第8話 追跡者
流石に普段から鍛えているのかリネットのペースは速かった。
ぬかるんだ土をものともせず、颯爽と駆けていく。
何とか追いつけているのも若返りのおかげだろう。
俺は以前、元の世界では高校の頃サッカーをやっていた。こっちに来て以来、鏡を見る度に映る俺はその時の姿とほとんど同じな気がしている。
要するに今が駿河大輝史上最高の身体能力と言っても過言ではない。
「はあ、はあ」
普通に走っていても低い位置にある木の枝に頭をぶつけそうになる為、それを避けなければいけないことと足場の悪さで思った以上に体力を奪われてしまった。
リネットはこっちを振り返ることなくどんどん前に進んでいく。
見失ってもこの足跡を頼りに戻れば、道に迷うことはないのだが、ここでリネットに身体能力まで残念な劣等生だと思われるのは避けたい。
それにしてもリネットのやつ速すぎないか? あれ魔法とか使ってるんじゃないだろうな。
段々上げる足が重くなってきた。
やべっ、もう……限界だな……。
流石にこれ以上は無理と足を止めようとした瞬間だった。
リネットが先に足を止め、その場にしゃがみ込んだ。
そしてようやくこっちを振り向いてくれると、何かに驚いたような顔をした後、人差し指だけを上げ、そのまま口元に持ってくる。
俺は止まりかけそうになった足に鞭を打ってリネットのもとまで音をあまり立てないようにして駆け寄った。
「しつこいだけあって根性はあるようだな。見ろ、あそこだ」
リネットの視線を追うと、その先には見覚えのあるモンスターがいた。
ゴブリンか。この前の奴らとは違うみたいだな。
奥には三体のゴブリンがいるが、手に持っている武器は二体が槍で一体だけただの木の棒だった。
心なしかその一体だけ周りの顔色を伺って、一歩引いているように見える。
ゴブリンにもヒエラルキーみたいなものがあるのか。
「私が行くからお前はここで待機していろ。いいな?」
「はあ……はあ……ああ」
目に入りそうになる汗を手で拭う。
隣にいるリネットの姿を横目で見ると、あれだけ走ったというのに汗一つ掻いていなかった。日頃のトレーニングの成果なのだろう。
手を貸せと言われたところでこれじゃあな……。
足は震え、思った通りに動かすことはできそうになかった。
若返っているにも関わらずこの体たらくに奥歯を噛みしめる。
リネットが槍を構えると、すぐに飛び出す。
「ガァ」
一歩引いたところにいる真ん中のゴブリンが最初にリネットに気付き奇妙な声を発した。
リネットが高く飛び上がる。
「ボルト!」
リネットが呪文を詠唱した後、持っていた槍が電気を帯び始める。
その槍をゴブリンに向かって投げた。
相手のゴブリンが木の棒を前に突き出す。
「ギィィ――」
槍は棒を砕きそのままゴブリンの胸を正確に貫いた。
あの技って俺を助けてくれたやつか。
残った二体のゴブリンも気付き、武器をすぐに構えようとしたのだが。
「やぁ――!」
地面に刺さった槍を抜くとそのまま横に一振り。
二体のゴブリンは胴体を真っ二つにされ、それぞれが持っていた二つの槍が地面に転がった。
おっかねえな。
前にも思ったが、レイラと違ってリネットにはモンスターを倒すことに一切の躊躇いといったものがない。いや、まあ、レイラはもう少し頑張ってほしいけど。
「はは……これじゃ、どっちがモンスターか分かんないぜ……」
圧倒的実力差でゴブリンを葬ったリネットが顔色一つ変えずに、こっちに来た。
「待たせたな、すまなかった」
「……ああ」
いや、全然待ち時間なかったけどね!
リネットには時々こういう固さがある。まあ、それでもリネットの方から話しかけてきてくれたのは、しつこさを評価してくれたからなのだろうか。
「足跡はここで全て終わっている。おそらく、これで全部だろう」
「そっか。それにしてもリネットって本当に強いよな。流石は騎士団のリーダーってだけはあるよ。追いかけてた時だって、全然息を切らしてなかったし。皆がリネットを頼る理由も分かる気がするな」
「そ、そうか? まあ、騎士団のリーダーを任されている身として強いのは当然のことだ」
リネットが目を逸らした。頬も少し赤みを帯びてきている。
彼女のこんな表情を見たのは初めてだった。
意外に褒めると調子に乗りやすいタイプなのかもな。
今日はなかなかの収穫と言っていいだろう。
「ゴホン! それより巡回の続きだ」
青いポニーテールを左右にちょこちょこ揺らしながら、リネットが先に行く。
「りょうか――――ッ! リネット!」
横から突然大きな影が現れたと思ったら、その巨体はリネットの後ろから背中を斬りつけるように先程のゴブリンが持っていた槍と同じものを振るってきた。
ちっ! まだいたのかよ!
「なんだ急に」
リネットが声に反応して振り返ろうとする。
このままだと本能が間に合わないと告げていた。ヒロインを見殺しにするなんて選択肢はあるはずもない。
気が付けば限界だと思っていた俺の足は走り出し、必死にリネットに向かって手を伸ばしていた。
こいつ、雨が降る前から出てきてやがったのか!
くそぉー! 頼む! 届いてくれ!
「声を上げ――うわっ!」
届いた!
リネットを前に押したと同時に、鋭い痛みに襲われ、意識が吹っ飛びかける。
「――――ッ! ぐはっ」
「スルガ!」
はは……俺の名前覚えてなかったわけじゃなかったんだな……。
それにしても俺って、こっちきてもこんなのばっかだな。レイラを庇って矢を撃たれたり、狼みたいな魔物の餌になりかけたり……。
腹を押さえた右手はすっかり血に染まっていた。
「おい、――ルガ! しっか――死ぬ――!」
段々意識が薄れてくる。焦点も定まらない視界の中で俺に必死で呼びかけるリネットの声が途切れ途切れ耳に入ってきた。
まあ、女の子を助けて死ぬんだったら本望だよな……。
目の前の少女が無事にこの場を乗り切ることを祈る。俺にできたのはそこまでだった。
ん……なんだ……?
『頼む! 目を開けてくれ! 頼む!』
誰だ……この声……。
脳に直接語りかけてくるようなこの感覚……レイラか?
口内に温かい何かが流れてくる感覚がした。
「ん……んあ……」
確か俺はリネットの身代わりになって――ってことは俺死んだのか? ここは天国なのか?
『お願いだ……目を覚ましてくれ……』
重かった瞼を開いてみる。
「んん……はあ、ん……――ッ!」
目前にはリネットの顔があった。
リネットは煙が出る勢いで顔を赤くさせる。そんな彼女の目元は涙で濡れていた。
え? てか、これって……。
彼女の顔は目前にある。少し体を起こすだけで唇と唇が当たってしまいそうな距離。
そして俺の唇にはさっきまで仄かに温かく、柔らかい感触が当たっているような気がした。
「あ、あわ、こ、これはだな、その」
開いた両手を必死で左右に振るこの反応を見て確信した。
生まれてから31年。ついに俺は、異性とキスをしてしまったらしい。
初めてを奪われた瞬間を見られなかったのが心残りのような気はするが、まあ意識があったらそれはそれで俺の心臓がもたなかったかもしれないから結果オーライということにしておこう。
今の俺はリネットに覆いかぶさられているわけで、男と女がこの状況で思い当たる台詞は一つしかなかった。
「優しくしてね?」
「ん――――――ッ!」
バチンッ!
静寂な森の中で、リネットのビンタの音だけが響き渡った。
「いってぇ~。何も叩くことはないだろ。冗談くらい受け流してくれよ」
手跡が付いた頬を擦る。リネットの本気のビンタはそこらの男どもより破壊力があった。
俺だって突然の事で何が起こっていたか分からなかったし、緊張でうまく思考がまとまらなかっただけだ。だから、その辺は勘弁してほしいものだが。
「冗談で済ませられるか! ばか者!」
リネットの怒りは治まりそうになかった。その証拠に槍の先端をずっとこっちに向けている。
あんまり怒らせると、これ、いつか当たるんじゃないか……。
余計なことを言わないようにと、口を出さないようにする。
奇襲を仕掛けてきた豚みたいな顔のデカいモンスターは俺が寝ている間にリネットが倒したらしく、奥の方で黒焦げになり、横たわっている。
結局さっきのはなんだったのだろうか。
つい、リネットの口元だけを凝視してしまう。
さっきまであの唇が本当に俺の唇に。
「あまりジロジロとこっちを見るなー! あれは深い意味があったわけじゃなくてお前がだな……」
リネットは自分の口元を隠すように槍を持っていない左手で覆いながら、こっちを睨みつけてくる。
そして槍を持っている手を上に挙げると、そのまま地面に突き刺した。
「ひぃぃ!」
おい! 必死で庇った恩人にこの仕打ちですか? まだ思い通りに身体が動かないから良かったものの、次、当たったら本当に死ぬ自信あるからね?
リネットがゴホンとわざとらしく咳払いをする。
「私は治癒系の魔法が使えないんだ。それなのにお前があんな無理をするから、その仕方なくだな……」
ほお~。ふ~ん。仕方なく、ね。
ザァァ――。
ひぃぃ!
リネットは突き刺していた槍を地面を掘るようにグリグリと捻った。
それはまるで次に変なことをすれば、命はないとでも言うかのように。
「ちょっと待て! 今の俺なんも悪くな――」
「顔がニヤついていた」
とても理不尽な理由だった。
「はい。以後、気を付けます」
見下されているこの状況はどっちが上なのか分かりやすく示してくれている。
従順な態度のおかげか、リネットの槍の動きも止まった。
「話を戻す」
そう言ったリネットの表情には先程まで見られらた『テレ』の部分が消失していた。
「治癒系の魔法が使えないから、お前自身の治癒力を高めるために仕方なく私の血をお前に飲ませた」
恥じらいをどこかに置いてきてしまったリネットが淡々と早口で語り終える。
口元を見ると下唇が僅かに切れていた。
せっかくの綺麗な唇を俺なんかの為に……。
「――――ッ!」
何故か急に再びリネットの表情に『テレ』が宿り始めた。
「綺麗って……そんな……」
「あ……」
そういえば、さっきリネットは助ける為に俺に血を飲ませたと言っていた。
これは、あれか。副作用ってやつか。起きる前にも頭の中から語りかけられてるような感覚したし。
「き、綺麗で……凛々しくて……つ、強いとか……」
いやいや、言ってない。そこまで言ってないから!
リネットの身体がプルプルと震え嫌な予感がした。顔なんか元の色が分からないくらい真っ赤になっている。
これでは何を言っても聞いてくれそうにないのは見て明らかだ。
リネットが槍から離した右手を後ろに引いた。
「へ?」
「や、やめろー!」
照れ隠しに放たれたリネットの容赦ない右ストレートは最初にマーキングされた手跡に吸い込まれるような軌跡を描く。
やめろぉおおおおおおおおっ!
こうして俺の意識はまたしても助けた青髪の少女によって刈り取られることになった。