間を数人選択してセラエノと地球に配置し
なければならない。それ相応の覚悟がないと
務まらない。資金的にも大きな問題を抱えて
いた。
アーカム財団の資金源はアメリカやドイツ
の多国籍軍需産業だった。彼らは旧支配者の
封印活動をしている財団を支援しているので
はなく、その過程で発見されるオーパーツに
興味があったのだ。超古代の文明の産物をい
ままで財団はいくつか発見していた。現代の
テクノロジーでは到底到達できないレベルの
ものだ。財団の目的は旧支配者の封印を解か
れないようにすることなので、お互いの利害
が重ならなかったのだ。
但し、現代の戦争を幇助する一面があるこ
とが財団の首脳にとっても頭痛の種ではあっ
た。アンドリュー=フェランに言われなくて
も判ってはいるのだ。ただ、綺麗ごとでは資
金も集まらない。画期的な武器・兵器の開発
が可能となれば戦争も無くなるかもしれない
というような自分でも信じていないような詭
弁を語るしかなかった。
アーカム財団と袂を分かちあったアンドリ
ュー達には先立つものがなかった。そして特
に解決策もないまま地球での年齢が100歳
を超えている彼らは次々にその寿命を終えて
しまうのだった。それでもアンドリューは最
後まで諦めていなかった。
「マーク、すまない。我々はここまでだ。た
だ後を託す者も見つけてある。その者にある
打開策も伝えてある。後は頼んだ。本当にす
まない。」
アンドリューの最後は誰にも看取られず、
その言葉もマークに届くことはなかった。
25 岡本浩太
ナイ神父がアーカム財団を訪れて数日後。
財団の会議室に岡本浩太は居た。いそぎ留学
先のミスカトニック大学から戻ってきたのだ。
「綾野先生、それは確か前にナイアルラトホ
テップが言っていたことが本当だった、とい
うことですか?」
「先生はよしたまえ、私はもう教師じゃない
んだからね。そうだ、いつかナイアルラトホ
テップがそんな話をしていたが、もちろんあ
り得ないと信用していなかった。こちらを攪
乱したいのだろう程度に思っていた。だから
対処もしていなかったし、頭からは抜けてい
たんだよ。それが、どうやら本当に起こって
いることのようだ。」
「先生の方が呼びやすいから、それでどうで
すか?人生の師匠、という意味でも構いませ
ん。そうですか。事実だったんですね。」
「まあ、好きにしたまえ。それでだ。どうも
その七野修太郎という高校生の元に杉江君が
住込みで居るらしい。監視役、というところ
だろうか。最近彼と連絡は取れているかね?」
「いえ、留学する前も、してからも一度も。
やはり、彼は何かの役割を与えられるような
存在なのですね。それにしても大変なことに
なっていますね、一体この後どうなるんでし
ょうか?」
「全く判らない。もちろん過去にそんな例は
ないからね。どんな稀覯書にも記載は無いだ
ろう。そこでだ、ナイ神父側の人間として杉
江君が付いているのなら、こちらの方も誰か
を傍においた方がいいのではないか、という
ことになったんだよ。君の出番だ。」
「なるほど、そういうことですね。判りまし
たすぐに向かいます。向こうに着いたら具体
的にはどうすればいいですか?」
「七野修太郎のクラスに転校生として入って
もらう。手配済みだ。」
「高校生ですか、まあ何とかなるか。」
岡本浩太はどちらかと言えば童顔なので高
校生で通用しなくもない。綾野には無理なこ
とだったので急遽浩太を呼び戻すことになっ
たのだ。
「では準備が出来次第出発します。」
21歳の高校一年生ではあったが、仕方な
い。
「今日からこのクラスの一員になる岡本浩太
君です、仲良くしてあげてね。」
担任から紹介されてクラスメートを一通り
見回した後浩太は挨拶した。
「岡本浩太です。諸事情で急遽転校してきま
した。デリケートな内容なのであまり詮索し
ないでくれると助かります。よろしく。」
一風変わった挨拶になってしまったが、浩
太としては七野修太郎に近づくための方便な
ので他のクラスメートとはあまり親しくする
つもりも時間もなかった。
26 杉江と岡本
「ちょっといいかな。」
七野修太郎が向坂健太と帰ろうとしたとき
転校生の岡本浩太が話しかけてきた。
「何?」
代わりに向坂が応えた。修太郎に変な話を
させる訳にはいかない。
「ああ、安心してくれていいよ。僕は事情を
把握しているから。杉江とは知り合いだし、
分ったうえでここに来ているんだ。」
「そうなんだ。って言われても信用できない
よ、なんか怪しい。」
「う~ん、そう来たか。じゃ、七野君の家に
一緒に行く、っていうのはどうだい?杉江も
居るだろうし僕の話が本当かどうか確認でき
るだろ?」
「どうする、修太郎?」
「好きにするがいいさ。誰でもいいから、こ
の状態を何とかしてほしいだけだからね。」
修太郎はテストというもので辟易としてい
た。勉強とはなんだ。少なくとも自分には必
要の無いものにしか思えない。それで点数を
付けられるとは、何の拷問なのだ。
「何?二人とも転校生君ともう仲良くなっち
ゃったの?」
修太郎、健太と岡本浩太が連れ立って歩い
ていると君塚理恵が追い付いてきた。斎藤加
奈子は最近修太郎には近づいて来ない。
「そういう訳ではないんだけど、なんか一緒
に修太郎んちに行くことになっちゃったんだ
よ。」
「そうなんだ。面白そうだか 私も行くわ。」
余計な者が増えた、という岡本浩太の眼差
しを理恵は無視した。
七野家に着くと母親が出迎えた。
「あら、修ちゃん、今日はたくさんお友達連
れてご帰還ね。」
母親は未だに気が付いていない。もしかし
たら気が付いていて芝居をしている、という
可能性もあるが少なくとも修太郎や健太には
分らなかった。
「浩太じゃないか、久しぶりだな。」
「久しぶりってほどじゃないけどね。まああ
れ以来だからそんな感じもするよ。」
「浩太が来た、ってことは綾野先生がらみか
な。ナイ神父でも行った?」
「なんでもお見通しだな。その通りだよ。現
状把握のために僕が来たんだ。」
向坂健太と君塚理恵は蚊帳の外だった。旧
知の間柄であることだけは理解したが。
「たしかミスカトニック大学に?」
「そう。綾野先生の紹介で中途転入させても
らったんだ。なんだか図書館長と親しいみた
いで簡単には入れたよ。」
「そうか。僕もこの件が終わったらミスカト
ニック大学にでも行こうかな。」
「この件が終わったらぜひ。まあ、この件が
終わらないと、それどころの話ではないけど
ね。」
元々関係した件が件だけに岡本浩太はある
程度の知識を有していた。それで図書館長の
計らいもあり稀覯書の閲覧、翻訳、解読の日
々に明け暮れていたのだ。そのおかげで、こ
の数カ月でかなり膨大な知識を得ていた。事
情が許せばセラエノにも行ってみたいと思っ
ていた岡本浩太だった。
「ナイ神父がセラエノに行って、そこでマー
ク=シュリュズベリィという人に会って解決
策を探してもらうよう依頼してきたらしいん
だけど知ってる?」
「話は聞いた。マークって人は綾野先生とア
ーカム財団を繋いでくれた人だって言ってた
から大丈夫なんじゃないかな?クトゥルーの
件の時はラバンって人と一緒に最後現場に居
たらしいんだけど僕はちゃんとあってないん
でよく判らないけどね。」
「そうか。僕にも原因も解決策も見当すらつ
かない状況なんで、今回の件は新山教授たち
の力は借りられないから財団にも協力してほ
しいとは思っていたんだ。僕から言わなくて
も神父は手回しが早いね。」
「状況が状況だけに綾野先生も財団の人も今
回は協力しないと、とは仰っていた。それと
他にもし希望があるのだとしたら桂田を探す
ことが役に立つかもしれない、とも。」
「桂田利明か。ナイ神父に打開策がないのに
ツァトゥグアに何かいい考えがあるとは思え
ないけど。」
向坂健太や君塚理恵はもちろん、七野修太
郎ですら置き去りにして話を進める二人に、
手持無沙汰の三人はTVゲームをやり始める
始末だ。七野修太郎は、その辺りでは十分地
球に馴染み始めていた。
「さすが、なんでも知ってる感じだね。杉江
お前って一体者なの?」
堪らず聞いてしまった。
「僕かい?僕は杉江統一。それ以上でも以下
でも以外でもないさ。ただ、ナイアルラトホ
テップやアザトースとは旧知ではあるけどね。」
「旧知、ってそんな人間はあり得ないって。
まあ言いたくないのなら仕方ないけど。」
「言いたくないって事じゃなくて、聞いても
仕方ないって感じかな。まあ今回の件では信
用してもらっていいよ、ナイ神父や、その連
絡役も含めてね。」
「ああ、火野とか言う青年か。でも彼は一度
橘教授のお父さん、帝都大学の橘軍平教授を
訪ねて来て、亡くなられたのがそのあとすぐ
だったらしいよ。何か関わっていたのなら許
せない。」
「そんなこともあったのか。まあ、彼は彼で
複雑な立場だろうから仕方ないんだろうさ。」
「彼も複雑な立場なのか。」
「そうだよ。本来星の智慧派に居ていい人間
じゃないさ。まあ、神父の気まぐれだろうけ
ど。彼との付き合いは長いけど未だによく掴
めないんだよ。」
27 杉江と岡本2
杉江の言う旧知とは一体いつからなのか確
認するのが怖かった。人間の考え及ばないと
ころのような気がした。
「彼は彼なりに色々と考えて神父の下に居る
んだろうけど。そういえば長いことクトゥグ
アとは会ってないなぁ。」
「おいおい、もうこれ以上何かを巻き込まな
いでくれよ。アザトースだけで手いっぱいな
んだから。」
「まあ、そうだね。セラエノはそのマークさ
んに任せるとして、こちらはこちらで何か手
立てを考えないと、ただ傍観しているだけと
いうのも、とは思うんだけど。まさか、とは
思うけど僕の師匠の仕業かも知れない。それ
だったら超大事か超小事か極端に分かれるだ
ろうけどね。」
「なんだよ、心当たりがあるのか?」
「ひとつだけね。本来でもあり得ないから。
アザトースの封印が解かれでもしない限り、
僕の師匠も動くことはない筈なんだよ。と言
うか、そういうシステムなんだ。」
「なんんだかよく判らないけど。それだった
ら本末転倒だよな。」
「うん。だからあり得ないと思うんだよ。僕
の方でも今の所は確認できないしね。一度ペ
テルギウスに行かないとダメかもな。神父は
あの場所には行けないしね。」
「ベテルギウスって、あの?」
「そうだね。近い将来超新星爆発を起こす可
能性を指摘されている恒星だよ。近いって言
っても現代の人間にとって、ということでは
ないけど。でも、行きたくないなぁ。師匠に
も会いたくないし。」
「でも解決策が手詰まりなら、そこしか希望
は無いんじゃないか?」
「それはそうなんだけど。まあ、マークさん
たちの経過を見てから考えるよ。それから、
桂田か。」
「桂田は元々こちらでも行方を継続して探し
ては居るんだけど、今の所手掛かりはないん
だ。何か掴んだら教えてくれるよな。」
「そうだね。ちょっとこっちでも探してみる
よ。」
「難しい話は終わったのか?」
やっと話の区切りを見つけて七野修太郎が
入り込んできた。
「ああ、修太郎君、ごめんね。この岡本浩太
とは大学で一緒だったんだ。ナイ神父はよく
知ってるんだけど、ここ最近の旧支配者たち
の封印が解かれそうになった件で綾野先生た
ちと共に関わっていたんだよ。綾野先生の話
は前にしたよね。」
「まあ、聞いてはおるが、興味のないことは
覚えておらんな。いずれにしても、どこの誰
でもよいから、今のこの現状をなんとかして
ほしいということが我の望みである。お前た
ちは協力して早急に対処するのだ。」
「修太郎君、そういった物言いは止めなさい
って教えたよね。普通の高校生らしくしても
らわないと。」
「わかったおる。ただ、この方が楽なのだ。
家に居る時くらい本来の口調で勘弁しろ。」
「向坂君や君塚さんが怖がるじゃないか。少
なくとも彼らの居る前では七野修太郎で居て
くれないと。」
「う~ん、面倒なことだ。なぜ我がそんなこ
とに気を使わないといけないのだ。ナイアル
ラトホテップを呼べ、早く元に戻すのだ。」
「だから、ナイ神父は今一生懸命その方策を
探している最中ですって。というか、あの玉
座に戻りたいんですね。身じろぎすらできな
い場所なのに。力がなくても自由に動き回れ
る今の方がいいんじゃないですか?」
「おいおい、杉江、めったなことを言うもん
じゃないよ。このままでいい、とい言い出さ
れたら、それはそれで対処に困るじゃないか。」
七野修太郎は岡本浩太に向かって少し微笑
んで見せた。
28 杉江と岡本3
七野修太郎の微笑みに岡本浩太は少しゾク
っとした。本来中身は万物の王アザトースな
のだ。世に解き放つにはあまりにも危険な存
在に間違いない。
向坂健太と君塚理恵は自分たちには理解で
きない話ばかりだから、ということで先に帰
った。岡本浩太は杉江統一とまだ少し話をし
たい、ということで残った。七野修太郎は二
人の話には関心がないのか、一人黙々とTV
ゲームをやっている。次々と襲い来るゾンビ
を打ちまくるソフトだ。殊の外このゲームが
気に入ったアザトースだった。
「それで具体的には、これからどうするつも
りなのかな?」
「そうだね。今の所僕はここで七野修太郎君
の元の生活を崩さないよう指導しながら待機
って感じなんだけど。僕まで動き回ったら、
彼の身体に何か起こったときに対処できない
からね。動き回るのはナイ神父に任せる、っ
てことになってたから。」
「それで色々と動き回っているんだな。それ
はそれで自由に動かれると困るんだけど、こ
の際仕方ない、か。」
「だと思うよ。彼をフリーにしておく方が何
かと便利だし。元々封印されていなかったん
だから、封印できる方法も目途もないことだ
しね。」
「そうなんだよなぁ、なんで彼だけ封印され
なかったんだろう。」
「それは、まあ、色々とさ。あまり詮索しな
い方が精神衛生上いいと思うよ。」
「君は何か知っているんだね。益々君が何者
なのか興味が出てきた。」
「いつか、話せるときが来たら話すさ。僕は
君を友人だと思っているから。」
「僕もそう思っていたよ、あの件があるまで
はね。今は少し(理解できない)友人ってト
コかな。」
「その枕詞は仕方ない。」
屈託なく笑う杉江だった。
「それじゃあ僕は修太郎君のクラスメートと
して君がカヴァーできない学校での彼をフォ
ローすることにしようか。」
「そういえば、高校1年生に転入して来たん
だって、少し無理があるんじゃないかい?」
「そう言うなって。自分でも無理がある、っ
て思ってるんだから。杉江は確か飛び級だか
ら年下だったよな。まあ、それでも高校1年
生は無いか。」
「あははは。無理だろうね。浩太は童顔だか
らまだしも僕は少し老け顔だから。」
落ち着いて見える杉江には確かに無理そう
だった。
「僕が高校で動けないから出来れば誰かに桂
田の行方を探してほしいんだけど。財団の関
西支部は一回壊滅状態になってから放置され
ているんだ。人員は全然足りてない。」
「桂田か。彼を知っている人がいいかもね。
誰か大学に残ってる知り合いは居ないかな?」
「共通の友人か。僕には居ないな。」
「それじゃ、桂田と親しかった学生は?」
「ああ、それなら確か僕の他によく遊ぶ友人
が居るとか聞いたことがある。名前は、そう
だ枷村とか。」
「綛村忠史か、僕も一応面識はあるな。浩太
が高校に通ってて時間内なら僕が彼に連絡を
取ってみようか。」
「助かるよ。結城さんにも声を掛けてみる。」
「結城、って新聞記者の?」
「そう。色々とお世話になってて、ある程度
の事情も理解してくれているから。」
「新聞記者を巻き込むのは、ちょっとどうか
とは思うけど、まあ仕方ないか。」
「おい、ここはどうしたら抜けられるんだ?」
ふいに七野が声を掛ける。ゲームが先に進
まなくなったようだ。
「そこは、棚を調べて鍵を見つけないと進め
ないんですよ。ホント、そのゲーム好きです
ね。」
「この文化はなかなか侮れんな。こんな物が
この星で産まれたのは奇跡だ。」
「そうですか。では、封印解かれても地球を
滅ぼしたりしないでくださいね。」
岡本浩太が冗談交じりに言うと、
「それとこれとは話は別だな。この文化は吸
収したうえで、滅するか滅しないかを判断す
るのだ。」
「怖いこと言わないでくださいよ。というか
滅しないこともあるんですか?」
「お前たちは我を一体どんな存在だと思って
おるのだ?すべてを滅しようとしている訳で
はないぞ。」
「気まぐれで決める、ですよね。」
横から杉江が口を挟んだ。
「その通り。気まぐれ、気分、何とでも言う
がよい。この宇宙を滅するのかどうかは、そ
れで決まるのだ。」
「それを、まあ、決めささないのが現宇宙、
ということだけどね。」
「ふん。忌々しい。」
やはり中身はアザトースなのだと再確認す
る浩太だった。
29 綾野祐介の日常
琵琶湖大学を辞してまた東京に戻った綾野
はマリア=ディリレーシアの取り計らいでア
ーカム財団に所属することとなった。特に肩
書は無かったがナイアルラトホテップの遺伝
子を引継ぎツァトゥグアと一時融合していた
経歴は財団の中でも飛びぬけていた。
ルルイエの浮上する場所を特定できたのは
綾野が文書解読に成功したからだ。但し、そ
の過程で右目の眼球を失い、普段はサングラ
スで隠してはいるが、その実態はただの空洞
になっていた。空洞、というよりも、深淵、
という表現の方がいいのかも知れない。そこ
には真黒な『何か』が存在しているのだ。だ
が、それが何なのか本人にもわからなかった。
右目を負傷し、さまざまな経験をした綾野
だったが、財団に所属するようになってから
またその身体に異変を感じ始めていた。目の
件でマリア以外の財団職員からは奇異の目で
見られており、話しかけられることもなかっ
た綾野だったが、その日はどうも様子がおか
しいと近くの席の岸本直美が話しかけてきた。
「綾野さん、どうかされましたか?」
綾野は返事ができなかった。右目が痛くて
声にもならないのだ。こんなことはアメリカ
でその右目にある粉を被ってしまった時以来
だった。目が、頭が、爆発しそうに痛い。
少しすると痛みが治まってきた。岸本の方
に向いて返事をしようとした時だった。
「なっ、なんだ?」
綾野は岸本を見て声をだした。岸本からす
ると「なんだ」といわれても判る筈がなかっ
た。変だったのは綾野の方だ。
「何だ、ってどういうことですか?」
「あ、いや、ごめん。吃驚させてしまった。」
そう言われても全く判らない。
「どうかされました?何か変な目で私を見て
る気がするんですけど。」
確かに綾野の目に浮かんでいるのは驚愕の
目だった。岸本を見て驚いているのだ。
「ちょっと自分でもよく判らないんだ。今は
何も聞かないでほしい。」
元々薄気味悪かった綾野が、その度合いを
増している。岸本とすれば話しかけたい訳で
もなかった。
「分りました。後でちゃんと説明はしてくだ
さいね。」
理由だけは知りたかったので、そう言うと
岸本は自分の作業に戻った。
アーカム財団東京支部の中には医務室もあ
った。超高層ビルの10階分を全て支部で確
保していたので、そんな施設も充実している
のだ。綾野はすぐに医務室を訪ねて今の症状
を訴えた。
「綾野さん、あなたの症状は私どもでは手に
負えません、と申し上げた筈です。普通の人
間と同じようには行きませんよ。」
産業医の東條亜弥はそっけなく言った。ど
うもこの綾野と言う新人(新人という年齢で
もない)はうさん臭かったので好いていない
のだ。旧支配者の遺伝子だの融合だのと言わ
れても大まかには理解していても医学的には
皆目見当が付かなかった。自分が理解できな
い事には嫌悪感を抱くのだ。エリートとして
の自負が許さなかった。最早その件の権威に
なってしまった琵琶湖大学(東條からすると
三流大学)の恩田という准教授に講師をお願
いしてオリエンテーションをしてもらったが
全く知識としては足りなかった。まだまだ手
探りなのだ。
「点眼しようにも綾野さんには右眼球がない
じゃありませんか。頭痛なら鎮痛剤を出しま
す。それでよろしい?」
「いや、先生、そうじゃなくてですね。」
「そうじゃなかったら私には用は無い筈です
からお帰り下さい。」
全く取り付く島もなかった。
「先生、痛みの件はとりあえず置いておいて
ください。私が来たのは痛みの件じゃなくて
どうも、その痛みがあったときから変なもの
が見えるようになったという事なのです。」
またオカルトか、と東條は思った。アーカ
ム財団には雇われているだけで何か趣旨に賛
同している訳ではない。財団がやっているこ
とには全く興味が無かった。財団の上層部と
世界の軍需産業が結びついている裏情報と給
料がよかったことが東條が財団に入った理由
だった。
「何がどう見えるというのです?」
一応医者ではあるので聞きたくはないが聞
いてみることにした。
「何か、そうですね、人を見たときにその人
の周りに変なものが纏わりついているように
見えるんです。」
「変なもの?オーラとか、そういったことで
すか?」
東條は半分投げやりに聞いた。どっちにし
ても興味はない。
「オーラじゃなさそうです。もっと何か邪な
もののように感じがします。」
「人、というのは具体的には誰のことですか?」
「うちの部署の岸本君なんですが。彼女の周
りに何か蠢動する塊のようななものが見える
んです。目を、ああ、実際にはないのですが
右目を凝らすようにすると見えるようです。
見えている、というよりは頭の中で像を結ん
でいる、という表現の方が近いかもしれませ
ん。」
「それは本人には?」
「もちろん言ってません。さずかに財団の職
員とは言え信用できないでしょうから。」
「でしょうね。それで、どうしたいと?」
「いや、そういったような事例や症状は無い
ものなのか、先生のご意見を承りたくて来た
のです。」
「意見も感想もありませんね。それほど暇で
もないのでお引き取りいただけますか?」
東條先生には嫌われている、という自覚の
あった綾野は早々に退散することにした。理
由は分らないか最初から嫌われているようだ。
30 綾野祐介の日常2
東條亜弥の元を辞した綾野は仕方なしに支
部長であるマリアに相談することにした。業
務に支障が出ても困るからだ。
「そうですか。それは一体何が見えているの
でしょうね。というか、欠損してしまった腕
などが痛いという疼痛のような種類のもので
しょうか。経過を観察してみないと判らない
かもしれません。十分気を付けて下さいね。」
「わかりました。今の所岸本君にしかその現
象は起こっていないので、また別の人が同じ
ように見えたとしたら何かわかるかもしれま
せん。」
「いずれにしても、あなたが見えている物は
あまり気持ちのいいものではなさそうですか
ら、私には見えないでほしいものです。」
「確かに変な気持ち悪い物なので見ない方が
いいでしょう。」
こうして綾野は通常業務に戻った。
数日後、綾野の元をある人物が訪ねてきた。
城西大学の橘准教授だった。東京の実家に帰
省したついでに旧知の綾野を訪ねて来たのだ
った。
「お久しぶりです、綾野先輩。」
「久しぶりだね、もう体調はいいのかい?」
橘良平准教授はツァトゥグアの封印を解く
方法を探して大英博物館に向かい、その過程
の中で少しの間拘束というか精神的なダメー
ジを受けて体調を壊して身動きが取れなくな
ってしまった。日本に戻れたのは全てが終わ
った後だったのだ。
「あの節は申し訳ありませんでした。何の役
にも立てなくて。」
「気にする必要はないさ。橘の気持ちは私が
一番よく判っているつもりだから。」
そういいながら、綾野は視線を橘から外す
ことができなかった。岸本に纏わりついてい
るように見える何かが橘の傍にも見えたから
だ。
「お陰様で体調の方は大丈夫です。先輩、ど
うかしましたか?」
綾野の様子がおかしいので思わず聞いた。
「いや、うん、それはよかったな。」
「何かおかしなことでも?」
「確か、橘はクトゥルーやダゴンがその遺伝
子に入り込んでいた、ということだったな。」
「そうですね。唾棄すべきことですが何十代
も前のことなので今更どうしようもありませ
ん。自分が強い意志を持っていれば大丈夫だ
と思っています。」
「そうか。もしかしたら、それの所為なのか
も知れない。」
「何がですか?」
「いや、橘だから正直に言うけど、お前の周
りに何か変な物体が纏わりついているように
私には見えているんだ。」
「変な物体、ですか?」
「そう。表現し難いんだが。少し前にうちの
職員にも同じように見える子がいたんだ。理
由が分らなかったんだが、もしかしたら旧支
配者の遺伝子を引く人間にだけに纏わりつい
ている物なんじゃないかな?」
「そんなことが。それと、そんなものが先輩
には見えるんですか?」
「つい最近、見えるようになった、という感
じなんだ。」
「その物体は何か害を及ぼすような存在なの
でしょうか?」
「分らないね。今後の調査が必要だ。物質と
しては存在しないのかも知れない。私にしか
見えないのなら確認しようがないな。」
「ぜひ正体を確認してください。気持ち悪く
て夜も眠れませんよ。」
「そうだね。何かわかったらすぐに連絡する
よ。」
気味の悪いお土産をもらって橘は関西へと
戻って行った。
31 綾野祐介の日常3
橘准教授が帰った後。綾野はマリアに報告
をした。自らの考えも含めて。
「そうですか。ということは岸本女史も何か
の遺伝子を継いでいる可能性があると?」
「そうかも知れません。そうでないかも知れ
ません。可能性の問題です。彼女の遺伝子サ
ンプルを取得してもらって調査することはで
きないでしょうか?」
「本人の了解が必要でしょうね。詳細を話さ
ないといけません。」
「本人はショックをうけるでしょうね。」
「それは仕方ありません。それか職員全員に
同じようにサンプルを提出するように指示す
る、という方法なら特別に説明は必要ないで
しょうが。」
「念のため全員について調査する、というこ
とですね。それでもし見つかった者が複数い
るのなら私がその人を見ればハッキリするこ
とだと。」
「そうですね。結果をそのまま各人に伝える
必要もないでしょうが。」
「丁度いい機会です、この際、財団内部の人
間には全員調査対象になってもらうことにし
ましょう。」
こうしてアーカム財団極東支部の百人を超
える職員全員について、特殊な遺伝子調査が
実施されることになった。
調査、分析に二週間を要したが、全員につ
いて結果が出てきた。マリアと綾野の二人だ
けで結果を吟味することになった。
「岸本女史の他にはあと1名、情報処理担当
の小田正文という者が何かの遺伝子を擁して
いるようですね。知っていますか?」
「いや、多分面識はないと思います。早速会
ってみることにしましょう。」
綾野とマリアは管内の視察と称して小田の
元を訪れた。特に声を掛けることもなく、そ
の部屋は辞し、支部長室に戻った。
「どうでした?」
「岸本君と同じです。やはり何かの遺伝子を
継いでいる人に纏わりついて居るように見え
る、というのか正解のようですね。」
「そうですか。深き者どもとの混血児のよう
に遺伝子回帰してやつらと同じように変貌し
てしまうことが無ければいいのですが。」
「そうですね。注意は必要でしょう。本人に
話をするかどうか、は別に考えることにしま
しょう。」
「それと、あなたのその能力は何かの役に立
つことがあるかも知れません。」
「何かの?」
「そうです。旧支配者たちの遺伝子を引継ぎ
回帰してしまう可能性がある人を見分けられ
るのです。一般人の中にでもね。」
「それはそうかも知れません。例えばそうだ
と分ったとして声を掛けたり、もっと言えば
拘束したりする、ということですか?」
「これは政府とも協議しないといけない問題
ですね。警察当局とも連携しないと。」
「何か魔女狩りのようなことになりかねない
ので慎重に事を運ぶ必要がありそうです。」
なんだか話が大きくなってきたことを不安
にしか思えない綾野だった。
32 綾野の困惑
自分の右目(正確には眼球は無い)に擁す
ることが判明した能力について綾野祐介はと
ても落ち込んでいた。心配していたことが現
実になりそうなのだ。官公庁の上層部を手始
めに、最終的には一般人まで旧支配者の遺伝
子を有している(キャリア)かどうかの判断
をしなければならなくなりそうだった。政府
上層部、特に検察庁関係者の理解がどの程度
のものなのか。一笑に付されてしまう事も充
分あり得たのだがアーカム財団のバックはド
イツとアメリカの超多国籍軍需産業なので、
そちらから手を回せば実現できそうだった。
但し、上層部本人たちがキャリアの可能性も
あるので自らのデータを提出するかどうか、
その辺りが問題の根本にありそうだ。
またキャリアとして認識された後の処置が
一番重要だったので、そこを詰めないといた
ずらに不安を煽るだけだ。安易に監禁・拘束
訳にも行かない。問題は山積していた。いず
れにしても結論が出るまでには時間がかかり
そうな事がせめてもの救いだった。
結論が出ないまま、特に何も起こらない日
々を過ごしていた所に、それどころではない
問題が降りかかってきた。星の智慧派の主導
者であるナイ神父が訪ねて来たのだ。
過日。琵琶湖大学で合い見えたとき、そん
な話をしていたことは確かなのだが、事実確
認も出来ないことでもあり綾野の記憶からも
財団への報告からも洩れてしまっていた。到
底信用できる話ではなかった。万物の王アザ
トースと七野修太郎という高校一年生の中身
が入れ替わっている、というのだ。
七野修太郎の中身がアザトースに入ってい
ることについては、彼には悪いがそれほど問
題にはならない。もしかしたら早々に精神に
異常を来している可能性が高い。寧ろその方
が彼にとってはいいかもしれない。アザトー
スの置かれている状況は普通の人間に堪えら
れるようには思えない。
反対にアザトースの中身が七野修太郎の身
体に入っていることは重大な問題だ。元々そ
の強大な力は封印されているはずだが、それ
がもし一部でも解放されようものなら地球な
ど一溜りもない可能性が高いだろう。
他にもどんな影響が出るものなのか、誰も
想像できない。それはナイ神父にしても同じ
ようだ。彼が理解できないことが人間に理解
できよう筈もない。
地元の高校に普通に通っている、というこ
となので監視役として岡本浩太を留学先から
急遽呼び戻することにした。ミスカトニック
大学で彼の知識は図書館長であるクレア=ド
ーン博士の計らいもあり飛躍的に増えている
ようだ。元々の素養もあったのでアーカム財
団の中でも有数の存在になっっていた。
岡本浩太を送りだした後、綾野としては可
及的に行わなければならないことが無くなっ
た。事態の動向を待つしかないからだ。浩太
と同様に関西に行ってもよかったのだか、ア
ーカム財団関西支部は壊滅されたまま放置し
ていた。
「この際、関西支部の再建はとても重要なこ
とになったと言わざるを得ません。」
「ミスター綾野。態と東京を離れようとして
いませんか?」
マリアはお見通しだった。
「そっ、それは、無いと言ったら嘘になりま
す。私には魔女狩りの手先のような真似はで
きません。」
「この国の中枢にキャリアが入り込んでいた
としたら、そしてその人物が重大な人類に対
しての背任行為をしたとしたら。あなたはそ
れを未然に阻止できるのですよ?」
「あくまで未然に、という話ですよね。キャ
リアだからと言って全ての人間が回帰する訳
ではないと思います。もしそんなことがあっ
たとしたら、もっと今の世の中が混乱してい
たことでしょう。インスマスは特異な例だと
思います。今の所日本国内では深き者どもや
インスマス面が入国したことはあっても日本
人が回帰して深き者どもになった例は報告さ
れていません。」
「だからこそ、ということではないですか?
今ならまだ未然に防げるチャンスです。あな
たの気持ちも判らなくはないですが、折角得
られた能力は有効に使用しないと与えてくれ
た存在への冒涜になりますよ。」
「与えてくれた存在、ですか。」
「そうです。本来はあなたもキャリアの一員
ですから場合によっては隔離・拘束などの必
要が生じる可能性があります。岡本浩太君は
少し事情が違いますが、橘良平准教授は同じ
境遇です。あと一番問題なのは桂田利明君で
しょうか。彼の存在は脅威です。できるだけ
早い段階で所在を把握する必要があります。」
「桂田ですか。そうですね。一応浩太には向
こうに着いたら杉江も含めて桂田のことも気
に掛けるように伝えてあるのですが。」
「それはよかった。彼の存在が今回の件を左
右してしまうかも知れませんね。」
何かを知っているかのようなマリアの口ぶ
りが気に係る綾野だった。
33 マリア=ディレーシア
アーカム財団におけるマリアの立場はとて
も不安定なものだった。元々いたプロヴィデ
ンス支部から綾野祐介の絡みで日本に派遣さ
れ、そのまま極東支部長に収まったのだが、
本人が望んでのことではなかった。ここ最近
の非常事が日本で立続きに起こっていたので
最前線のような支部になっていたものを、上
層部が失敗したことの責任を取らせるために
あまり上層部には伝手の無いマリアを据える
事にしただけだった。
マリア本人にしても財団の設立趣旨は正直
なところ入ってから勉強したようなもので、
元から何かの使命感に燃えて入った訳ではな
い。水商売の客に軍需産業のお偉いさんが居
て、その紹介で入っただけなのだ。マリアと
すれば上昇志向が異常に強いだけであり、た
だ高い基礎能力を持ち合わせていたのと持ち
前の美貌で現在の地位に着いたのだ。だが、
その野望はまだまだ成就にはほど遠いと感じ
ていた。
綾野が旧支配者の遺伝子を引継いでいる事
やツァトゥグアに一時吸収され、一部は融合
したことは、マリアにとって何か千載一遇な
チャンスのように感じられた。マリアからす
れば綾野や橘のような遺伝子を継いでいるこ
とは今更無理な話だが、深き者どもののよう
な、後天的な接触による変容もあるので「融
合する」という新しい方法に人間を超越でき
る可能性を見出していた。深き者どもとの後
天的接触では知能レベルの低下が顕著で、そ
んなことに自らの身体を差し出すつもりはな
かった。一時的な融合、という選択肢は、岡
本浩太や桂田利明を見ても問題が無いように
思えた。特に所在が判っている岡本浩太は経
過観察の意味を含めて財団に採用しミスカト
ニック大学に留学させたのだ。今の所、特段
の異常は認められなかった。但し、何か超人
的な能力が備わったとの報告もない。
一方、所在は不明だが桂田利明は琵琶湖大
学心理外病棟において再発見された際、何か
特別な能力を発揮した、との報告がある。岡
本浩太との違いは融合の期間、融合の深さに
よるものと考えてもいいようだ。問題はそれ
がどの程度が正解なのか判らない、というこ
とだった。人間としての自我が保たれ、なお
かつ超人的な能力を得ることが理想だ。
そんな折、桂田利明の所在が判明した、と
の報告がマリアの元に齎された。但し、この
情報はアーカム財団のエージェントからでは
なくマリアが独自に依頼していたある組織か
らだった。見つけたら財団の情報と交換、と
いう条件で内密に取引をしていたのだ。その
組織も偶然見つけたらしいのだが、間違いな
く桂田利明本人らしい。
マリアは早速現地に飛んで桂田利明に接触
した。確かに情報は間違っていなかった。
「桂田利明さんですね。」
「ああ、たしかマリアさんでしたか。お久し
ぶりです。よくここが判りましたね、さすが
です。」
実際には探し出したのは別の組織の古本屋
なのだが、それはこの際関係ない。
「お久しぶりです。といっても、それほど時
間は経っていない気もします。あなたはここ
で何をしているのですか?」
桂田利明は神戸に居た。須磨地方の賃貸に
一人で普通に暮らしていたのだ。
「いや、特にすることもないので、ここでず
っと海を見ているのですよ。明石海峡大橋も
見えますから素敵でしょ?」
確かにその部屋からは海や橋が見える。
「僕は今まで生きてきて、何もしていなかっ
た、というか生きていなかった気がします。
これから何をしようか、海を見て考えようと
思って故郷に近いここに居るのです。」
「そうですか。学校は辞められたんですね。」
「辞めました。浩太もアメリカだし杉江も退
学したようですし、僕も居ても仕方ないかな、
と思いまして。」
「それで、ただ、ここで海を見ていると?」
「そうなりますね。でもマリアさん、ここに
来られた理由は何なのでしょうか。僕を拘束
しに来られたんですか?」
「いいえ。財団は一般人を理由もなく拘束し
たりしませんよ。」
「一般人じゃなかったら、理由があったら拘
束する、って聞こえますよ。」
桂田利明は少し疲れ気味な顔で笑った。
「そういう側面は確かにあります。でも今日
私か来たのは別のことです。あなたにお願い
があって来ました。」
思いつめたマリアに顔に、冗談では済ませ
られない雰囲気を感じて桂田は少したじろん
だ。
「何でしょう。僕に出来ることですか?」
「あなたにしか出来ない事、です。」
マリアは桂田に異様な依頼をした。それは
マリアの野望を叶える一歩目だと自分では思
っていた。
34 桂田利明
アーカム財団極東支部長であるマリアの
依頼は桂田利明にとっては無理な話だった。
いや、自分では無理だと思っていた。自分
にはそんな力はないこと、あったとしても
叶えることはできないこと、説得を試みた
が中々彼女は意思を曲げなかった。桂田と
しては何故そんなことをしようとしている
のか、全く理解できなかった。
桂田利明は先日、ヴーアミタドレス山の
洞窟に探検に行ったときツァトゥグアとい
う名の旧支配者(そう呼ぶのだそうだ。)
に一旦吸収されて同じように吸収された綾
野先生、橘先生、岡本浩太と洞窟の地下深
くに降りて行った。そしてアブホースに出
会いツァトゥグアとの約束を果たしたのだ
が、ツァトゥグアの封印を解く方法を見つ
けるように言われて、その人質として彼だ
けがツァトゥグアに融合されたまま残るこ
とになった。外の3人が地上に戻ったほう
が封印を解く方法を探すのに有効だったか
らだ。
そして、3人は解除方法を見つけて戻っ
てきてくれた。ただし、その方法は現代で
は不可能な方法だったのでツァトゥグアの
封印は解かれなかった。地上の現況兵器で
少しダメージを与えることに成功し、桂田
は無事融合を解かれて元に戻れた。
だが、その後の検査で人間の遺伝とは半
分以上が合致しない生物に変容してしまっ
たのだった。それは自分でもショックなこ
とだった。元々あまり悩まない性格ではあ
ったが、さすがに堪えた。人間ではない、
と烙印を押されてしまったのだ。岡本浩太
は約3%程度が変容していたらしい。融合
させていた時間が長かった所為で自分は5
5%も変容してしまっていた。一部ではな
く過半数が最早元の自分ではないのだ。だ
とすれば、今このことを考えている自分は
一体誰なのか。答えは出せなかった。
その後、時折意識がなくなってしまう事
があった。数時間、時によっては数日の記
憶がない。記憶がない間は多重人格者のよ
うな振る舞いをしているのだろうか。確認
するのが怖かった。
ある日目覚めると、真っ白い廊下にいた。
見覚えのない廊下だった。そこで恩田准教
授や岡本浩太、新聞記者だという結城良彦
に出会い、地下深くの綾野祐介に会いに行
った。その際、自分にもよく分からない力
が備わっていることに気が付いた。
そうこうしているうちに、また自分が分
からなくなってしまって、気が付くと神戸
にいたのだ。そこで普通に暮らしていた。
結構な期間の記憶がなかった。自分が自分
で怖くなってしまった。ただ、ただ茫然と
海を眺めている時間が多くなっていった。
そして、また記憶が途切れる。特に桂田
が人生に悲観して自殺でもしようかと思う
と確実に途切れてしまうのだった。身体の
中の何かが自殺させまいとしているかのよ
うだ。それが何なのか。予想は付くが確認
することが怖かった。また、確認する術も
なかった。
そんな、ただ無為無聊な日々を過ごして
いた桂田をマリアが訪ねてきたのだった。
35 桂田とマリア
マリアが訪ねてきたとき。最初のうちは普
通に話をしていた桂田だったが、また途中で
記憶がなくなってしまった。そして、気が付
いた時にはマリアはもう居なかった。記憶が
途切れていた間にマリアと一体何があったの
か。どんな話がなされたのか。もしかしてマ
リアの依頼を受けてしまったのか。だとした
ら、自分は取り返しのつかない事をしてしま
ったのではないか。元来楽天的な桂田だった
が、最近は特に後悔が募るだけだった。
マリアの桂田訪問はアーカム財団には秘密
裡に行われていた。マリアとしては邪魔をさ
れたくなかったからだ。財団の主旨は少しは
理解している。だが全面的に支持している訳
ではなかった。自らの上昇志向の前には外の
全てのことは後回しなのだ。
「お前も相当変わっているな。」
「そうでしょうか?人知を超える何かしらの
力を得たい人間なんて、きっと掃いて捨てる
ほどいると思います。」
「そういうものか。」
「そんなものです。」
「よかろう。お前の願いは叶えよう。それで
我にどうしろというのだ?」
「桂田君と同じです。彼と同じ能力が私にも
与えられるよう、あなたと融合しに来たので
す。」
「ほほう。自ら進んでだと?そんな奇特な人
間がおるとはな。確かお前もあの場にいたの
ではないか?」
ウーアミタドレス山のツァトゥグアを地上
の兵力が襲ったとき、確かにマリアはその場
で指揮を執っていた。
「あの時はひどい目にあった。お前たち人間
が作り出した物はとんでもないぞ。さすがの
我も痛くてしばらく我を忘れたわ。」
「申し訳ありません。あの時はアーカム財団
の一員として行動しておりましたので。今日
は私個人として参っております。」
「お前の意向は分かった。それをやることは
可能だ。だが、それを成しえたとして我にど
んな益があるというのだ?」
「何も。」
「何もありません。」
「それでも、我に自分と融合しろと?」
「そうです。世の中のすべてのことはあなた
の暇つぶしではありませんか?」
「暇つぶしであるから見返りを求めるな、と
いうのだな。」
「そうです。それがあなたの存在意義なので
は?」
「今までに我に対してそのような不遜な事を
いいに来た人間はいなかった。面白い女では
あるな。それで我が納得しなかったら?」
「そのときは、ただ私があなたに殺されるか
融合したまま吸収されてしまうか、そのあた
りでしょうか。」
「なるほど、理解はしているようだな。益々
面白い。その覚悟で来た、と言うのだな。」
「その覚悟で来ています。」
マリアの願いは刹那的だった。何かしらの
人知を超えた力を得たい、とも思うが、何も
得られず普通の人間として一生終わるのなら
そんな人生はこの瞬間に終わってもいい、と
も思っているのだ。
「ただ一つ。ある情報ならお話しできること
があります。」
「情報だと?」
「そうです。先日私はあなたの封印が形の上
では解かれなかった件のあとに、それらすべ
てがナイアルラトホテップの画策したアザト
ースの封印を解く過程の一部である、という
ことを知りました。そして、その際に接触で
きた人間に一人に杉江統一という学生がいま
す。ただし彼は純粋な意味での人間ではあり
ません。彼のことを調査していくうちに、あ
ることに気が付いたのです。それは彼が旧神
の関係者である、という事実です。」
「なんと、そんな人間がいるものなのか。」
「旧支配者たちの遺伝子は先日のように融合
と乖離の過程で人間に取り込まれて、それが
遺伝していきます。ただし、隔世遺伝の場合
が多いようです。また眷属たちとは直接的な
接触により変貌してしまうケースがあります。
これは遺伝はしますが数代で絶えてしまうよ
うです。杉江君の場合は隔世遺伝による前者
のようですので、旧支配者クラスということ
が想像できます。」
「なるほど。そしてそれが旧支配者ではなく
旧神だというのだな?」
「その可能性が高い、ということです。旧神
については人類の知識はほぼ皆無と言ってよ
いでしょう。単一神なのか、複数いるのかす
ら解っていません。もちろん、その名前も。」
「単一ではない。数は知らんがな。たった一
人の旧神にしてやられた訳ではないわ。」
「そうですか。では複数存在する、というこ
とですね。でも現在、旧神はどこで何をして
いるのか、ご存知ですか?」
「我は与り知らんことだな。」
「一応曲がりなりにも知られている情報では
ベテルギウスに居る、とのことですが。」
「そこなら悠久の昔に訪れたことがある。」
「では、場所はご存じだと?」
「知ってはおる。それが何だというのだ?」
「旧神たちはそこで眠りについている、とい
ことです。眠りについているだけで封印され
ている訳でも拘束させている訳でもありませ
ん、ただ眠っているのです。」
「そんなことであろうな。我らは封印されて
いるが眠っている訳ではない。」
「そうですね。話はそこからです。どうも、
その場所にたどり着きさえすれば旧神は目覚
めない状態で旧神の力を借り受けることがで
きる、という情報です。いかがですか?」
「なんと、そんなことが可能なのか。確かな
話なのか?」
「間違いないと思います。杉江君本人は現在
普通の人間の状態ですので、彼が気が付かな
いうちに催眠をかけて聞き出した情報です。
私が直接聞き出しました。」
「なるほど、それは少し面白いことができそ
うだな。」
「お気に召していただけましたか?」
「そうだな。お前の申し出を受けるくらいに
は気に入った、といったところか。よし、早
速願いは叶えてやろう。但し、知っているか
どうかは分からんが融合している時間が長け
れば長いほど分け与えられる力は大きいが時
間が短ければほぼ無意味なことになってしま
うが。」
「分かっています。桂田君と同じ期間、とは
行かないでしょう。ただ、数回に分けて、と
いうことでリセットではなく加算されるので
はないか、と予想しているのですが、そのあ
たりはいかがでしょうか。」
「確かにお前の言うとおりだ。力が加算され
ることは十分あり得る。但し、お前の身体の
負担は半端ないぞ。」
「当然覚悟しています。では、何回かに分け
てお願いします。」
こうしてマリアの願いは叶えられることに
なった。彼女の目的は何か、は実は彼女本人
にもよく解っていないことであった。
36 マークとの再会
「すると、この状況は想定されていたと?」
セラエノ大図書館から急遽戻ってきたマー
ク=シュリュズベリィからの報告をアーカム
財団極東支部で綾野祐介は受けていた。財団
とマークの関係は修復していなかったが、あ
くまで綾野を個人としてマークが訪ねてきた
のだ。綾野としてもマークの協力は有り難か
った。
「そうです。旧神の残したモノリスにはそう
記述されていました。」
「それは助かった。で、どういったことが書
かれていたんだ?」
マークの話は極秘でないと話せない内容だ
った。特に財団の中では。
「わかった。では、一緒に七野修太郎君に会
いに行くかい?」
「そうしましょう。」
「では、支部長と星の智慧派の火野君にも連
絡しないと。」
「いや、支部長は止めてください。火野とい
う人物も、止めておきましょう。二人で内密
に向かいたいのです。」
「それは、今回の件に関わりがあることなの
か?」
「そうです。特に支部長は。」
「判った。ただ、君が私を訪ねてきているこ
とは支部長の耳にも入っているだろうから何
か別の理由を作って出ないといけないね。」
綾野は現地で岡本浩太と現状把握と今後の
対応を協議する、という名目で関西へ向かう
ことを支部長に伝えた。
「そうですか。気を付けて行って来てくださ
い。今回の件はどうも今までのものとは少し
違うようですから。」
「違う?」
「そうです。旧支配者たちの封印を解く過程
ではない出来事、という意味ですが。」
「何かご存じなのですか?」
「いいえ。ただそんな感じがするだけです。
何か解かったらすぐに連絡をください。人員
が必要ならば用意します。私もいつでも行け
るようにしておきますから。」
「解かりました。」
極東支部長マリア=ディレーシアはあっさ
りと綾野の関西行きを承認した。何か知って
いるようだった。
マークと合流し綾野は西に向かった。とり
あえずは岡本浩太と接触することにした。そ
の上で杉江統一や直接七野修太郎に会って一
気に解決に導く。
「いえ、七野修太郎君に会うのは後回しです。
その前に探さないといけない人がいます。」
「誰だい?」
「桂田利明という人物です。」
そう言えば以前マリアも桂田の行方の話を
していた。岡本浩太にもできれば桂田を探す
ように伝えてあった。
「それなら、とりあえず浩太に会って確かめ
よう。彼には桂田利明を探すように伝えてあ
るから。」
こうして二人は岡本浩太の元を訪ねるのだ
った。
37 枷村忠志
「桂田かぁ。最近は確かに見てないな。それ
であいつを探してお前に連絡すればいいの?」
「頼みますよ。ちょっと急いでいるもので。」
「それはいいけど、あいつ探してどうするつ
もり?変なことに巻き込まないでくれよ。な
んかお前たち、お前とか岡本浩太とか学校辞
めちゃって何があったのかは知らないけど。」
「彼を探して欲しいだけですから。それと見
つけたら本人には直接連絡を取らないですぐ
にこちらの方に連絡をください。」
「ほらほら、それがおかしいって。なんで桂
田に直接連絡を取ったらダメなんだよ。あい
つ借金とか作って逃げてるのか?」
「そうじゃありませんが、説明すると巻き込
んでしまいますよ。割のいいバイトだと思っ
てよろしくお願いします。」
「分かったよ。杉江には世話になってたから
まあなんとか探してみるさ。」
桂田利明は行方不明だと聞いていた。杉江
統一は自主退学。岡本はアメリカに留学。そ
れと同時に講師の綾野先生も学校を去った。
枷村は少し前に地元に帰ったとき映画の撮
影かのような、でも迫力のある場面に遭遇し
た。アメリカ軍用機か琵琶湖に浮かんだ島の
ようなもの(映画のセット?)に実弾を打ち
込んでいたようだ。まさか、あり得ないこと
だが。
その時に岡本浩太を見かけた。あとで問い
ただしたけど、そんな場所には行ってない、
とはぐらかされてしまった。でも、間違いな
くあれは岡本だった。後で取材に来た新聞記
者にもそう言ったのだが、その後の話はなか
ったので結局事実かどうかは判らず仕舞いだ
った。
「とりあえず、電話とメールとLINEか。」
桂田利明について、知っている限りの手段
で連絡を取ろうとしてみた。予想された通り
全て無駄だった。電話は呼び出し音が鳴るが
出ない。電話自体は生きている、ということ
だ。メールは返信がない。LINEは既読に
ならなかった。
「SNSはどうだろう?」
Facebookとかmixiとかありと
あらゆるものをチェックしてみた。桂田利明
ではヒットしなかった。試しにメアドでFa
cebookを探してみた。
ビンゴ!桂田は別名でFacebookを
やっていた。『サイクラノーシュ』という名
前だ。
そこには様々な写真がアップされていた。
ただし、場所が特定できるような写真がなか
った。風景が多いのだが全景でありピンポイ
ントで何かを写しているものはなかった。た
だし、彼が行方不明になってからの更新があ
った。その写真を保存し、プロパティを見て
みる。旧式のスマホで撮ったものらしく緯度
と経度と高さが保存されていた。
調べてみると神戸市内のマンションだった。
自宅の窓から街と海を撮ったもののようだ。
但し、今でもそこに居るかどうかは判らない。
枷村は自身で確かめたうえで杉江に連絡する
ことにした。
現地に着くと、そこは6階建てのマンショ
ンだった。高台に建っているので見晴らしは
いい。裏手には山があった。そこに登れば部
屋への出入りが確認できそうだ。表札は出て
ないので桂田の部屋がどこなのかはわからな
かった。しばらく様子を見ていると外国人の
女性が最上階に現れた。一番右側の部屋に向
かう。
居た。桂田利明だ。間違いない。
「そうですか。本当にありがとうございます。
バイト代は振り込んでおきますね。」
「いや、それより、何で桂田を探しているの
かをバイト代でどうだ?」
高額なバイト料。その裏にあるものに興味
が出てきたのだ。
「それは。聞かない方がいいと思いますよ。
あと、聞いても信じられないでしょうから。」
「岡本浩太絡みじゃないのか?」
確信はなかったが、カマをかけてみた。
「枷村君、何か知っているのですか?」
「まえに湖西の湖畔で大規模な映画の撮影が
あったんだよ。とても撮影とは思えないリア
リティーがあった。そこで岡本を見たんだ。
てもあいつはそんな場所に行ってない、って
取り合わなかった。そのあと結城とかいう新
聞記者が訪ねてきて、その時のことを聞いて
きたから正直にそのまま話したんだけど、そ
の後確認てきたかどうかは連絡がないので分
からない。でも岡本は何か事の中心にいる気
がするんだ。桂田が居なくなったりしたのも
岡本と彦根で地下探検とかに行ってからだし
な。」
「少しは事情をご存じなのですね。でも、そ
れ以上は関わらないほうが身のためです。素
直にバイト料を受け取ってください。」
渋々ではあるが枷村忠志は杉江に従うこと
にした。興味はあるが自分の身が一番大切だ
からだ。大学になってしまうような事には巻
き込まれたくなかった。
38 原因、起因の究明
「お久しぶりです、というほどではないです
ね。」
綾野祐介とマーク=シュリュズベリィが岡
本浩太を訪ねてきた。
「マークさんははじめまして、ですね。岡本
浩太です。」
「はじめまして。君のことは綾野先生から詳
しく聞いている。今後も色々と協力してほし
い。」
「人類の未来のために、ということなら大歓
迎です。」
アーカム財団とマークとは現在良好な関係
にない。アンドリュー=フェランが極東支部
長を務めていたときはマークと行動を共にし
ていたのだが、その後両者の間には溝ができ
てしまっていた。アンドリューは既に故人に
なっている。
「いずれ、君や綾野先生ともそのあたりの話
をしたいとは思っている。ただ、今はこの件
の解決が最優先だと思う。」
「そうですね。それで、お二人がここを訪ね
て来られた理由は?」
「それはまだ私にも話してもらっていないん
だ。マーク、そろそろいいんじゃないのか?」
「そうですね。その前に桂田利明さんの行方
は掴めましたか?」
「杉江を通じて枷村って桂田の友人に探して
もらっているのですが、今のところは。」
「そうですか。取り急ぎ、彼の行方を突き止
めることが急務ですね。」
「結局そうなのか。」
「そうです。」
それから、マークはモノリスに書かれてい
た事の次第を話し始めた。旧神の予言にあっ
たらしい。
内容を聞き終えたとき、不意に浩太の携帯
に着信があった。杉江だ。
「えっ。本当か。判った。場所を送ってくれ
たらこちらで対応するよ。今ちょうど綾野先
生が来ているから一緒に行ってみる。」
「桂田の行方が判ったのか?」
「そうみたいです。神戸で一人でいるそうで
す。そして、そこに外国人の女の人が訪ねて
来ていたそうです。」
「なるほど。完全に繋がりましたね。」
「早速、今から向かおう。」
三人は杉江から転送された桂田の住所に向
かうのだった。
39 原因、起因の究明2
住所、マンション名、部屋番号を伝えられ
ていたので三人はすぐに桂田の部屋の前まで
たどり着くことができた。チャイムを押すと
桂田利明が出てきた。
「そろそろ来られる頃だと思っていました。
綾野先生と浩太は予想していましたが、マー
クさんでしたか、あなたは予想外です。よく
たどり着きましたね。」
「彼がセラエノ大図書館で今回の件の経緯が
書かれたモノリスを発見したのだよ。元々は
ナイアルラトホテップの依頼だったのだが、
私の元に一番に報告に来てくれた、というこ
とだ。」
「なるほど、セラエノですか。ということは
旧神たちはこの件についても予言していたと
言うことになりますね。結局彼らの手の内だ
った、ということか。」
以前の桂田の話し方とは違う。浩太は違和
感を感じていた。
「お前は本当に桂田利明なのか?」
「ああ、そう。そうでもあるし、そうでもな
いとも言えます。今この瞬間はどちらかと言
えば違う、ということになりますか。」
「まさか、ツァトゥグアだとでも?」
「それも完全な正解ではないのですが、まあ
ほぼ○に近い△、というあたりでしょうか。」
「どういう意味だ。」
「ツァトゥグアの本体はあの地を離れること
はご存知のようにできません。僕はツァトゥ
グアの欠片、というところです。そして、桂
田利明君とこの身体を共有している、という
ことですかね。」
「結局そういう事か。」
ツァトゥグアとの融合期間が長かったため
桂田利明はその遺伝子か55%も人間と合致
しない存在になっていた。
「桂田の意識はどうなっているんだ?」
「今は眠っています。僕が目覚めているとき
の記憶は彼にはないでしょう。統合失調症、
いわゆる多重人格と考えてもらえれば判りや
すいかもしれませんね。」
「なるほど。それで君が今回の件に関わって
いると?」
「今回の件とは?」
「もちろんアザトースの件だよ。」
「でしょうね。」
「何を考えているんだ?」
「何も。」
「どういう意味かな?」
「そのままの意味ですよ。何も考えていませ
ん。ご存じではないでしょうか。僕のやるこ
とは全て。」
「暇つぶしだと?」
「そうです。それ以上でもそれ以外でもあり
ませんよ。」
ツァトゥグアの分身である桂田利明がベテ
ルギウスの旧神の元を訪れて今回の件は起こ
ったのだった。旧神の力の一端をツァトゥグ
アが利用し、アザトースと七野修太郎の身体
を入れ替えたのだ。そして、その動機は単な
る暇つぶし、なのだ。
「まさか、とは思いましたが。私が発見した
モノリスには事の経緯しか書かれていません
でした。主観的な動機はあなたから直接聞く
しかなかったので、僕もここまで来たのです
が。」
「それはご苦労様でしたね。早々にセラエノ
に戻るといいでしょう。」
「いや、原因が分かっただけで解決はまだし
ていませんよ。」
「そうでした。では、今から一緒に七野家に
行くことにしましょう。」
こうして桂田、綾野、浩太、マークの4人
が連れだって七野家で待つアザトースと杉江
の元へと向かうのだった。
40 事の真相
4人が七野家を訪ねると七野修太郎(中身
はアザトース)、杉江統一の外に向坂健太、
君塚理恵、斉藤加奈子も揃っていた。そして
ナイアルラトホテップ。
「何かわかったのなら、なぜ我に直接報告に
来ないのだ。」
マークが責められた。
「いや、それはこっちの自由ですよ。元々あ
なたの依頼を受けたつもりはありません。人
類の危機だと思って行動していただけです。」
「ふん、まあいい。それで?」
「話が全然見えないぞ。我にもちゃんと説明
しろ。」
アザトースは地球の暮らしに慣れ始めてい
たが、それがずっと続くとも思っていなかっ
た。
「私から説明しましょう。」
綾野が纏めてその場の全員に向けて説明を
することにした。
「ます、今回の件のきっかけは私の所属する
アーカム財団極東支部長マリア=ディレーシ
アだったのです。彼女は独自に桂田君の居場
所を見つけ出し財団とは関係のない一個人と
して彼を訪ねました。それは私や岡本浩太が
経験したように一旦ツァトゥグアと融合しそ
の力を分け与えてもらうことが目的でした。
「そして彼女はある情報を桂田に提供し、そ
の目的を果たしたのです。その情報が旧神の
力を利用する方法でした。それを聞いた桂田
というツァトゥグアの分身は単なる暇つぶし
のために今回の騒動を巻き起こしたのです。」
「お前の仕業だったのか。我を盟主と仰いで
おったお前がやったことなのか。」
「アザトースよ。我が主とでも呼ばせてもら
おうか。我が主よ。あなたも百何十億年とい
う長い間幽閉されたままで退屈で退屈で仕方
なかったのではないか?我も退屈で退屈で仕
方なかったのだ。それがひょんなことから分
身とはいえこの人間の身体を得て暇つぶしを
するくらいの余興はあってもよかろうて。」
「何をいうのか。この所為で宇宙の物質の均
衡が崩れたりしたら、全宇宙が崩壊してしま
うかもしれないのだ。我が主には封印から出
てもらう訳にはいかないというのに。」
「聞きづてならんな、ナイアルラトホテップ
よ。お前は我の封印を解くことが使命ではな
いのか?」
「我が主よ。それは間違いございません。た
だ私が探しているのは宇宙を崩壊させずに我
が主の封印を解く方法なのです。」
「ナイアルラトホテップよ、別によいではな
いか。この宇宙が滅びようとも、また作り直
せばよい。何を迷うことがあろう。」
「それはそうだが。」
「そんな物騒な話は止めてもらえませんか。
私たちにとっては、この宇宙がすべてなので
すから。」
旧支配者同士の諍いに入る、などという状
況はあり得ない。本来人間が入り込めるよう
なものではないはずだった。今回アザトース
が七野修一郎という一介の高校生の中に入り
ツァトゥグアはその欠片が桂田利明と融合し
た状態であり、元のままなのはナイアルラト
ホテップただ一人だったから起こった状況だ
った。
「それで、どうする気なのだ、ツァトゥグア
の欠片を名乗る者よ。」
「ナイアルラトホテップよ、ただの桂田利明
と呼んでもらおうか。ツァトゥグア本体とは
思考も能力も全く別物だからな。」
「そんな話はどうでもよいわ。我のこの状況
をどうする気なのだ。」
「我が主よ。そこは相談ですが、このままの
状況をしばらく続けることはいかがでしょう
か。玉座において身じろぎもできない状況よ
り力を制限されるが自由に動ける今の方がよ
いとは思われませんか?」
「待ってください、それは修太郎がしばらく
元に戻らない、ってことですよね。それはダ
メです。すぐに戻してください。」
斎藤加奈子は今まで七野修太郎と接触もせ
ず、ずっと黙っていたが、旧支配者たちへの
畏れもなく訴えた。
「そうですよ、修太郎は元に戻して貰わない
と。いつも気を使って付き合うのは疲れるん
ですから。ナンパにも行けやしない。」
「バカ、ナンパなんて修太郎が戻っても行っ
ちゃダメでしょ、加奈子が居るのに。」
なんだか、3人の友人たちが話に入ってく
ると途端に世俗的になってしまう。
「確かに今の状況は、このままって言うのも
問題でしょう。特に旧神の力を使った、とい
うのも問題ですし。でも、彼らはこの状況も
予想していて、そのまま放置なんですね、ほ
んとやる気がないというのか、なんというの
か。」
「それはお前が指導し調整しないといけない
立場だろうに。」
「アザトースさん、そういいますけど、あの
人たちは、まあ、陰口は止めておきましょう
か。で、桂田君、結局は僕が動かないといけ
ない状況ってことですか?」
「そうだな。お察しの通りでは修正する方法
は判らない。まあ、判ったとしてもやる気が
ないかな。」
「本当にあなたは。仕方ありません。原因が
判れば僕がなんとかします。少し時間をいた
だけるなら。」
「杉江、お前やっぱり何者なんだ?」
「僕は調整者。この宇宙が破滅に向かわない
ように調整しなければいけない時のみ力が発
揮できるようになっているんだよ。だから本
来旧神側でも旧支配者側でもない。ただ、そ
の使う力が旧神寄りってだけでね。何もなけ
ればただの杉江統一だよ。それ以上でもそれ
以外でもない。」
「お前はよほどのことがない限り動かないが
な。我も実際に会うのは今回が初めてだわ。
忌々しい奴らとの戦いのときは出てこないか
らな。」
「僕は戦闘向きではないですから。」
「では、任せて良いのだな。我が主はこのま
まにしておく訳には行かない。早々に元に戻
してもらおう。」
「ナイアルラトホテップよ。どうもお前は我
が玉座に戻って封印されることを望んでいる
かのように見えるが?」
「我が主。それは違います。私は我が主の封
印が解かれてもこの宇宙が崩壊しない方法を
模索しているのです。」
「まどろっこしいものだ。よい。ツァトゥグ
アの暇つぶしに利用されたままでは我の矜持
に関わる。元に戻すがよいわ。」
「ありがとうございます。では、できるだけ
早い段階でベテルギウスに飛ぶことにしまし
ょう。」
全員の話がひと段落付いた後。綾野祐介と
岡本浩太、マーク=シュリュズベリィの3人
は近くのファミリーレストランに移動した。
まだ話は終わっていないのだ。
41 それぞれの結末
「杉江、本当に行くのか?」
「そうだね。このままって訳には行かないと
思うし。」
「確かにずっとこのまま、ってことはダメだ
ろうけど。でもね、長いんだよ、何十億年も
ってのはね。少しくらいの余興はあってもい
いんじゃないかと思うんだ。」
「アザトースさん、あなたはどう思っている
んですか?」
「我はどうも思わん。全ての力が使えるので
ない限り意味はない、と感じてはいるがな。
確かに、その者の言うように余興としては少
し面白かったが。そこでだ。どうだろう、我
の好きな時にこの者の身体と入れ替わること
ができるようにする、というのは。」
「それはダメです。どんな影響が出るのか想
像すらできませんから。」
「そうか。まあ仕方あるまい。すぐにでも行
くがよいわ。」
「待ってください。一つ、試みてほしいこと
があります。七野修太郎という人間ですが、
彼は我が主の身体の中に入り込んですら精神
が崩壊していない極めて稀な存在です。それ
だったら例えば我が主が彼の意識を通じてこ
の世界に干渉できるのではないでしょうか。
もちろん、見聞きするだけですが。」
「それは本人次第で可能かもしれませんが、
とても彼が了承すると思えません。」
「いや、あやつは人間としては相当変わって
いるぞ。もしかしたらすんなり了承するやも
知れん。そっちは我に任せてもらおうか。」
「脅したり強制したらだめですよ。ちゃんと
判りますからね。」
「判っておる。くどくどと言ってないでお前
は自分のやるべきことをやればよいのだ。い
かがでしょう、我が主よ。」
「我にはどうでもよいことだ。好きにすれば
よい。」
杉江統一はベテルギウスに飛び、ナイアル
ラトホテップは玉座へと向かった。
「ナイ君、放置プレイが過ぎるよ~。忘れら
れたのかと思って焦ったじゃないか。」
「我も色々と忙しいのだ。まあ事態は収拾に
向かって居るので安心しろ。ちゃんと元の身
体に戻れる筈だ。そこで、相談なのだが。」
「何、何、相談なんて怖いじゃない。危険な
ことは嫌だよ。」
「危険なことは何もない。今お前の身体に入
っているのは我が主であるアザトース様なの
だが、悠久の昔よりこの玉座に幽閉されて久
しいのだ。今回のことで少し自身で動く機会
があったのは、稀有なことだ。またここに戻
ってしまうと、今のままではこの宇宙が崩壊
するまで幽閉されたままになる。我が主はそ
れでもいい、と仰っているが我としては忍び
ない。今回お前の身体と交換されたことによ
って多分回路が繋がった状態を保つことがで
きると思われる。」
「なんか難しい話だね。それで?」
「お前は何もする必要はない。ただ我が主が
お前の目を通じて地球の様子を見ることが可
能なのではないか、と思っておるのだ。それ
にはお前の承諾が必要だ。」
「そんなことができるんだ。でも、僕の私生
活が丸見えってことでしょ?」
「まあ、そうなるな。」
「それは困るよ。一人で○○も出来なくなる
じゃん。」
「なんだ、その○○というのは。」
「まあ、それは、アレですよ。言わせないで
よ。それに将来結婚とかしても、全部筒抜け
になるんでしょ?それはちょっとさすがにダ
メだなぁ。」
「では、お前の方で都合の悪い時はオフがで
きるようにすればどうだ?」
「う~ん。それならいいかぁ。」
七野修太郎という人間はどうも何事にも動
じずあまり気にしないらしい。人間としては
行き過ぎではあるかもしれないが。
「わかった。アザトースさんもずっとここに
閉じ込められているのは辛いよね。僕も本当
に辛かったんだから。いいよ、オフにできる
ようにしておいてね。」
あっさりと修太郎は了承してしまった。深
くは考えない質なのだ。
「マリアさんのことをどうするか、というの
が問題ですね。アーカム財団の存在意義すら
脅かしかねない行為です。」
「そうなるね。私も財団とは少し距離を置く
必要を感じ始めていたところなんだ。ただ、
組織として利用できるところはあるし、活動
資金的にも頼らざるを得ないからね。」
「少なくとも彼女をこのままにしておくこと
は危険です。自分の果てしない上昇志向の所
為で危うく地球を破滅させるところだったの
ですから。」
「わかった。私の方から財団の理事長に事態
を報告してかけあってみよう。」
「場合によっては私がセラエノに引き取って
も構いません。向うでの人材は枯渇していま
すから。有能であることは間違いないですし
ね。」
「そうだな。監視もかねてそうしてもらうこ
とになるかもしれないね。理事長には私も会
ったことがないから、話がどう進むのか想像
できないが、強制的に連れて行ってもらわな
ければならない事態は避けたいものだな。」
「僕はどうすればいいですか?」
「浩太はそのまま留学を続ければいい。知識
を蓄積することは今後特に有効になるだろう
し、いつか私の手伝いをしてもらいたいから
ね。」
「綾野先生は何かお考えなのですか?」
「私は、理事長は話をしたら、財団は辞しよ
うかと思っているんだ。個人で活動できるこ
とはたかが知れているとは思うけど財団に入
ってみると、その資金源が軍需産業であるこ
とがどうしても引っかかってしまうから。あ
る人物から詳しく話も聞いていたしね。」
「フェランさんですか。」
「そう。アンドリュー=フェランさんは一時
財団に所属されていたけど、袂を分かつと仰
って、その後連絡は取れなくなってしまった
んだが。君をセラエノに送り込んだのは彼だ
よね。」
「そうです。私の方でも連絡が取れなくなっ
てしまいました。あるいはもう亡くなられた
のかも、と心配しているのですが。」
「その可能性は高いかもしれないね。セラエ
ノで止まっていたとはいえ、もう相当なご高
齢な筈だから。実は彼から託されたこともあ
るんだよ。」
「託されたこと?」
「財団の経営に不信感があったから彼は財団
を去ったんだけど、結局資金面で行き詰って
しまう、と仰ってた。そこである案を私に託
されたんだ。それは実現が本当に難しいこと
だからどこから始めようかと思案していた最
中だったんだ。」
3人の話は尽きない。
杉江統一は眠っている旧神の力を借り受け
るためにベテルギウスに向かい、アザトース
と七野修太郎の中身を元に戻すことに成功し
た。その際、ナイアルラトホテップと協力し
七野修太郎の合意を確認したうえでアザトー
スが七野修太郎の目を通じて地球を視れる(
あくまで視るだけ)ように調整した。もちろ
んオフ機能付きだ。
綾野先生はアーカム財団理事長(名前は出
せないらしい)に直談判しマリア支部長をセ
ラエノに向かわせることを承諾させた。マリ
ア支部長はマークと一緒にセラエノに向かっ
た。マリア支部長本人は全く納得していなか
ったのでほぼ強制的だった。
綾野先生はアーカム財団を結局辞職される
ようだ。資金繰りに奔走しなければ、と仰っ
ていた。アリドリュー=フェランから託され
たヒントはあるらしいがハードルが高い、と
悩まれていた。
七野修太郎と友人たちは、一応普通の生活
を取り戻したようだ。
桂田利明はそのまま桂田利明として生きて
いくらしい。彼も稼がないと生活できない、
と愚痴をこぼしていたらしい。普通の職に就
きたいようだが、どうなるものか。
僕、岡本浩太はミスカトニック大学に戻っ
た。まだまだ吸収しなければならない知識が
膨大にあるのだ。次々に復活しようとする旧
支配者たちに備えなければならない。綾野先
生が何かの組織を立ち上げるのなら、その際
にお役に立ちたい、と漠然と考えていた。