ナイアルラトホテップの影
クトゥルー、ツァトゥグアの封印を
解くための行動は、意味がある。
あまりにも恐ろしい意味が。
そして、また漆黒の影が暗躍する。
第3章 ナイアルラトホテップの影
綾野祐介
1 プロローグ
人間の心の奥底にある、未知なる物への恐
怖。人類が思考を始める以前から未来永劫に
続くであろう、この恐怖は一体何処から派生
したものであろうか。
原始の時代、弱肉であるひ弱な人類が強食
である動物から身を護る術のひとつとして危
険を察知する能力が研ぎ澄まされていった結
果、闇や未知なる物に対しての危機感を持つ
に至ったのであろう。
そんな人類に対して、遺伝子の中にさえそ
れに対しての恐怖が埋め込まれていると考え
られるものがある。原初の異質な、そう極め
て異質であり、混沌であり、全く以って相容
れない存在である神々(それを神々と呼ぶの
は他に呼びようが無いからである。)の存在
がそれだ。
それらの神々はあまりにも強大な力を有す
るため自分以外の存在を許さない。自分以外
の総てのものを滅ぼそうとした。そして、そ
れを止めようとする神々も存在する。
同じ神々と呼んでいいのかは、よく判らな
い。そして、総てを滅ぼそうとする側とそれ
を阻止しようとする側との長い長い戦いがあ
った。
その戦いが前者の勝利に終っていたのなら
今の人類はおろか地球そのものの存在さえも
消滅していた筈である。幸いにして永劫に続
くかに見えた戦いは後者の勝利に終わり、前
者のものたちは様々な場所、空間、次元に封
印されたのだった。
なぜ総ての存在に対して危険極まりないよ
うな神々を消滅させるのではなく、ただ封印
するに留めたのだろうか。それは封印した側
の神々にとっては消滅させようとした神々の
存在さえも、愛すべき、そしてその存在を許
すべきものであったのかも知れない。
封印されしもの、封印をなしたもの、そし
て封印されるほどの力は有していなかった故
に封印を免れたもの。封印されたものはその
限定された力の及ぶ限り自らの封印を解く術
を探している。ある時は封印を免れた眷属を
使い、あるときは更に下等な存在であった人
間に影響を与えながら。
それらの様々な営みの中で、唯一封印され
るべき力を有しながら封印されなかった存在
がある。それは総てを滅ぼそうとした陣営に
組してはいたが、その中でも異端の存在であ
った、ナイアルラトホテップである。
2 ネクロノミコン
ある日。
「ナイ神父、よろしいのですか。あのような
者達にネクロノミコンをお渡しになるとは、
一体何を考えておられるのです。」
「お前達が心配するようなことではない。た
だ、あの本だけは取り戻す必要がある。お前
は奴らの儀式に潜り込んで、多分失敗するで
あろう儀式の混乱に乗じてネクロノミコンを
回収してくるのだ。」
「失敗すると思っておられるのなら、本を貸
す必要もないのではないですか。」
「いや、最後の最後まで成功する可能性を残
さなければ意味はないのだ。そして、その上
で儀式は失敗する。そこが大事なのだ。とい
うよりも、今まで行ってきた総てのことは、
正にその失敗の為にあるといっても過言では
ない。」
星の智慧派の指導者であるナイ神父の命令
は絶対ではあったがクリストファー・レイモ
スはどうも納得がいかなかった。神父は一体
何を望んでいるのだろう。クトゥルーの封印
が解けることなのか、解けないことなのか。
いずれにしても自分は神父の命令どおり一度
ダゴン秘密教団に貸し出されたネクロノミコ
ンを取り戻さなければならない。本に記され
ている儀式の内容と呪文は適切に処理されな
ければならない。その上で儀式自体は失敗を
する。それが神父の意向だった。クリストフ
ァーは直ぐにインスマス面の男達の跡を追っ
たのだった。
クリストファー・レイモスはナイ神父の命
令でダゴン秘密教団に貸し出された『ネクロ
ノミコン』を儀式が失敗する混乱に乗じて回
収するためにインスマス面の男達の跡を付け
ていた。行く先は判ってはいるのだが、確認
の為に跡を付けていたのだ。
インスマス面の男達の車は予想通り琵琶湖
畔にあるダゴン秘密教団の集落地へと向かっ
た。クリストファーが確認したそのごく普通
の日本家屋(それが日本古来の様式なのか、
最近の様式なのか区別はつかなかったが)に
は「田胡」とプレートネームが掲げられてい
た。その名前はダゴン秘密教団にとって重要
なポストにある人間の名前だとナイ神父から
聞かされていた。
それだけを確認してクリストファーがその
場を離れようと車を来た道に戻したときすれ
違う車が在った。運転者には見覚えがある。
確か琵琶湖大学の講師で綾野祐介といった筈
だ。クトゥルーの封印を解く鍵を握っている
人物とナイ神父からは聞かされていたが、見
た目にはとてもそんな重要人物には見えなか
った。いずれ何らかの形で接触するかも知れ
ない。
ダゴン秘密教団の儀式の為の準備は着々と
進んでいるようだった。クリストファーには
クトゥルーの封印を解く儀式が成功するよう
に思えた。『星の智慧派』の指導者であるナ
イ神父からは儀式は必ず失敗すると聞かされ
ていたが、なぜ失敗するのかは聞かされてい
ない。
儀式に必要なものは『ネクロノミコン』も
含めて全て揃っている筈だった。クトゥルー
の復活を望む者と望まない者の、生き埋めに
された恐怖の怯える心臓。25年に一度のル
ルイエの上昇。そして、多分ダゴン秘密教団
の末端構成員には知らされていないだろう、
多くの者の精神の破壊。つまり彼らはクトゥ
ルーの復活における餌なのだ。
先日、ダゴン秘密教団の集落ですれ違った
綾野という大学講師は、教団に捕まって心臓
を取り出される為に生き埋めにされるようだ
った。クリストファーはそれを確認するため
教団員たちの跡をつけていった。綾野のほか
に計3人の日本人が生き埋めにされるようだ。
彼らはクトゥルーの復活を望まない者達であ
ろう。クトゥルーの復活、復活の阻止両方の
鍵を握ると神父に教えられていた綾野がその
儀式に生贄として参加されられるとは、ナイ
神父はいったい何を言っておられたのだろ。
クリストファーが見守っていると、穴を掘
って生き埋めにする作業は淡々と進められて
いった。生き埋めにされる恐怖を凝縮した心
臓が媒体となってクトゥルーの封印を解く鍵
の一つとなり、また無数の精神力(特にここ
でも恐怖が鍵となっている。)を吸い取るこ
とで自らの力を倍化させて旧神の封印を破る
つもりなのだ。
作業が終わり教団のインスマス面の男達が
見張りも残さず一旦立ち去った。作業に使っ
た道具を車に積みに行ったのだろう。これで
準備は整った筈だ。あとは3日後に死体を掘
り起こし、心臓を取り出す作業が残っている
だけだった。
クリストファーも立ち去ろうとした時だっ
た。人の気配に再びクリストファーは物陰に
隠れた。インスマス面ではないようだ。
現れた人影は今埋められた三つの場所に近
づいていって掘り返していた。一部だけを深
く掘っているようだ。そして何か細長いもの
を突き刺して再び元のとおりに埋め戻した。
素早い行動だった。その人影たちが大急ぎで
立ち去ったすぐ後にインスマス面の男が一人
戻ってきた。見張りに残るつもりだろう。掘
り返されて戻されたことには気付いていない
ようだ。用具を置きに行っていたのだろう。
「なるほどそういうことか。」
クリストファーはナイ神父の言っていた意
味を理解した。決して儀式の準備が揃うこと
はないのだ。
予想通りクトゥルーの封印は解けなかった。
ルルイエも沈み再び水上に上昇するには25
年を経ないと無理だろう。ただ、ナイ神父の
話によればその間隔は短くなりつつあるとい
う。最後には海上に固定してしまうらしい。
そうなるとクトゥルーの封印を解くのはかな
り容易になる筈だ。
クリストファー・レイモスはナイ神父から
言われていたとおり困難に乗じてダゴン秘密
教団に貸し出されていた『ネクロノミコン』
を回収することに成功したのだった。
3 星の智慧派極東支部
火野将兵は星の智慧派極東支部に在籍して
からまだ十ケ月が経過しただけだった。年齢
も二十歳を超えたばかりである。ナイ神父の
直々の声掛かりで入信した火野を他の信者は
多少いぶかしんで見ていた。過去そんな例は
無かったからだ。ここ数ヶ月というもの、い
ままで一度も訪れたことさえなかった星の智
慧派の指導者たるナイ神父が、極東支部の一
信者の入信に関わるとは、極東支部長である
新城敏彦には合点が行かなかった。新城でさ
えナイ神父と直接言葉を交わしたことは今ま
で一度しかなかったからだ。それも、自ら星
の智慧派の本部を訪れたときにたまたま居合
わせたナイ神父にひとこと挨拶しただけだっ
たのだ。
ただ、先日のクトゥルーの復活の舞台が琵
琶湖だったこともあり、今極東、特に日本は
旧支配者に関わる者達にとって重要な位置を
占めるようになっている。極東といえばすぐ
レン高原を思い浮かべる時代は終りつつある
のだ。
旧支配者の封印を解こうとする勢力が日本
で活発に活動し始めるのと連動して、それを
阻止しようとするアーカム財団などの組織も
日本に対して本腰を入れてきているのは、仕
方ないこととは言え、煩わしいことである。
新城としてはナイ神父の指示を直接受ける
立場となった自分が誇らしかった。神父はク
リストファーとかいう側近を連れて来ている
ので、何か内密に事を運ぼうとしている面も
あるのだが、結局日本では自分に頼むしかな
いはずなのだ。
ナイ神父の指示によって火野将兵と、また
更にナイ神父が新たに連れて来た風間真知子
という二十歳にもならない少女が帝都大学の
名誉教授であり、クトゥルーの復活を阻止し
た張本人である綾野とかいう琵琶湖大学の講
師の恩師である橘教授の元を訪れることにな
った。
「神父、なぜ私どもにお任せくださらないの
ですか。」
「お前は私の指示どおりに動いておればよい。
それとも私の指示することに逆らうとでもい
うのか。」
「いいえ、決してそんなことは。ただ、極東
支部の責任者として多少なりとも私にもご指
示の内容をお聞かせいただければと。」
「お前に話しても理解できないから話さない
のだ。そんなことも判らないのならここの責
任者は務まらないだろう。火野君に代わって
もらうかね。」
新城は冷や汗がでてきた。ナイ神父の機嫌
を損ねれば人間として想像できる範囲を遥か
に超える苦痛や恐怖を伴った制裁が待ってい
る。ただ、新城も引き下がれないことがあっ
た。
「その火野君のことなのですが、彼は一体何
者なのですか。あの若さで神父のご意向を直
接受ける立場にあるとは。」
「彼の者は火の民の末裔である。」
「そっ、それでは彼はスパイではないのです
か。」
「そういうこともあろうな。」
「それがお判りになっておられて彼を使われ
るのですか。」
「黙って私の指示に従っておればよいのだ。
彼に監視を付ける必要はないぞ。くれぐれも
星の智慧派の一員として遇するのだ。それが
わが意志である。」
火野将兵が火の民の末裔だとすれば、ナイ
神父にとって敵対関係にあるはずのクトゥグ
アの眷属である可能性が非常に高い。
クトゥルーの復活を助けるようで、その失
敗を予測し、今またクトゥグアに関わるもの
を配下として使おうとしている。新城にはナ
イ神父が何を成そうとしているのか、想像も
付かなかった。
「君たちと会う約束をした覚えはないが。」
「そうでしょうね。僕も約束した覚えはあり
ません。」
若い男、更に若い少女とも言うべき女。二
人が帝都大学名誉教授、橘軍平を訪ねた日は
二日前から長雨が続いている、梅雨の真っ只
中だった。
外出していた橘を訪ねて、約束があるので
待たせて欲しいと細君に無理を言って応接間
に通った二人だった。細君は二人を橘の生徒
と勘違いしたようだが、二人ともそんなこと
は一言も言わなかった。もっとも女のほうは
この家に着いてからまだ一言も発していない。
「どういうつもりなのだね。」
「心配しないで下さい。別に教授をどうこう
しようと思っている訳ではないのです。ただ、
少しお話ができればと。」
男の名は火野将兵、女は風間真知子と名乗
った。橘には二人が日本人にしか見えなかっ
たが、微妙なイントネーションが、外国人が
日本語をかなり勉強した様な風であり、純粋
な日本語には聞こえなかった。
「綾野祐介さんというのは、教授の教え子で
すよね。実は彼について我が教団は非常に興
味を持っているのです。」
「我が教団?君たちは一体どんな教団に所属
しているというのかね。」
「私達は星の智慧派として知られている教団
に所属するものです。」
「星の智慧派だと。それが本当ならすぐに帰
ってくれたまえ。君たちに話すことなど何も
ない。君のような若い者があのような教団に
関わっているとは、到底信じられんがね。」
「教授はこの世の中に真実はあると思われま
すか?」
「突然何を言い出すのかね。」
「いえ、例えばお伺いしたいのは地球にとっ
て本当の敵とは一体誰なのか、ということな
のです。」
年甲斐も無く興奮しがちの橘教授に対して
火野は怖いくらいに落ち着いている。風間は
相変わらず一言も話さなかった。
「人間が地球にとって敵だとでも言うのだろ
う。そんな議論に乗るつもりはない。確かに
環境を破壊しつづけているのは人間だけだろ
う。かといって君たちが封印を解こうとして
いる物達は更なる破滅をもたらすことは自明
の理だ。地球どころかこの宇宙さえも破壊し
つづけるかも知れない。それでも人間が地球
の敵だと言うのかね。」
「確かに教授の仰る通りでしょう。僕たちの
目的が達せられれば僕たちも含めて滅ぼされ
てしまうのかも知れません。僕は他の信者の
ように自分たちだけが生き残れるとは思って
いません。ただ僕や星の智慧派の指導者であ
るナイ神父の思いは在るべきものを在るがま
まに、ということだけなのです。未来永劫に
封印され続けること、それだけが罪だと考え
ているから封印を解こうとしているだけなの
です。それによって地球が滅んでしまったと
したら、それが本来在るべき姿ではないので
しょうか。」
橘教授には理解できなかった。この青年は
自分が今言っている意味を理解しているのだ
ろうか。人類どころか地球丸ごと自殺するよ
うなものだ。
「今日は教授と議論をしに来たのではないの
です。この話は何時までお話しても平行線で
しょうから。」
それから火野が話し出した内容は、橘の教
え子であり、今滋賀県の琵琶湖大学で伝承学
の講師をしている綾野祐介に関する驚くべき
話だった。
「そんなことがある筈が無い。彼は先日もク
トゥルーの復活を命の危険を顧みず阻止した
男だ。」
「それはそれ、これはこれです。事実は事実
として受け止めなければならないと思います
が。いくつか見ていただきたい物も在るので
す。」
火野が差し出した書類、写真を食い入るよ
うに見た橘の顔から血の気が引いて行った。
「お判りいただけましたか。これはこのまま
お貸ししますので、綾野先生ご本人をお呼び
になって確認された方がいいと思いますよ。
それでは僕たちの用はこれで終りましたので
失礼します。」
そう言い遺して火野と風間は帰っていった。
橘は二人が帰ったことに気付くこと無くただ
頭を抱えて身じろぎ一つしないのだった。
4 大英博物館
大英博物館には門外不出の稀覯書が数多く
所蔵されている。クトゥルー関連の本もネク
ロノミコンを筆頭に閲覧さえ許されていない
ものも沢山眠っているのだ。
橘良平はケンブリッヂ大学在学中に世話に
なったアルバート=ライン教授を訪ねた。彼
は最近では現場を引退し執筆作業に勤しんで
いるが、橘の在学中は生物学教授として高い
地位と名声を得ていた。大英博物館の名誉学
芸員でもあるライン教授の伝手を頼って、橘
は大英博物館の奥深くに入り込むつもりだっ
た。
前もって連絡をした時にはライン教授は不
在だったので、伝言だけを頼み、直接自宅へ
と訪ねた。留学中は週に一回は通った豪邸だ
った。
「お久しぶりです、ライン教授の教え子の橘
ですが。」
かなりの時間が経っているので、既にメイ
ドの顔は知らなかった。怪訝そうな顔でメイ
ドが言った。
「どちらの橘様でしょう。主からは今日、お
客様がおみえになるとは承っておりません。
主はお約束の無い方にはお会いいたしません
ので、お引取りください。」
「ちょっと待ってください。先日お電話した
ときにはご不在でしたので今日訪ねることは
伝言してあったのですが、聞いてもらってな
いですか。ケンブリッヂ大学で生物学を教え
ていただいていた橘良平です。教授に聞いて
いただければ直ぐに判ると思います。このお
宅にもよくお招きいただきましたから。」
メイドは怪訝そうな顔を更に曇らせたが、
ライン教授に確認するから、ちょっと待って
欲しい、と言い残し中へと入って行った。
暫くして戻ってきたメイドの表情は、先程
と全く変わっていなかった。
「主は橘などという生徒は知らないと申して
おります。早々にお引取りください。」
「そんな馬鹿な。教授に逢わせていただけれ
ば直ぐに判ります。取り次いでいただけませ
んか。」
「ですから、先程から申します通り主はお約
束の無い方とはお逢いになりません。どうぞ
お引き取りください。」
取り付くしまも無かった。仕方無しにロン
ドンの街の中心街へと戻る橘だった。ライン
教授宅に泊めてもらうつもりで、ホテルを取
っていなかったのだ。
「これでいいのだろう。」
ライン教授は絵に描いたような典型的な不
快の表情をあからさまに浮かべていた。相手
に対して不快感を表すために態とそんな顔を
しているのだ。
「結構です。今後とも含めてどのようなこと
であっても橘に助力をしていただかないよう
くれぐれもお願いします。さもないと。」
「判っておる。何度も言わずともよい。だが
君の教団の指導者とやらは一体何がやりたい
のだね。橘君とはどう関わっていると言うの
だ。」
「それについてはお応えするわけにはいきま
せん。教授はただ橘とは連絡を取れない、そ
のことだけ理解していただければ結構です。
今後彼の消息をお知りになられることはない
でしょう。」
「橘をどうするつもりだ。」
「彼にはちょっとやって欲しいことがあるだ
けです。心配なさらないでください。彼に危
害を加えるつもりはありません。」
「もしその言葉を違えるようなことがあれば
私にも考えがある。全力をもって君達の組織
を壊滅させてみせるぞ。」
「そう興奮なされないで下さい。お体に障り
ますよ。」
「クリストファー君と言ったか。私は君のよ
うな小賢しい若者はどうも気に食わないのだ。
その点、橘君は真面目で真摯な態度でいつも
学術に取り組んでいた。彼のような地道な存
在の積み重ねが天才のひらめきを超えること
もある、と知るときがいずれ来るだろう。」
「肝に銘じておきましょう。」
クリストファー=レイモスは橘良平の跡を
追ったのだった。
橘良平は途方に暮れていた。ホテルに戻っ
てはみたが、良い考えが浮かばない。とりあ
えず日本で待っている岡本浩太にロンドンに
ついた旨のメールを入れた。
その時、ドアホンのチァイムが鳴った。
「橘先生、少しお話があるのですが。」
ここに来ていることを知っているのは日本
で待っている岡本浩太と同時期にアメリカに
飛んだ綾野祐介だけの筈だった。イギリスで
はライン教授のメイドにここに居る事を教授
に伝えて欲しいと言付けただけだ。とすると
ライン教授の使いの者だろうか。だが、問い
かけは日本語だった。
「どちら様ですか。」
「私はクリストファー=レイモスと言う星の
智慧派の者です。あなたがこの国に来られた
理由を知り、お力になれるのでは、と訪ねて
参りました。」
どう言う事だろう。橘がイギリスを訪れた
理由を知るものはほんの数名の筈だ。星の智
慧派とはいったいなんだろう。とりあえず橘
は藁をも掴む気持ちでクリストファーを部屋
へと招きいれたのだった。
「私どもは地球を守ることが全てに優先する
と考えて行動することを主な理念としている
団体なのです。」
「あの、宗教の勧誘に来られたのですか。」
「いえいえとんでもない。あなたが今直面し
ておられる問題について、お話をするために
来たのです。」
「私が今直面している問題をご存知だと。」
橘はヴーアミタドレス山の洞窟に人質にさ
れている桂田利明を救い出すためツァトウグ
アとアブホースの封印を解く方法を探しに稀
覯書が数多く所蔵されている大英博物館の奥
深くに入館する許可を求めてライン教授を訪
ねたのだ。
「大英博物館には我が教団に所属する者も学
芸員として勤務しております。あなたのご希
望に添えるのではないでしょうか。」
「本当ですか。それなら是非お願いします。
ライン教授に会えなかったのでどうしようか
と思っていたのです。でもなぜ私に協力をし
ていただけるのですか。」
得体の知れない星の智慧派と名乗る青年の
申し出は橘にとって渡りに船ではあったが、
青年の目的がはっきりしない。なんのメリッ
トがあるのだろう。
「先程も言いましたが私どもは地球を守るこ
とが最大の使命だと思っております。旧支配
者達が地球を滅ぼす存在ならば、封印をされ
ているもの達を開放すべきではない、と考え
ているのです。けれど、人命には代えられな
い、とあなたや綾野さんは考えていらっしゃ
るのですね。」
「そうです。私には桂田君を救い出す使命が
あると思っています。ただそれによって地球
が破滅の危機に陥ることになるかも知れない。
その二つのジレンマについては、私も綾野先
輩も解決できていないのです。ただ黙って悪
戯に時を過ごすよりは、何らかの行動を起こ
せばそこに解決策が生まれるのでは、とここ
までやってきたのです。」
「判っています。全て判ったうえでご協力を
申し出ているのです。どうです、今から出か
けませんか。」
なぜ橘に協力してくれるのか、その答えは
聞けないままだったが、橘は意を決してクリ
ストファーの申し出を受けることにした。
午後1時をまわったところだったので、今
から大英博物館に向かっても充分時間はある
筈だ。少しでも早く何らかの情報を掴んで帰
国したかった橘はクリストファーと連れ立っ
て博物館へと向かうのだった。
「ええ、判っています。橘はここに釘付けに
しておきます。サイクラノーシュ・サーガは
別ルートで綾野の手に入るように手配してあ
りますから。」
「全ては順調のようだ。期待しているぞ。」
「ふぅ。」
電話を切ってクリストファー=レイモスは
ため息を吐いた。星の智慧派の指導者である
ナイ神父との会話は直接でなくてもかなり疲
労感を感じる。生気を吸い取られるかのよう
だ。
クリストファーはナイ神父の指令で大英博
物館にツァトゥグアの封印を解く方法を探し
に来た橘良平を一定期間拘束するために急遽
渡英してきたのだった。神父によると橘と綾
野祐介が日本で合流する時間を少しでも遅ら
せたいらしい。理由は聞かされていない。神
父が質問を許さないからだ。クリストファー
は多少苛立ちを感じ始めている自分に驚いて
いたが、今のところナイ神父の指示には絶対
的に従うつもりだった。
「クリストファーさん、あなたは何かを企ん
でいますね。」
駆け引きを知らない橘良平は思ったことを
そのまま口にした。クリストファーは協力す
ると言ってはいるが、稀覯書が所蔵されてい
る部屋に通してくれただけで橘が四苦八苦し
て本の内容を確認しているのをただ黙って見
ているだけだった。ラテン語にも堪能なクリ
ストファーの協力があればかなりのペースで
調査が進む筈だ。
「そんなつもりは無いのですが。」
「では何故手伝って下さらないのですか。」
「あなたに変な先入観を持って貰いたくない
からです。あなた自身の感覚で探し出すこと
が最短の時間での成功に繋がると思っている
からなのです。」
「それはどういう意味ですか。私に何らかの
力が在るとでも。」
橘はクリストファーが言い訳をしているか、
本来の目的を隠すためにはぐらかしていると
しか思えなかった。
「そうです。あなたは特別な力を授かったの
です。それと元々お持ちになっていたものと
の融合によってその力は相乗効果を得て飛躍
的に高められている筈です。」
「授かった力?元々持っていた力ですか?」
「ツァトゥグアと例え短い時間であったとし
ても融合していたのですから、ツァトゥグア
があなたの記憶やあなたが見た情報を得たよ
うにあなたがツァトゥグアの能力を一部でも
その身体に得ていることは、可能性として否
定できないでしょう。」
俄かには信じられない話だ。何かの力を得
たような自覚は無かった。橘は自分が人間と
は最早呼べない物になってしまったと宣言さ
れているようで多少腹が立った。
「それに私が元々持っていたものとはなんで
すか?」
クリストファーは橘の元々持っているかも
しれない力について説明を始めた。それはナ
イ神父からレクチャーを受けたものだった。
橘家というのは日本における四つルーツの
一つなのだそうだ。日本人は元を辿れば源平
橘藤といって源氏、平家、橘家、藤原家のい
ずれかに集約される。橘家は当然そのものず
ばり橘家だった。特に橘良平の家は旧家であ
り実際に日本における神話の時代に当る神武
天皇の時代にまでその家系を遡れるのだ。た
だし、橘を名乗ったのは奈良時代の少し前ぐ
らいからではあるが。
そして、その家計図の中に平安時代に数回、
日本人ではないものとの婚姻があったことが
記されている。このことについては橘良平も
先日故人となってしまった祖父橘軍平から聞
かされていた。『我が家系には謎がある』と
いうのが口癖だったのだ。歴史が専門の橘軍
平は自分の家系についてもかなり詳しく調べ
ていた。
橘良平は特に興味が無かったので真剣には
聞いていなかったが、かなり古い時代の家系
に不審な点があると祖父が言っていたのを思
い出した。
「これはあなたの祖父である橘軍平教授のお
宅から借りてきたものですが。」
そういってクリストファーは様々な文書を
テーブルの上に置いた。かなり古い物から最
近書かれたようなメモ帳のようなものまで在
った。
そのあとクリストファーが橘良平に語った
ことは、あくまで推論に過ぎないと前置きし
てからではあったが証拠となる書面が整って
いることもあり橘にとっては耐えがたく信じ
がたいことであった。
「それで橘は未だ英国に軟禁状態になってい
るのだな。」
「はい、精神的な打撃があまりにも大きかっ
たのか、呆然としたまま唯々諾々と従ってお
ります。あの状態では外部に連絡を取ろうと
はしないでしょう。念のため数人の見張りを
交代で付けておきました。」
「結構。」
クリストファー・レイモスはボストンにあ
る星の智慧派の拠点においてイギリスでの首
尾を指導者であるナイ神父に報告していた。
「次に君には再び日本に行ってもらいたい。
アンチクトゥルー協会という名の組織に接触
してあるデータを収集して欲しいのだ。」
「アンチクトゥルー協会ですか。」
「そうだ。一応汎人類的組織と名乗っている
ようだが、自分たちで思っているほどこの世
界では知られていない組織だ。ただ資料収集
やデータ収集には多少観るべきものがある。
今回もツァトゥグアと融合した人間の組織を
解析したデータを得ている筈なのだ。現在の
最新の医療技術によってどんな推論がなされ
ているのかを含めてそのあたりのデータを手
段は選ばない、奪ってくるのだ。」
相変わらずナイ神父は質問も意見も許さな
い。直ぐにクリストファーは日本に飛ぶのだ
った。
5 暗躍
クリストファー=レイモスは京都にいた。
アンチクトゥルー協会の者と接触するためだ
った。協会の日本支部に直接行っても良かっ
たのだが『サイクラノーシュ・サーガ』の情
報を流したついでに直接そのものを持ち込む
ことにしたのだった。
協会の関西支部に稀覯書収集の第一人者が
居るらしい情報を得たので、自分で持ち込ん
でみようと思った。データを得る取引の材料
にするつもりだ。
その店は京都駅から北に続く地下街の外れ
にあった。『京極堂』というのが屋号らしく、
古びた看板が掲げられていた。
「ご主人ですか?」
店に入ると40歳ぐらいに見える男が奥の
座敷になっているところで机に向かって座っ
ていた。
「そうですが、何かお探しですか。」
「いいえ、探しておられるのはそちらだと思
うのですが。」
あまり商売熱心とはいえない主人は、その
証拠に今始めてクリストファーの方を見た。
「確かに今日探していたものが届く手筈にな
っているが。」
「そうです。その件で来たのですが。」
そしてクリストファーは風呂敷を取り出し
た。この日本の伝統的な簡易運搬用具をクリ
ストファーはいたく気に入っている。どのよ
うな形のものでも包める上に、必要で無くな
ったら畳めばいいからだ。日本人はこのよう
な智慧というのか、倹約の美徳というのか、
古くからの伝統が数多く残っている。日本に
来ることは結構気に入っていた。ただし、自
分の仕事の内容を考えなければの話ではある
が。
「それはありがとうございます。早速ですが
見せていただけますか。」
古書店の主人は非常に丹念に「サイクラノ
ーシュ・サーガ」を鑑定している。内容を読
んでもいるようだ。
「失礼ですがご主人はこの本が読めるのです
か。」
「いえ、少なくとも私の知っている言語では
ないようです。セム語でもネクロ語でもない
ようだ。古代ルーンの上位語かとも思ったの
ですが、それとも少し違いますね。」
クリストファーには全く判らなかったが、
この古書店主は言語学の権威だとでも言うの
だろうか。
「いいえ、私はただの古本屋ですよ。ただ、
父が生前ミスカトニック大学で数種の言語学
を教えていたので多少ならば判らないことも
無いのです。ただ生噛りなものでたいした役
には立ちませんけれど。」
稀覯書の真贋を測るにはどうしても必要な
知識の筈だから充分な知識なのだろう。逆に
その知識があったからこそ稀覯書探索の第一
人者になっているのかもしれなかった。人の
良さそうな顔をしていて案外食わせ者かもし
れない。
「見せていただきましたところ、確かに本物
のようです。よろしい。買い取りましょう。
条件はお電話でお話したとおりでよろしいで
しょうか。」
金などどうでも良かったのだが、あまり欲
の無いことを云っておくと信用されないとも
思ったので、そうおかしくない金額を提示し
ておいた。「サイクラノーシュ・サーガ」は
確かに稀覯書中の稀覯書ではあるが、その内
容や価値は例えば「ネクロノミコン」などと
比べるとかなり落ちてしまう。同じ魔道師エ
イボンが書いたものとしてなら「エイボンの
書」の方が重要だろう。
「お金はお金として実は彼方にお願いしたい
ことがあるのですが。」
クリストファーは本を譲る条件として岡本
浩太のDNA鑑定結果のデータと交換でない
と本は渡せないと伝えた。合法的にデータを
得ようというのだ。非合法な手段は何時でも
取れる。クリストファーはたまにはこう云う
方法もいいだろうと思っていた。
古書店主は暫く何処かへ電話をかけていた
がやがて戻ってきた。
「判りました。データと交換でよろしいので
すね。それでお願いします。実際あのデータ
は私達では手に負えそうに無いと思っていま
した。私どもの検討結果も含めてお渡ししま
しょう。それとこれは虫の良いお願いかもし
れませんが、もしあなた方であのデータに関
して何か新事実でも発見しましたら私達にも
フィードバックして貰えないでしょうか。あ
なた方が私たちと敵対するものなのか、協力
を結んでいけるのかはこの際聞きません。
『サイクラノーシュ・サーガ』を提供してく
ださるのですから味方かとも思いますが、一
概にそうとも言えない団体もあるのは知って
います。そんなことは関係なしに私はただ純
粋に知りたいのです。」
古書店主は真剣だった。この男は知的好奇
心の塊のようだ。地球を救うとか人類が進化
するとかそんな話の本質では無く、ただ「知
りたい」ことが全てなのだ。クリストファー
は自分でも守るつもりなのかどうか判らない
約束をしてとりあえず「京極堂」を辞したの
だった。
6 影から
「付いて行ってもよろしいでしょうか。」
クリストファー=レイモスはアンチクトゥ
ルー協会(なんと直接的な表現だろうか。自
らの主を過小評価しているかのような団体に
対してはクリストファーは逆に過小評価して
しまう。)から得たデータをナイ神父に手渡
すために東京に来ていた神父を帝都ホテルに
訪ねていた。(神父は三十一階建てのホテル
の最上階特別スイートを常時リザーブしてい
た。)
「結果は見えている。特に付いて行く必要も
ないだろう。」
「それでは私があの本を彼らに渡した意味は
ないのですか?」
「そうではない。綾野たちがあの本を使って
どうするかを見極めたいのだ。ツァトゥグア
の封印が解けようが解けまいが関係ないので
な。」
「それなら尚更その過程を見てくる必要があ
るのでは。」
クリストファーは単純に付いて行きたかっ
た。『サイクラノーシュ・サーガ』にどんな
ことが書かれているのかは、神父も教えてく
れていない。自分がもたらしたものの結果を
自分の目で見届けたかった。
「それほど言うのなら良かろう。ただし、ツ
ァトゥグアに気取られるわけには行かない。
結界を張ってやるから全てを観てくるがい
い。」
こうしてクリストファーは綾野たちに付い
てヴーアミタドレス山の洞窟に向かった。
クリストファー=レイモスは不思議な気分
だった。綾野祐介や岡本浩太、そして名前を
知らない二人の日本人に付いてヴーアミタド
レス山に来たのだが、四人は全く自分の存在
に気付いていないのだ。ナイ神父の結界のお
陰だった。ただ、洞窟に入るには細心の注意
が必要だった。如何に神父の結界とは言えツ
ァトゥグアその人のお膝元である洞窟に入る
ことは勇気がいることだった。結界の存在に
気付かれてしまう可能性も高いのだ。それは
ほんの少しの違和感としてしか認識できない
筈ではあるが。
神父の話では綾野たちはツァトウグアの封
印を解くことはできないようだ。封印を解く
方法も知らないクリストファーには何がどう
なって封印が解けないのか見当もつかなかっ
た。
四人が洞窟に入っていく。クリストファー
は少しはなれて付いて行った。ツァトゥグア
と綾野達の会話が始まった。何を話している
のか、離れているので詳しくは聞き取れなか
った。しかし、これ以上近づくわけにもいか
ない。クリストファーは多少の苛立ちを覚え
た。
暫くして綾野と岡本が出てきた。クリスト
ファーは慌てたが脇に避けて二人をやり過ご
すことができた。気付かれていないようだ。
クリストファーは残った二人が気にかかっ
たので奥へと進んでみた。ツァトゥグアに気
付かれないように慎重に進んだ。そしてクリ
ストファーは初めて本物のツァトゥグアを見
た。最大限に過少表現をしたならば蝦蟇蛙に
似ていると言えるだろう。先日クトゥルーが
暴れ狂っているところを見たクリストファー
だったが、ツァトゥグアの方が更に異質だっ
た。この世のものとは到底信じられない。膿
やヘドロを混ぜ合わせてもあのように醜怪に
はならないだろう。綾野たちはツァトゥグア
に吸収されたと聞いた。クリストファーは自
分には耐えられない冒涜に思えた。
残った二人の日本人はツァトゥグアと話を
していた。年上の方が何やらツァトゥグアに
頼んでいるらしい。よく聞いてみるとツァト
ゥグアの体組織を一部地上に持って帰って調
べさせて欲しい、と言っていた。何を考えて
いるのか。どうも良く聞き取れなかったのだ
が、何か取引をしたようだ。二人が地上で何
かをする代わりにツァトゥグアの体組織を持
ち帰る許可を得たらしい。近づきすぎるわけ
にはいかないので、巧く聞き取れなかった。
やがて綾野達が戻ってきた。アーカム財団
のマリヤ=ディレーシアとリチャード=レイ
は見知った顔だ。他の者は多分アーカム財団
の特殊部隊だろう。
話の経緯を見守っていた。
「なるほど、そう言うことか。」
クリストファーは理解した。綾野はツァト
ゥグアの封印を解く方法を見つけはしたが、
今の地球上ではその方法は取りえないのだ。
時空を超える能力を持つヨグ=ソトースなら
ば或いはツァトゥグアの封印を解くことが出
来るかもしれない。それにはヨグ=ソトース
の封印を解かなければならないのか。ヨグ=
ソトースがウィルバー=ウェイトリィとその
双子の兄弟の他に人間との間に子を成してい
ない確証はない。もしかしたら何等かの手掛
かりが掴めるのではないだろうか。クリスト
フアーは神父への報告の必要性を強く感じた。
クリストファーが考えを巡らしている間に
事態は急変していた。アーカム財団の特殊部
隊がツァトゥグアに向かって発砲したのだ。
仮にも神と崇められるツァトゥグアに対して
そのような通常兵器が効果を示すとは考えら
れなかった。クトゥルーの場合はミサイルで
さえ足止めにしかならなかったのだから。発
砲された弾丸はそれを発した人間にそのまま
返ってきた。特殊部隊は全滅だ。当然の結果
といえよう。
クリストファーはある程度の収穫を得られ
たと判断したので洞窟を出た。そこで突然声
を掛けられた。
「彼方は誰?」
女性か?
「私が見えるのですか?」
「そんな結界を張っていてもここまで近づけ
ば感じることはできるわ。感じられたなら観
ることはそう難しいことではないの。」
あいても結界を張っていたらしい。こちら
からは見えなかった。
「ここはツァトゥグアの影響を強く受けすぎ
るから地上に戻りましょう。彼らと一緒じゃ
ないと戻れなくなってしまうかもしれないわ
よ。」
クリストファーは綾野達と一緒に来たので
ここまで普通に来られたのだが、確かに一人
で戻るには難しい異世界だった。クリストフ
ァーは綾野達とは別にこの見えない彼女に連
れ戻ってもらうことにした。どうも敵ではな
さそうだ。神父に近いものを感じる。逆に彼
女を信じなければここで置き去りにされるか
もしれなかった。
クリストファーの思い通り(或いは願い通
りと言った方が適切かもしれない。)声の主
は無事地上へと導いてくれた。綾野達が戻っ
たことを確認した上でクリストファーがナイ
神父の結界から出ると声の主もそこに居た。
「どこかでお会いしたかしら。」
見覚えのない顔だった。ただ何か圧倒され
るものを感じる。やはりナイ神父とどこか似
通ったところがある。
「私は鈴貴産業の拝藤といいます。あなた
は?」
社名と日本名。どちらも彼女には似つかわ
しくないように思えた。
「私は星の智慧派のクリストファー=レイモ
スといいます。」
「星の智慧派ね。なるほど、全ては彼の監視
下でことが進んでいる、という訳かしら。彼
はいったい何を考えているのかしら。」
彼というのはナイ神父のことだろう。顔見
知りのような口ぶりだった。
「神父をご存知なのですか。」
「ええ、昔、かなり昔にね。まあいいわ、彼
によろしく言っておいて。自分が全てを操っ
ていると思っていたら意外なところで足元を
掬われるかもしれない、と伝えていただけ
る?」
そう言って拝藤女氏はふっと消えてしまっ
た。
7 桂田利明の動向
「それはハイドラに違いない。」
クリストファー=レイモスがヴーアミタド
レス山の洞窟での出来事をナイ神父に報告す
ると、神父はそう言った。
「ダゴン、ハイドラのハイドラですか。」
「そうだ。ダゴンは今、非活動期に入ってい
る。ダゴンにとってはお前達の言う妻のよう
な存在だ。実際にはかなり違うのだがな。そ
れにしてもその桂田という者の動向が見もの
だな。それと綾野、岡本ではない二人の件も
気にかかる。監視するべきだ。どちらかをお
前が直接監視するのだ。別の方を火野にやら
せる。」
火野将兵は最近星の智慧派に入ってきた日
本人だ。ナイ神父はいたくお気に入りらしく
仕事を直接命じることが多い。極東支部長の
新城は全く無視されている。クリストファー
にとってはどうでもいいことであった。風間
真知子という若い火野よりも更に若い女性を
いつも連れ歩いている。一人で仕事をする事
になれているクリストファーには理解できな
かった。同伴者、それも異性の同伴者など煩
わしいだけだ。
クリストファーは桂田利明を、火野達は後
で調べたのだが綾野祐介と同じ琵琶湖大学の
生物学教授である新山晴信を監視することに
なった。
病院に運ばれた桂田利明は様々な検査を受
けていた。クリストファーがアンチクトゥル
ー協会から得た岡本浩太のDNAデータと同
じような結果が出ているのだろうか。
クリストファーが桂田利明を監視しだして
から数日が過ぎ、検査データを得る手段を画
策していたときだった。病院から桂田利明本
人がふらふらと出てきた。運ばれた時には自
分では到底歩けない状態だったのだが、ある
程度回復したのだろ。クリストファーは一人
で出て行く桂田を不審に思いながらも後をつ
けた。
覚束ない足取りで、ただ何処に行こうとし
ているのかは確りと判っているかのような桂
田は病人とは思えないほど長い距離を歩き続
けた。ただその速さは大人のそれとは比較に
ならないほど遅かった。歩くことに慣れてい
ないかのようだ。
やがて目的地に着いた。それは桂田利明の
アパートだった。クリストファーは前に調べ
たことがあったのですぐ理解した。
(なんだ、自室にも戻りたかっただけなの
か。)
部屋に入った桂田をまた監視しだしたとき
だった。
「ぐっうぉー。」
何かに取り付かれたような叫び声が部屋の
中から聞こえてきた。ただ事ではなさそうだ。
暫く迷ったクリストファーだったが、意を決
して部屋に入った。鍵はかかっていなかった。
「どうした。」
踏み込んでみて唖然とした。桂田利明がの
た打ち回っている。
「どうしたんだ、大丈夫か?」
返事ができるような状態ではなかった。病
院へ、とも思ったのだがクリストファーは直
ぐにナイ神父に指示を仰いだ。直ぐに迎えを
向かわせるので待て、との指示だった。
そうこうしているうちに、桂田は少し落ち
着いてきた。息は絶え絶えだった。
「落ち着いて来たか。大丈夫か?」
クリストファーは桂田をなんとか抱え起こ
してベッドに運んだ。意識は戻ったようだ。
「あなたは?」
「私の名前はクリストファー=レイモス。君
の叫び声を聴いて失礼だとは思ったのだが部
屋に入らせてもらった。」
桂田利明は不審そうな顔をしなかった。ク
リストファーについても知っているかのよう
だ。
「もう大丈夫です。僕のことは知っておられ
るのですね。」
「ああ、正直に言うと病院から君をここまで
つけていたんだ。」
「判っていました。多分僕に知られずにつけ
ることは不可能だと思いますよ。そんな能力
を得た所為で僕は今死にかけているので
す。」
ツァトゥグアに吸収されていた時間が最も
長かった桂田利明がツァトゥグアに侵食され
ていることは容易に想像できた。岡本浩太で
も3パーセント侵食されていたのだ。桂田は
その所為でツァトゥグアの能力を一部でも得
たというのか。
「体が溶けていくのです。比喩ではなく実感
として体がどろどろに溶けていってしまう。
心の中はもっと酷い状態なのです。自我とい
うものが侵食されている。自分の意志ではな
く話し、自分の意志ではなく行動している。
ただ意識だけははっきりしていたのですが、
この部屋に戻ったとたん意識の輪郭さえぼや
けてしまって劇薬で溶かされている感覚が体
中に広がったんです。実感として。」
酷い経験をしたのだろう。話している間桂
田は頭を抱えたままだった。クリストファー
の正体に気付いているが話さずにはいられな
いのだ。
「詳しい話は神父と一緒に聞きましょう。」
クリストファーは桂田利明を連れて東京の
極東支部に戻るのだった。
8 データの検証①
「桂田君はまだ行方不明のままなんだね。」
答えは判っていたが聞かずにいられない綾
野祐介だった。
「ええ、実家の方にも一切連絡を取っていな
いみたいです。」
岡本浩太は桂田利明が病院から姿を消して
以来ずっと行方を探しているのだが、今のと
ころ何の手掛かりも得られていなかった。
「橘の消息も掴めないままだしな。」
橘良平の行方はイギリスに入国した後全く
掴めていない。恩師という人に連絡をしてみ
たが、来ていないし連絡もないという返事だ
った。
「そういえば、新山教授はどうしているのだ
ろう、あれから何の連絡も無いけれど。」
新山教授は何等かの約束をツァトゥグアと
交わした筈だった。何もないのにヴーアミタ
ドレス山の洞窟までついて来るはずがない、
というのが綾野と岡本浩太の共通の認識だっ
た。
「杉江にちょっと探りを入れてみたんですけ
ど、あまり話してくれないんです。新山教授
の個人的な話が深く関わっているらしくて。
でも、杉江はそれがひいてはすべての人類に
とっての希望となるはずだと言っていました
からある程度予想できそうな話ではあります
よね。」
「そうだな、教授には病弱な娘が居ると聞い
たことがある。その辺りなんだろうな。」
不老不死の研究をしている、と噂されてい
る新山教授だった。教授によってトカゲの再
生能力を応用する動物実験はかなり進んでい
るといわれている。ツァトゥグアの細胞を持
ち帰ったとしたら相当なデータが得られるだ
ろう。もしかしたら本当に不老不死が可能に
なるかもしれない。新山教授ならば、と思う
綾野だった。
「この実験結果は特に興味深いものがあるね、
杉江君。」
「確かに。でも何を意味しているのでしょう
か。」
「例の遺伝子を同時に組み込めばかなりの確
率で効果がある。ただ問題は効果が無い部分
が存在する、ということだな。」
世間で噂されている通り、新山教授と杉江
統一はある種の実験を繰り返していた。ただ、
それは不老不死の実験ではなかった。
「もう少し繰り返してみよう。脳と心臓、こ
の二つが蘇生しなければ何の意味も無い。」
「教授、あせりは禁物です。時間はもう少し
ある筈です。確実な方法を見つけ出しましょ
う。」
杉江には新山教授のようにこの実験を続け
る個人的に理由は無い。ただの好奇心だった。
ただそれだけに、個人的な理由を持っている
教授のためにこの実験を成功させたいと思っ
ている。
「ところで杉江君、例の遺伝子は一体何処で
手に入れたものなのだね。人間の遺伝子が突
然変異したものとも思えない。ツァトゥグア
から採取したものとも似ているが違う。より
人間に近いものだ。」
「それは。」
「聞かない約束だったな。まあいい、いずれ
君から話してくれる時を待つとしよう。」
「すいません、教授。遺伝子を渡してくれた
人とそういう約束をしたものですから。」
例の遺伝子。それを杉江統一に渡した人間
の正体は杉江にも判らない。ただ相手は杉江
達がヴーアミタドレス山の洞窟から何を持ち
帰ったのかを正確に把握していた。
「僕が誰か、ということより実験を成功させ
ることが大切だとは思いませんか。ツァトゥ
グアの遺伝子をそのままどのようにして組み
込もうと成功はしません。これはツァトゥグ
アではありませんが、別の旧支配者のもので
実験済みです。僕たちの実験よりも彼方達の
方が数段優れた実験者のようですからある程
度の成果はでるでしょうが、必ず行き詰まっ
てしまうでしょう。そこで必要になるものが
これなのです。人間と融合したツァトゥグア
の遺伝子。こまで言えば誰の物かは判るでし
ょう。」
「まさか、行方不明になっている?」
「その通りです。彼の身柄は僕達が確保して
います。もう一人、橘という人も。」
「橘といったら綾野先生の後輩でイギリスに
行ったまま行方不明になっている人だな。君
達の目的は一体何なんだ。」
「彼方達とそれほど違わない、とでも言って
置きましょうか。そして、その二人は彼方達
に対する人質でもある、と言う事もね。」
それは杉江とほとんど変わらない若い男と
女だった。女のほうは一言も話していない。
「どうしろと言うんだ。」
「この遺伝子を使って実験を完成させて欲し
いのです。それが人類にとって有意義である
のならば、そう願うのは当然でしょう。」
「ならどうして人質なんかを取ったりするん
だ。普通に協力してくれればいいじゃない
か。」
「僕達には僕達がやりたい実験もあるのです
よ。それと実験データはすべてコピーを頂き
ます。新山教授も彼方も実に有能だ。成功さ
せるのも早いでしょう。ホラー映画のゾンビ
のような半端な死者蘇生では無く完全なる死
者蘇生をね。」
杉江統一には逆らう術は無かった。
「確かに杉江君の行動には不審な点が多い。
ただ今のところ私の研究に多大な功績を生み
出していることも事実なのだ。」
綾野祐介は生物学教室に新山教授を訪ねて
いた。ヴーアミタドレス山の洞窟から持ち帰
った筈のツァトゥグアの細胞について、教授
に糾すためだった。拍子抜けするほど教授は
事実として認めた。そして、その後の研究の
経過を説明してくれたのだった。ただ、ツァ
トゥグアの細胞の他にもう一つ重要なものが
杉江統一によってもたらされたという話だっ
た。それは多分人間の遺伝子なのだろうが、
完全に人間とは云えないものだ。もしかした
ら岡本浩太か綾野自身の物ではないだろうか、
というのが新山教授の意見だった。
「岡本浩太君のDNAは人間のものとは約3
パーセント程度違っているとの結果が得られ
ています。その時のデータや標本はもしかし
たら入手出来るかも知れませんね。私はまだ
調べてもらっていませんから。多分岡本君と
同じような結果が出るでしょうね。ただ、桂
田利明君のDNAは人間のそれとは約55パ
ーセントも違っていたようです。教授が提供
されたものはどうだったのですか?」
「私が杉江君から提供されたものはその二つ
のどれでもないようだ。とすると一体だれも
のなのだろうね。」
岡本浩太と同時間ツァトゥグアに吸収され
ていた綾野や橘はDNA鑑定の結果も同様の
筈だ。とすると他に提供者がいることになる。
深き者どもやインスマス面のDNAデータは
揃っている。アーカム財団はトウチョ・トウ
チョ人のDNAデータさえも入手している。
それらとの比較を綾野は新山教授に申し出た。
「杉江君に確認を取ってからにしてくれたま
え。一応彼からの提供なのでね。」
「新山教授、それなら今からでも杉江君を呼
んで比較を依頼しましょう。岡本君のデータ
は付属病院の恩田助教授のところにある筈で
すから。」
新山教授が大学の寮に居る筈の杉江統一に
連絡を取ろうとしたが、杉江は不在だった。
綾野祐介はとりあえず新山教授に例の遺伝子
の提供を依頼して付属病院に向かった。自ら
のDNAを鑑定してもらう為だった。先日来
恩田助教授にも検査を勧められており、綾野
自身も(3%程度人間離れしていることの)
確認のために、多少の勇気が必要ではあった
が決断したのだ。
「結果が出次第連絡させていただきますよ。
それで新山教授の方は、あちらからの連絡待
ち、ということでいいのですね。」
「そうしてもらえますか。あと、もっと他の
ものとの比較もお願いすることになると思い
ます。そっちの方は私が連絡を入れさせてい
ただきますから。」
綾野祐介はアーカム財団の持っているデー
タを持ち込むつもりだった。部屋の戻ってア
ーカム財団のマリア=ディレーシアに電話を
入れた。
「判ったわ、こちらにも後でデータを提供し
ていただけるのなら私の方でなんとかしてみ
るわ。でもミスター綾野、気をつけた方がい
いみたいよ。星の智慧派の動きがかなり活発
になってきているわ。クリストファー=レイ
モスはナイ神父の腹心だということは知って
いるわよね、でも最近ちょっと違う人物の動
きが入ってきているの。火野将兵と風間真知
子という二人組みなんだけど、彼方の恩師の
橘教授を亡くなる前に訪ねていたのがその二
人だったらしいわ。それと最近桂田利明君の
周辺にも現れていたとの情報も入っているし。
もしかしたら桂田君が行方不明になったこと
にも絡んでいるかも。」
「判った、その二人の写真でも手に入ったら
送っておいてくれないか。それとさっきの話
は早急に頼むよ。」
マリアは出来るだけ早い時期に直接恩田助
教授にアーカム財団が持っているデータの提
供を約束してくれた。
9 データの検証②
星の智慧派の東京における拠点はこの国の
頭脳が集中している最高学府帝都大学の直ぐ
近くにある。極秘裏に大学の付属施設を利用
するためだった。大学に星の智慧派の関係者
を潜り込ませてあるからだ。ただ、大学内に
橘良平や桂田利明を確保しておくわけにはい
かないので、各種の分析は星の智慧派の施設
の中で行わなければならなかった。
クリストファー=レイモスは桂田利明の遺
伝子を調べることはある程度有効(もしかし
たらツァトゥグアを滅ぼす手掛かりが見つか
るかもしれない。)だとは思ったが、橘良平
については既に同じ条件の岡本浩太のデータ
は手に入れているからそう重要ではないと感
じていた。だが、ナイ神父からは二人とも同
程度に扱うように指示されていた。橘には岡
本浩太とは違う何かがあるのだろうか。
桂田利明はすでに精神的には崩壊している
ようだった。やはりツァトゥグアに長時間吸
収されていた結果、かなり侵食されているか
らだろう、普通の人間には到底絶えられない
苦痛を味わっているようだ。体が溶ける、と
繰り返しうわごとを言うばかりで最早何の問
いかけにも反応しない。ただ、見た目には崩
壊前の桂田と何の違いも見つけられなかった。
ツァトゥグアに侵食された遺伝子は人間の形
態を変える種類のものではない、ということ
だろう。
クトゥルーや深き者どものそれとは違う、
という結果は興味深かった。深き者どもと人
間の混血は例外なく(その進行速度には多少
の違いはあるにしても。)インスマス面にな
ってしまう。一次的に関係を持った人間でさ
えある程度インスマス面化は見られるほどだ
った。やがて水棲生物へと変貌していくのだ。
だが、ツァトゥグアの場合はどうだろう。
3%侵食された岡本浩太も55%の桂田利明
も外見に変化は見られない。運動機能に与え
る影響はかなりのものがあるようだが。ただ、
桂田のように侵食が大きすぎると人間として
の自我を留められなくなるようだ。
桂田利明の崩壊していく過程のデータは有
効に思えた。旧支配者たちと人間の融合はか
なりのリスクが伴うことが判明した。
橘良平のデータはかなり送れて出てきた。
クリストファー=レイモスはその結果に驚き
を隠せなかった。
「ナイ神父、これはどういうことなのでしょ
うか。橘良平はツァトゥグアに侵食されてい
るとしか理解していなかったのですが。」
神父はある程度予測していたかのように特
に驚いた様子は無かった。
「思っていた通りだな。多分綾野という者に
も同じ結果が出ているだろう。琵琶湖大学の
データを火野に言ってすぐに取り寄せるよう
に。ただ、あちらは多少違う種類のものだと
おもうがな。」
クリストファーには納得がいかなかった。
橘と綾野は単にツァトゥグアに一時吸収され
ていただけではなかったのか。自分でも興味
が湧いたクリストファーは直ぐに桂田を捕獲
した後滋賀県戻っているにいる筈の火野将兵
と風間真知子の二人に連絡を取るのだった。
「解りました、では明日の朝にでもここに来
て下さい。データはその時にお渡ししますか
ら。」
恩田は電話を切った後、かなり不安になっ
た。このデータを星の智慧派に渡したことに
よって綾野はどうなるのだろうか。
岡本浩太の検査結果を聞いていた恩田には
綾野の結果は意外だった。と言うか信じられ
なかった。長時間融合していたという桂田利
明の結果にはある程度納得できたのだが、岡
本浩太と綾野祐介の検査結果はかけ離れてい
た。何か別の要因があるかもしれない。恩田
は星の智慧派の一員というよりも研究者とし
て強く興味を覚えたのだった。
「恩田先生、いらっしゃいますか。」
ちょうどそこへ綾野がやってきた。
「さっき電話で言われていた件ですね。綾野
先生の検査結果も出ていますよ。そちらのデ
ータの出所はやはり聞かせては貰えないので
すかね。」
「出所はちょっと。でも何のサンプルなのか
はいいでしょう。一つは先日湖西で事件があ
ったときに採取されたインスマス面のかなり
進行した人間(?)のもの、一つは深き者ど
ものもの、最後に新山教授から提供して貰っ
たもの、の三つです。」
「早速比較検討してみます。先生のデータの
分析はその時でよろしいでしょうか。」
「いいですよ、それでどの位で出来そうです
かね。」
「あさっての午後にはすべての揃ってお渡し
できるでしょう。」
綾野は自分のデータは直ぐにでも聞きたか
ったのだが、多少嫌な予感がして先延ばしに
してしまった。恩田の態度も綾野がそう言う
と何故かほっとしたような感じだった。いず
れはっきりするにしても先延ばしにしてよか
ったと思う綾野だった。自分が人間とは小異
とはいえ違っていることを確認するのはやは
り嫌だったのだ。
10 データの検証③
部屋に戻った綾野は最近のごたごたで中途
半端になっていた仕事をやり始めた。以前か
ら稀覯書の日本訳を出版する計画をアーカム
財団から要請されていたのだった。そのため
に様々な稀覯書を財団から託されている。勿
論自らが手に入れた稀覯書も数多くあるので、
出来うる限り翻訳して日本国内においても現
状の認識を高めてもらう一助にしたいと切実
に思っていた。
今は「妖蛆の秘密」に取り掛かっている。
ルドウィク=プリンの著した世界でも有数の
稀覯書だ。既に四分の一は原稿が出来ていた。
気合を入れて続きに取り掛かろうとしたと
きだった。綾野の部屋に誰かが訪ねて来た。
「先生、今日検査結果が出る筈じゃ無かった
のですか。」
岡本浩太だった。確かに今日検査結果を聞
きに行くと浩太には話してあった。
「いや、他に渡したデータとの検証を含めて
明後日にもう一度行くことになっている。」
「先生、逃げましたね。」
浩太には隠せなかった。浩太自身が既に完
全な人間ではない告知を受けた経験があるか
らだ。持ち前の明るい性格で特に周りに気を
使わせるようなことはない浩太だったが、本
当のところは浩太自身にしか解らない。ただ、
同じ立場の綾野の気持ちは理解できるのだ。
「君には隠しても仕方ないな。君の言うとお
りだ、私は結果を確認するのが怖かった。充
分予想できる筈の結果をね。ただ言い訳をさ
せてもらえるなら、恩田助教授の態度からし
て、もしかしたら君の結果とはまた違う結果
が出ている可能性もあるんだ。」
綾野は多少ばつが悪く説明した。ただ説明
している自分の言葉で再確認した気がした。
恩田助教授は何かを隠している。綾野のデー
タの件とは別にだ。確かめる必要があると思
った。
「先生、どうかしましたか。」
考え事をしている綾野に浩太が問い掛けた。
「うん、ちょっと今考えていたのだが、君も
明後日の午後に一緒に恩田助教授のところに
来るかい。データの検証するサンプルには君
のDNAも入っていることだし。」
「ぜひお願いします。」
「多分新山教授や杉江くんも来るだろうし、
みんなで話を聞くことにしよう。」
綾野は一人で聞くのが怖い、という感情と
やはり他人には知られたく無いという感情の
狭間に居たのだが、思い切ってそう言った。
何かが起きそうな予感、特に最近強くなりつ
つある不安の正体がその時に判明する気がす
るのだ。
「火野から連絡があって明日の朝にはデータ
が入手できるそうです。それと綾野達にはそ
の翌日にこちらが許可した範囲のデータを渡
すように指示したと。」
「それでよかろう。クリストファーよ、お前
も明日琵琶湖大学に火野たちと一緒に行くの
だ。行ってお前が判断しろ。火野ではこちら
に対してもデータを隠してしまう可能性があ
る。特に火野が別に恩田に渡したデータとの
分析結果が重要なのだ。」
「別に渡したデータ、そんなものがあったの
ですか。」
「そうだ。」
「橘良平のデータ以外に、という意味なので
すか。」
「くどいな。お前は何か不満でもあると言う
のか。」
「いえ、決してそのようなことは。」
クリストファー=レイモスにとっては全く
もって不満だった。極東支部長の新城敏彦に
対するかのような扱いだった。ナイ神父は側
近中の側近である筈の自分に何の相談も無く
直接火野将兵に指示を与えている。神父の考
えは人間の思いつく範疇には収まりきらない
とは思っても不満は残ってしまう。だが結局
はナイ神父に従わざるを得ないクリストファ
ーだった。
11 明かされる結果
その日、琵琶湖大学医学部にある恩田助教
授の部屋には多種多様の人が集まっていた。
恩田助教授は勿論説明する側なので当然だが
その助手らしき男性二人(一人は外国人であ
る。)と女性一人。同大学の伝承学講師であ
る綾野祐介とその生徒の岡本浩太。同じく生
物学教授の新山晴信教授と生徒の杉江統一。
大学関係者以外としてはアーカム財団のマ
リア=ディレーシアと最近極東支部長に抜擢
されたロイド=パーキンス。
「早速ですが皆さんから提供していただいた
データの比較検討した結果について説明をし
ます。」
多少緊張した面持ちで恩田助教授が話し出
した。見知らぬ若い男と外国人の男、若い女
も助教授の話に聞き入っている様子からして
助手か何かと思っていた綾野は自分の考えが
間違っていることに気付いた。
「ちょっと待って下さい、彼らは一体誰なん
ですか。」
不審に思った綾野が聞いてみた。
「この三人は綾野先生やアーカム財団と同じ
ように比較するデータを提供してもらったあ
る団体の関係者の方です。」
少し言いにくそうに恩田助教授が応えた。
「もうちょっとはっきり言って貰えませんか
ね。」
重ねて綾野は尋ねた。仕方無しに、といっ
た感じで恩田が応える。
「では言いましょう、彼はクリストファ-=
レイモス、そして彼が火野将兵、彼女は風間
真知子、ともに星の智慧派に所属しておられ
ます。」
「星の智慧派だって。」
岡本浩太が驚いた。綾野も衝撃を受けたの
だった。星の智慧派とはどう考えても敵対し
ているとしか思えなかったからだ。ただ、本
来組織的に対立している筈のアーカム財団の
二人がそれほど驚いた様子ではないのは、も
しかしたらある程度予測していたのか、情報
が入っていたのかも知れない。新山教授と杉
江は何のことだがよく判らない様子だった。
「綾野先生にはお話していなかったことをお
詫びしますが、星の智慧派から提供して貰っ
たデータも大変有用でありました。それでこ
こにお呼びした訳です。星の智慧派と綾野先
生がどのような関係であるかは知りませんが、
ことは人類の存亡に関わっているかも知れな
いのですから、この際敵だとか味方だとかは
言っていられないのではないでしょうか。」
「彼らも、その組織である星の智慧派も私達
に協力してくれると言うのですか。」
「それは話の中で追々明らかになっていくで
しょう。」
そう応えた恩田ではあったが、自分自身で
どういうことなのかを理解して応えたわけで
はなかった。クリストファーから前もってそ
う応えるように言われていただけだったのだ。
「綾野先生、早く内容をききましょう。」
マリア=ディレーシアに言われて渋々納得
した綾野だった
「では早速各々のデータを比較した結果をご
報告します。」
DNAの検査データが解りやすいように色
別された図で大きなスクリーンにプレゼンテ
ーションされた。
「まず、これが前に検査された岡本浩太君の
データです。そしてこれが桂田利明君のデー
タ。」
二つのデータが表示された。特徴的な部分
が強調されている。
「なるほど桂田利明君のデータはかなり違う
ね。」
岡本浩太のデータは人間のそれとは約3パ
ーセント、桂田利明に至っては約55パーセ
ントも違うのだ。
「そして今回比較させて貰ったのがインスマ
ス面の男性と深き者どものものです。」
この二つのデータと岡本、桂田のデータは
また違ったものだった。ただ、インスマス面
のものと桂田利明のものとは多少に似た部分
がある。
「岡本君のデータとこの二つのデータとは人
間として共通するインスマス面のDNA以外
は殆ど似通っていません。深き者どもに至っ
てはほぼ違うといって良いでしょう。ただ桂
田君のデータになるとインスマス面より深き
者どものほうが共通する部分が多いようです。
約25パーセントは同じといって良いでしょ
う。」
「それは何を意味していると考えられるので
すか。」
クトゥルー神話には特に詳しくない杉江統
一が尋ねた。
「桂田利明君が吸収されていたのはツァトゥ
グアです。そしてインスマス面や深きものど
もはクトゥルーの眷属。この二つの遺伝子に
共通の部分があるということは、旧支配者達
やその眷属はある単一の種族から分岐しただ
けなのかもしれない、ということです。」
「それは面白い見解ですね。ツァトゥグアと
クトゥルーは外宇宙から飛来したとも言われ
ているから何らかの形で遺伝的に繋がりがあ
ってもおかしくはないかも知れない。」
綾野祐介は恩田助教授の話に興味が湧いて
しまって星の智慧派どころでは無くなってい
た。
「ただ、ツァトゥグアのDNAデータはイン
スマス面や深き者どものデータと違い通常私
たちが使用している解析方法ではサンプルか
ら塩基配列をデータ化することが出来ません
でした。細胞組織構造が根本的に違うからで
す。このデータ化にあたっては星の智慧派か
らの情報提供が中心となって全く新しい解析
方法を今回使用しました。どの程度信頼でき
るかは私にも解りません。ただ、通常の方法
では全く意味をなさないので他にやりようも
なかったのです。」
恩田助教授はここで一息ついた。そして徐
に綾野の方を見て話し出した。
「そして次に別の個体のデータ解析の結果を
報告します。この個体は約75パーセントに
ついて人間の遺伝子を保っています。」
個体?綾野は不思議に思った。岡本浩太と
桂田利明のほかに人間のDNAを解析する必
要があったのは自分だけだったからだ。綾野
のデータならば「個体」とは言わずに綾野の
ものとはっきり言うだろう。すると綾野では
ない別の人間のデータなのだろうか。
「人間のものとは思えない部分のデータは、
見てください、このデータと非常に似通って
います。」
恩田がまた違うデータを表示させた。
「これは旧支配者のひとつです。それがいっ
たい何なのかはデータ提供者から私も伺って
いません。ただ、この結果から言えることは
この個体はほぼ直接的にその旧支配者の遺伝
的子孫であるということでしょう。」
その場にいた誰もがざわめいた。旧支配者
が人間と交配し子孫を残すことは頻繁ではな
いが過去に例がある。インスマス面について
もほぼ状況は同じであろう。
「皆さんがお考えのことは解ります。中度に
進んだインスマス面の遺伝子と似通っている
のではないか、ということはこの個体はイン
スマス面の誰か、と思っておられることでし
ょう。でも私の見解は違います。この個体は
インスマス面のように人間の遺伝子が変化し
たものではなく、遺伝的に安定しているので
す。ということはこの個体の直系の尊属に旧
支配者が居た筈だ、という結論に達するので
す。」
「それはウィルバー=ウェイトリーと同じだ
ということですか。」
ウィルバー=ウェイトリーとは旧支配者の
一員であるヨグ=ソトースとラヴィニアとい
う娘の間に生まれた双子の片方である。ある
時期までは人間の形態を保っていたが、ある
事件でその本性を現し殺されてしまった。双
子のもう一方は産まれた時から人間の姿では
無かったという。
「ウィルバーよりも遺伝的に安定していると
言えるでしょう。この個体は人間の形態を全
く失っていません。」
個体、というだけでその人間を特定せず、
また遺伝的に祖である旧支配者についても言
及しない恩田の意図は解らなかった。ただ綾
野はもしかしたら自分のことで、その立場を
慮って恩田が固有名詞を避けているのかもし
れないとも思うのだった。
「もう少し儂らにも解るように具体的に話し
てくれないかね。」
恩田助教授や綾野祐介の気持ちを知ってか
知らずか新山教授が口を挟んだ。
「“個体”という表現が気に入らないのでし
ょうね。」
恩田助教授に代わってクリストファー=レ
イモスが応えた。
「それについては恩田助教授にもお話してい
ませんから、彼に責任はありません。私達も
予想はしていたのですが確認する技術がなか
ったので今回助教授にお願いしました。理論
上は確立できていたのですが実践面では助教
授の方が私達の研究員より遥かに優秀なよう
です。見事に私達の期待に応えてくれました。
あ、そうですね、“個体”についてでしたね。
この“個体”は今現在私達が保護している人
物で彼方達にも関わりの深い方です。」
「もしかしたら橘のことなのか。」
「さすがは綾野先生、ご明察の通りです。こ
の検体の主は橘良平城西大学教授です。」
これは参集している多くの者達に少なから
ず衝撃を与えた。行方不明になっていた橘教
授が星の智慧派に保護(?)されていたこと
もさることながら、今の話の流れから橘教授
が旧支配者の遺伝学的子孫である、というこ
との方が大きかった。
「橘教授が旧支配者の子孫だとでもいうの
か。」
「今の恩田助教授の見解からいうと当然そう
言うことになりますね。」
「その旧支配者とは一体?」
それはある程度予測できることだった。深
き者どもやインスマス面との共通点が多いこ
とから容易に。
12 終りの始り
「それはクトゥルー、その人でしょう。」
その場には居なかった筈の声がして皆は一
斉に振り向いた。綾野や岡本浩太には旧知の
女性(?)だった。
「我が主であるところのクトゥルーその人の
遺伝子を継承しているのというのですね、橘
教授は。」
拝藤女史であった。綾野や浩太はその正体
を知っているが新山教授や杉江統一などは未
だアーカム財団の一員とでも思っている筈だ
った。
「仰る通りです、拝藤さん。拝藤さんでよろ
しかったですね。」
クリストファーはあっさりと認めた。何か
の意図が背後に隠されているかのように。
「橘教授の身柄は渡していただけますでしょ
うね。」
「それは神父に伺ってみないことには。それ
より彼方は何故ここにいらっしゃったのです
か。」
「それは彼らを守るためです。もう直ぐここ
にあなた方の言う神父が現れると感じたから
です。」
「ナイ神父が?いいえ、私はそのようには聞
いていません。この場は私が取り仕切るよう
に言われていますから。」
「では事情が変わったのか、もともとそうい
うつもりであったものを彼方には伝えていな
かっただけでしょうね。」
クリストファーはナイ神父の普段の行動か
ら今の拝藤女史の言葉が的を射ているように
思えた。自分自身に自信が無かった。
「あなたは何を知っているのですか。」
「今言ったことがすべてですわ。あなた方の
言う師父がここにもうすぐ現れるだけです。
それが何を意味するのか、何の目的でここに
現れるのかは私の知るところではありませ
ん。」
綾野達の間に緊張感が走った。星の智慧派
で言うところのナイ神父とはナイアルラトホ
テップその人のことだと言われているからだ。
旧支配者の一員であり旧神たちとの戦いに
敗れた後も封印もされず自由に振舞っている
のはナイアルラトホテップただ一人である。
その力は旧支配者の中で最大のものと同等と
いわれるほどの存在がなぜ封印されなかった
のかは誰にも解けない謎として今日に至って
いる。旧神たちの意図は現在の人類には計り
知れないものだった。
「僕達もそんな話は聞いていませんからクリ
ストファーさん、彼方だけが知らされていな
かった訳では無く、何らかの事情が変わった
のか、それとももともと誰にも知らせずにこ
こに現れるつもりだったのでしょう。」
火野将兵にそう言われてもクリストファー
の気は晴れなかった。ナイ神父は側近である
自分にさえ隠し事が多すぎる。
そんな話をしている最中だった。そう広く
ない部屋の室温が急に下がったような感覚が
した。スクリーンを見るために暗幕を閉めて
ある薄暗い部屋が、それでも幾ばくかの明か
りが漏れていたのだが、全く漆黒の闇に閉ざ
されたようだった。その闇が一塊となって恩
田助教授の側に集束していった。それも人型
に。
ナイ神父、いやナイアルラトホテップが現
れたのだった。
「神父、なぜここに。」
思わずクリストファーが尋ねた。
「それは彼らに感謝の意を伝えるためなのだ
よ、クリストファー君。」
ナイ神父は全く意に介していない風であっ
た。もともとクリストファーなどの教団員を
手足のように使うときは全くもって捨て駒と
しか思っていないような態度が見えるのだが
クリストファー対しては多少ましではあった。
火野や風間に対しては遠慮しているかのよう
にも見えた。ところが今日は今ここに参集し
ている者の中で拝藤女史は別格として相手に
しているのは綾野だけのように見受けられた。
「感謝の意、ですか。」
半ばあきらめたような口調でクリストファ
ーが呟く。ナイ神父の側近である、という自
負はとうに失われていた。
「そうだ、感謝の意、という以外に適当な言
葉が思い当たらない。私はここに今いるお前
たちに本当に感謝しているのだ。」
ナイ神父の言っている意味が理解できてい
るものはその場にはいなかった。綾野祐介や
岡本浩太はクトゥルーやツァトゥグアの封印
が解かれない様に努力しただけで、それがナ
イ神父や星の智恵派に利しているとは到底思
えない。それともナイ神父は旧支配者たちの
封印が説かれないことを願っているとでも言
うのであろうか。
「ナイ神父、初めてお目にかかります。綾野
祐介といいます。ひとつだけ確認させていた
だけますか。あなたは、その。」
丁寧に聞くことが必要なのかそうでないの
か。よく判らないので多少丁寧に聞いてみよ
うとした。本当ならば人間に敵するすべはな
い。
「そういい難そうにしなくてもよい。聞こう
としていることは判っておる。我がナイアル
ラトホテップであるのかどうか、と言うので
あろう。」
周知の事実と認識しているかの様だが、本
人に直接確認した人間は綾野が初めてであろ
う。
「そっ、そうです。そのとおりなのです。あ
なたが本当にナイアルラトホテップ、その人
なのですか。」
思い切って綾野は聞いてみた。ここにいた
っては観念するしかない。拝藤女史がいる、
とはいえ女史がいざとなったら人間の味方に
なってくれる保証はなかった。クトゥルーの
封印を解くことが第一であり、ナイアルラト
ホテップに正面切って敵対する意思があると
も思えなかった。
「それについては、お前たちのいう意味では
そうであると言えるだろう。ただ、ナイアル
ラトホテップそのものだ、という訳でもない。
多少複雑ではあるが大部分のところは正解だ
といってもいいだろう。」
綾野たちは旧支配者の中でもほぼ最大の力
をもっている、這い寄る混沌、無貌の神とも
いわれるナイアルラトホテップ、その人と対
峙することになった。
「そんな話は今あまり意味があるとは思えん
がね。」
「確かにそうです。さっき私たちに感謝の意
を表しに来たと仰いましたね。あれはどうい
う意味なのですか。」
ナイ神父来訪の目的は先ほど本人の口から
そう伝えられた。
「他意はないのだよ、そのまま受け取ってく
れたまえ。君たちが今まで行った行為につい
て全面的に感謝の意を表したい、と言ってい
るのだ。」
部屋にいるナイ神父を除く全員が神父の意
図を理解していない状況だった。拝藤女史で
さえ同じだろう。
「私たちが行ってきたこと全て、といわれる
のは例えばクトゥルーの封印を解くダゴン秘
密教団の儀式を邪魔したり、ツァトゥグアの
封印が現代では解けないことを発見したりし
たこと全て、という意味でしょうか。」
「何度も同じことを言わすものではない、先
ほどからそう言っておろうが。」
「それらが全てあなたの意に沿うこうだ、と
いうのですね。理由を聞かせてはもらえませ
んかそれだけでは私たち凡人には何のことだ
かさっぱり。」
「感謝の意を表わしに来たからといって、何
から何までお前たちの言うことを聞く必要は
ないのだがな、よかろう、お前たちの今まで
の業績と今後の更なる成果に期待してもう少
し、語ってやろう。」
そこに居る全ての者がナイ神父の言葉に聞
き入っていた。話の展開が読めないからだっ
た。
「まず最初にお前たちが我に対していだいて
いるイメージは例えば這いよる混沌だとか、
無貌の神だとかいうものらしいが、我の本来
の姿はこの様な人間の姿ではないことは言う
までもないが、お前たちに認識しやすい言葉
にすれば不定形の精神生命体とでもいうよう
なものである。そしてその使命はただひとつ、
我が主、万物の王であるところのアザトース
の封印を解きその本来のあるべき宇宙、時空
といってもよいが、の形に戻すことだけなの
だ。」
それはよく知れ渡っていることだった。ナ
イアルラトホテップは万物の王である盲目に
して痴愚の神アザトースの使者として理解さ
れている。そのことと綾野達に感謝したい、
ということが繋がないから聞いているのだ。
「だから必然的に我が感謝したい、というこ
とは我が主であるアザトースの封印を解くこ
とにお前たちが深く寄与してくれている、と
いうことであろう、単純明解なことだ。」
「申し訳ありませんが、そこまで仰っていた
だいてもよく判らないのですが。」
「つまりだな、我が主アザトースの封印を解
くには旧支配者たちの封印が解かれる寸前で
失敗し、その旧支配者の無念が積み重なって
一定量を越えなければならない、ということ
だ。」
衝撃的だった。一同、誰からも声がなかっ
た。クトゥルーの封印を解かれないように阻
止する、それがそのままアザトースの封印を
解く手伝いになっている、というのか。それ
では封印が解かれないように奮闘していても
いずれ旧支配者たちの誰か、あるいはどれか
の封印が解かれてしまうのだ。最悪全ての旧
支配者の封印が解かれなかったとしても最後
には王であるアザトースの封印が解かれるこ
とになってしまう。人間は、今後綾野達は一
体どうすればいいのか。
「アザトースの封印はあとどれ位旧支配者の
復活を阻止すれば解かれるのですか。」
「そこまでお前たちに教える義務はないな。
まあ、これからも一心不乱に阻止し続けてく
れたまえ。」
それだけ言うとナイ神父はふっと消えてし
まった。
その場にはいつの間にか星の知恵派のクリ
ストファーや火野、風間の姿も消えていた。
拝藤女史の姿もない。残されたのは琵琶湖大
学の関係者とアーカム財団の二人だけだった。
「私たちが今までやってきたことは何だった
んだ。」
「でも綾野先生がなさったことは決して無駄
なことではなかったと思いますわ。」
「ありがとう、マリア。でもこれからどうす
ればいいのだろう。」
「先生、今までどおり出来る事をやらなくち
ゃ仕方ないんじゃありませんか。」
「そうだな、それしかないのだろうな。今の
ナイ神父の発言は決して他に漏らさないよう
に。マリア、財団にも報告するな。今後の活
動に支障を来たす可能性が大きい。私たちは
これほど大きな矛盾を抱えながらこれから生
きていかなければならないのか。」
その問いに答えられる者は一人も居ないの
だった。
13 エピローグ
あの日から1週間が過ぎても綾野祐介は機能
していなかった。あの日、最後に問うた答えが
見つからなかったからだった。しかし、それは
誰にも不可能なことだし、旧支配者達の封印は
いずれにしても解かれるべきではないとしか考
えられなかった。たとえその行為がアザトース
の封印を解く結果となってしまっても。やっと
綾野がそう自分の中で結論づけたときだった。
綾野の研究室を訪ねる人が居た。琵琶湖大学医
学部助教授、恩田幸二郎だった。
「綾野先生、そろそろ落ち着かれたころだと思
って来てみたのですが。」
綾野の心を見透かしたようなタイミングが気
に入らなかったが、綾野自身も恩田助教授に聞
きたいことがあったのでちょうどよかった。
「ええ、やっと考えが纏まったところです。た
だ、先生が星の智慧派の信者だったとは驚きで
した。」
恩田助教授は最近入信したのだという。その
理由は言いたくない、とのことだった。恩田助
教授は実は生物学の新山教授の娘婿にあたるら
しい。新山教授もどうも何か知られたくないこ
とがあるらしいので、もしかしたらその辺りが
絡んでいるのかもしれない。いずれにしても綾
野にはそれ以上追求できなかった。
「多分先生は気にしておられることと思って今
日は先日の詳細のご報告に来ました。」
そうなのだ。先日のDNAの比較検討結果は
あまりにも衝撃的なナイ神父の登場のおかげで
あれ以上なされなかったのだった。
「もう一度確認しておきますと橘教授は、ああ、
橘教授はすでに家に戻られていますよ、連絡が
入りませんでしたか?」
「いや、多分なかったとおもうが。」
まったく機能していなかった綾野は自信がな
かった。
「そうですか、まあ無事に戻られたことは確か
です。もう拘束しておく意味もないと判断され
たようです。」
「データが欲しかっただけなのだろう。」
「そうなりますね、それで結果としては橘教授
はクトゥルーの遺伝子を受け継いでいると判断
されます。祖父である故橘軍平帝都大学教授も
当然そうなるでしょう。これは以前から予測さ
れていたことだったようです。その事実を告げ
られた橘軍平教授のその後はご存知ですよね。」
橘良平城西大学教授の祖父であり綾野の恩師
でもある橘軍平は先日亡くなったばかりだ。そ
の死因は謎だったが実は自らの遺伝子に隠され
た秘密を知らされたショックからだったのだ。
「それで先生に関しても同じことが言えるので
すが。」
想像できる結末だろう。橘と同じように旧支
配者の遺伝子を受け継いでいるのだ。そして、
それは。
「多分ご自身でも予測されていられるとは思い
ますが、ナ・・・。」
綾野には恩田助教授の言葉はそれ以上耳に入
らなかった。