クトゥルーの復活
クトゥルーの復活が今、日本で始まる。
第1章 クトゥルーの復活
綾野 祐介
1 プロローグ
滋賀県立琵琶湖大学は法学部とか経済学部とかいったありふれた学部の無い一風変わっ
た大学であった。その中でも私が席を置く伝承学部は特に変わっていたかも知れない。
伝承学と云うのは平たく云えば民間伝承、つまり言い伝えなどを集めて、その中に含ま
れているかも知れない隠された歴史などを研究する学問である。私、綾野祐介は伝承学部
アメリカ伝承学科の講師と云う肩書きを持っていた。
私が国内で行った調査(!)で新聞にも掲載された最も有名なことは「墓場荒らし」と
云う今の日本でもエキセントリックな出来事だった。当初地元の駐在によって通報され駆
けつけた係員によって身柄を拘束されたのだが、アメリカ合衆国の外交ルートを飛び越え
た介入によって釈放された。新聞の第一報は止められなかったが、その後の経過について
は内政干渉の疑いが強いことも含めて日本政府の徹底した報道管制によって一般の国民に
知らされることはなかった。
そのため私がこの「墓場荒らし」犯人であると云う認識を持っている人は数少ない。そ
して私が行ったことの本当の意味を知る者はもっと少数の人々だけだった。
勿論所謂「墓場荒らし」を私が行ったことは事実であり、そのことについては何も弁明
するつもりはない。ただ云えることは誰かがやらなければならなかった緊急避難的要素の
強いケースだったと云うことだけであろう。そのことについては、おいおい説明すること
になるが、そこに辿り着くためには全ての発端であるあのアーカムの暑い夏の日に遡らな
ければならない。
私は専攻しているアメリカ伝承学を研究するため留学中のミスカトニック大学に通うた
めアーカムに部屋を借りていた。例のラバン=シュリュズベリィ博士の炎上した後、けっ
して建て替えられることの無かった屋敷跡に近いことが、事の他気に入っていたのだが、
本来借りたかったアンドリュー=フェランやエイベル=キーンが住んでいた下宿は今はも
う大きなマンションに建て替わってしまっていた。
ミスカトニック大学付属図書館は稀覯書収集で特に有名で、大英博物館に匹敵するもの
であると自他共に認めるところである。そして何にも増してその名を知らしめているのが、
かの「ネクロノミコン」のオラウス=ウォルミウスによるラテン語版が所蔵されているこ
とである。H・P・ラヴクラフト(1890年~1937年)によって想像上の魔道書と
して彼の小説で実に印象的に使われているものだが、本当に実在していることはあまり知
られていない。小説では数冊確認されているように説明がなされているが、現実には不完
全なラテン語版がここと大英博物館に現存するだけで、17世紀のスペイン語版は確認さ
れていない。ジョン=ディー博士の英訳版はこのラテン語版をもとにしているので、更に
不完全なものになってしまっている。現在一部の研究者が手に入れることができるものは
この英訳版のみであるが、それも非常に入手困難な状況は変わらない。
ラテン語版を閲覧しようと思うとアメリカ合衆国大統領の署名入り閲覧証明書と身分証
明書を提示した上、図書館長他5名の係員の立会いのもとでないと見ることが出来ない。
コピーも取れないしメモも許可されていない。ただ閲覧することだけが許された全てだった。
お陰で当時の私は現物の「ネクロノミコン」は閲覧が出来なかった。
私がその「ネクロノミコン」に興味を持ったのは、栗本薫女史著の「魔界水滸伝」シリ
ーズを読んだためだった。物語自体はかなりSF小説化されてしまっていたが、そのベー
スに使われているクトゥルー神話と呼ばれるものに初めて接して、その魅力と云うか世界
観の広がりに圧倒されてしまった。中学生だった私は、勿論出来る範囲ではあるが神話関
係の書物を買い漁ったものだ。当時はまさかそれが自分の仕事になろうとは夢にも思って
いなかったのだが。
アメリカ伝承学という大層な名前に隠されているが、その実やっていることと云えばク
トゥルー神話の実証を研究しているのだった。勿論「アメリカ大陸における民間伝承の地域
的分布に関する一考察」などと云う論文を書いたりして体裁を整えてはいるが、本当にや
りたいことはクトゥルー神話に小説と云う形で隠されている「本当の地球の歴史」の解明
と、そして今起こりつつあるクトゥルーなどの復活を阻止する目的を持った活動がしたく
てこの学問を志したのだった。
日本に戻ってからは東京の帝都大学で臨時講師をしていたのだが、その合間に国内のク
トゥルー関連の会合に数回参加しており、どちらかと云うとクトゥルー神話のファンクラ
ブ的要素の濃い「日本クトゥルー学会」には会員の一人として登録されていた。同僚で同
じ興味をもって会員になっている地球物理学科の講師、岡本優治と会合に出席した後に、
散々議論を交わして遅くなってしまった帰り道、アパートの近くまで来たところで不意に
アメリカ人らしい二人の男に呼び止められた。
「帝都大学の綾野祐介さんですね?」
人違いだよ、と惚けてもよかったのだが、嫌に流暢な日本語とその口調がそれを許さな
かった。
「そうですけど、お宅は?」
「私達はアーカム財団の者です。お聞きになったことがお有りだと思いますが。」
アーカム財団とはクトゥルーなど古き神々の復活を阻止するために設立されたアメリカ
合衆国ニューヨークに本部がある組織で、最近は南太平洋よりも極東アジア、中でも日本
に関心を寄せていると噂には聞いていた。
国防総省もCIAでも例え大統領であっても口出しできない独自の活動を行っている。
勿論そんなことは一般市民やマスコミには知らされてはいないことだが、私は独自のルー
ト探りを入れ出した矢先のことだったので、拙い事になったな、と思ってもどうしようも
なかった。
「そのアーカム財団の方が私のような者に何の用ですか?」
出来るだけ丁重に落ち着いて話したつもりだったが声は上擦ってしまった。だが、いき
なり非紳士的な行動に出そうな様子も無かったのでとりあえずは安心していた。
「実はあなたに是非引き受けて戴きたいお願いがあって参りました。あなたの部屋には盗
聴器が仕掛けられていますので、どこか近くのファミリーレストランでお話を聴いて下さ
いませんか?」
「盗聴器だって、いったい誰が。」
「大きな声を出さないで下さい。星の智慧派と云えばご理解頂けると思いますが。」
「星の智慧派といったらあのナイ。」
背の低い方の男が慌てて私の口を塞いだ。
「不用意にその名前を仰らないように。よくご存知だとは思いますが、(彼)の名前を口
にしたとき(彼)が聞く気になっていれば、それは(彼)を呼び寄せているのと同じ事な
のですから。」
男は直ぐに力を緩めた。よく判っていることだ。こんなところで口に出せば、必ず声は
届くだろう。地球の裏側に居ても同じ事だ。私はすぐにその男に従った。この男達がアー
カム財団の者だと云う確証は無かったが、逆らってもそのまま拉致されるだけだと諦めて
従うことにしたのだ。暴力沙汰は苦手なの方だ。
「是非お願いしたいことがあってお伺いしました。」
深夜も営業しているレストランに着くとさっきの背の低い方のマーク=シュリュズベリ
ィと名乗った男が早速話し出した。
「あなたに合衆国に飛んで頂きたいのです。勿論費用などは全てこちらの負担と云うこと
で。」
そんな話より私には男の名前が引っかかった。
「それより先に聴きたいのですが、あなた、シュリュズベリィさんと仰いましたね、まさ
かあのラバン=シュリュズベリィ博士の?」
「博士から見ますと父方の従弟の孫に当たります。ただ、生まれてからずっと日本で暮ら
しておりますので、合衆国には行ったことがありません。」
多少信用できるような気になってマークの話を聴くと合衆国アーカムのミスカトニック
大学で、ある文書の解読をして欲しいとのことだった。特に日本に関係の有る文書らしい。
本来日本のその道の権威である帝都大学の橘教授に依頼したかったのだが、私の恩師で
も有る教授は高齢もあって体調を崩しており、夏までの授業も私が代行することになってい
た位だ。そこで私に白羽の矢が立ったらしいのだが、私は私で授業を受け持っており、た
ちまちそう云う訳にもいかなかった。ただ、本来やりたかったことでもあり、何時かはア
ーカム財団に入りたいとさえ思っていた私は、それでも夏期休暇まで待ってもらうことだけ
を条件に引き受けてしまった。
相談をしようと岡本優治に連絡を取ってみたのだが何故か電話にも携帯にも出ない。そ
して、優治とは結局その後も連絡が取れなかった。私は仕方無しに一人で判断し、夏休み
を待つことにした。
それは平成も十数年が過ぎた7月の半ば過ぎのことだった。
2 謎の報告書
この年の東海岸は例年になく蒸し暑い日々
が続く夏を迎えていた。渡米した私は留学当
時借りていたアパートを寝倉に大学へ通うこ
とにした。8年振りのアーカムの街は更に退
廃的な雰囲気が増しており、住人達が忌み嫌
っていた「インスマス面」の男達が少なから
ず見受けられるようになっていた。
インスマスは2年前の大火で住宅の3分の
2が焼け落ち住人の多くが死亡し、住まいを
無くした孤児や住人が挙ってアーカムに越し
てきたのだ。街外れの一地域に纏まってはい
るが、確実にインスマスの住人の殆どが居を
移しつつあるらしい。老人達は頑強に反対し
ているが、人道的な問題として受け入れざる
を得ず、元々のアーカムの住人がプロヴィデ
ンスに移住して行くケースも増えてきている
ようだ。
アパートの大家のヴァレリー夫人は七十歳
を超える高齢だが言葉も体も確りしており私
が離れていた8年間の出来事を事細かに話し
てくれた。
お陰である程度事前に近況の知識を入れて
大学に向かえた。図書館長はクレア=ドーン
博士に替わっており、彼女とは初対面だった
のだが、ブラウン大学で「統一場理論」の講
演が行われた際に公聴にいったことがあり、
顔は見知っていた。理論物理学の権威である
が最近は特に目新しい研究発表はなされてい
なかった。
彼女がミスカトニック大学の付属図書館長
に就任したのは1年前で、前任者の急死もあ
ったのだが、思いもよらない人事だったらし
く、ひととき話題になったらしい。
左遷なのか本人の希望なのか、未だ噂は結
論を出していない。私は日本とアメリカのそ
れぞれの恩師である橘教授と現コロンビア大
学のフォレスター=ウイング教授の紹介状を
携えて図書館へと赴いた。
ドーン館長は最初快く迎えてくれたのだが、
私が目的を話し出すと途端に態度を硬化させ
てしまった。
「そのお話はお断りするしかありませんね。
そのような文書は当図書館にはございません。
どこでお聞きになって来られたかは存じませ
んが、そのお話をされた方は何か勘違いをな
さっているのではないでしょうか。遥々日本
からお越しになられたのですから、どうぞご
ゆっくり観光でもなさってお帰りください。
と云ってもこのアーカムにはあまり名所・旧
跡の類はございませんけれども。」
取り付く揣摩も無く椅子を少し斜めにして
端末を叩き出した彼女の表情には私とこれ以
上係わりを持ちたくない気持ちがありありと
あらわれていて、平静を装うには無理があっ
たのだが、私は特にそれ以上の追及をせずに
館長室を辞した。
文書があるととう確信を持てただけで今日
の目的は達していたのだ。アーカム財団のマ
ーク=シュリュズベリィにも図書館ではそん
な文書は無いと云われるだろうことは前もっ
て予測できたらしく聴かされていたので、逆
に見せると云われた方が驚いただろう。文書
は大学のスタッフが独自に解析しているらし
いのだが、その中に日本人がいないようで、
かなり手間取っているとのことだった。私は
予想していたので特に落胆することも無く一
旦帰路についた。
それから数日は様々な準備に追われた。情
報収集も重ね、必要な物を揃えて完璧に準備
を終えてから、本来の目的の為に私は夜の図
書館に再びやって来た。
初夏なので7時でもまだ少し明るいのだが、
意を決して私は図書館へと侵入していった。
合鍵は留学当時のもので未だ使えるものが数
個あった。相変わらずその手の管理は杜撰な
ようだ。留学当時はただ一つを除いて全ての
扉の鍵を持っていたので、よく夜中に忍び込
んで一晩中稀覯書を読み耽ったものだった。
当時もそして今でもただひとつだけ私が開
けられない扉がある。「ネクロノミコン」は
その扉の向こうに保管されていた。私はバイ
ト先の錠前屋で修行して大抵の鍵なら開けら
れる。電子ロックでもそう手間取ることはな
い。ただひとつこの扉だけは別物だった。脳
波とかの作用と特別の呪術が鍵に施されてい
るらしい。鍵そのものは普通なのだが、ここ
だけは無理な話だった。例の文書がその扉の
向こうならお手挙げだ。
私はアーカム財団から教えられた図書館員
のIDとパスワードを打ち込んで図書館内か
らデータベースにアクセスし、例の文書の所
在を確認した。まさか館内のコンピューター
からのアクセスが不正なものとは誰も想わな
いので、比較的容易に極秘文書の個所も情報
を引き出すことに成功した。文書は最近別棟
に新しく作られた保管場所に在ることが判明
した。
私は早速その部屋に慎重に進入することに
した。セキュリティシステムについては全て
一旦クリアしたうえでだ。部屋に着いた私は
すぐに問題の文書を探した。文書はあっけな
く見つかった。部屋への侵入が不可能と判断
していたのか、全く用心していないかのよう
にデスクのうえに無造作に放り出されていた
のだ。
私は文書を確認すると替わりに全く同じ物
としか見えない偽の文書を置いた。アーカム
財団が用意してくれたものだ。これで数週間
は時間が稼げる筈だ。その間に解読し、また
元に戻しておく。それが私に課せられた使命
だった。財団としても貴重な文書を闇に葬っ
てしまうことまではしない。ただ、その内容
を先に確認した上で、大学側に発表を控える
ように迫ったりすることが目的と聴かされて
いた。そのまま信じている訳ではないのだが、
多少のスリルもあって私は引き受けることに
したのだった。大学側としては逆に全く資料
を公開しないことも考えられたからだ。
判断する手駒は多い方がいいに決まってい
る。アーカム財団が判断することが人類にと
って正しい道であることを信じているからこ
そ、その手助けをしたいと望んだのだ。私は
侵入したときよりももっと細心の注意を払っ
て形跡を消しつつ脱出に成功した。
文書を持ちかえると私は早速解読にかかっ
た。文書はラテン語で書かれてはいるが、そ
う古いものでもない。ただ、情報によると文
書の内容自体はそれこそ人類の発祥前からの
記録が言及されている、とのことだった。通
常の解読方法を一通り試したが、当然そんな
ものでは解読できる筈も無かった。この手の
文書の解読には勿論知識が必要だが、なりよ
りも必要なものはセンスだ。様々な解読方法
のなかから、どれを或いはどれとどれを組み
合わせて使うか。そこで解読者のセンスが問
われるという訳だ。私は悲観的ながらもジョ
ン・ディー博士が「ネクロノミコン」を解読
したときに使った方法を真似てみたが、やは
り無駄だった。一旦文書自体を変換した上で
何らかの解読法を使うような気がした。
私は文書を一旦、日本の古文に変換してみ
た。これは案外簡単に変換できた。大学の研
究員も似たようなことを考えてはいたらしく、
一旦日本語や中国語に変換して解読しようと
試みて日本語で多少齟齬があるが、文書とし
て読めそうな所まで行ったことがあるらしい。
私はそれを古文に変換してほぼ一次の変換
は完成させた。そして、その古文を種々の解
読法を試すことにした。最近ではかなり高度
な暗号解読法がインターネットで無料配布さ
れている時代だ。その手の才能には不自由し
ない。勿論ネット上での話だが。
解読を始めて3日間、ほとんど不眠不休で
作業を行ってやっと正解に辿りついた。と云
うよりもたった3日間で、と云うべきか。図
書館に侵入できること、日本語などの暗号解
読に通じていること、クトゥルー関連の知識
もあること、など考えれば考えるほど私は打
って付けの存在だった。
文書の表題は「ルルイエの所在に関する報
告書」とある。まさか、あの「ルルイエ」な
のか?
文書を読み進んで行くと文書の前半は過去
に「ルルイエ」が浮上した場所及びその時に
付随して起こった出来事の報告だった。
文書には「ルルイエ」が浮上するポイント
は世界中に16ヶ所あると記されている。文
書にはそのほぼ正確な位置もあった。そう、
「ルルイエ」は各地に浮上している、と云う
ことは「ルルイエ」自体が移動している、と
云うことになるのだ。
「ルルイエ」は海中に留まらず、水に関係
がある場所なら何処でも現れることができる、
と云うことも記載されている。実際に移動し
ているわけではなく、次元の裂け目のような
ものがあって、それが水に関連するところに
繋がっている、と云うことらしい。そして、
その内のひとつが、日本で一番大きい湖、琵
琶湖であると記されていた。
私の渡米前から連絡が取れず、「関西方面
である情報を得たので調べてくる。」と言い
残して行方不明になっている岡本優治も、も
しかしたら何処か違うルートでこの情報を掴
んだのかも知れない。
私は解読したものを光ディスクに保存した。
ただ、この文書には欠落した部分があるよう
だ。報告書としては完結しているような体裁
は整っていなかった。私は取り敢えずあるだ
けの文書を4枚の光ディスクに入力した。
1枚は日本の自宅へ郵送した。1枚はニュ
ーヨークのアーカム財団本部へ、1枚は日本
のアーカム財団極東支部、そして最後の1枚
は胸ポケットにしまいこんだ。あとは文書を
元に戻すだけだ。
深夜の図書館に改めて進入した。この間進
入した通りの手順で再びあの部屋に入ると文
書は同じように同じところに保管されている。
気づかれてはいないようだ。私が偽の文書を
手にしようとしたその時、急に部屋の電灯が
点いた。部屋の入り口には図書館長クレア=
ドーン博士が立っていた。
「堂々とやって来たかと思ったら実は泥棒だ
ったと云う訳?ミスター綾野。」
彼女の手には拳銃が握られている。幸い他
に誰かが潜んでいる気配はなかった。彼女一
人のようだ。私のすり替えに気づいて私がま
た戻ってくるのを待っていたとしたら、考え
られる理由は一つしかない。彼女も大学側と
は違う理由で文書の解読を望んでいるという
ことだ。
「なぜ、一人で来られたんですか?ドーン博
士。」
私は様子を窺いながら少し立っていた場所
を移動した。彼女には気づかれないように。
銃の持ち方から彼女が一度も撃ったことがな
い素人だと判断した。一通りの護身術を身に
付けていたこともあって私は一か八かの賭け
に出ることにしたのだ。
「何か、他の職員や警備員に連絡できない理
由でもあったのですか?」
私の狙いは功を奏したようだ。明らかに彼
女は動揺していた。私が飛びかかれる位置ま
で移動したことにも気づいていない。
「何を云うの、そんな訳ないじゃないの。直
ぐに警備員を呼びますよ。」
そんなことを考えていないことは明白だっ
た。彼女は解析の結果を知りたいだけなのだ。
「そんなことより、解読した内容が知りたい
んじゃないのですか?」
「成功したの?大学のスタッフがまる2年か
かって数ページも進まなかったというの
に。」
かかった、と思った私はさらに大胆に近づ
いていった。
「そうですよ、これをちょっと非合法的にお
預かりした数日の間にね。聞きたいです
か?」
「勿論よ、そのために私はここの館長にまで
なったのですから。」
云ってから博士はしまったという顔をした。
云うつもりのなかったことまで口を滑らせて
しまったようだ。
「それほど執着するのには何か理由があるの
ですか?その返答によっては内容をお教えし
てもよいのですが。」
「本当に?」
ドーン博士は既に拳銃を下ろしていた。余
程知りたい訳があるのだろう。
「判ったわ、理由は簡単なこと。その文書は
夫の遺留品の中から見つかったの。遺留品と
いっても夫の遺体が確認された訳ではないの
だけれど。探検家だったロルカが最後に向か
ったアマゾンの奥地で数人用のベースキャン
プを残してそのまま行方不明になってしまっ
たの。そのベースキャンプの荷物の中に文書
はあったのよ。」
彼女には文書は夫の形見でもあった訳だ。
「遺留品の中でその文書だけが、ミスカトニ
ック大学の係員がきて持って行ってしまった
の。それで、もしかしたらその文書にこそ夫
の消息を探す手掛かりがあると思って、無理
を云ってここの館長に赴任してきた訳。そん
なことでもなければ、こんな所に来たくはな
かったわ。薄気味悪いし、職員は陰気だし、
私でさえ入れない部屋もあるし。」
「ちょっと待ってください、あなたでも入れ
ない部屋があるのですか?」
「そんなことは知ったことではないわ。私は
その文書が解読されるのを待っていただけ。
何故だか大学側は秘密にしたがっていたから、
あなたが来た時もあんな態度をとってしまっ
たけれど、本当は誰が解読してくれても良か
ったのよ。」
博士は単なる寂しい妻だった。ただそれだ
けの理由だったのだ。国家がどうとか、人類
がどうとかの問題ではない。私は素直に内容
を話して聞かせた。予備知識なしに聞くには
難解すぎ、到底信じられない話ではあったが。
内容は博士には何の価値もなかった。私が思
うには彼女の夫、ロルカ=ドーンは多分深き
ものどもかその手下にでも襲われたのだろう。
「判ったわ、ありがとう。何か手掛かりにな
るとしたら、この文書しかなかったのだけれ
ど。あなたはその文書に書かれていることで、
例えば何処かに調査に行くつもりなの?」
「そうですね、多分。」
「もしそこで何か私の夫の消息に関する情報
が得られたりしたら私に直ぐ連絡をしてくれ
ると約束できる?それなら今回のことは見逃
してあげてもいいわ。」
私に異存はなかった。
「わかりました、必ず連絡すると約束しまし
ょう。それとこの文書は本物ですからお返し
しておきます。」
差し出した文書を受け取ると博士はいとお
しそうに抱いた。
「何故かこの文書だけがあの人を感じられる
ものになってしまったの。だから偽の文書が
置かれているのは直ぐに気づいたわ。でも多
分あなただろうと思っていたから黙っていた
の。大学の解読スタッフは無能の寄せ集まり
だから。」
「ご主人の消息が早く判ればいいですね。私
が見つけたら直ぐに連絡しますから。」
博士は本当に夫の消息を知りたいだけなの
だ。悲しい人だった。私は博士を励ましてか
ら図書館を出た。直ぐに帰国して琵琶湖へ行
こう、私の友人のためにも、そして新しい友
人であるドーン博士のためにも。
3 謎の展開
私が帰国の準備を終えてアパートをでると
黒服の男と長い金髪の女が近づいてきた。
「綾野さんですね?私はアーカム財団プロヴ
ィデンス支部のマリア=ディレーシアといい
ます。彼は同じ支部のロイド=パーキンスで
す。」
またいやに流暢な日本語だった。きれいに
日本語を発音する外国人はどうも胡散臭い気
がするのは私だけだろうか。後ろの男は18
0cmを超える大男で、紹介をされても挨拶
をしなかった。
「身分を証明できるようなものをお持ちです
か?」
少々いやな感じがしたので、時間稼ぎのつ
もりで云ってみた。後ろの大男が前に出よう
としたのを女が止めた。どうやら立場は女の
ほうが上のようだ。
「アーカム財団のIDでよかったら。」
女は写真入のカードタイプになっている身
分証明書を見せた。実物を見たことがないの
で確認のしようがないのだが。
「なるほど、で、何か御用ですか?少し急い
でいるのですが。」
「できればちょっとご足労願えればと思いま
してお訪ね致しました。」
下手に出てはいるが、拒否しがたい口調だ
った。後ろの大男にはとても敵いそうになか
った。仕方なしに同行することにしたが、ア
ーカム財団に害される理由は少なくとも無い
筈だ。財団でなかった場合は大いに困ってし
まうが。
アーカム財団のプロヴィデンス支部は町の
中心であるオフィス街の一角の一番高いビル
の最上階を占領している形で在った。支部の
人間であることは間違いないらしい。
マリア=ディレーシアに連れられて、私は
応接室に入れられた。ロイド=パーキンスと
はオフィスの入り口で別れた格好である。
「すぐに支部長が来ます。いましばらくお待
ちください。」
私一人を置いてマリアも部屋を出て行って
しまった。少ししてドアが開き、中年の太っ
た男がマリアと一緒に入ってきた。
「ミスター綾野、支部長の圭一郎・和田で
す。」
彼は日本人だった。
「はじめまして、私が支部長の和田圭一郎で
す。」
私の前に座ったプロヴィデンス支部長とい
う男は、紳士的に言葉使いと、眼鏡の奥に光
る眼光が全くそぐわなかった。何か報告書の
ようなものに目を通したあと、私に向かって
話し出した。
「あなたがお持ちになっていらっしゃる光デ
ィスクをお渡しいただく訳にはいきませんで
しょうか?」
「何のことでしょう。」
私は惚けてみたがあまり効果はないようだ。
「私どもにはあらゆる用意があるのです
が。」
支部長は暗に拷問のことを示唆するような
口調で言った。丁寧な言葉の方が脅しとして
は有効なようだ。私はつい渡してしまいそう
になった
「ひとつお聞きしてよろしいでしょうか。」
私は話しを反らすためにアーカム財団のこ
とを聞いてみた。
「日本で私の前に現れた二人組みは財団とは
関わりがないとおっしゃるんですか?」
「シュリュズベリィのことですか。彼は確か
にラバン=シュリュズベリィ博士の親戚に当
りますが、我が財団とは何の関係もありませ
んよ。ただ、CIAとは深い関わりが在るよ
うですがね。」
「なるほど。」
私は最初から合衆国に踊らされていたとい
うことなのか?しかし、この男の話も何処ま
で信用できるものか判らない。
「そういうことでしたら、すでに財団の本部
には光ディスクを送ってありますよ。それと
もこれをコピーされますか?」
抗し難いとも思い、なにか打ちのめされた
ような感覚の中で私は胸ポケットから光ディ
スクを取り出した。
「ただ、出来れば私の目の前でコピーしてい
ただけませんか。それとコピーしたら直ぐに
ディスクを返して下さい。それぐらいはして
いただけますよね。でも同じ光ディスクを日
本のマークのところにも送ってしましました
けど。」
「それは特に問題ないのですよ、綾野さん。
いずれ大学側も解読に成功するでしょう。た
だ、大学側が入手していないもう一つの文書
がありましてね。そちらのほうは私どもにあ
るルートを通じて持ち込まれたものなのです
が、これがないと完全なものにはならないよ
うです。」
「やはりそんなものがあったのですね。私が
解読したものだけでは報告書としては完成し
ていない気がしていたのです。」
「たぶん前半の四分の三を解読されたことに
なる筈です。そこにはいったい何が書かれて
いたのですか?」
「ルルイエが浮上する場所に関する過去の記
録と正確な場所の記述でした。それと何故一
箇所ではなく何箇所もルルイエが浮上するポ
イントがあるのかを考察したものです。浮上
ポイントについては合計16ヶ所の記載があ
りました。」
私は素直に内容を話した。光ディスクには
解読した方法も入力してある。ディスクをコ
ピーさせた時点で秘密でもなんでもなくなっ
ているのだから。
「すると後半にはルルイエを浮上させる方法
の記述があるのかもしれませんね。」
「それとも一定の周期があるのなら、次に浮
上するポイントの考察もあるかも知れません。
報告書はクトゥルーの復活を阻止する立場で
書かれてある筈ですから。」
「それにしても16ヶ所もありましたか。私
どもで確認しているのは7ヶ所までなので、
未知の浮上ポイントが他に9ヶ所もあるとい
うことになります。後半の解読についてもご
協力いただけますでしょうか。」
協力を了承した私は結局まる2日間拘束さ
れた。後半にはやはり、ルルイエの浮上する
周期に関する記述がなされていた。しかし、
浮上させる方法についての記述はなかった。
報告書としては完結しているようなので、全
く別に文書があるのだろうか。
和田支部長とマリアは私を空港まで送って
くれた。監視もかねて、というところだろう
か。ちゃんと光ディスクも返してもらったし、
後半についても入力させてもらった。なにか
後で気づいたことがあれば直ぐに連絡をする、
という条件付だが。飛行機のチケットも取っ
てもらったので、ある程度は信用できそうだ。
アーカム財団なら協力したい。その思いは未
だ変わっていないのだが、誰が味方で誰が敵
なのか判断する基準が曖昧になりつつあった。
帰国の飛行機の中で私なりに事態を整理し
てみた。著者不明の報告書の解読を依頼され
たのは結局合衆国だったのだろうか。興味を
もっているということはマーク=シュリュズ
ベリィからも聞かされていたのだが、マーク
本人が合衆国の意向で動いていたとは聞かさ
れていない。私はあくまでアーカム財団とし
て依頼してきた風に捉えていた。ただ、依頼
したときはアーカム財団の意向だった、とい
う可能性もある。マークへの連絡は財団の極
東支部に取っていたのだから。
それなら、和田支部長の知らないところで
の動きだったのだろうか。本部から内密に極
東支部に指示がでていたのか、それとも極東
支部自身の独自の判断か。まだまだ裏があり
そうだ。
成田についた私は、早速アーカム財団の極
東支部に電話を入れてマークを呼んでもらっ
た。しかし、そんな者は居ないの一点張りだ
った。和田支部長の話が真実味を帯びてきた。
私が、アーカムから送った光ディスクの所在
も確認してもらったが、予想通りそんなもの
は受け取っていない、との返答であった。私
が、プロヴィデンス支部の和田支部長の協力
者である旨と、その件については支部に確認
してもらってもいいということを告げ、マー
ク=シュリュズベリィの消息について出来る
限り捜索を行ってほしいことを責任者に伝え
てもらうこととして電話を切った。
部屋に戻ってみると、どこかがおかしかっ
た。特に何か荒らされたような形跡は無いの
だが、個々の調度品が微妙に記憶にある配置
と違う気がする。最初は気が付かなかったの
だが、本棚の一冊が逆さになっていた。背表
紙が横書きの本なので一見判らないが、取り
出してみると逆さま、と云う訳だ。妙に几帳
面な私はそんな立て方は絶対にしない。そう
と気づいて部屋を見回してみると、あちらこ
ちらに探し物をしてまたきちんと元の状態に
戻そうとした跡が見て取れた。CIAか、マ
ーク=シュリュズベリィか。アーカム財団も
目的のためには手段を選びはしない。
いずれにしても、行為を隠蔽しようとする
のは目的を達せられなかったと云う事なので、
そのうちそ知らぬ顔をして接触してくるかも
知れない。心当たりは例の光ディスクだけだ
った。幸い到着日を指定してあったので、今
日の時点では自宅宛のものは着いていない筈
だ。
翌日私は休養先に橘教授を訪ねた。概ねの
話をした上で本題を切り出した。
「教授は確か琵琶湖大学の名誉教授の肩書き
も持っていらっしゃいましたよね。」
「何を企んで居るのだ、綾野君。今自分が話
した岡本君の二の舞になるつもりなのか。」
私の意図をある程度察した教授は、私を説
得しようとしたが無駄だった。教授は私の行
動自体には理解を示してくれているのだが、
私自身の身の危険を憂慮してくれている。岡
本を探さなければならないことも含めて逆に
教授を説得した私は、数ヵ月後琵琶湖大学伝
承学部アメリカ伝承学科講師という肩書きを
手に入れた。
例の報告書の後半部分の解読によって次の
浮上時期がある程度予測がつく。時間はあま
り残されていなかった。
4 琵琶湖沿岸
数ヶ月間の調査と詳しい報告書の解析によ
って、ほぼ浮上ポイントと時期は特定できそ
うだった。私はアーカム財団のプロヴィデン
ス支部と密に連絡を取りながら琵琶湖の沿岸
を徹底的に調べた。
その結果、北湖のほぼ中央、西側にある別
荘地の沿岸がそのポイントであると断定した。
地磁気にも既に異常が出始めている。浮上時
期は今年の年末、12月24日から25日の
2日間と判明した。
私は自分ひとりで調査をするには限界があ
るので、こちらに来てからは一人の生徒に手
伝ってもらっていた。行方不明になっている
岡本優治の甥であり、私のクラスの生徒でも
あり、最年少のクトゥルー学会の会員でもあ
る岡本浩太君だ。どうしても手伝いたい、と
申し出る彼を初めは止めていたのだが、一人
でもやる、と利かないので仕方なしに手伝わ
せることにしたのだ。
最初は資料収集だけを手伝ってくれていた
のだが、彼が入手してきた情報の中に、重要
な要素が含まれていた。例の別荘地の所有者
はここ半年の間に引っ越してきた人ばかり、
というものだった。どうも、組織的に購入し
た節がある。
別荘地の分譲を行った業者に連絡を取って
みた。
「そのことについては、何も話すことなんて
在りませんわ。そやさかい、二度と電話して
こんといてや。」
電話に出た男は経営者だった。強がる関西
弁の底に、何かに怯えているかのような印象
を受けた。確実に何かを隠している。私はそ
の経営者に直接接触してみることにした。
「こいつだな。」
私が帰宅途中の彼の車を付けていると、同
じように付けている車を発見した。私は無理
やりその2台の間に割り込んだ。車はわざと
プレッシャーをかけるために直ぐ後ろに付い
ていたからだ。
私は前の車との間を少しあけて京阪電車の
踏み切りのすぐ手前でちょうど遮断機が下り
る直前のタイミングで私の車はすり抜けた。
かろうじて尾行の車を撒いた私は先行して
いるターゲットの車の前に出て脇道に逸れる
ように指示した。湖岸道路から見えないとこ
ろで車を止めさせた私は、車を降りて近づい
て行った。車の中の男は頭を抱えて震えてい
る。いかにも不動産会社の社長らしい、ただ
どちらかというとあまり質の良くない業者と
一見して判る風体の男だった。
「円藤さんですね。」
出来るだけ落ち着いた口調で尋ねると、男
はちょっと頭をもたげた。
「教団の人じゃないのか?」
私は直ぐに首を振った。
「この間電話したものです。琵琶湖大学で講
師をしている綾野といいます。」
円藤は少し安心したようにやっと私の顔を
見た。
「ああ、この間の。でも電話でも話したけど
何にも喋りませんで。勘弁してくれはりませ
んか。」
「喋れないような事があの別荘地にあると仰
るんですね。」
円藤はちょっと考えた後、
「何か誘導尋問みたいな感じですなぁ。そう
です、そやさかいこれ以上何も聴かんといて
くれはりませんか。私にも家族が居るんです。
生活が在るんですよ。もうあんなもの達に関
わるのはたくさんだ!」
「あんのもの、ですか。人たちじゃなく
て。」
「何か私に恨みでも在るんですか?つきあっ
てられませんわ。」
車を出そうとする円藤に私はもう一言付け
加えた。
「私があなたに接触したことは今ごろ向こう
にも判っている頃でしょうね。」
驚愕の表情で私を睨んだ後、がっくりと肩
を落とした円藤はさすがに観念したようだっ
た。
「判ったわ。話すがな。ただ条件がある。私
と家族の安全を保証してくれへんかぎり話す
訳にはいかんわ。」
「その点に関してはアーカム財団の方でなん
とかしてくれるでしょう。でもあなたも彼ら
のお陰で結構儲かった筈だ。自業自得とは思
いませんか?」
私達は円藤社長の家族の保護をアーカム財
団の関西支部に依頼したうえで近くのファミ
リーレストランに入った。
「話して頂きましょうか。」
円藤は観念したように話し出した。
「ダゴン秘密教団という名前は最初は全く知
らんかったんや。」
「ダゴン秘密教団?」
「なんや、知らんのかいな。アメリカのどこ
ぞ東の方の港町が発祥らしいけど、最近は日
本にも支部が出来てる新興宗教みたいなもん
とちゃうかな。でも最初は鈴貴産業という会
社の厚生担当重役とかいう人が来はって、琵
琶湖沿いに別荘地を纏めて保養所として買い
たい、いうて。うちにはバブルのときに開発
した別荘地が仰山残っとったんで渡りに船と
案内したら、即答で全部買い取る、いうてく
れはりましたんや。」
「なるほど、インスマスのダゴン秘密教団で
すね。」
「そう、そのインなんとかや。私はただ普通
に商売をしただけや。騙したわけでも、不良
物件を押し付けた訳でもあらへん。どごが悪
いんや。」
円藤は開き直ってきかた。
「だいたい、尾行の車が着いて来出したのも、
あんたの電話があったその日からやった、と
いうことはあんたに深い関係があるんとちゃ
うか。私は被害者やで、どないしてくれるん
や。」
「それはそうかも知れませんね。商売上はな
んの問題もないのでしょう。でもあなたがし
たことは人類に対しての裏切り行為になりな
ねないことなんですよ。」
私に言われて円藤は納得のいかない顔で憮
然としている。
「なんか変な電話もかかってくるし。」
「変な電話ですか?」
「そうや、あんまり聞き取れへん、ぐふぐふ
とこもったな声で、何も云うなとか、マーク
なんたらがどうしたとか。それ以上は何を云
うてんのか全く判らへん。ただ口調は脅し以
外の何者でもなかったわ。」
「何を私から隠したかったのでしょうね。他
に特別なことは無かったのですか?」
円藤は少しだけ考えて、
「そういえば契約に来た男は変な顔した奴や
ったな。瞬きを全くせえへんのや。それと契
約金額が全部で7億円やったけど、全額キャ
ッシュやったんでびっくりしたなぁ。」
「それくらいですか。」
「あっそうそう、建物建てんのに地盤が固い
かどうか気にしとったわ。それが、琵琶湖の
沿岸やさけ地耐力はないんで地盤改良せなあ
かんやろって言うたらなんか安心しとったな
ぁ。普通は文句言われるのに。」
「柔らかい方が都合がいい、それにはどうい
う意味があるのでしょう。」
「例えば掘ったりするには楽やわな。そうい
うたら、平屋の家を仰山建てたみたいやけど
地元の工務店とかは全然使わんと、どこぞか
ら連れて来た大工に建てさせとったみたいや。
外人ばっかりやったらしいけどな。その時に
通常では考えられんほど土が出たらしい。ほ
かす場所に困ってたって地元の産廃業者が云
うとったわ。」
ビンゴだ。その情報が欲しかったのだ。地
下に奴らは棲家か祭壇でも造っているのだろ
う。問題は何処まで奴らが儀式を理解し、準
備を進めているか、ということだ。
私は円藤社長をアーカム財団の関西駐在員
に保護してもらうために引き渡した。
私が部屋に戻ると、岡本浩太君が来ていた。
「綾野先生、何か掴めましたか。」
「いや、予想された範囲のことを確認できた
だけだったよ。君が調べてくれた通り、奴ら
はあの地下に通路や祭壇を造っているのだろ
うね。」
そのとき、部屋のチャイムが鳴った。オー
トロックのインターフォンに出てみると、マ
ーク=シュリュズベリィだった。
「お会いして弁解をさせていただきたいと思
っていたんですが、暫く此方に居なかったも
のですから。お怒りは判りますがまず、私の
話しを聞いてくださいませんか。」
相変わらず、いやに流暢な日本語でマーク
が一気に話した。
「判ったよ、聴こうじゃないか。彼は私の生
徒で今、ちょっと事情があって手伝ってもら
っているんだ。気にしないで続けてもらって
結構。」
「判りました。まず最初にお会いしたときに
は私は確かにアーカム財団の指示であなたに
接触しました。ただ、財団本部の意向ではな
く、極東支部長の独断だったのです。あなた
が合衆国に飛ばれた直ぐ後に極東支部長は更
迭されてしまいました。私を使ったことが本
部の不興を買ったようです。私は財団の本部
にはあまり好い印象を持たれていませんから。
それから私は極東支部の徹底的な追及を受け
ていたのです。CIA絡みだと思われたので
しょう。実は的外れなのですが。」
「それなら、何が的当りだと云うつもりなん
だ。」
私は妙な日本語で尋ねた。マークの外見と
話す日本語が未だしっくり来ない。マークは
確かに多少身体が弱っているみたいだった。
顔や手など見える範囲では外傷は見られない
が。
「そのことについては、絶対に内密にお願い
できますでしょうか。でないとお話しする訳
にはいきません。」
「それは話し次第だろう。聴いてみない事に
は何とも云えない。ただ、秘密にしなければ
ならない正当な理由があるのなら、それをわ
ざと洩らすようなことはしないと約束しよう、
それでどうかな。」
マークは少し考えた後、
「判りました、聴けばあなたにもきっとご理
解いただけると思います。話しとしては単純
なことなのです。ただ、それをあなたに信用
してもらえるかどうかが問題なのです。」
そうして、マーク=シュリュズベリィが話
し出したことは一概に嘘だと決め付けること
も出来ず、直ぐにそのまま信用も出来ない不
思議な話しだった。
「私はある人物の意向を受けて活動をしてい
ます。そして、前任のアーカム財団極東支部
長も同じ人物の意向を受けて動いていたので
す。それであの時私と一緒にあなたを訪ねた
のです。」
そうだ、確かに二人だった。
「あの時のもう一人が極東支部長だったのか。
そう云えば君のことばかりが気になって彼に
ついては何も聴かなかったな。」
迂闊にも私は二人できた中でマーク=シュ
リュズベリィと名乗った彼にだけ興味を引か
れて、もう一人の男については名前も聴いて
いなかったことに今更ながら気づいた。
5 マークの述懐
「私は確かにCIAに在籍したこともありま
す。そして辞めた後でも元の同僚達と一緒に
仕事をしたりしています。アーカム財団に協
力していることも、CIAのことも全てある
人物の意向を受けての行動なのです。」
「その人物とは一体誰なんです。」
「綾野先生はある程度予想しておられるので
はないかと思うのですが。」
確かに私は予想していた。だが、あまりに
も突飛な予想なので誰にも云えなかったのだ。
「それじゃあやっぱり、博士は今でも健在な
のか?」
「その通りです。ラバン=シュリュズベリィ
博士は今でもセラエノの図書館で研究に励ん
でおられますよ。地球の暦ではもう130歳
を超える筈ですが、あの場所では時間の流れ
が違うようです。私は、博士の指示を受けて
この地球で活動をしている一人なのです。」
予想していたとは言え多少のショックはあ
った。岡本浩太君は呆然としている。俄かに
は信じられない話ではあるのだ。
「するともとかしたら極東支部長だった人と
いうのは。」
「彼はアンドリュー=フェランです。今は違
う名前を名乗っていますが、本当の年齢は9
0歳を超えていると思いますよ。」
20台後半としか見えなかったことを覚え
ている。若いからあまり気に留めなかったの
だ。セラエノでは歳を取らないどころか、若
返ってでもいるかのようだ。
「なるほど、それである程度のことは理解で
きたよ、それで今ごろ君が私のところに現れ
た理由をそろそろ教えてくれるかね。」
「それなんですが、ご存知の通りダゴン秘密
教団は既にクトゥルーを復活させる儀式を行
う場所を確保しています。深き者どもも淡水
に適応出来たようでかなりの数が集まりつつ
あります。そして、最後の二つの鍵のうち一
つは用意が整っている、と云われています。
後は最後の鍵だけなのです。」
マーク=シュリュズベリィは全てお見通し
のようだ。そして私がそれを握っていること
も。
「君は何処まで気づいているんだ。」
「私が知っているのは例の文書に記されてい
た内容と、一つ目の鍵についてだけです。文
書の内容については先生の解読されたものを
入手しました。それと一つ目の鍵については
クトゥルーの復活を望まない人間から取り出
した3日以内の心臓であることは、かなり以
前から知られていたことです。問題は鍵はも
う一つあって、それがダゴン秘密教団も未だ
掴んでいないらしいのです。奴らは今まで幾
度と無く同じ失敗を繰り返してきました。前
回、ポナペ沖で「ルルイエ」が浮上したとき
は、クトゥルーは一旦目覚めて強烈な精神波
で多くの人を発狂させました。けれど、最後
の鍵の存在を知らなかった所為で結局クトゥ
ルーは再び眠りについたのです。」
確かに例の文書にも一つ目の鍵の不正確な
情報があった。但し、それはミスカトニック
大学にあった前半部分のみの言及であり、実
はアーカム財団から提示された後半と合わせ
ると正確な一つ目の鍵の内容と二つ目の鍵の
内容があったのだ。私が解読した文書には、
その部分は巧妙に隠してあった。後で別人が
同じように解読しても気が付かないだろう。
「そのことなら私の調査でも多少の情報は得
ているよ。それと彼らは一つ目の鍵について
も過ちを犯しているようだ。3日以内という
意味を取り違えているみたいだね。」
「取り違えていると云うと?」
岡本浩太君が初めて口を挟んだ。彼は一つ
目の鍵のことも今初めて聞いた筈なのにそれ
ほど驚いてはいないようだった。
「そのことについては、誰にも話す訳にはい
かない。それに、万が一奴らに捕まってしま
った時に何も知らないほうがまだ生き残るチ
ャンスがあるだろう。」
「そう仰らずに教えていただく訳にはいきま
せんか。もうお気づきかもしれませんが、あ
の文書を残した人はエイベル=キーンなので
すから。彼は今行方不明になっています。勿
論偽名ですがカモフラージュのために結婚も
していたようなのですが、多分ダゴン秘密教
団か星の知恵派によって拉致されたようなの
です。」
基本的にはマークは私を騙していたわけで
はないようだ。話としては辻褄が合う。後は
信用するかどうかだ。
私は最初から「最後の鍵」については誰に
も話すつもりが今後も含めて無いことと、例
の文書については、CIAでもアーカム財団
でも、或いは両方を使ってでも全て回収して
もらうよう依頼した。私の意志が固いことを
知ったマークは不承不承その日は辞した。
「私もいつ身柄を拘束されるかわからない身
ですから、どこまで出来るかはお約束できま
せんが、出来る限り手配してみます。」
マークが帰った後、私と岡本浩太は今後の
ことを話し合った。
まずひとつはダゴン秘密教団の儀式をなん
とか止めさせる為に、警察等に偽の情報を流
して捜索してもらうようにすること。それと
何とかして奴らが掴んでいる情報を調べるこ
と。これについては最後の鍵の内容を私しか
知らないので、私が方法を考えるしかない。
「どうしても教えていただけないんですか。
先生、冷たいですよ。僕にとっても他人事で
はないんですから。それに先生だけが危険な
目に遭うよりも、対象を分散させた方がいい
んじゃないですか?」
浩太はなかなか諦めなれないようだ。しか
しこれだけは承知できなかった。
「優治については私も出来るだけのことはし
たいと思っているので、私の気持ちも判って
欲しいな。優治だけでなく君にまで何らかの
危害が加わったと知ったら由紀子さんは私を
許さないだろう。もともと唯の物理学者だっ
た優治がクトゥルー神話に興味を持ったのは
私の影響なのだから。君にしたって優治の影
響で興味を持ったって云ってたじゃないか。
それと単独で優治が調査に行ってしまったの
も、私に対するライバル意識のためじゃない
かと思うんだ。いずれにしても私に関わらな
ければ起こらなかったんだよ。だから、私は
優治の行方を探さなければならない。そして
君を危険な目に遭わすわけにはいかないんだ。
由紀子さんのにも堅い約束をして来たから
ね。」
「由紀子伯母さんからは昨日も電話がありま
した。危険なことはしないでねって釘を刺さ
れましたけど。」
浩太は伯母であり私の友人である岡本優治
の妻である由紀子さんに頭が上がらないらし
い。この際、心配をかけたくないという彼の
気持ちを利用させてもらおう。
「その通りだよ。君には情報収集だけ手伝っ
てもらうと言うのが最初からの条件だった筈
だ。」
しぶしぶ承知した浩太はまた明日、例の別
荘地の近くの国道沿いの喫茶店で落ち合うこ
とにして帰らせた。もう零時を回っている。
本当は明るいうちに帰したかったのだが。
6 別荘地
次の日、待ち合わせの時間に少し遅れてし
まった私は、慌てて店に飛び込んだが、浩太
君の姿は無かった。店員に聞いてみると確か
に浩太君らしき客が来ていたらしい。ところ
が、一人の男が待ち合わせていた客のように
彼のテーブルに座って暫く親しげに話した後、
一緒に出て行った、とのことだった。
一体彼は誰と何処に行ってしまったのか。
不安に駆られた私は、直ぐに別荘地に向かっ
て車を走らせた。普段は赤いGOLFWAG
ONに乗っているのだが、目立ちすぎるので
友人に白いカローラを借りてきていた。
国道161号線を5分ほど走って右に折れ
ると直ぐに別荘地に着いた。今日は多少曇っ
ているのだが、心なしかこの辺りだけ更に空
気が澱んでいるかのように見える。
私がここに足を運ぶのは今日が初めてだっ
た。見回して見ると人の姿が見えない。何処
にでも居そうな犬や猫、更には鳥の姿さえも
見えなかった。急に音声が途切れてしまった
ビデオを見ているかのようだ。そんな中で私
の車のエンジン音だけが響いている。
少し別荘地の中を走ってみたが、住人は勿
論、浩太君の姿も無かった。私は別荘地の中
でも湖岸よりの一際大きなログハウスの前に
車を止めた。円藤社長に聞いたところによる
とこの家の持ち主が、代表のようなことをし
ている、とのことだった。
表札には「田胡」とある。私は意を決して
チャイムを押した。だが、返事が無いので暫
く待ってつごう三回、チャイムを押した。一
向に返事は無かった。円藤社長の話では、ど
の家にも電話は引かれていないとのことだ。
周りに人気が無いこと、家の中にも人気が
無いことを確認した上で、私は例の特技を使
って家の中に入った。家の中はごく普通の、
しかし生活感のない部屋だった。ここに暮ら
し始めてから既に半年は経っている筈なのだ
が、家具と呼べるものが殆ど無い。異常に大
きい業務用の冷蔵庫がひとつあるだけで、テ
レビもテーブルさえも無かった。
私は家の隅々、特に床を調べて回った。何
処かに地下に下りる出入り口がある筈だ。
暫く探していると、何処の電灯も点かない
スイッチを見つけた。押しても何も起こらな
い。スイッチを押して聞き耳を立てていると
何処かでウィーンという機械音が聞こえた。
だが、どこにも出入り口らしきものは現れな
い。音のする方を辿ってみると二階に登る階
段があった。その階段の下のスペースを利用
した収納があった。扉を開けてみると、あっ
た。やはり地下への入り口だ。階段が下へと
下りている。
暗い階段を降りてみた。トンネル状に続い
ている床や壁や天井は全てコンクリートの打
ちっぱなしだったが、妙に湿っていた。とい
うか、ぬめぬめとしている、と云った方が近
い。懐中電灯の光も所々反射するような水溜
りがあった。
暫くトンネルを進むと何処からか声がして
きた。くぐもった、何とも聞き取りにくい声
だ。二人で話をしているようだが、一人の声
は特に聞き取れなかった。
「そうすると、今回用意した心臓までも無駄
だというのか。」
その言葉に誰かが応えている。そちらの方
はぐちゅぐちゅと、何か口いっぱいに水を含
んで喋っているような声だ。
「判ったから、もう自分の部署に戻れ。お前
達の臭いはどうしても慣れない。」
男に言われてもう一人の男が部屋から出て
きた。懐中電灯を消して隠れていると、先に
出てきた男は、私が今来た方向とは反対の、
奥の方に歩いていった。ぴちゃびちゃ、とい
う音をさせながら。
一人残った男の様子を窺っていると、追っ
て部屋を出てきた。私は多分この男が田胡氏
ではないかと思ったので、少し手前に戻って
いた。案の定男は私が来た方に歩き出した。
私は男に気づかれないように家の外に戻っ
た。そして男が家に戻ってきたタイミングを
見計らってチャイムを押した。
家の中で多少ばたばたと音がした後、徐に
男が出てきた。
「田胡さんのお宅ですか?」
男はごく普通の日本人に思えた。インスマ
ス面のような特徴は見られない。
「そうですけど、何か?」
ちょっと目にはエリートサラリーマンにし
か見えない。
「突然お伺いして申し訳ありません。私は、
おうみ不動産の円藤社長からお聴きして来た
のですが、この辺りで別荘地を探しておりま
して、ところがここ一帯は全て鈴貴産業さん
の社員さんのための保養地として全部買い取
られたと聞きましたので、たとえ一区画でも
分けていただけないかと思いまして。」
「それは無理な話です。お聴きするまでもあ
りません。お引き取りいただきましょう。」
私を追い出そうとするので、身体をドアの
間に割り込ませた。
「そう仰らずに、なんとかお話だけでもお聞
きいただけませんか。私も是非ここに別荘を
持ちたいのです。」
私が聞いてもおかしな話だった。当然田胡
氏も不審に思っただろう。徐々に顔色が変わ
ってきた。私の正体に気づいたのか。
「まさか、自分からのこのことやってこよう
とは。余程自信があるのか、単に間抜けなだ
けなのか。」
「多分、単なる間抜けなんでしょうね。今日
は岡本浩太君を引き取りに来ただけで、返し
ていただけば直ぐに帰りますよ。」
田胡氏は不思議そうな顔をした。ダゴン秘
密教団の仕業ではなかったのか。
「岡本浩太?君の生徒のことかね。彼がどう
かしたのか。」
暗に私のことについては調査済みであるこ
とを仄めかしている。
「あなた方の仕業ではなかったのですか、私
はてっきり。」
「てっきり何だと云うのだ。私が攫わせたと
でも云うつもりか。」
本当に知らないようだ。私を脅して喋らせ
ようとするのなら、攫ったことを隠す筈が無
い。それなら一体浩太君は誰と何処に行って
しまったのか。
「私の勘違いだったようです。今日のところ
は大人しく帰りますよ。いずれ近々にお遭い
することになるでしょうが。」
「大人しく帰れるとでも持っているのか
ね。」
私の背後で数人の気配がした。囲まれたら
しい。
「明日にでもこちらから迎えに行こうと考え
ていたところだったんだよ。手間が省けたと
云うところだな。私と一緒に来てもらおう
か。」
「ただで帰していただけませんかね。今日私
が帰らないと、直ぐにここに日本の警察が捜
索に来る手筈になっているのですがね。合衆
国の政府筋とアーカム財団の両方からプレッ
シャーをかけてあるので軽視しない方がいい
と思いますよ。」
脅しでは無かった。確かに今日の午後6時
までに私からの連絡が無ければ、この家を中
心に捜索に入る手筈になっていた。名目は適
当に辻褄が合わせてある筈だ。その辺りの手
腕については、私はマーク=シュリュズベリ
ィを信頼していた。
「田胡さん、どうでしょう、このまますんな
りと帰していただけませんか。まだ、数週間
の余裕がある筈ですし。」
こちらも全て知っているのだぞ、という意
味を込めて言い放った。少しでもけん制にな
ればいいのだが。
取り囲んでいる人込みを掻き分けて表に出
ようとしても、田胡氏は何も言わなかった。
いずれ日が迫ってきたら強引に拉致するつも
りだろう。
車のところまで戻ってみると、車は見事に
廃車寸前にまで解体されていた。
「借り物なのにもどうしてくれるんだ。」
私が近づいていっても車を解体しつづけて
いる男に怒鳴りつけた。煩わしそうに振り向
いた男の顔は正にインスマス面だった。
「いや、何でもないんだ。すまない、続けて
くれ。」
理屈が通りそうに無い、初めてまざまざと
見たインスマス面に私は云い様もない恐怖に
駆られて、その場を足早に逃げ出した。
別荘地の中でも一番湖岸よりの家だったの
で、国道までは相当距離がある。後ろを振り
返ってみると、ぞろぞろと私の跡をてんでバ
ラバラに着いて来る。普通の人間としか見え
ない男もいれば、一目でインスマス面と判る
者もいる。それどころか、蟇蛙のような深き
者どももいるようだ。幸い一様に動きは鈍か
った。
十二月ともなるとこの時間でもかなり暗く
なってきている。暗くなると奴らの動きは早
くなって来る。太陽が出ているうちにここを
立ち去りたかった。
私がちょうど別荘地の半ばぐらいの所まで
走ってきたところで、日が暮れてしまった。
奴らも後ろから追ってくる者だけではなく、
横からも現れ始めた。前を塞がれれば一環の
おわりだ。
(んぐるふ、ふたぐん。うがふたなる、ふた
ぐん。)
地下から湧いてくるようなくぐもった声が
聞こえてきた。上空では見たことも無い鳥が
旋回を始めた。鷹のようだが、鷹ではない。
(テケリ・リ、テケリ・リ)
鳥の鳴き声なのか、誰かの、或いは何かの
呻き声なのか。神経を逆なでするような音が
周囲を包みだした。
(もうここまでか。)
私が諦めかけたとき、タイヤを鳴らして緑
のBMWが目の前に滑り込んできた。
「早く乗って!」
聞き覚えのある女の声だ。確かめもせずに
私が乗り込むと、車は急発進した。
何人か、或いは何匹か?を引っ掛けながら
車は暫くして国道に出た。
やっと落ち着いて運転席を見ると、そこに
はマリア=ディレーシアの映画女優のような
整った顔が在った。
「お久しぶりね、ミスター綾野。」
「マリア、取り敢えずありがとうと言ってお
こう。でも何故あなたがここに?」
「私は和田支部長の命令で日本にミスター綾
野の手助けをしに来ました。それとマーク=
シュリュズベリィとも既に接触しました。彼
とは協力関係が結べそうです。それと、CI
Aについては今後一切手出しをしない約束を
交わしました。敵は少ないほうが好いですか
ら。」
「CIAは敵なのか?」
合衆国の意向をそのまま受けている立場で
もないようだ。国防総省との勢力争いの結果
かとは思うが、冷戦が終結してからどうもC
IAの影が薄いことは否めない。巻き返しを
図りたくて多少無理をしていた節がある。
「敵に回りそうな組織を敵対させないように
配慮している、と思ってください。ただ、ア
ーカム財団もプロヴィデンス支部、ニユーヨ
ーク本部、極東支部それぞれの利害は必ずし
も一致していないのです。とても悲しいこと
ですが。」
マリアはどこまで掴んでいるのか。そして
どこまで信用しても好いものなのか。とりあ
えず、命の恩人には違いない。
「ただ、今回のことは、事が事ですから協力
体制が出来つつあります。もう20日しかな
いのですから。」
私は岡本浩太君の捜索に手を貸して貰える
よう頼んだ後、他にいくつかの頼みごとをし
てマリアと別れた。近々大きな動きがある筈
だ。ダゴン秘密教団からの接触は必ずあるだ
ろう。それと岡本浩太君を攫った?誰かも。
アーカム財団も全力を挙げて護衛してくれ
るそうだが、結局財団も私から情報を得たい
ことには違いが無かった。
7 邪悪なる儀式への誘い
私はアーカム財団の護衛の姿を確認した上
で自分のアパートに戻った。アパートは大学
から徒歩で10分ほどのところの二階建ての
学生用のアパートに取り敢えず落ち着いてい
る。部屋に戻ってパソコンを立ち上げると、
Eメールが届いていた。岡本浩太君からだっ
た。内容は伯父の消息について独自に情報を
掴んで単独行動を取っているので心配しない
で欲しい、とのことだった。
「無茶をしなければいいんだが。」
それにしても浩太君が付いて行った男は一
体誰なのだろうす。独自の情報とは何処から
得たものなのだろう。私の他にこの件で彼が
繋がっている人物は居ない筈だった。それで
なくても秘密にしていることだ。彼の携帯に
電話しても電源を切ってあるのか、電波が届
かないのか繋がらなかった。取り敢えず彼か
らの連絡を待つほか無かった。至急連絡をす
るように返信メールを打ってその日は休むこ
とにした。
しかし、「最後の鍵」のことについては、
未だ誰もどの組織も気づいていないようだ。
私と、そしてあの報告書を作ったエイベル=
キーン(ロルカ=ドーン)だけなのだろうか。
私は彼の報告書を最初日本の古文に翻訳し、
その上で暗号解読の方法をもってほぼ原文を
把握した。しかし、解読している途中で妙な
ことに気づいたのだった。それは、通常は表
現としては最適な単語が使われていない個所
を度々見つけたことだった。確かに意味は通
じるので、文書としての体裁は整っているの
だが、妙に気になった。
そこで私はその気になる単語を全て集めて
違う暗号解読方法を試してみた。さして、最
後の鍵についての報告の解読に成功したのだ
った。
一つ目の鍵についてはマーク=シュリュズ
ベリィも云っていた通り、クトゥルーの復活
を望まない人間から取り出した心臓が必要だ
った。しかし、彼を含めて「3日間」という
意味を取り違えている。その取り違えの内容
は余りにもおぞましいことだった。
そして、運命の日はあっと云う間近づいて
来た。だが、私も十分準備をすることが出来
た。結局浩太君も優治も行方は知れないまま
だったが、なりよりも優先しなければならな
いのは、クトゥルーの復活を阻止することな
のだ。
私に対してダゴン秘密教団からEメールが
届いた。私はアーカム財団にだけ連絡を取っ
たうえで別荘地へと向かった。カローラを借
りた友人に愛車は譲ってしまったので、マリ
アのBMWの助手席に乗っていく羽目になっ
てしまった。その他の財団の人間もサポート
してくれている。Eメールには私一人で来る
ように指示してあったので、一人で車を降り
て田胡氏の家へと向かった。
指示では例の田胡氏の家の地下通路に来る
ようにあった。私の知識と引き換えに岡本優
治と浩太君の身柄を返すというのだ。秘密教
団の記名はなかったが指示からすると他に考
えられなかった。私は最悪全てを話す覚悟を
して地下へと進んだ。ルルイエの浮上まであ
と4日。いまならぎりぎり儀式を完成するこ
とができる。絶妙の、そして最悪のタイミン
グだった。
マーク=シュリュズベリィに直接連絡が取
れなかったことが気がかりだったが、意を決
して通路を進むと、この間田胡氏と誰か(或
いは何か)が話をしていた部屋の前を通った。
今日は誰も居ないようだ。床は相変わらずぬ
めぬめとしている。暫く進むと急に広い場所
に出た。ここで儀式を行うのだろうか、祭壇
のようなものが造られている。
全体の広さは30帖ぐらいのものだが、天
井の高さは5mぐらいあって地下とは思えな
いほどの広さだった。奥の壁際の中央に病院
の手術台のようなものが据えられている。そ
こに田胡氏が居た。
「よく来てくれましたね、綾野先生、いや助
教授でしたか。」
「私はただの講師です、田胡さん。戯言は止
めましょうよ。二人は何処です。」
「そう急がなくても、あなたが全てを話して
くれるのなら直ぐにここに連れてきますよ。
勿論二人とも無事です。」
優治は行方が判らなくなってから10ケ月
が経とうとしている。とても無事だとは思え
なかった。せめて浩太君だけども助け出さな
ければ。
「二人の無事を確かめなければ何も話すつも
りはありませんよ。まず、そちらが先で
す。」
田胡氏は少し思案した後、近くに居たイン
スマス面の男に何か指示を出した。
「ここに連れて来ましょう。ただ無事で帰れ
るかどうかはあなた次第ということになるの
は判っていますね。いい加減な事を云って誤
魔化そうとしないようにくれぐれもお願いし
ますよ。お互いのためにもね。」
「どうせルルイエが浮上するまでは帰すつも
りは無いのでしょう。ただ、私も一言言って
おきますが、私が知っている方法で本当にク
トゥルーが復活するかどうかは判らない事を
覚えて置いて下さい。私はただ報告書を解読
しただけで、それを作った人間がどこまで確
信をもって書いたのかどうかの確認は取れな
いのですから。そして、その方法は今まで誰
もやったことがない方法だということも。も
し、過去に誰かがやっていたとしたらとっく
にクトゥルーは復活している筈ですから。」
ロルカ=ドーンことエイベル=キーンが発
見したという方法が本当に有効かどうか確か
める術は、実際に試してみるしかないのだ。
駄目ならまた今度ルルイエが浮上するタイ
ミングを待たなければならない。ダゴン秘密
教団は今まで幾度と無く繰り返してきた。
「二人が着いたようですね。」
見ると口にガムテープを貼られてロープで
後ろ手に縛られている二人が入って来た。連
れて来たのはインスマス面ではなくなんと深
き者どもだった。浩太君は勿論、優治も特に
弱っている風には見えなかった。
「いいでしょう、彼らを開放していただける
なら二つの鍵について話しましょう。」
8 最後の鍵
「二つの鍵だと?我々は既に一つの鍵の情報
は手に入れている。あと一つの筈だか。」
「あなた方が掴んでいるのは、クトゥルーの
復活を望まない人間の取り出されてから3日
以内の心臓、ということですよね。一つ目の
鍵はそれでは駄目なのです。取り出されてか
ら3日以内ではなく、3日間生き埋めにされ
ていた死体から取り出された心臓でないと効
力が無いのです。クトゥルーの復活には『究
極の恐怖』が媒体として必要となるのですか
ら。」
田胡氏は不意を突かれたような妙な顔にな
った。表情が上手く造れないようだ。
「生き埋めにされた日数が3日間だったのか。
なるほど、いままで失敗を繰り返すわけだ。
それなら、最後の鍵はなんなのだ。」
「最後のもう一つの鍵、それは同じく3日間
生き埋めにされた死体から取り出された心臓
です。ただ、こちらはクトゥルーの復活を望
む者の物で無いと意味がありません。二つが
揃って初めて鍵となるのです。」
あまりにもおぞましい内容だった。誰にも
告げないでいられるのならその方がいいに決
まっているが、この場合は仕方が無いと思っ
た。本当に効力があるかどうか、疑問だった
ことと、足りないものがクトゥルーの復活を
望む人間の心臓なので多少罪の意識も紛れた
のだ。
しかし、今から用意しようとするのなら、
今すぐにでも二人の人間を生き埋めにしなけ
ればならない。当然私もその候補の一人だろ
う。
「なるほど、嘘は吐いていないようです
ね。」
それはそうだ。吐くのならもっと巧い嘘を
吐くだろう。
田胡氏は納得したようだった。そして、勿
論私が今話した内容は解読をしたとおりの内
容だった。
「そうですか、復活を望むものの心臓も必要
だったのですか。あなたのお陰でおっと我が
主をあのおぞましい館から連れ出すことが出
来そうです。本当に感謝しますよ。」
彼の顔は本当に感謝しているかのように見
えた。
「そこまで云ってもらえるのなら、そこの二
人は開放して貰えるのでしょうね。復活を望
まない人間は一人でいい筈です。」
田胡氏は怪訝そうに私を見返した。
「ああ、まだ気づいていなかったのですね。
それでは改めて最近私の側近となった人間を
紹介しましょう。」
田胡氏が指差したその先には、既にロープ
が解かれた岡本優治の姿があった。
「優治、まさかお前。」
「久しぶりだな、祐介。お前には悪いことを
したと思っている。だが、俺にも俺の考えが
あってしていることだ。許してくれとは云わ
ない。それと浩太には手伝ってもらっていた
んだ。お前の元に集まる情報を入手するため
にね。疑われないように多少こちらの情報も
リークしたが。」
由紀子さんは知っていたのだろうか。優治
の行方を心配している顔に嘘は無かったよう
に思う。浩太君まで巻き添えにしているなん
て、全く彼らしくなかった。
「由紀子さんは知らないことなんだな。一度
電話だけでもしてあげろよ。あんなに心配し
ている人を放って置く馬鹿がいるか。」
私は本当に腹が立ってきた。私へのライバ
ル意識が昂じて危ない目にあってしまったと
責任を感じていたのだが、実は自分の意志で
身を隠していたとは。
「由紀子にはすまないと思っている。浩太の
ことは心配しないでいいよ。教団には彼を巻
き込まないと約束させてある。」
「そんな言葉を信じているのか、おめでたい
奴だな。お前を安心させるための方便だと気
づかないのか。」
田胡氏を見ると不敵な薄笑いを浮かべてい
る。
「大司教、まさかそんなこと。」
「悪いが岡本君、君より綾野君の方が役にた
ちそうなのでね。最初から君は彼を誘き寄せ
る餌に使えると置いておいただけなのだよ。
その少年のことは君が私の知らないところで
勝手に巻き込んだだけで、私にとってはどち
らでもいいことだ。」
優治は肩をがっくりと落とした。
「我が主の復活を心から望むのなら、その儀
式の中心となる栄誉を与えよう。連れて行
け。」
残された私と浩太君は一つの部屋に押し込
まれた。復活を望まない者の心臓の提供者に
どちらかが選ばれる可能性が大きい。
「君がスパイだったとは、全く気が付かなか
ったよ。」
「すいません、先生。伯父の消息を知ったの
は先日伯父本人から連絡があったからです。
先生の動きを逐一報告するようにと。そうし
ないと伯父の命が危ないと云われて。そして
先生と待ち合わせしていたあの喫茶店に伯父
自身が現れて僕を此処に連れて来たのです。
それまでは僕もまさか伯父が入信していたな
んて知らなかったのです。」
本当にすまなさそうにしている浩太君を見
るといまさら嘘を云っているようには見えな
い。
「そうすると君は教団に脅されていただけで
クトゥルーの復活を望んでいる訳では無いの
だね。」
「まさか、あたりまえじゃないですか。伯父
の命がかかっていると思うからこそ奴らに協
力していたのですから。復活を望んでいるな
んてとんでもない。」
そうするとやはり彼か私が心臓提供者の一
人になるのだろうか。浮上まであと四日、と
いうことは今日中にも私達のどちらかが生き
埋めにされなければならない。復活を望んで
いる者の心臓提供者は優治らしいが、彼も自
らが生贄になってまでクトゥルーの復活を望
むのだろうか。
「なんとかここを抜け出さなければ。君はこ
こには詳しいのか。」
「いえ、ここには連れて来られてからずっと
一つの部屋に軟禁されていましたから。縛ら
れてはいなかったのですけれど。」
地下なので外部に対して連絡の取り様が無
い。外にはマリアたちが待機している筈なの
だが。
(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう
るるいえ うがふたなる ふたぐん)
ここも地下なのだが、更に深い地の底から
聞こえてくるような、くぐもった詠唱が聞こ
えてきた。十人や二十人の声ではない。もっ
と大勢の地響きのような大合唱だった。中に
はとても人間とは思えないものも含まれてい
た。深き者どもも相当数が混じっているよう
だ。
そして、なす術も無いまま私と浩太君は監
禁されていた場所から連れ出された。田胡氏
はあれ以来姿を見せない。インスマス面の男
達に連れられて比良山脈の山中へと連れて行
かれた。未だ土葬の風習が残っている墓地に
一緒に埋めるつもりらしい。
見ると、私と浩太君の他に生贄にされる人
が連れて来られていた。円藤社長だ。保険と
して数名を生き埋めにすることにしたようだ。
円藤社長は意味不明の言葉を呟きながら口
をパクパクと動かしている。正気を保ってい
ないことは明らかだった。
私は浩太君にはアーカム財団のメンバーが
必ず助けてくれる筈だから安心するように云
っていたのだが、預けておいた円藤社長がこ
こにつれて来られているようでは、もはや信
頼できないかも知れない。
私は浩太君と顔を見合わせたが、どうしよ
うもなかった。縛られたまま、大きく掘り下
げられた穴の中へと放り込まれた。受身を取
れない状況なので左肩からまともに落ちてし
まった。骨が折れてしまったかもしれない。
浩太君も円藤社長も違う穴に放り込まれた。
優治の姿は見えなかったので復活を望む者は
違う場所に埋められたのだろうか。
なんとか自力で這い出ようとしたが無駄だ
った。スコップでつき返されて、倒れこんだ
ところへ土がかけられ出した。自らの身体に、
生き埋めにされるために土がかけられていく。
あまりの恐怖に最早身体が云うことを利かな
くなってしまった。
(浩太君、すまない。)
半分私が巻き込んだ形になってしまった浩
太君だけは何とか助けたかったのだが、もう
どうしようもなかった。徐々に土が身体の上
に積もっていく。
ざざっ、ざざっ、ざざっ、ざざっ。
土は足元から順にかけられている。口はガ
ムテープで塞がれていたが、目隠しは外され
ていたので、全ての光景が見て取れてしまう
のだ。決して見たくない光景だった。
生贄がより恐怖を味わうようにまず身体か
ら埋めていって、顔は最後に埋める。首から
下はもう埋まってしまった。もう身動きすら
できない。私はうめき声をあげるのが精一杯
だった。
最後に土が顔に覆い被さってきた。容赦な
しに土はかけられていく。窒息死が一番苦し
い死に方だというが、その中でも生き埋めと
いうのは、恐怖と相俟って格別だろう。いっ
そ気を失ってしまえればいいのだが、大きく
目を開けたまま私は埋められて行った。そし
て完全に埋められ、息も出来なくなってやっ
と意識が遠くなった。
9 復活の儀式
生贄の準備が整ったので、ダゴン秘密教団
の人とは云いがたい者達が、クトゥルー復活
の儀式の準備に取り掛かった。
生贄の墓には3日間寝ずの見張り番を置い
てある。深き者どもは3日くらいなら寝ない
でも問題ない。ダゴン秘密教団の大司教、田
胡は生贄以外の儀式に必要なものを集めるよ
うに指示を出した。
その中の一つが「ネクロノミコン」だった。
これは大英博物館のものでも、ミスカトニッ
ク大学所蔵のものでもない。星の智慧派が極
秘に所蔵していたものを、今回何故か提供し
てくれたものだった。勿論、儀式が成功した
あかつきには、丁重に返却することになって
いる。
田胡氏は星の智慧派を信用しているわけで
はなかったのだが、他に入手する方法が無く、
正確な儀式の方法は「ネクロノミコン」から
類推するしかない状況の中で、仕方ないと自
分を納得させていた。別に偽者を掴まされた
訳ではないようだ。田胡氏は星の智慧派を率
いるナイと呼ばれる男が、主の味方なのか敵
なのか判別がつかないのだった。
「これで、後は生贄の二つの心臓だけだ。」
星の智慧派の動向は不明瞭であったが、そ
の他のことは自らが画策したとおりに進んで
いる。ミスは無い筈だし、許されないことだ
った。
アーカム財団の関西本部はインスマス面の
男達を派遣して壊滅させた。そのとき、保護
されていた円藤を生贄のスペヤとして拉致さ
せた。
結局綾野の云っていた内容については、聞
き出した解読法で全て確認できた。意外にも
本当のことしか云っていなかったのだ。
「馬鹿正直な奴め。いったい何がしたかった
のか。自らの命を捨ててしまっただけだ。愚
かな、としか云い様がない。」
知識があり、能力的にも問題はないが『好
奇心、猫を殺す。』といったところか。教団
に忠誠を誓うのなら、自分の右腕にでもなろ
うものをと妙に惜しくなってしまった。
「生贄になぞ、しなければよかったか。」
あまり物を考えようとしないインスマス面
やもともと考える能力が退化してしまってい
る深き者どもに囲まれていると、人間の優秀
な人材が無性に欲しいことがあった。自分ひ
とりに出来ることは限界があるのだ。
ただ、それもこれも主であるクトゥルーが
復活さえすれば問題は無かった。自分は命令
に素直に従うだけでよいのだ。考えるのはク
トゥルー自身が全てやってくれる。旧神との
戦いのときもそうだった。田胡氏はただ命令
されるがままに無心に戦っただけなのだ。創
造者に対して叛旗を翻したあの戦いは、負け
戦であったが今度はそうは行かない。二度と
同じ過ちを繰り返す訳にはいかないのだ。旧
神自身は全く復活しそうな兆しはない。旧支
配者たちをあちらこちらに幽閉して安心しき
っているのだ。
田胡氏の元に情報がもたらされた。アーカ
ム財団のプロヴィデンス支部長の和田という
男が日本に帰国したらしい。そう云えば和田
支部長の右腕だった筈のマリアとか云う女が
一足先に入国している筈だが、先日の関西支
部を急襲した時も死体は確認できなかった。
財団としては組織的な反抗は大打撃を受け
た今、到底無理な筈だ。和田支部長やマリア
個人ではどうしようもないのだ。合衆国など
では国家そのものが、大きな敵になって立ち
はだかるのだが、日本では政府としての対応
が出来るわけでもなく、そういう意味ではア
ーカム財団以外の抵抗を受けることは想像も
出来なかった。別荘地地帯一体を空爆でもし
ない限り、儀式を止める事はできないのだ。
日本国政府にそれだけの度胸も器量もない。
田胡氏は安心していた。
ただひとつ、何かひっかかるものがあった。
なにかひとつファクターが足りない。登場人
物に主役級の役者が欠けている芝居を見てい
るかのようだ。日本の警察やCIAなどでは
ない。もっと我々に対して力を持った何かだ。
「浮上はいよいよ明日だ。儀式は午前10時
より執り行う。スペアも含めて6体の死体か
ら心臓を取り出す作業は9時までに終えて準
備を整えて置くように。」
最後に必要な生贄について指示をだして田
胡氏は主の復活を待った。何もかも明日だ。
何億年と続いてきたことだろう。明日やっと
終焉を迎え、旧神に対して攻勢に出ることが
できる。田胡氏、いやかの旧神との戦いの時
代、ダゴンと呼ばれていた古きものどもの海
神は無性に嬉しかった。人前で人間の姿でい
るのも明日までだ。主が復活したのなら旧神
達の怒りを買わないように目立たない人間の
姿でいる必要はない。
ヒュドラがクトゥルーの復活を阻止しよう
とする米軍の攻撃で傷つき冬眠に入ってしま
ってから、数十年、ただ一人で準備を重ねて
来た。ほぼ25年周期で浮上するルルイエに
はクトゥルーだけではなく、一緒に封印され
てしまったダゴンの同属たちもたくさんいる。
よく、ダゴンとヒュドラが父なる、母なる
と呼ばれることから夫婦のように勘違いされ
ることがあるが、かれらは基本的に雌雄同体
であって、父なる、というのはあくまで比喩
的な表現である。たしかにダゴンとヒュドラ
は同属であり、クトゥルーの従者としても重
要な位置を占めているので、並び称されるこ
とが多かった。だが、人間世界で云う夫婦と
いうような捉え方は間違っている。
こんな辺鄙な星の海底都市に封印され、人
間というような下等動物の手を借りなければ
自らの主を復活させることが出来ない自分を
責めることもしばしばある。それも明日で終
ろうとしていた。
そうして運命の日は訪れたのだった。
10 クトゥルーの復活
湖中よりごごごっと云う音と共に神殿が浮
上しだした。島ごと浮き上がってくるのだ。
そして、別荘地は丁度その浮上した島と繋が
った。地下に作られていた祭壇は地上へと移
動されている。そして、そこには生贄にされ
た死体から取り出された心臓が二つ並べされ
ている。この心臓がクトゥルーを封印してい
る旧神の<大いなる印>に代わるとき、クト
ゥルーの封印は完全に解かれるのだ。今まで
幾度となく試された方法では、一度解けた封
印は直ぐまた元に戻ってしまう。この方法で
は今回が初めてだ。そして、最後になると田
胡氏は信じて疑わなかった。
(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう
るるいえ うがふなぐる ふたぐん)
詠唱が始まった。ほぼ人間に近い声と、と
ても人間とは思えないくぐもった声。周囲を
鷹ではないが鷹に良く似た禍々しい鳥が数え
切れないほど旋回している。空は墨で塗りつ
ぶしたように見えた。
インスマス面と見られる人間には外国人も
混じっている。黒人が十数名と白人がその3
倍程度。それ以外は日本人なのか、いずれに
しても東洋人の特徴が見られた。深き者ども
は地下で詠唱している。辺りは朝10時だと
言うのに急に曇りだして薄暗くなってきた。
(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう
るるいえ うがふなぐる ふたぐん)
ただ繰り返しその言葉が詠唱される。
「ルルイエの館にて死せるクトゥルー、夢見
るままに待ちいたり。」
田胡氏にはあまりにも耳慣れた言葉だった。
ごごごぅ。島の中央部は更に盛り上がって
殆ど湖上に現れた。
島の中心にあるルルイエの館であるところ
の神殿は、その殆どが地下に埋もれてしまっ
ている。そして入り口のみが古代ローマの神
殿のように聳えていた。入り口までの階段は
到底普通の人間のサイズを考慮して作られた
とは思えない。1段が2m異常あるのだ。そ
して、水中に沈んでいた所為で、あるいは違
う意味でぬるぬるとぬめっていた。
(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう
るるいえ うがふなぐる ふたぐん)
さらに詠唱は続く。そうして、島の浮上は
止まった。ごごごごぅ。ぐふっぐふっぐふっ。
表現しがたい音が神殿の入り口から聞こえて
くる。何かが巨体を引きずって地下通路の階
段を登って来るようだ。
表現しがたい音は少しずつ近づいてくる。
詠唱は続く。すると、詠唱を続けているイン
スマス面の中に眼の焦点が合わなくなってい
る者が出始めた。クトゥルーは自らの従者の
恐怖をも餌として復活を成そうとしているの
だ。狂気に囚われて行くインスマス面の中に
動揺が出だした。自分達が餌になっているの
を理解したのだろうか。
儀式が最終段階を迎え、田胡氏は用意した
二つの心臓を持ってルルイエの館たる神殿に
向かって進んだ。<大いなる印>には近づく
ことは出来ても触れる事はできない。深き者
どもでは近づくことすら出来ないのだ。
正にクトゥルーがその姿を現そうとしたと
き、田胡氏は二つの心臓と大いなる印を取り
替えるべく大いなる印の前に立った。二つの
心臓を持っていれば触れられる筈だった。
(ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう
るるいえ うがふなぐる ふたぐん)
「我が主、クトゥルーよ。幾億の夜を越えて
復活の時に至った。その姿を我の前に見せた
まえ。」
決して人間には発声出来ない声で叫びつつ、
田胡氏は<大いなる印>に触れた。
「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ。」
全身が砕け散るような激痛が田胡氏を襲っ
た。<大いなる印>には触れられないのか。
どういうことだ。高々と掲げられた二つの心
臓は田胡氏の手の中から落とされた。
「なんだ!」
田胡氏の手から心臓を落とさせたのは二発
の銀製の特殊な銃弾だった。
「そうはさせないわ。」
マリアだ。そして、いま一人。
「綾野、お前が生きているとすると、これは
一体?」
田胡氏は落とした心臓を拾い上げようとし
た。しかし、更なる銃弾によって阻まれた。
「貴様は、ラバン、ラバン=シュリュズベリ
ィ。生きていたのか。」
マークを従えたラバン=シュリュズベリィ
だった。そして、その横に綾野祐介、岡本優
治、岡本浩太とアーカム財団の極東支部のメ
ンバーたち。
「それは本物の心臓だよ。ただ、儀式に必要
な3日間生き埋めにされた死体から取り出し
たものではなく、あの日事故で死んで墓場に
埋められた気の毒な人たちのものだ。だから、
儀式には使えないんだよ。」
田胡氏は愕然と立ち尽くしている。空には
米軍の戦闘ヘリが数機旋回して大きな音を響
かせていた。
「お前の望みは絶たれたのだ。大人しく云う
ことを聞くのだな。」
ヘリは神殿の入り口にナパーム弾を落とし
始めた。クトゥルーに直接効果がある訳では
ないが、動きを少し止めることなら出来る筈
だ。<大いなる印>が健在なままなら、それ
で十分だった。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ。」
表現できない叫び声で田胡氏は叫んだ。悲
しみに満ちている叫び声だった。
「なぜお前達は毎度毎度私の邪魔をするのだ。
他の何よりも我が主クトゥルーさえ復活すれ
ば旧神に対して全ての封印を解かせることも
できように。」
儀式に参加していたインスマス面達は一人
残らず拘束された。地下で詠唱していた深き
者どもは全員ナパームの餌食となった。周辺
は暫く悪臭に悩まされることだろう。
入り口で足止めを食っていたクトゥルーは
ヘリの操縦者を1名狂気に引きずり込み、戦
闘ヘリは一機墜落されてしまったが、儀式が
完成しないまま再びルルイエは沈下を始めた。
水棲の旧支配者であるクトゥルーなのだが、
その体の全てが一度地上に出ないことには封
印は解けないのだ。
残ったのは田胡氏、ただ一人となった。
「あなたも、ヒュドラのようにそろそろ冬
眠されるか、大人しく封印されたらどうです
か。」
「私の正体にも気づいていたのか。食えない
男だな。」
ジュリュズベリィ博士はマークに支えられ
て祭壇のところまできた。
「久しいな、ダゴンよ。手下どもはほぼ全滅
したぞ。もちろん、ここと同時にインスマス
にも襲撃をしたのであちらに残っている深き
者どもも全滅だ。そろそろ諦めんか。」
「私が我が主を復活させようとしている訳が
お前達人間に判ってたまるものか。お前達は
目の前のことだけで精一杯で地球全体、宇宙
全体を慮る我が意思を無駄にするのだ。これ
から先も同様のことが繰り返されるであろう。
だが、私は決して諦めはしない。我が主は次
の機会を待たなければならんが、違う主神ク
ラスの旧支配者の封印を解くことに各々の従
者達が死力を尽くすであろう。我が主を復活
させる術は既にこの手に入れたのだ。他の者
達も同じように自らの主を復活させられない
と思うな。」
途中から田胡氏であった物体はその形状を
留めなくなってきた。ダゴンである本来の姿
に戻りつつあるのだ。こうなっては空爆でも
火炎放射器の直接攻撃でも、ましてや拳銃な
どでは太刀打ちできない。
「ダゴンよ、お主が諦めないのなら、わしら
も諦めないだろう。わしの意志を継ぐもの達
もだ。それとナイアルラトホテップを余り信
用せん事だな。奴が本当に望んでいることは
推し量ることが出来ない、それはわしらにと
っても、お主にとっても同じ事だ。」
ラバン=シュリュズベリィの言葉を聞いて
いたのかどうか、その終わりと同時にダゴン
は湖に身体を躍らせた。湖中にも網を張って
捕獲できるように対処してあるのだが、仮に
も海神ダゴンその人だ、無駄な努力に終るだ
ろう。
私達は沈みきってしまったルルイエの残し
た波紋を見ながらやっと一息つけたのだった。
「しかし、本当に生き埋めにされるところだ
った。あと数分遅ければ蘇生できなかっただ
ろうな。」
一網打尽にするために儀式は順調に進んで
いるように思わせなければならなかったので、
生き埋めにされた私達はぎりぎりのところま
で、そのまま放置されていたのだった。見張
りが気を許したときに取り敢えず空気穴だけ
は確保した上で。
一度見張りを襲撃し、墓場を離れた間に私
達を助け出して、違う死体を埋め何事も無か
ったように元通りに戻しておいたのだ。
「危機一髪とは正にこのことですよね。」
岡本浩太君は若さゆえ回復も一番早かった。
「祐介や浩太には言い訳が出来ない。本当に
すまなかった。私も一緒に捕まえてくれ。」
「いいじゃないか、命も助かったことだし、
お前も判ってくれたことだし。」
一番の理由は由紀子さんの悲しむ顔が見た
くなかったのだ。
「綾野先生、これからどうするんですか?」
シュリュズベリィ博士からはセラエノの来
ないかと誘われたのだが、マーク達と一緒に
地球で旧支配者や古きものどもと戦う活動を
続けるつもりでいた。クトゥルーについては
25年は大丈夫な筈だ。
「それにちょっと直ぐにやらなければならな
いことがあるんだ。」
私には2つやらなければならないことがあ
った。ひとつはドーン博士に彼女の夫の消息
を知らせることだった。ロルカ=ドーンこと
エイベル=キーンはダゴン秘密教団によって
既に殺されていた。例の文書についての情報
を得るために拷問を受けている最中に急死し
たのだ。どこまで、どんな言葉で彼女に告げ
るかが問題だった。
そしてもう一つは私達の身代わりになって
もらった心臓を本来在るべきところに戻して
あげる、ということだった。此方の都合で遺
体を損壊してしまったので、私にも大きな責
任があり、自らの手で持って戻してあげたい
と思ったのだ。
墓について二人の墓を掘った。心臓を取り
出した後、そのまま埋めてしまってあったか
らだ。遺体を掘り出して心臓を戻した。
お棺に入れて再び埋め戻そうと土をかけ始
めたとき、がさっという音がした。だれかが
手伝いに来てくれたのかと振り向くとそこに
は驚愕の眼差しで私を見つめる駐在さんの姿
が在った。
有無を言わせず私は逮捕されてしまった。
身柄を引き取る本部からのパトカーも信じら
れないほど迅速に来た。その間、私の話は全
く聞いて貰えなかった。外部にも連絡を取ら
して貰えない。たまたま居合わせた新聞記者
がぎりぎり間に合う朝刊に記事を送ることも
止められなかった。
そして、一旦私は遺体を盗もうとしていた
「墓場荒らし」としてセンセーショナルに報
道されてしまったのだ。さすがに第一報なの
で本名は伏せられていたが。
だが、事実は多少異なるのだ。私は遺体を
盗もうとしていたのではなく、戻そうとして
いたのだから。