また明日
泣き疲れた酔夜を経て、珍しく夢見なくその朝を迎えた。朝日の心地よさを感じながら目が開かないのはどういうことか。まるで糊を塗られたように瞼はかぴかぴと煮汁の残渣のごとくこびりついているのである。
紙やすりの代わりに袖で擦るとぼろぼろと目元に少々の痛みを伴ってようやく刮ぎ落とした。目を開けて見るとそこは何ら変化のない天井があった。窓から差し込む朝日が頭を温める頃合いならば、そろそろ起き出さなければならない。
だが、あえて、寝返りを打った勝は、なんとか本日が昨日に戻るまいかと意気地なく布団に潜るのであった。
かぎりなく愛おしい指の形、少女の情操に触れて一段と沸き上がる想いを抱いて眠ろうと試みたのだ。壊れそうな想いを抱いて、もう一度浅く微睡む。
「起きなさい、遅刻するわよ」
そう言って布団を引っ剥がされた勝は、不本意ながらも居間へ向かった。
もちろん朝餉はすでに用意されており、母は鉛筆を走らせ何やらしたためていた。
「手紙か」
顔を洗い、制服に着替えてからちゃぶ台の前に腰を降ろした勝は「いただきます」と合唱してから母にそう聞いた。
「お見送りに行かせてもらえるよう、手紙をしたためておいたから、朝一番に橘先生に渡しなさい」
そう言いながら母は茶封筒に書面を入れて勝に差した。
「俺、見送り行かないから、いらない」
「どうして」
咲恵は驚いた表情の後、眉を顰めた。
「桜と約束したんだ、指切りもしたし……」
もしや、母に諭してほしかったのかもしれない。勝は知らずのうちに声を荒げてしまっていた。
「桜ちゃんとの約束を守る守らないは勝君が決めなさい。お母さんならその約束は必ず破ります」
桜の心中に思いを巡らせたのだろうか、咲恵は少し瞼を閉じてから静かにそういったのである。
「……」
「勝君。約束は大切です。でもね、自分が後悔をする約束はしてはいけないわ。勝君はこのまま桜ちゃんと最後にお別れしないで後悔しない?約束を破って桜ちゃんに会って後悔するのと、約束を守って桜ちゃんと会わずに後悔するのとは、全然ちがうのよ」
「……」
「とにかくお母さんはお見送りに行きます。昨日桜ちゃんに〝絶対に帰っておいでなさい〟って言い忘れてしまったもの、お母さんは後悔するくらいなら桜ちゃんに嫌われます」
箸を止めて母の話に耳を傾けていた勝であったが、終始無言であり、何一つ反論することができなかった。
約束とは誠に厄介である。
いつもより遅く登校することになった。「御手紙、鞄の中に入れておくからね」と軽い鞄の中に弁当と一緒に手紙を入れる母。
勝はさらに無言でその鞄を持って家を出たのである。
戸を閉める間際、板間に立つ母の顔を見た。別段何を言うでもなく化粧気がないくせに端正な顔立ちは健在である。何を期待していたのやらと勝は力無く戸を閉めると、小道へと足を踏み出したのである。
「おはよ、勝ちゃん」
角に景が立っていた。景は勝と出会い頭に目元を指で拭ってそう言った。
「おはよ。朝練どうしたんだよ」
「こんな顔で朝練なんか行けないわよ」
目元は赤く、瞳とて兎のようである。確かに酷い顔であると、勝は口もとを綻ばした。
「景は泣き虫だな」
「うるさいわね」
勝と景は並んで通学路を歩く。二人きりで登校するのは久方ぶりであろう。時折鼻をすする景を横目で見ながら、勝はいたしかなしと放っておいた。いつもなら『泣くな』と苛立ちを見せるのだが、事情は斟酌してあまりある。勝が泣けない分を景が代弁してくれていると思えば心持ちとて随分と軽くなる。
「はあ、なんで今日みたいな日に体育があるのかな」
「景の得意なソフトボールだろ」
「そうだけど、それとこれとは別よ」
国道から坂道に差し掛かると、同級生の目を気にしてか、景は泣くのを堪えて「そんな気分じゃないの」と体操着に着替えることすらも億劫【おっくう】であると溜息をついた。
「それで、いつ見送りに行く?早い目に行かないとね」
「うるさい」
咄嗟に言ってしまったのである。
「うるさいってなによ」
口を尖らせる景。勝はそんな景に「見送りに行かないから」と冷淡に言ってのけたのだった。
「なんでよ。どうして?私たち友達じゃない」
「行かないもんは行かないんだ」
視線をも逸らしてぶっきらぼうに言う勝。
「勝ちゃんらしくないよ。桜のこと嫌いなの?あんなに仲良しだったのに、最後のお別れもしないなんて、酷いよ。私、勝ちゃんのこと見損なった」
腹に据えかねた景は、勝の前に立ちはだかり、面と向かって勝にはっきりと述べた。
「信じらんない」と最後には吐き捨てるように憤慨の言葉も忘れない。
これに対して勝は母の時と同様に沈黙で受け流す構えであったが、母と異なった点は相手が幼なじみの景であったと言うこと……
「桜が見送りにくんなって言ったんだ。指切りまでしたんだぞ。いまさら行けるかよっ!何も知らないくせに偉そうに言うな」
勝は憤懣【ふんまん】して景に顔を寄せ、傍目も気にせず声を張り上げたのである。怒りに火照る顔を悲痛な表情で見つめていた景は、まるで暴漢に襲われんとする幼子のように瞳が怯えていた。
そんな景の瞳を見て、冷や水を浴びせられた勝は「わるい」と景から数歩後ずさった。「そうよ。私は勝ちゃんほどは知らないけど……そんな言い方しなくたって……私だって桜の友達だもん……」
見る見る間に表情を崩した景はわなわなと大粒の涙を滴らせて泣き出してしまった。
急に泣き出した少女に同じ制服を着た生徒たちが好奇の視線を向けて通り過ぎて行く。低学年は喧嘩だろうと、三年生は痴情の縺れかと、それぞれに興味を注ぐのである。
だからと言うわけではなかったが、勝はこともあろうに泣きじゃくる景を一人残して駆けだしてしまったのであった。
○
何をしているのだろうか。己の葛藤に呵責を起こし、こともあろうに幼なじみに八つ当たって泣かせてしまった。その上、その身をほったらかして一人教室へ逃げ込んだのである。まことに最低な男である。
勝がそのように忸怩と机に突っ伏していた頃、教壇に立った橘先生が『突然のことなんですが、石切坂 桜さんがお父様のお仕事の都合で、本日転校することになりました。最後に皆さんと会うことができませんでしたが、どうか、みんな石切坂さんのことを忘れないで下さいね』と桜の転校を公表している最中であった。
痛いほど知りおいている以上は改めて耳をかす必要はあるまい。
ふて腐れる一席を除いて空前の盛り上がりを見せていた黒髪の乙女の突然の転校は、可憐な乙女へ淡い桃色心を抱きかけていた諸々の男子たちは一斉に溜息を漏らし、一様に頭を垂れてから勝と同じくふて腐れもう花も実もないと机に突っ伏したのである。
その中に一郎の姿があったのには、勝も少し驚いた。
その点、女子の反応は穏やかそのものであった。石切坂 桜は転入当日に宣言した通り、同性の異性、区別なく自分から接しようとせず、例え話しかけられようとも頑なに沈黙を貫いていたのである。
桃色を咲かせ一方的に鮮やかな好意を抱く男子どもとは違い、別段接さざるは接さずと女子は桜が転校したとて意に介さぬ様子であった。それでも、教室内どよめいたことは言うまでもない。
落胆冷めやらぬも、事情を知らぬ数学教諭は何ごともなかったかのように、授業を開始する。
渋々頭を上げる者どもの中にあって勝は一人机に横顔をひっつけたまま主不在の机を見つめていた。このようにして桜の姿を眺めるのは珍しいことではなかった。最後尾と言う立地のよさを生かして睡眠を貪るのである。眠ってさえいれば長く感じる授業とて瞬く間に終わってしまうからである。
板書の音を子守歌に形の良い桜の横顔を肴にとろけて行く勝を横目に見ると、桜は決まって『寝ちゃだめ』『おきなさい』『おばさまに言いつけるよ』などと叱咤激励をノートの余白に鉛筆で書いて勝に見せるのだった。
まことに約束とは厄介である。
約束したからには守らなければならない。もとい守ってしかるべきである。それも桜と交わす最後の約束なのである……
これを破って見送りに行けば桜は自分のことを軽蔑して嫌うだろうか。今生の別れとなってしまうかもしれないのだ。できることならば、良い思い出だけを胸に焼き付けておきたい。
相克のきわ、素直になるならば、単純に勝は桜に嫌われたくなかったのである。
母は『……後悔するくらいなら桜ちゃんに嫌われます』と言い景とて友愛の極み、見送りに行かないのは殺生な仕打ちであると言わんばかりであった。恐らく、双方共に正しい主張であろう。仮に拒絶されようとも、嫌われようとも、見送りには行くべきなのだ。心内には決まっているのだが、『私、勝ちゃんのこと信じてるから』と言った桜の顔が浮かんでくるのである。そんな風に言われてしまったならば、裏切りたくないと思うのが心情と言うものではあるまいか。そんな勝の葛藤を全て景に八つ当たらせたのだ。
勝は呼吸と同じだけ溜息を吐き、教室の掛け時計を見るたびに、不安を湧き立たせるのであった。
煩悶としたまま、いくつかの授業が終わり。落ち着かない勝は渡り廊下へ行き、校門付近を眺めていた。下駄箱からは体育へ向かう景の姿が見える。
そう言えば、あの校門のところで転入して間もない桜は森田 明美に言いがかりをつけられていた。思えばよく素通りしなかったものだと、内心で自分を褒めた。この行為がなければ桜は自分に心を開いてくれなかったかもしれないのだ。
チャイムが鳴り、短い休み時間は終わりを告げる。
振り返り際、校門の前に珍しくタクシーが止まったのが見えたが、気にせず、そのまま視線を廊下に向けた。
蘇るのは桜に言い寄った上級生とそれに抗う少女の姿である。
勝は教室に戻ると、鞄を開けて母が忍ばせた封筒を手に取った。時計を見やるに、この瞬間に駆け出さなければ間に合わないだろう。
再び力無く机に顔を置いて隣の席を見つめる。不思議であった。朧気ながら桜の姿が浮かびあがるのである。目を擦ってみても、それは消えない。
寂しげな表情を浮かべる桜。俯いたまま、勝と目線を合わせようとしない。幻であっても目を背けられるのか、と勝は苦笑した。
「桜」
勝は呟いた。
すると、少女はようやく顔を上げ、勝の顔を見て微笑んだのである。これには勝とて首を傾げた。そして、桜は目線を机から投げ出した腕の先へとゆっくりと移動させるのだ。まるで、逡巡する勝に何かを伝えるように……
勝が視線の先を見ると、そこには茶封筒があった。
勝は上体を起こして桜の顔を見やった。桜は驚いた表情の勝に、声は出さずともその意思をつたえる為に深く頷いたのである。
折しも、橘先生が教室へ入って来たのと時を同じくして勝は徐に立ち上がった。そして封筒を机の上に置くと、ほぞを固めて教室を飛び出したのである。
約束を破るのは心苦しい。しかし、やはり桜と最後に会えないのは絶対に悔しいのである。必ず後悔する、桜との約束を堅実に守った、と言い訳で誤魔化してみても後悔が先に立つはずがない。絶対に後悔すると確固たる自信がある。
今までもそうであった。くだらない意地を男気と正義漢であると思い込んでしこたま後悔してきたのだ。
今朝とてそうだ。情けないかな、最後の最後まで母に背を押してもらい本意でないながら……と、自分に言い訳をしようとしていたのだ。未だに母に導かれねば道を決められぬなど、涙が出るほど情けない!
橘先生から桜がいずれ転校してしまう旨を桜自身から述懐を聞いて心はすでに決まっていたにも関わらず、一時の感情に翻弄され危うく一生涯の後悔を胸に焼き付けるところであった。勝は自分自身で決めた。仮に桜に嫌われようとも知ったことではない。己が正しいと掲げた錦の御旗が桜との縁を紡いでくれた言うのであれば、錦の御旗に縁を紐解くもよかろう。
針など縫い針でも釣り針でも何でも持って来ればいい。千本でも万本でも飲み干してやる!
廊下を疾走する勝は背中に橘先生の声が投げ掛けられたのもの意に介さず、勝は一目散に下駄箱へ駆けた。乱暴に靴を履いた勝が玄関を飛び出すと、そこには大切そうに胸元で大きな茶封筒を抱いた、折笠 響子とその後ろに母の姿があった。
「なんで」
勝は思わず足を止めてしまった。
「遅くなってごめんなさい。まだ船に間に合うと思うから」
勝に駆け寄った響子は封筒を勝に押しつけると、「本当にごめんなさい」と頭を下げたのである。 封筒には郵送するつもりだったのだろう。『筒串 勝 様』と宛名、住所が書かれてあったが、切っては貼られていない。
「勝君」
響子の横に並んだ母は強い眼光でそう言った。
「当たり前だろ」
勝は母の言わんとすることを汲み取って、そう答えると、封筒を脇に挟んでグランドへ向けて全力疾走したのである。
グランドでは授業前の準備体操が行われており、幸いにして教員の姿は見当たらなかった。
「けぇーいっ!」
勝は恥も外聞も明後日に全力で投擲して、体操の一団の中へ闖入【ちんにゅう】すると顔を赤らめる景の手を取ってグランドの端にある通用口へ向かって駆け出したのである。
「ちょっと、勝ちゃんっ」
「写真が届いたんだ、これから桜に届けに行く」
走りながら、そう言った勝は景の返事を待たずに手を放して金網張りの通用口を蹴破った。
「お前らどこへ行く気だっ!」
外に出るところで担当教諭の怒号が聞こえたが、「お腹いたいので保健室に行きます!」と景が適当にあしらい。「そっちに保健室があるか!ばかもの!」と体育教諭は追いかけて来るのであったが、
「早く行きましょ」
と景と勝は振り返ることなく、連れだって桟橋を目指したのであった。
○
片息でなお駆ける二人。国道を曲がったところで、咲恵と響子が乗ったタクシーが二人に並び、「お乗りなさい」と母が声を掛けたが、「先に行って引き留めといてくれ」とタクシーを先に走らせた。
その刹那、「勝ちゃん船」景が海原を指さして叫んだ。
水平線よりも波打ち際にずっと近いところに、黒鉛を上げて海上を進む定期船が見えたのである。頃合いからして、桜はあの船に乗るだろう。
顔を顰めた勝はさらに膝を高く上げて地面を思い切り蹴り上げる。
空き地を過ぎて、船はすでに見えなくなっていた。視界に入る景は涙を浮かべ、嗚咽やら片息やらでしどろもどろになってしまっている。
公園を過ぎ緩やかに曲がったところで、民家の間から桟橋がかいま見えた。先に到着している咲恵と響子に向かって桜の肩に手を置いて会釈をする良介の姿が見えた。赤いカチューシャをした黒髪の乙女は悄然と俯いている。
まだ間に合う。桜に伝えたいのだ最後に会って伝えたいのだ『また明日……』と。焼き付きそうな肺にさらに鞭打って走る続ける二人。次ぎに三叉路を過ぎて船着き場の駐車場へ駆け込んだ時には桜がすでに船に乗り込み、船が徐々に桟橋から離れていくところであった。
間髪入れず桟橋へ滑り込んだ二人。呼吸を落ち着かせるなどもはや眼中にない。
景は桟橋に倒れ込むよう膝をついて号泣しながら荒い息を無理矢理押しつぶして「さくらぁーっ!絶対また会うんだからねぇ!」と何度も何度も声が裏返るまで叫び続けた。
「景ちゃん……勝ちゃんまで……約束したのに……」
桜の頬を一筋の涙が伝った。
「千本でも万本でも飲んでやる!俺は約束破っても桜に会いたかったっ!」
「本当は!わたしも勝ちゃんに会いたかった!」
昇降口から身を乗り出して言う桜。嬉しい涙に号泣であった。
「桜っ!写真できたんだっ!」
封筒を掲げて勝が言う。
「ありがとうでも。もういいっ。みんなに会えたから!」
遠のいて行く船。封筒を桜に届けるには勝の腕では短すぎる。勝の頭の中に走馬燈のように後悔が過ぎていった。振り向くと母も響子も一様に涙をみせながら肩を落としている。もしも、あの時タクシーに乗っていれば、この封筒を母に託していれば……桜の手元に写真があったはずなのだ。
「なにくそぉ」
勝はすでに諦めた大人を尻目に全てを払拭するべく、自身の中に眠る錦の御旗に最後の賭けに打ってでよ!と突き動かされたのである。
失敗しても後悔、このままでも後悔。なればその後悔に抗ってみせようではないか。
筒串 勝。 一世一代の大勝負なのだ。
勝は桟橋の端まで戻ると、離れ行く船に向かって猛然と鉄板を蹴った。足はまるで一本の鉛の棒のように重く筋肉が軋むようであったが、足が千切れるぬかぎりは機関車がごとく疾走は何人にも止めさせまい。
「勝ちゃん、もういいから!」
船からそんな桜の声が聞こえた。
そうだ、桜は優しい乙女なのだ。そうやってすぐに我慢する強い乙女だ。だが、そんな乙女が涙を流している。これを救えるのは我が手中にある封筒と我が気概のみ。途中けつまずいたが、なんとか立て直し、目を丸める母と響子の前を走り抜けた。
そして、鉄板の切れ端から大きく飛んだのである。
不思議と全ての時間が穏やかに流れているように感じた。自分は海上に飛翔し、何かを叫ぶ桜は船体に膝をついて精一杯腕を伸ばしている。それでも勝の目線は急に海面へ近づいて行く。このままでは桜の腕には届かない。
「受け取れよ!」
海面に片腕が触れる間際、勝はやけくそに封筒を船に向かって投げたのである。どのように投げ方をしたのかさえ覚えていないが、海に飛び込む間際、四方手裏剣のごとく滑らかに船体へ向かう封筒が見えた……
その後は派手に海水の中であった。体勢は頭からであり下が地面であったならあわや大惨事であった。
無我夢中で水面から顔を出した勝。
「ありがとう勝ちゃんっ!景ちゃん!おばさま!絶対絶対に忘れないから!」
そう言いながら手を振る桜、その手にはしっかりと封筒が握られてあった。
勝はそれを確認すると、あわや気が遠くなり海に沈むところ……
そんな折、潮騒と船のエンジン音の間から微かに「さようなら……」と……
「違うっ!また明日だろ!また明日な桜ぁっ!」
勝は意識を鋭敏とし、水面下で手足でもがきながら、桜に向けて叫んだ。そう桜に伝えたかったことを。
「うんっ。また明日ね、勝ちゃんっ!また明日ね景ちゃん。おばさま必ず帰ってきます!」
桜の声は水平線へと進む船と共に遠のき、やがて見えなくなってしまった。それでも誰一人その場を離れようとしなかったのである。まるで台本のない寸劇の余韻を味わっているかのように…………
○
石切坂 桜が転校して来たのは、折しも、春一番が吹き去った後のことであった。雪の様に肌が白く、整った顔の輪郭には柳眉に大きな瞳、小さな鼻翼とおちょぼ口がバランス良く収められており、黒く切り揃えられた前髪と背中に及ぶ長髪は、アイロンを当てた様に真っ直ぐと伸びていた。
スカートから伸びる小股が切れ上がった足と細く繊細な指は、まさに容姿端麗を絵に描いたよう…………
突如として現れたそんな黒髪の乙女に勝は生まれてはじめて鼓動を高鳴らせ、胸を熱くした比類なき日のことはなお鮮明に覚えている。
そして、言ったのだ。
「私は友達なんていりません、だから仲良くしないでください」と。
桜は言った、さよならの痛みはずっと消えない。だから、誰とも話さないと決めたと。
勝ははじめてその痛みを知った。
止め処なく湧き立つ感情にどうにかなりそうなくせに、体はからは力がどんどんと抜けて行くのである。
そう、目から止め処なく溢れ出る涙のように……
桜と笑った日、怒らせた日、胸をときめかせた日、桜が隣にいた日々が走馬燈のように蘇っては消えて行く。あらためて勝は願った。これが夢であって欲しい。どんな悪夢にでも耐えうるであろう。これほど残酷で辛い夢はない……
勝が見た夢。桜がいて母がいて景がいて……そして自分が居る。遠のいて行く桜の姿。人が描く夢とは、書けば儚いと表す。
儚くとも夢を描くのは人に生まれた嵯峨。永久を望むも人に生まれた嵯峨なのだろう。
しかし、勝は気が付いた、悲しい気持ちの中にある一握りの温かいものがあることを……それは『思い出』。
目を閉じれば目の前に桜がいる。
涙が一粒つたう度に心に繋がる光明が今ここに見えた気がした。
いつかきっと出逢える。この気持ちはやがて夢のように覚め行くことだろう。目が覚めるその日まで忘れないでいようと心に誓った。
そして願い事を一つ。
遠いまた明日で、逢えますように……
終わり