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濡れ狐と狸  作者: 畑々 端子
3/7

甘える勇気

 日を追うごとに温かくなってゆく。神社の桜もすでに五分咲きであり、蕗の薹は終わり、つくしが我先にと競って畦道一面に伸びている。そんな春を肌身で感じられる時節。例外なく、勝は自堕落に睡眠を貪っていた。


 行ってきます。桜の声が聞こえた。


 しかし、春休みの昨今学校に行くわけでもなく、桜は何処へ行こうというのだ。勝は夢うつつと、寝返りを打った。


 やがて、ご飯の炊ける芳しい香りが鼻腔を擽り、そろそろ朝餉だろうと、起き出すか否か思慮したものの、味噌汁の匂いがするまで寝転がっていようと、再び寝返りを打つ。


 次に朧気な意識が戻った頃にはしっかり味噌汁の香りもしていたし、「ただいま」と桜が帰って来た所であった。


 と言うことは、先程聞いた『行ってきます』は空耳ではなかったのかと、どうでも良いことを考えた勝。


「桜ちゃん勝君、起こして来て頂戴、呼んで起きなかったら蹴飛ばしてもいいからねぇ」


 なんと言う母親であろうか。


「勝ちゃん起きて、朝ご飯だよ」


 畳みを踏みつける振動と足音が近づき、やがて勝の枕元で止まった。


「はいよぉ」 


 その実態は狸寝入り。寝ているように見えて、すでに覚醒していたのである……その体でそう言いつつ目を開けた勝。


「うわっ!」


 勝の瞳の写った今日最初の風景は、赤い林檎のアップリケの施された白い生地であった。


「どうかしたの?」 





 首を傾げる桜……


「桜もアップリケパンツ履いてんのかよ」


 愚行以外に考えられない発言であった。


「えっ!」


 桜は慌ててスカートを押さえると、顔を見る見る赤くして口元をきゅっと閉めて、座り込んでしまった。


「あ」 


 寝起きとは言え今更ながら、災いを呼び込む己が口の悪さに後悔したが、それはもはや後の祭りなのである。


 桜は俯いてわなわなと震えていたが、やがて、両手で顔を隠して居間へ駆けて行ってしまった。景であったなら、なんだかんだと叫んだ挙げ句、枕辺りで殴り掛かって来たことだろう。恥じらうのみとはなんとも可愛らしい乙女だろうか。


 しかし、それは勝の安易な油断であり、台所には……転じて居間には景以上に厄介な女性がいたのである。


「勝君っ!」


 咲恵の咆哮が聞こえるや否や、勝は縁側に難を逃れるべく、慌てて、戸を開けた。


 だが、もう一歩と言うところで、咲恵の手がしっかりと勝の襟首を捉えたのである。


「そこに座りなさい」


 項垂れて正座する勝。寝起きとは言えこんなにも咲恵が俊足であろうとは、正直に侮って居た。


「こそこそ女の子のパンツを覗くなんて卑怯です。男の子がすることではありません!」


 力無く顔を上げた勝は、普段と出で立ちの異なる咲恵を見た。


 白のブラウスの上には艶ある葡萄酒赤のワンピース。胸元は布を縫い縮めて寄せた細長い折り目が施されており、その上に同色のリボンが装飾してあった。


 余所行きの一着、咲恵の唯一の洋服である。どうりで俊足なのだと勝は再び項垂れた。


「男の子なら、堂々とスカートを捲りなさい!」


 はぁ?、と勝は間抜けな声を出した。


 咲恵の言葉に耳を傾けていた桜も、駆け寄って信じられないと言う顔をしていた。


「勝太郎さんには私も随分スカート捲りされたものだわぁ」


 母は頬を桃色に染め、その頬に片手を添えて視線を空へ泳がせた。


「わかった勝君!」


 真面目な表情に戻って勝に問う咲恵。


 桜は訳がわからず口を開け当惑したままである。そんな桜がいる手前、勝は頷く事さえ躊躇したが……


「返事は?」


 との母の一声に、


「……はい……」


 と言ってしまった。


「それじゃあ、朝餉にしましょ」


 それだけ言うとさっさと居間へ戻っていく母。


 残された二人は気まずいことこの上なく、取り立てて勝には居心地の悪ささえ感じ、許しを請う意味で桜を見上げた。


 しかし、桜は何を勘違いしたのか、数歩後ずさったかと思うと、徐に両手をスカートに当て、明らかに防御体勢を取ったのである。


 そんな……。と勝は両手を畳みについて大きな溜息をついたのだった。




      ○




 柱時計を見やると、皮肉にも春休み以前とまったく同じ時刻を長身と短針が指し示していたのである。春休み時間を適応するべきであると、勝は箸を持ったままぼぉーっとしていた。


「勝君ゆっくりと急いで食べてね」


 どことなく落ち着かない咲恵は、朝餉もそこそこに洗濯物やら台所の片付けに取り掛かっている。


「勝ちゃん、このお皿さげるよ」


 それを言えば桜とて同様である。服装こそ平日と代わり映えしないものの、やはり、落ち着きが見当たらない。


「勝君お布団は自分で畳んでね」 


 早々と掃除を始める咲恵。


 まだ食べてる!、と茶碗を持って立ち上がると、言うと「急いでるの」と逆に怒られた……


「今日はどうしたんだ?」


 興ざめだと、おかわりを諦めた勝が桜の元へ食器を持って行く途中言うと。


「勝ちゃん忘れたの?今日はデパートにっデパートに!行くんだよ!」


 握った御玉杓子を振るわせて、興奮気味に桜は話した。


「あーそうだったっけな……」


 勝は「忘れてた」と箸で頭を掻いた……


 思い起こせば数日前である。


 咲恵が待ちに待った勝太郎からの手紙が届いたのである。その封筒には母に宛られた便箋と生活費とが同封されてあり、咲恵は生活費と分明し、先んじて夫から送られた文を何度も読み返しては、それを抱き締めるのであった。


 次に、同封された生活費は仏壇にあげられ、勝と共に『お疲れ様でございました』と遠方にて汗を流す父に感謝とその労をねぎらうのが習慣である。


 そして最後に……


「ほらほら勝君見て見て」


 と文の最後を読ませるのであった。今回は『毎夜、優麗たる月を見上げては咲恵さんのことを愛おしく想い出しております』と記されてあった。


 父は毎月、言葉を変え手紙の最後に咲恵への想いを認めて送ってよこす。「私ってば、愛されてるのねぇ」とのろけて見せる咲恵はこの恋文をなによりも心待ちにしているのである。


 通過儀礼ともとれる儀式が終わった後、かねてからデパートへ行くと明言していた母は早速明日デパートに行こうと張り切った。


 しかし、そこで勝が「俺いかねぇよ」と咲恵の出鼻をくじいたのである。


「桜ちゃんと景とちゃんも誘って四人で行きましょうよ」


「俺は行かないし、景は明日部活だろ。桜と二人で行って来いよ」 


 勝はさらりと言ってのける。


「お買い物してお昼は食堂で食べて、またお買い物っするのよ?お昼はふわふわのオムライスなのよ?」 


 母は勝の顔を覗き込んで誘惑するように言う。


「とにかく俺は行かないし、景は部活!」


 オムライスと聞いて、勝は小揺らぎしたものの、天秤の片側にオムライスを乗せたところで果たして結果は代わらなかったのである。


「あらそっ。景ちゃんは残念ね。それじゃ桜ちゃんと行って来ます」 


 聞き分けのない勝に、咲恵はふんっと首を振って当て付けがましくそう言った。


 折しもその時、桜は衣類やらの荷物を取りに帰っており、この話しを聞いたのはその日の夕餉の時であった。


「おばさま、勝ちゃんが行かないのに本当に私が行ってもい良いんですか……」


 喜びを通り越し、当惑した様子で恐る恐る聞き返した桜の表情だけは忘れない。


「良いのよ。勝ちゃんの分まで贅沢しちゃいましょう」 


 だが、次の日は大雨であり、外出どころではなかった、次の日は町内で不幸があり、葬儀の手伝いに咲恵が行ったので、出掛けられなかった。


 結局、その後も野暮用や小用が重なったりと、蛇の生殺しのような日々が続いたのであった。





      ○


     


 そして、天気晴朗、小用事無しの本日を迎え我慢した日々がそうさせるのかデパートへ出掛けることを心待ちにしていた婦女二人は朝一番から着替えを済ませ、出発の鐘を鳴らしたくて仕方がなかったのである。


「勝君、お昼は冷蔵庫におにぎり入れてあるから、それを食べてね、夕方には帰りますから」


 履き慣れない革靴の踵に指を入れ、なんとか足を入れようと苦戦する咲恵。


「おばさまバスが来ました!」


 先に外へ出ていた、桜が伝令のように駆けて来る。


「まぁ大変。おかしいわねぇ、去年履いた時は入ったのにぃ」


「太ったんじゃね」 


 意地悪く笑って勝が言った。


「せっかくお土産買って帰ろうと思ったのに、残念だわ」


 全体重を掛け無理矢理靴に足を押し込んだ咲恵は「入った」と小さく呟くと、玄関の戸を開けたまま首を門柱と土間とを往き来させていた桜に「お待たせ」と言いながら慌ただしく家を出発したのであった。


「行ってらっしゃい」


 板間に立ち尽くす勝は開けっ放しの戸から、すでに誰もいない外へ向けてぼそっとそう言った。


 

     ◇




「危ない所だったわ」 


 間一髪間にあった咲恵と桜は、中央付近の二人掛け座席に腰を掛けた。


 桜はバスには乗り慣れていた。一座の移動はもっぱらバスなのである。


 窓の外には、陽を浴びきらきらと金色に光る波が眩しく、それを取り巻く千の波の蒼を一層引き立てていた。


 隣町へ向かうバスはやがて海沿いの国道をはずれ、桜が歩く緑ヶ丘中学校への坂道を登り始める。校門の前を通り過ぎ、住宅地を抜け勾配のきつい山道へと入って行く。見渡しの良い檸檬畑を過ぎると本格的に山である。道路に小さな落石や湧き水が垂れ流されており、枯れ枝や落ち葉とて雨ざらしである。そんな道……ガードレールの無い道路の端は切り立った崖であり、窓に額を密着させてその様子を窺う桜はだんだんと不安になって来た。


「桜ちゃんは、乗り物酔い大丈夫?」


 早めに言ってね。と咲恵はポーチから紙袋を覗かせた。


「一度も酔ったことはないですけど……今回は酔うかも……です」


 窓の外を気にして桜は言った。


「大丈夫よっ、一年に二回くらいしか落ちたりしないから」


 桜の肩をぽんぽんと叩きながら咲恵が楽観して言ったが……


「紙袋持っときます」 


 と桜はもう窓の外を見ようとしなかった。


 淡黄色のショールを折り畳み膝の上に置いた咲恵は、ひび割れた指先を気にして指同士を摺り合わせていた。


 桜はその光景を目に、自身の指先を見やる。なんと綺麗なことだろう、色こそ薄いもののふっくらと艶のある指。今一度、視線を咲恵移し、桜は恥ずかしさのあまり指先を隠すように軽く拳をつくった。


「おばさまは働き者なんですね」


 どうして?、と咲恵は首を捻ってから、


「ああ、この手ね……ありがとうって言いたいところだけど……桜ちゃん、これは〝老い〟なのよ。勝君が小さい頃は、おねしょ布団とか一日中洗濯しても、ぷっくりしてて艶々だったもの。やっぱり指先から順に来るのねぇ、年は取りたくないわ」


 涙を拭う仕草をしながら、そう語った咲恵。


 それが果たして謙遜であるのか真意なのか、それを桜は知るよしもなかった。しかし、若輩ながら同じ女性として尊敬せずにはいられなかったのである。


「やっぱりおばさまは素晴らしいです」


 そう呟いた桜に咲恵は「ありがと」と肩を抱いて、頭を擦り付けるのであった。


 幾つかのバス停を過ぎてもまだ、隣町は見えてすら来ない。窓の外にも鬱蒼と茂る森林があり、崖に沿った道はすでに終わっている。とは言え、桜は少々バスに飽きてしまった。代わり映えしない風景の連続に、悪路なのだろうひっきりなしに揺れる車体。


 後部座席から酸味のある嫌な匂いさえしてくる始末である、乗り物酔いをしたことがない桜でさえ、その自信はもはや皆無となっていた。


「桜ちゃん、窓開けてくれる?」


 顔色を青くする表情を浮かべる桜に咲恵が言う。


「はい」 


 桜が窓を持ち上げるようにして開けると、途端に流れ込む新鮮で爽やかであり、若干冷たい空気が桜の髪の毛を大袈裟に靡かせた。


「はい、桜ちゃん番」


 清々しい風を肺一杯に吸い込んで席に腰を戻した桜に咲恵が微笑みかけた。手元には白い毛糸が指に掛けてあった。


「私、あやとりはじめてめてです」


 桜は笑顔を咲かせて、どうして掛け替えたものか、「うーん」と何度も首を傾げるのであった。




     ◇◇

  


 そろそろ、デパートに到着しただろうか。


 勝は寝転んでテレビを見ならそんなことを考えていた。柱時計を見やると、大凡早すぎるだろうと腹時計具合と比べて頭を垂れた。


 時刻は朝と言うには遅く昼と言うには早い。そんな中途半端な時刻を勝は心の底から持て余し、早く夕方にならないものかと苛ついた。そして腹が減った。


 テレビを消し、台所へ向かう。ガス釜の向かい側にある食器棚の横には箪笥の様な図体と板目外装の冷蔵庫がある。レバーを握り、ドアを開けるとブリキ張りの内装に自分の顔が歪んで映り、不気味であった。魚の切り身と卵、その間に、本日の昼飯だろう握り飯の包まれた竹皮が見当たった。


 まぁいいや。勝は握り飯を取ってドアを閉める。上部の長方形のドアを開けると、小さな氷が二粒残っていた。去年の年末に氷を入れたきりなのである、致し方あるまい。


 勝はちゃぶ台の上に包みを置くと、思い切り背伸びをした。  


「ごめんくださぁい」


 聞き慣れた声である。


「景、部活はどうしたんだよ」


 板間へ歩いて行くと背中と胸元に『竹下』と縫い込まれた布を縫いつけられた練習着姿の景が戸を開けて立っていた。


「それがさぁ、監督が盲腸とかで病院行っちゃって、部活午前中のランニングだけで終わっちゃったのよぉ」


 練習になりゃしないわ。と景は続けて呆れて言った。


「盲腸?ってなんだ」


 部活の話しはともかく、聞き慣れない『盲腸』と言う言葉が気になった。


「うーん。食当たりかなんかじゃないかな?監督、牡蠣好きだし」


 指で額を突きながら、答える景。


「あーあれ下痢酷いって父さんが言ってぜ。トイレで夜明かししたって……」


 うそぉ、と眉を顰める景。


「私、牡蠣食べるのやめようかな……」


 トイレで夜明かしなど、考えただけで末恐ろしい。


「そういや、なんか用か」


「別に、えっと勝ちゃん…………じゃなくっておばさんの顔見に来たの」 


 途中から取り繕う様に早口で景が言った。


「母さん出掛けてていないぜ、夕方には帰ると思うけど」


 頭を掻きながら言う勝。


「じゃあ、勝ちゃん一人なんだ」


「おう」


「もしかして暇?」


「うん」


 やったっ、景は呟いた。


「ふーん。じゃあ、私の練習付き合ってよ、一人じゃ練習になんないし」 


 確信を持って景は言うと勝の返事を待った。


 景は勝が野球を好きであることを知っているのである。最近何かと石切坂 桜を気遣う勝。部活も忙しくおまけに教室が異なるため、顔を合わせる機会がめっきり減ってしまった昨今。しかし、『野球』と言う共通部位を景は有しているのである、華奢な体つきの桜には到底踏み入れられない領域だろうと自信すらあったのである。


「いいぜ、空き地か?」


 勝は二つ返事でこれを快諾した。暇なのである、たとえ『ソフトボール』でも野球に近ければそれで面白い。


「あー空き地は無理ね、先客が居たもの。神社にしましょ」


 道具取って来る!、と景は勝の返事を待たずに駆けだしてしまった。 





     ◇◇




 わぁ、と桜は眼前に広がる世界に目を丸めた。


 バスを降りると、そこはまるで別世界のようであった。老若男女問わず眼が回りそうなほど人々が往来し、道路には自動車に路面電車、馬車なども平然と闊歩している。通りの両側には所狭しと看板を掲げた商店が並び、呼び込みの声とてちょっとした騒音である。


「次は電車よ」


 左右を確認の後、頃合いを見計らい咲恵は桜の手を握って路面に飛び出すと、脇目も振らずに、路面電車乗り場である道路よりも階段数段分高く作られた安全帯へ向かった。


 咽せる黒鉛を巻き上げて傍らを通り過ぎるトラックや桜の後ろに並んだ、風体の悪い中年男の視線に桜は唐突に不安にかられ咲恵の背に体を密着させた。


 町の中心部であるこの場所は、桜の見て来た町並みの全てを凌駕していた。近代的な煉瓦作りの建物に、四角いコンクリート製の電信柱。空を見上げれば空に線を引いた様に張り巡らされた架線。


 それはいつしか、華やかなる都市に憧れた少女の期待を裏切り、次第に不安の色を濃くしていったのである。


「冷えた?」


「いえ、寒くないです」   


 俯いた桜を気遣った咲恵は、「あらあらこんなに冷えて」と桜を自分の前へ並ぶように促した。


 背中の恐怖を取り除かれた桜は幾分落ち着いた面持となり、前方に並ぶ女性の帯が色彩鮮やかである、と咲恵を見上げて目で指した。


 そうね、と微笑んで言う咲恵。


 そんな間があって、路面電車が『チンチン』と軽快にベルをならし、駅へ滑り込んで来たのである。


 バスを小さくした様な形の電車は乗降口が前方と後方に二箇所、合わせると四箇所あり、引き戸の様にレバーを持ってドアが開かれると、板張りの車内が桜を待っていた。


 それほど混雑していない車内には、通路中央にポールが天井から床まで伸び、座席は赤生地で統一されており、座り心地はふかふかのぽかぽか、まるで毛糸の上に座している心地であった。


 桜は触り心地の良い座席を撫でたり押したり車内を見回したりと、初めての路面電車を満喫した。


 一駅区間はいささか物足りない感のみを残し、桜は後ろ髪を引かれつつ電車を降りることになった。目前に屹立【きつりつ】と佇む建物はコンクリート造りの三階建て。中学校校舎よりは一回り小さかったが、桜は「おっきい」と声をあげるのであった。


 見上げる先には数台の円形ゴンドラがゆっくりと回転しており、更にその上空には横断幕を携えた赤色と緑色の大きな広告気球が堂々と浮遊している。


 桜はその様に一人圧倒されっぱなしであった。


「久しぶりだわぁ」


 高級感を漂わせる金淵の硝子ドアを開けながら咲恵は呟いた。


 店内には老若男女問わず、皆一様に余所行きに身を包み。特に紳士淑女の出で立ちはまさに、この場所が特別な場所であることを物語っていた。


 咲恵を見ればモダンであった。しかし、ここでは咲恵ですらも埋もれてしまうほどモダンに溢れているではないか……


 すれ違う人々は洋服が当たり前であり、磨き上げられた白いタイルにショーウィンドー、ショーケースには照明を浴びて輝く宝石の数々。天井には一面、細部に至るまで精密に描かれた鮮やかな花々が燦然と花を咲かせている。


 桜は時代錯誤の大海原に取り残された板切れのように、きょろきょろと落ち着きなくただ翻弄されていたのである。


 目前の幅広な階段さえ、手すりは金色であり、桜の足下には銀色で『Ⅰ』とタイルに刻まれてあった。


「まずはお洋服を見に行きましょう」 


 入り口から見て右側に並んだ緑色の引き戸の様な場所には取っ手はなかった。


 しかし、多くの人々がこの前で一様に緑色の上部にある半円形の文字盤を見上げているのだ。文字盤にはローマ数字でⅠ~Ⅲが刻まれ、長針の様な先端が鋭利となった物がせわしなく往復を続けている。


 待つこと数分。『チンッ』とトースターのような音と共に緑色の引き戸がアコーディオンの式に壁への中へ収まり、『一階、宝石売り場でございます』耳触りの良い声が聞こえた。『お降りのお客様優先でお願い致します』奥行きのある部屋から数人の人間が降りると、桜は咲恵の手をギュッと握り、咲恵に従ってその部屋の中へ足を踏み入れた。


『ドアが閉まります』声の主の女性は鮮やかなオレンジ色のアンサンブルスーツに身を包み、ショートヘアーに服と同色のつばが狭く浅い帽子をちょこんとのせている洋装である。『次は二階お洋服売り場でございます』女性の手元には円形のボタンが幾つかあり、必要に応じてオレンジ色に光っている。


 地震かと思う縦揺れたかと思えば、体が真上から押さえられる様な感覚の後、気持ちの悪いふんわりとした感覚が桜を襲い、そして再び地震の様に部屋の中揺れた。


『二階お洋服売り場でございます。三階へお向かいのお客様は、お降りのお客様の為、通路をお開け下さいますようお願いしたします』


 姿勢よく立ち、軽くお辞儀をした女性。


「さぁ、着いたわ」


 桜が部屋から出ると、再び緑色の引き戸が閉まった。


「あっあれ……?」 


 桜はその場で首を捻った。その場所は先程いた場所とまるで装いが異なっていたのである。あの部屋に入り出て来ただけだと言うのに、瞬時にしてまったく異なる場所へ来てしまったのである。


「桜ちゃんエレベーター初めてだったのね」


 先行する咲恵は困惑する桜にそう言いながら、小さく手招きをした。


 桜が咲恵の元へ行き、幅広い階段から、見下ろして見ると、どうだろう、先程桜が立っていた場所にあった銀色の『Ⅰ』が見当たるではないか……


「私……えっと、えれーべー?初めてです」 


 不思議、と呟いた桜は微笑む咲恵に、助けを仰いだ。


「今乗ったのがエレベーターよ。これに乗れば階段を使わなくても、上に階にも下の階にも移動することができるの。凄いでしょ?私も初めて乗った時は地震が来たと思って、勝太郎さんの腕にしがみついたものだわ」


 頬を覆う様に両手を額へやり、うっとりとなって話す咲恵……


 勝太郎さん?って……、桜はますます疑問符を頭上に並べるのであった。





     ◇◇


 


 金属バットにグローブとボール。野球道具一式を持ち出した景は空き地の前で勝と合流して、連れだって歩き始めた。


「ええっ!デパート行ったの!」


 グローブを抱えて歩く景が絶句した。


 何で言ってくんなのよぉ。と続けて肩を落とす景。


「お前、春休みずっと部活って言ってから」 


 新品に近い金属バットを肩にもたせながら勝が言った。


 そうだけど、と景はばつが悪そうに口を尖らせる。


「言葉のあやよ……」


 悔し紛れに言い直す景であった。


 っで、っと今度は低い声で言う景。


「なんで桜が一緒に行ってるわけ」


「桜、春休み中、俺ん家に泊まることになったんだ」


 勝がさらりとそこまで言うと、


「ちょっ!ちょっと今なんて言った?桜が勝ちゃん家に泊まるって?しかも春休み中?それに〝桜〟ってなんで呼び捨てなのよ!」


 色々と引っ掛かった景は、勝の言葉を遮って逆に物申した。


「俺に言われても困る、母さんと桜の父さんが決めたんだから」


 むぅ、と恨めしそうに上目遣いで言う景。


「なんで呼び捨てなのよ」


「はぁ?別にそんなのどうだって良いだろ」


「良くないっ!つい最近まで〝石切坂〟って呼んでたじゃないよ」


 食い下がる景。


「お前のことだって〝景〟って呼んでんだろ。それと同じだよ」 


「友達ってこと?」


 顔を勝に近づけて言う景。無駄に目に力が込められている。


 あぁそうだ、と勝はしつこい景に半ば投げやりに言った。


「そっかぁ、友達かぁ。そうだよねぇ」


 景はなぜか嬉しそうにはにかむと、鼻歌混じりにスキップをして「早くぅ、勝ちゃん」と手招きをした。


 勝はそんな景を訝しげに見つめ、ただ首を傾げた。驚愕したかと思えば、激昂し、しつこく食い下がった後は、鼻歌でスキップである。


「なんでそんな顔すんのよ」 


 情緒不安定を絵に描いた幼なじみは身勝手な理由をつけると、勝に向かって落ちていた木の枝を投げたが、もとより当てる算段は無かったのだろう。枝は勝を大きくそれ、側溝の中へ飛び込んで行った。


 昼時も相俟って神社からは家に帰る子ども達の姿しか見当たらず、鳥居を潜ると静寂の境内があった。


「そういやお昼だったのねぇ。しまったぁ、焼き芋食べてくればよかったぁ」


 思い出したように景はそう言うと、下腹を押さえて「お腹すいた」と低い声を出した。


 ほら、と言った勝。


「これ食えよ」


 竹皮にの包みを差し出して勝が言う。


「おにぎりっ!でもこれ勝ちゃんのでしょ……?」


 空腹の勢いに負け、握り飯を受け取った景。しかし、間をおいてから罪悪感を滲ませた。


「お前は、学校で走って来たんだろ。俺は家で寝てただけだし、腹なんか減ってねぇよ」 と素振りを始める勝。


「じゃあ、一緒に食べようよ」


 景は勝の手を取って階段まで引っ張った。


 手水舎を背中に勝と景は並んで座ると、包みを解いて三つ並んだ握り飯を間に広げる。


鳥居から望む海は凪いだ蒼。この場所から見る海は二人にとっては慣れ親しんだ風景でもあった。


「懐かしいね。ちっさい時はお弁当持って二人でよく来たよね」


 俵形に握られたおにぎりを一口ほおばって、景がしみじみと言った。


「探検に行くって言って、毎回神社に来てたもんな」


そうそう、っと景は勝に相づちを打つ。


「でも、蛇が出て来た時は本気で吃驚したわよね」 


「あぁ、お前帽子忘れて逃げてやんのな」


 勝は景の顔を指さして悪戯に笑う。


 勝ちゃんが悪いんでしょ。と景は言いながら、握り飯を口の中へ放り込んだ。


 勝の家まで逃げ帰ってから、麦わら帽子が無い事に気が付いた景は土間で座り込んで泣いてしまった。その帽子はねだりにねだって前日にようかく買って貰えた麦わら帽子だったのである。 


 夕暮れを背に、泣きじゃくる景の手を握って薄暗い神社の中を探した出来事を勝は今でも鮮明に覚えていた。幼い日の大冒険譚なのである。


「勝ちゃんご飯粒ついてるよ」


 感傷に浸っていた勝。景が不意に勝の口元に指をやってご飯粒を掠め取った。


「なっ何すんだっ」


「ご飯粒ついてたんだもん」 


 景は指についた飯粒を勝に「ほら」と見せ、それを自分の口へと運んだ。


「ありがと……残りはお前んだからな」


 中央に残った一個の握り飯。 


 景は勝の言葉を受けて、最後の握りを手に取った。


「はんぶんこ」


 景は俵握りを中央で割ると半分を勝に差し出した。


「わぁ、塩昆布だよ。見て見て」


 大好物の塩昆布の登場に興奮気味に言う景。大口を開けてひと思いに食べてしまった。


 渋々握り飯を受け取った勝は「ほんとだ」と景を見習って、豪快に口の中に押し込んだ。


 さすがに喉が詰まり掛けた勝は手水舎へ行き水を飲んでこれを回避する。


「いっぺんに食べるもんじゃないわね」


 勝に続いて景もやって来ると、柄杓に水を汲むとそれを一気に飲み飲み干して、


「よぉしっ!お腹も膨れたし、練習始めましょう!」


  背伸びと共に気合いの雄叫びを発したのだった。





     ◇◇    





 モダンなフォルムの服を全身に纏ったマネキンにトルソーの並ぶ売り場を見て回る二人。桜は乙女なのである、美しくも精錬された洋服に囲まれて目を輝かさないわけがない。気に入った服を見つけるや自分が袖を通した様子を想像して、微笑むなりしている。それをするならば、洋服の傍らに展示された帽子やバッグなどの小物さえも手に取りたい衝動にかられるのである。


「これなんて良いわねぇ」 


 そう言って咲恵が足を止めたのは純白のロングワンピースの前であった。照明に光沢を放つそれは、シンプルな作りであるが、まるでウエディングドレスのようであった。


「おばさまには似合うと思います」 


 凹凸のはっきりしたスレンダーな咲恵であるなれば十分に着こなすだろうとと桜は思った。


 そして、自分もいつかこの様な洋服に袖を通してみたいと切望した。


まぁ、と呟いた咲恵。


「うーん、でもシルクにはちょっと手が出ないわね」


 苦笑して桜にそう言った。


 さすがはデパートである、成人は言うまでもなく、子どもに至ってもみな一様に垢抜けた洋服を身に纏っている。


 それに比べて自分の身なりと言ったら…………姿見に映る自分の姿に桜は思わず肩を落としてしまった。


「うん、これにしましょう」


 桜の傍らでは咲恵が、洋服を決めた様子であった。店員を呼んだ咲恵はマネキンの来ていた服を指して「これを頂きます」と言った。


 洋服を店員に任せ、


「桜ちゃんはどれが良い?」


 と桜に微笑み掛ける。


「そんな私のはいいです」


 両手と顔をぶんぶんと振って言う桜。


 あらあら、と咲恵は困った表情作って言う。


「違うわ。買ってはあげられないけれど……。夢を見るの、桜ちゃんだってこんなお洋服が着てみたいとか、こんなお帽子被ってみたいとか、あるでしょ?」


 咲恵は当惑した表情のまま、そう話した。


「はいっ、私、夢は見てます!」


 咲恵に購入意思が無いことを知って、桜は、ぱぁっと笑顔を咲かせた。


 えっと、とハンガーに釣られた洋服を捲る様にして言う。


「少し大きめにしておいた方が長く着れるわよ。これから桜ちゃんも色々と大きくなるから」


 含んだ物言いをする咲恵……意味を汲んでか桜は「おばさまぁ」と頬を紅潮させた。


 桜は弾ませて洋服の雲海を縦横無尽に見て回った。どうせ夢なのである、それならば何を気にすることなく掲げる理想を描きたい。


 桜は鮮やかな洋服を手にとっては自身に重ねて姿見の前に立って見る。


「これいいな」


「そーねぇ。桜ちゃん肌が白いから色が強いのは勿体ないわねぇ」


 頬に手をやって真剣な眼差しで見る咲恵は桜の妥協点を簡単に翻した。


 しかし、そう言われて見れば桜の白に対して服の色が浮いて見える、大袈裟に言えば水と油のごとくである。その後も、桜が『良い』と思う物は咲恵の物言いが着いた……ロングスカートにチュニック、ブラウスにフレアースカート……


 大凡、桜の趣向に見合った物は見終わってしまった。


「お買い物って疲れるんですね」


 心地よい疲労感に包まれ始めた桜。


 そうよっ!、と咲恵は胸を張って言った。


「数多くの中から、自分に一番似合う物を見つけるのは体力がいるのよ」


 はいっ。とそれに呼応した桜。


 そんな時、桜の視線の先に映った洋服が一瞬輝いた気がした……


 桜がそこへ向かうと、ドレス調のワンピースを着たマネキンが立って居た。


 純白の生地にギャザーで絞ってふくらませたパフスリーブと袖は手首で絞られ下腕部分は空気が入っている様にふっくらとしている。腰回りには淡い桃色のリボンが巻かれ、その左側には大きな蝶々結びがワンポイントとなっている、リボンから下はプリーツ仕様のスカートとなっていた。


「あらまぁ、桜ちゃんにぴったし、きっと可愛いわぁ」


 桜は手を胸の前で手を組んで見上げて居た。


 おばさま……?傍らに居たはずの咲恵の姿が見当たらない……


「こっちよぉ」


 前方から聞こえる咲恵の声……


 桜が声を頼りに歩いて行くと、売り場が替わり咲恵の姿は帽子売り場にあった。ショーケースが目立ち、その中にはバラやマーガレットを象ったブローチや、コサージュが収められてあった。


 その中に、カチューシャのみを収めたショーケースがあり、細身のモダン型が多くを占める中に幅の広いレトロ型のカチューシャが見当たった。幅の広い形に全体を彩る緋色が飾らない上品さを漂わせていた。


「桜ちゃんこれどう思う?」


 咲恵は服に合わせつばが広く頭を収める部分の浅い帽子を被りポーズを決めた。


 似合いますけど……。と桜は言うと、同色の帽子を取って咲恵に手渡した。桜の選んだ帽子は広いつばの半分をわざと持ち上げ、マーガレットを象ったコサージュでそれが止められている。


「桜ちゃんって趣味が良いわね、びっくりしちゃった」


 これにしましょっ、と咲恵は嬉しそうに姿見の前でポーズを取っていた。


「次は桜ちゃんの〝夢〟の時間ね」


「私、もう決めてあるんです!このヘアバンドが可愛いなって」


 咲恵の裾を引っ張りショーケースの中を指さす桜。


 本当ねぇ、咲恵も控えめの色と丁寧な作りに感嘆の声をあげた。


「ついでだもの、他には何かない?」


 えっと、と言いながら桜は、目星い物は無いかと店内ぐるりと見回して見た。


「おばさま、あの人形の所にある傘が素敵だと思います」 


 桜が指さした先には鮮やかな紅色のアンブレラがマネキンの腕に掛けてあった。


「やっぱり桜ちゃんは趣味が良いわね」


 と咲恵は桜の頭を撫でながら言った。


「もしっ」


 咲恵は店員を呼ぶ。すると、


「ご用でしょうか」


 ディスプレーの装飾をしていた女性従業員が歩み寄るとお辞儀の後にそう言った。


「こちらのお帽子とそのケースの中にあるレトロカチューシャと、あの腕に掛けてある紅色の西洋傘を頂きます」


 咲恵が手慣れた仕草で商品を述べる。


 ありがとうございます。従業員はそう言うと今一度お辞儀の後、ショーケースからカチューシャを出し、マネキンから傘を取って来ると改めて、


「こちらのお品でようございますでしょうか?」


 と言った。


 はい、と端的に答えた咲恵。


 「それではこちらへ」と奥のカウンターへ案内される。カウンターの上には桜が初めて見るレジスターを備え付けられてあり、店員がボタンを押すと算盤を弾かずとも自動で演算されるらしく、果たして桜の目前で算盤を抜いた不思議なやりとりが行われたのである。


「着替えて帰りたいのだけれど、よろしいです?」


 デパートのマークが印字された紙袋へ商品を納めようとして居た店員に、咲恵が尽かさず聞いた。


「さようでございますか、でしたら、奥の試着室をお使い下さいませ」


 とカウンターより更に奥にある部屋を促して笑顔で答える従業員。


 行きましょ、と桜の手を引いて歩く咲恵。


 桜は何が起こっているのか把握できないでいた。自分は夢を見ていたはずである、なのに咲恵は自分が望んだ物を買ってしまったではないか……


「おばさま……」


 試着室へ入ると、桜が憧れた純白のドレス調ワンピースがハンガーに掛けられてあった。


「桜ちゃーん。し・ちゃ・く・よっ」


 隣で着替えている咲恵の声はどこか楽しそうである。


 桜は戸惑った。袖を通してみたい……そう思う強い気持ちの反面。袖を通してしまったならば、本当に購入することになるのではないだろうかと……


 ただでさえ、咲恵は自分に良くしてくれている。これ以上迷惑を掛けることはしたくない。


 桜は葛藤の渦中。ボタンの一つ取れたカーディガンを脱げずにいたのである……


「開けても良い?」


 弾んだ咲恵の声。


 桜はどうして良いかわからなくなった末、なぜかハンガーに掛けられて服を腕に抱いてしまった。


「開けるわよ?良い?」


 恐る恐るドアを開けた咲恵は、まず顔だけを部屋に入れた。


「あら?どうしたの、サイズが合わなかった?」


咲恵はそう言いながらドアを開けてると部屋に入り桜の前に立った。


 咲恵はすでに着替えていたのである。純白のロングワンピースである。パフスリーブ にスカートはプリーツ仕立て。腰元には同色のリボンその服は、まさに桜が選んだ洋服を彷彿とさせるデザインだったのである。唯一の相違があるとすればさりげなく裾からのぞくプリーツシフォンである。


「サテンってすっごく、肌触りいいのよぉ」  咲恵は自分の着込んだ洋服を撫でながらそう言った。


「これ本当に着ても大丈夫なんですか?」


「桜ちゃんとお揃いで、嬉しいなって思ってたのにな」 


 咲恵はスカートの端を摘んでひらひらと弄びながら上目遣いで言う。


「桜ちゃん、私のお願い。聞いてくれるでしょ?」


 最後に咲恵は笑顔でそう言うと、再びドアを閉めた。


 そう言われてしまえば、桜は咲恵の気持ちも無碍には出来ない。葛藤に終止符を打てぬまま、桜は着替えるにせざる得なかった…………


「まぁ、似合ってるわ桜ちゃんっ!綺麗。私の若い頃にそっくりだわ」


 桜が緊張の面持ちでドアを開けると、咲恵がそう言いながら桜に思い切り抱きついた。おばさま、痛い。と言いながらも桜は少し嬉しかった。


 その後、咲恵はカチューシャを桜の頭に添えると、「履いてみて」と赤い靴を足下に置いた。


 前方は丸く、甲部分にリボンが装飾されてある。見るからに可愛らしい靴であった。


 桜は言われるままに靴に足を入れる。


「指先痛い?」


「痛くないです」


 よかった、と咲恵は言い。桜の髪の毛を直したりスカートを摘んでみたりと身だしなみを整え、立ち上がると自身も姿見を見ながら帽子を直したりと、身だしなみを整えた。


「さぁ次は食堂に行きましょう!」 


 服に合わせた長絹のレースで編んだ手袋をした手で、桜の手をとった。


「えっでも……」 


 桜は罪悪感に苛まれ、とても顔を上げて歩くことが出来なかった…………





      ○





 主立ったフロアは展示スペースとして使用されている最上階。そんな中にあって一際賑わいを見せるのは『洋風食堂』である。


 アンティーク調の座席が並ぶ店内は、モダンを愛する紳士叔女から着物姿の家族連れまで、一見すれば大衆食堂の様相である。清潔感のある白と黒の給仕着のウェイトレスと燕尾服に身を包んだ支配人は雰囲気からしてそれを遠く退けていた。


 着替えを済ませた咲恵は桜を伴ってエレベーターにて最上階へ上がると食堂へ入り、席案内に窓側を所望した。


 比較的新しい窓ガラスは、大凡桜の身長を越える広さを誇り、地上三階からは町並はおろか海までもが望めた。


  湯気立つカップを口元へ運びながら、風景を満喫する咲恵。桜はテーブルクロスに視線を落としたまま、オレンジジュースの入ったグラスにストローすらへ挿せずにいた。


「おばさま……こんなのいけません」


 桜は小声で言った。


「ん?」


 薫り高い珈琲を受け皿へ置く咲恵。


「私、本当に欲しかったわけじゃ……」


 言い切れば全て嘘になる。葛藤の論決を見ぬまま、強引な咲恵に着せられた言い訳は十二分に肯定できよう。しかし、着替えた後すれ違い様に見た姿見に映る自分の姿は、まさに垢抜けた令嬢そのものであった。乙女心にそれは喜ばしく、場違いな見窄らしい過去から脱皮し羽ばたいた揚羽蝶がごとくである。


 そう言ったものの、やはり結論を先伸ばした葛藤は漏れなくやって来る。


「桜ちゃん。ダイヤモンドって知ってる?」 


 咲恵は唐突にを立ててそう言った。


 金剛石ですか?、と桜が首を傾げると。「その通り」小さく拍手をした。


「あれだけ美しい宝石もね。元々は薄汚い石ころだそうよ。それを磨いて磨いて、ようやく輝き出すの」


「石ころ……ですか……」 


 金剛石を見たことのない桜はダイヤモンドと呼称される宝石の輝きの替わりにビー玉を無闇に浮かべ、石ころは鮮明に描く事ことができた。


「そう、だから桜ちゃんも女の子として自分を磨かなければ行けないの。まずは外見。次に内面。磨きやすい方から磨いて行った方が確実だものね」


 身を乗り出してそう豪語する咲恵。


 桜は相づちを打ったが、実際にはそれが意図するところは理解できないでいた。


「例えば……」


 咲恵は隠すように入り口付近を指で示した。


 桜が目をくべると、そこでは頭の先から足先まで煌びやかに飾り立てた淑女が燕尾服の男に何やら文句をつけている真っ直中であった。


 表情には烏の足が目立ち、紅を差した口をも大きく開く姿は蝦蟇そのものである。


 桜は無言で、眉を顰めた。


 侃々諤々【かんかんがくがく】と張ろうとも、その光景は傲岸不遜【ごうかんふそん】の極みである。荒げた蝦蟇声を聞かずにすむだけまだましであると、桜は咲恵のに向かい小さく首を振って見せた。


「そう言う事。外見を研いても、中身を研かなければ駄目と言うことね。でも反対も駄目なのよっ。内側が美しくても外見も研かなければいけないの」


  カップの口を指でなぞりながらそう付け加える咲恵。


 しかし、桜は外見を研く必要を見出せない。内面の美しさの有無はきっと相手へ繋がるのである。勝は決して格好の良い男の子ではない。だが、その内面にははっきりと魅力を感じるのである。桜とて景とて思うところは相異あるまい。


 腑に落ちない桜であったが……


「女性の嗜みよ。でも桜ちゃんにはちょっと早いかな。急がなくても良いから、お手本に出来る大人を見つけて、少しずつ学んで行くと良いわ」


  刻意にして老婆心。咲恵はそう言い終わると、優しく桜に微笑みかけたのだった。


本能とは時に遺憾として強欲であり、本来あるべきはず思慮深さえも滅法に足蹴にするのである。


 目前に並べられた、雲の様にふわふわと溶けたチョコレートみたいにとろとろの装いを被せた黄色、そこにスプーンを差し込めば甘酸っぱい香りと共に顔を出すチキンライス。初見にて、そして食すその料理は上品で鮮やか、それでいて中身までしっかりと味が染み渡っていた。


 咲恵の語った理想像を安易に比喩するのであれば、『外見の美と内面の美』を兼ね備えたこの『オムライス』であろうと、桜は目を見開いて何度も頷いた。


 咲恵はそこの浅い丸皿に盛られた『びーふしちゅう』と言う聞き慣れない、料理を口へ運んでいる。皿の上にごろごろと転がっている、牛肉とニンジンを見る限り、ライスカレーを連想せざる得ない。


 しかし、ルーの色を見るや、それは紫と茶を混ぜ、それを焦がした煎じ薬の趣である。そんな奇天烈な料理を一口頂くことにしたのは、醜くきから香る芳醇で旨味の凝縮されたとかく唾液をそそる好奇ゆえである。 


「おばさま、大変ですっ。ほっぺが落ちそうです」


 咲恵から進められるままにスプーンを口に運んだ桜は絶賛して喉を鳴らして飲み込んだ。口の中で広がる濃厚な牛肉と果物類の混合。溶けてゆく牛肉。しかし、不思議と後味はあっさりとしており、飲み込んだ直後から喉が『今一度この悦楽を!』と賛美するのである。


「私も初めて食べたのだけど。美味しすぎて吃驚よね」


 頬に手をやりながら咲恵も悦に入った表情である。


 世の中にはこんなに美味な料理があるのだ。と桜はオムライスを口へ運ぶ傍ら、時折「桜ちゃん、あーんっ」と咲恵が差し出す『びーふしちゅう』においても存分に舌鼓を打ったのであった。





    ◇◇





 その頃、神社の境内では腹ごしらえを終えた勝と景子が白熱したノックを繰り広げていた。


「勝ちゃんってばっ!手加減しないでって言ってんでしょ!。練習になんない!」 


 勝へ返球して、景が吠えた。


 うるせぇっ。と勝は噛み締める様に言って全力で金属バットを振り抜く。


 芯で捉えられた白球は見た目にも、楕円形に変形し、景の手前で砂利に触れ小石を跳ね上げながらイレギュラーして、弾道を変える。


 景はそれにグローブを伸ばさず、体で止めに行く。


「うっ……」


 もう何球目だろうか……景は胸に当たって前に落ちた白球を、送球体勢で拾うと、素早く勝へ返球するのである。


 片目を閉じて、痛みを堪える景。仮に軟球であり直撃でないにしても、それを体に受ければそれ相応の打撲になりうる。


「こいやあ!」


 小刻みに肩で呼吸を始めた景は、グローブを拳で叩き気合いの雄叫びを上げる。


「怪我してもしらねぇぞっ!」


 勝とて、本気でバットを振り続けてきた。


 始めた頃は景の手前に落ちるよう、慎重にスイングしていた。


 しかし、「そんなんじゃ練習になんないっ!勝ちゃん男のくせにこんなぼてぼてしか打てないの?!」と景に心の底から罵られて、勝の眼に炎が宿ったのである。


 投げる分には自信はなかったが、打つ方ならばソフトボール部員である景であっても決して遅れは取るまいと自負していたからである。


 勝の放つ打球は疾風のごとく直線を描くかと思えば微かに軌道を変える……ゆえに砂利に触れた瞬間いずれの方向へ進路を取るのか予想出来ない。


 それに対し景は、常套手段とばかりに跳ね上がった白球を己の身を持って殺すのだ。


グローブで取った球の全ては、取り損ね後方へ転がったものだけ…………


「今日も風呂入ってけよなっ!」


 足下へ転がって来た返球を拾い上げると、間髪入れず渾身の力で白球に命を吹き込む。


 正直に言えば、勝も疲れてきていた。腰はきりきりと痛み。握力とてバットを支えるのでさえ辛い始末である。もっと言えば、今まさに張り裂けんばかりに膨らんだ肉刺が


打つたびに伝わる振動でひどく痛んだ。


 しかし、それは景とて同じことなのである。


 下腹に当たって落ちた軟球を拾うと、体全体を使ってやっと勝の足下へ転がす。


 双方共に疲労困憊なのであった。


 ここで、景が根を上げれば勝にとっては喜ばしい限りである。限界の言葉がちらつき始めた勝はそれすら望んでいたのかもしれなかった……


 すでに意地の境地。男である自分が景よりも先に弱音を吐くことなどどうして出来ようか。安い気概と笑われ痩せ我慢と罵られようとも、ここだけは譲るわけにはいかない。


一本気とは一点でも折れてしまえば将棋倒しのごとく連鎖して崩壊して行くのである。


時としてそれは妥協と言う言葉で比喩される。だが、勝の辞書のそのような言葉は存在しないのだ。


「まだまだっ!」 


 吠える景……しかし、息も荒く、下腹を押さえたままようやく立っている様子である。


「景…………行くぞっ!」


 休憩しよう……。そう言いかけた言葉を勝は飲み込んだ。


 勝がボールを拾い上げ、宙に解放する。そして、ゆっくりと落下するボールを睨み付けながら、それに向かってバットを振る。白球がバットから弾かれるのは刹那。唯一手元に残る振動だけがそれを教えてくれる……


 勝は振動の後、手の平に走った刃物で切り裂かれる様な激痛に思わずバットを落としてしまった。


 くそっ、血が滲む手の平を見て勝は舌を打った。


 不甲斐無さ過ぎる……一斉に潰れた肉刺に震える己の手見て、勝は痛々しく思いつつも、一片の情けなさを感じたのである。


「景……?おいっ、大丈夫か?!」


 バット拾い上げる前に返球が遅い事に気が付いた勝は、景へ視線を向けた……すると、額を抑えてうずくまる幼なじみの姿があるではないか。勝は景のもとへ駆け寄った。


「大丈夫。顔に当たっただけだから」


 目元を押さえる景子。


「立てるか?」 


 勝は「うん」と言った景の肩に手を添えて、神社の階段へ座らせた。


「お前ハンカチ持ってないか」 


 持ってる、と言う景はポケットからハンカチを取り出すと、勝に手渡した。


 勝はハンカチを受け取ると、手水舎へ向かいハンカチに冷水をしっかりと染みこませると握るようにして絞り、景のもとへ持ち帰った。


「ありがと……」


 勝から渡された濡れハンカチを目元へ当ててると景は「下手こいちゃった」と悪戯に笑って見せるのだった。


「ったく、心配させんなよな。目に当たったと思ったぜ」


「ごめん。髪の毛のゴムが急に切れてさ、目の前に被さるもんだから見失っちゃった」 


 言われてみれば下げ髪が解け、腰元近くまで伸びた髪が無造作に広がっていた。


「切っちまえよ。邪魔だろ」 


「それは酷いよ。だって……」


 景は急に声のトーンを下げた。


「だってなんだよ」


「それは……」


 景は指で地面に『の』の字を書きながら言葉を詰まらせる。


はぁ?、と勝は言ってから、


「〝の〟?」


 と首を傾げた。


「違うけど……もういいよ。さっ練習再開しましょ」


 景は立ち上がろうとした。


「俺は別にかまわないけど……今日はこんくらいで良いんじゃないのか」


 勝は景が望むだけ付き合ってやる心構えが出来ている。


 しかし、ボールの当たった目元は腫れ瞳が半分隠れているのだ。そんな状況でこれ以上の練習続行を中止する決断は医者でなくとも下せる。


「駄目、私は練習しなきゃ駄目なの。私は大丈夫だから……」


 泥だらけの練習着と歪んだ表情。満身創痍を絵に描いた様な幼なじみは、それでも瞳に闘志を宿してそう言った。


「景、なんか隠してんだろ?」


 座れよ。っと立ち上がった景を勝が制す。


「別に……隠してなんか……」


 景は瞳を泳がしてそう強がった。


 素直な幼なじみは幼少の頃より嘘が大変下手であった。嘘をついたり隠し事をしていると、決まって眼を泳がすのである。


 勝は知っていた景が負けず嫌いで頑固者であることを……ソフトボール部に入部したのも元々は勝が野球の仲間に入れてくれなかったことが悔しくて、『勝よりも上手くなってやる!』と意気込んだのが切っ掛けであったのだ。


 だから、一所懸命に打ち込んで努力も惜しまない。景はそんな性格の持ち主なのである……


 しかし、今回は違う。景子の瞳に宿る闘志は『高見を目指す意思』ではなく、溺れる者が盲目のまま藻掻くような、匹夫の勇に通じるそんな『窮地』が見えたのである。


「言ってみろよ」


 景は再び勝の隣に腰を降ろすと無言で俯いた。


 うん、と景は小さく言う。


「春休みの終わりに、春期新人戦の選考試合があるんだけど……私、どうしてもその試合で背番号貰わないと駄目なの……」  


「そんなに凄いのか新人戦って?」


 地方大会だよ、と景は首を大袈裟に振って答えた。


「お父ちゃんがね……スパイク送ってくれたの……これで誰よりも早く走れるって……私が背番号貰えないのは足が遅いからだって……」


 グローブを抱き締めそう言う景の声は震えていた……


「スパイクって……!」


 勝は目を見張って言った。


 景はグローブに始まり、バットにボールと男子が垂涎する道具を有している。これは全て景の父が買い与えた物であるは言うまでもない。


 しかし、スパイクまでとなると、すでにグローブすら手元に無い勝からは遠くかけ離れた次元の話しである。


「他の子はグローブだって持ってないのに、背番号もらってるんだよ。私なんて、グローブもバットもボールだって持ってる……なのに、ずっと球拾い……このままじゃきっとスパイク履いたって何も変わらない……お父ちゃん新人戦は見に行くからって。だからっ!私背番号貰わなきゃ……お父ちゃんに悪くて……こんなによくしてくれてるお父ちゃんに、私がグランドに立ってる姿を見てほしい……」


 景は涙を零してそう語った。


 落ちた滴は地面の色を濃くし、景の嗚咽と共に地中へ染みこんで行く。そんな告白を聞いた勝は安易に慰める事をしなかった。





『道具は無くとも努力でそれを越えられる』





 道具を持たぬ勝が、信じ続けて来た父の言葉。どんなに道具を揃えようとも、最後にものを言うのは己の技量。もとい、努力した結晶なのである。ゆえに、勝とてグローブを強請ろうと思わなかった。


 景とて同じである、大勢の部員の中で試合の舞台に出られるの人数はその内の一握り。


みなその舞台を目指して日々精進し鍛錬に明け暮れる。それを前に道具の有無など大した問題ではないのだ。


「私に才能があれば……」


 景はハンカチで涙を拭うとそう呟いた。


「景っ。とことん練習付き合ってやる。いつでも相手してやる。だから、そんなもんに逃げんなっ!」


 勝は激昂の様相でそう言うと、立ち上がったバットのもとへと歩き出した。


「でもっ……」


 今度は景が勝を止めようとしたが……


「うっせぇ!早く構えろっ!」


勝が檄を飛ばした。


 才能。勝の一番嫌いな言葉の一つである。天から賦与された能力。『そんなもんは糞くらえだっ!』勝は胸の内で怒鳴りちらした。


 そんなのは諦める為の口実ではなかろうか。才能がないから努力するのか……否、例え才能があろうとも努力しなければ高見を望むことなどままならない。結末として努力こそが己の才能へと導く道しるべであり、断固とした自信へと導いてくれるのである。


 勝は景の一心不乱に練習へ取り組む姿を度々目にしているのだ。果然としない結果を恐れ愚行にも『才能』の有無と言う結論に走るのならば、血反吐をはくまで歯を食いしばれば良い。


 それで結果に結びつかぬのであれば、新たな境地も見えてくるであろう。半ば勝に恫喝されたように砂利の上を駆けた景子は何も言わず勝に返球した。


 勝は一人で燃え上がっていた。バットを握っただけで激痛が走る手にさらに力を入れ、バットを振るう。


 その様はまさに一球入魂であった。





     ◇◇





 桜の入魂は散々紆余曲折した挙げ句に、自身を見失ったモノローグのようであった。


 屋上遊園地の片隅のベンチにて、 寥々【りょうりょう】と憔悴の姿で項垂れる桜。結局自分は何をしたかったのだろうか。自問自答すれど、帰結をも見ることなく、また交差することのないベクトルは空虚な飛行機雲を引いて桜の中を飛び回っている。


 こんなつもりではなかった。洋服とて食事とて、素直に喜ぶ事を放擲【ほうてき】した覚えは微塵もない。しかし、素直に喜べない心中は未だに堅牢にも健在なのであった。


 咲恵が会計の間に食堂の外へ出た桜は、喧騒を避ける様に壁へ背をもたせた。 軽佻浮薄にもしっかり、好奇なる贅沢を堪能してしまったのだ、唯一無二の本能にたがを外された後悔の念と罪悪感は咲恵を見る度に堀を深くする様子であった。


 タイルに反射する朧気な自身の姿には別人に変貌している。足下に窺える赤い靴はやはり可愛らしかった……『モダンを着た少女』……さながら題するならそれであろうと桜は思った。そして、また後悔するのである。素直に喜びを表したい己とそれを否とする自分……アンビバレント的熟慮は辛うじて均衡を保っていたが、時にはこうして前者が抜き身でて来るのである。


 その間に大勢の人間が往来した。中でも『茶太夫婦人会』なる三角フラグを持ったガイドを先頭に膨よかなご婦人方ご一行が通り過ぎた時は、その中に迷い込んだなら、きっと洗濯機の中で揉みくちゃにされた挙げ句溺れてしまうだろうと息を飲んだ。婦人会の面々が食堂に吸い込まれた後、食堂の中を見るとそこに咲恵の姿はなかった。


 桜は瞬時に困惑の奈落へ突き落とされてしまう。夢見転がしならまだしも床に入っていない限りそれは皆無なのである。目を凝らして堂内を見回すもその姿はついになく、


桜は血の気を引かせた表情で駆け出した。


 もし桜が登山家であったのなら、はぐれた場所から動かぬ原則を鉄則として食堂の前でひたすら佇んでいたことだろう。


 しかし、そのようを夢想家にも考えるは阿呆の極みでなのである。


 右も左もわからぬ巨大な箱の中、頼りとする咲恵を見失ってしまった桜の面持ちはかくも激しく、絶海の孤島に一人取り残されるがごとく……


 桜は走った。階段を何度も往復した。迷路のように広い店内を隈無く探し歩いた。もし、桜がエレベーターを利用していたならば、容易に再開を果たしていたやもしれない。


 しかし、要領のわからぬ乗り物に乗る余裕など残渣を飲みほすと同様に簡要なことではない。


 迷宮を彷徨い歩いたテセウスみたく桜は徒労感を纏い階段を上った。運良く咲恵が見つけてくれることを切望していたのである。何段目かの階段登り終えると、そこは屋上へ通ずる、硝子のドアであった。


 薄くも重いドアの先には青い空が見える、白い雲が見える、陽光が差している。桜は自然と屋上の遊園地へ足を踏み入れた。


 アイスケーキやビン飲料を並べる売店にブランコや滑り台。中央には楕円形に敷かれたレールの上を原寸にはほど遠い可愛らしい蒸気機関車が一丁前に黒鉛を上げ、客車に跨った子ども達を引っ張って走行している。


 その奥には巨大な水車形の骨組みにつるした円形のゴンドラがゆっくりと回転している乗り物が見えた。


 親子連れで賑わうここには大輪の笑顔が溢れている。


 桜は呻吟【しんぎん】の面持ちでふらふらと浮いた足取りにて、売店に隣接するベンチへ腰を落ち着けた。 忸怩【じくじ】と明滅。心身相関にも桜は急に冷え込む肩口に両手を肩へ回し、行楽日和を背に受けて震えていた。


 学校でも同じことがあった。登校すれば机に下品な彫りものをされていたし、狐などと不名誉な呼称もされた。制服がバケツに入っていた時などはすぐさま泣き出したかった。


 しかし、そんな時いつだって、少年が隣にいてくれたのである。狸と呼称されようともいつも側で助けてくれた。


 だが、今はいない……


「勝ちゃん……」


 桜は薄汚れた地面を見つめて呟いた。


 幾分傾いただろうか、桜の目線に影が迫った。その影はどんどんと大きくなり、やがて、見覚えのなる白い靴と裾から覗くさり気ないプリーツシフォン……


 桜は藁にも縋る思いで顔をもたげた……


「見つかって良かった」


 そこには両手にアイスケーキを持った咲恵の姿があった。


「おばさま」


 と反射的にすがりつく桜。


 あらあら、と咲恵は言いながらベンチへ座った。


「ごめんなさいね。私が探しに動いたのがいけなかったわ」


 桜の頭に優しく言う咲恵。


 桜は、咲恵に顔を埋めて首を振った。


 ただ咲恵の体温を感じているだけで良かった。当然を失った不運と不幸は当然にのみ払拭されるのである。 


「ごめんさい……おばさまに迷惑かけてばかり……お洋服だって……」


 落ち着いた桜は背中に回した手を解いて、咲恵に向き直って言った。


 はいこれ、と咲恵は悄然とした桜にアイスケーキを渡した。


「桜ちゃん。もうそんなこと言わないで。私は桜ちゃんのお母さん気取りなんだから」


咲恵はそう言いながら桜の膝元へハンカチを轢いた。


 はっとした表情で咲恵を見つめた桜。そこには驚嘆と感嘆の色を浮かべたが……


「でも……」 


 と、再び俯いてしまった。


「桜ちゃんは、ちょっぴり大人なのね。でもそんなに早く大人にならないでほしいわ。だって、こうやって頭を撫でてあげられるのは子どもの時だけだもの」 


 俯いた桜の頭を優しく撫でる咲恵。桜はそれを邪魔すまいとゆっくりと上目遣いに咲恵を見上げた。


「桜ちゃんが大人になったら、私はもうお洋服を買ってあげられなくなるし、いい人だってできるもの。一緒にお買い物だって行けなくなると思うの」


 しっかり咲恵を見上げた桜は顔を赤面させ、口を鯉の様にぱくぱくさせて何やら抗議している様子であった。


 しかし、咲恵はむしろそれを楽しむかのように。


「大人になればそれで良い。でも桜ちゃんにはまだ子どもでいてほしいし、もっともっと甘えてほしいの……うんと甘えて、いっぱいわがままを言ってもらえる事が私にとってはこの上ない喜びなんだから」


 瞳を潤ます桜、素直に嬉しかった。こんなに深遠から暖まる言葉を掛けてもらった事は生涯はじめてであり、今すぐにでも飛びついて甘えたい衝動すら沸き立たせた……


 しかし、それを頑なに引き留めたのは、結論を見出せずにいる。不断な自分であった。咲恵の言葉は嬉しい、だが、これ以上の大恩を受けるわけにはいかない。


 桜は心底甘え下手だったのである……


 もしも……。アイスケーキを一口囓った咲恵が呟いた。


「桜ちゃんが恩返しをしたいと思ったら、大人になった時、桜ちゃんの子どもでもいい。妹みたいに思える子でも良い。そんな子が出来たら、自分がしてもらったことをしてあげて、そうすればしてもらった子は桜ちゃんと同じ幸せを感じられるはずだから……だから、今は大人からいっぱい幸せを貰って、大人になったらいっぱい幸せをあげてね」


 陽に照らされた横顔は広大な海を思わせた。弱々しいなで肩の胸はとても大きく見え、その笑顔は何よりも優しいと思った。春の陽気に包まれたように全身が芯から火照り、時折吹き抜ける微風が気持ちよかった……


 はじめて食べるアイス。清涼感と所狭しと口に広がる甘味……


「美味しい?」


 と聞かれれば、


「甘くって冷たくってとっても美味しいです」


 と答えるしかすべはない。


 名残惜しそうに、アイスケーキの棒を見つめていた桜は、意を決して「あれに乗ってみたいです」と観覧車を指さした。


「もう、仕方ないわねぇ」 


 咲恵は遠慮がちにそう言った桜に、大袈裟に悦喜を表し、わざとそう言うと「乗りましょう乗りましょう!」と桜の手を引いて観覧車へと向かったのだった。


 間近で見るゴンドラは、想像以上に大きかった。桜であるならば四人は乗り込める。


「お足下お気をつけ下さいませ」


  ドアが開いたゴンドラがゆっくりとやって来る。数歩のステップを上がった所に立った二人は、亀足で通り過ぎようとするゴンドラにそっと足を踏み入れた。


 わぁ、桜が感動の声をあげた。


 眼前には広がるのは食堂から見た風景よりも高い景色である。大凡の一帯では最高峰だろう。お陰で人が米粒に見えたり車や路面電車さえもミニチュアに見える、眼下さえ圧巻であったが、桜は足を竦まさせずにはいられなかった。


「今日は本当にありがとうございました」


 桜は慇懃無礼を覚悟の上で感謝の意を伝えた。


「お礼を言うのは私の方よ。私ね女の子が生まれたら、一緒にお買い物したりお料理したり、あやとりしたり……それが夢だったの。だから、今日は全部叶って私は嬉しくてしかたないのよ」


 咲恵は両手を頬に当てると子どものようにいやいやといじらしく首を左右に揺らした。


「桜ちゃんお願い。お母さんと呼んでとは言わないわ。でも春休みの間だけ、私の子どもでいて欲しい」


 愛おしい瞳で桜を見つめる咲恵の懐柔。包み隠さない想いとは、かくも人の心を振るわせる唯一にして絶対の振動なのである。


 無論、桜は咲恵の純粋な気持ちに心打たれ、錠を下ろし一線を画していた錠前を解錠したのは極々自然な流れであった。


「私のお母さん、私が生まれてすぐに亡くなってしまって……お母さんのことは全然覚えてません……でも……公園の前でおばさまを一目見た時、こんな綺麗な人がお母さんだったらいいなって思ったんです!お世話になってみて、お料理もお裁縫もみんな上手くて……お父さんにも私からお願いしたんです。おばさまが〝家においでなさい〟って言ってくれたって……嘘をついて……ごめんなさい、でも私……」


 そこまで言うと桜は言葉を詰まらせてしまった……弁明に並べたはずの言葉……しかし、その言葉は桜が伝えたかった想いの半分も言い表せなかった。


 良いのよ、と咲恵は言いながら桜の顔を優しく両手で包み込んだ。


「よく話してくれました。お母様のことはお父様からお聞きしていたけど、その後は初耳。そんな風に想ってくれていたのね、嬉しいわ」


 そして、


「うんと甘えてね」


 と咲恵は続けて言うのであった。


 桜は気持ちが晴れ渡った様な壮快感を胸一杯に感じた。これ以上自己欺瞞をする必要も葛藤さえも無用な長物となり果てたのである。


  観覧車を降りると咲恵が「さぁ、勝ちゃんと景ちゃんにお土産買って帰りましょ」と桜に微笑みかける。


 桜は「私が選びます!」と張り切って咲恵の手を取ると駆け出した「桜ちゃんってば、お土産は逃げませんよぉ」と引っ張られる咲恵が弾んだ声で言った。


 二人の間に初めて絆が芽生えた瞬間でもあった……





     ◇◇





「今日はもう十分よ勝ちゃん」 


 重力に身を預け階段に座った景。


 勢いに任せバットを振り回した勝は勝に至っては階段に仰向けになって寝転んでいる。


 背番号は一日して成らず。


「だな……」 


 興奮冷めやらぬ勝はまだまだ気概だけは『バットを握れ!』と騒がしく吠え立てている。


 だが、肉刺が潰れ微風にも触れば痛みが走る手はそれを是としなかったのである。ジレンマと言えばそれに相違なかった。


「あぁあっ。こんなに汚れちゃった……我ながら汚いと思うわ……」


 飛び込んで白球を追った勲章とも言うべきだろう。景の練習着の白は塵や腐葉土で至るところが泥だらけになっていた。


 髪の毛とてそれは同じである。


「がんばった証拠だろ。笑う奴は俺がぶん殴ってやる」


 人の一生懸命な姿をあざ笑う者は唾棄すべき不埒者である。


「そうかなぁ。私はやっぱり泥だらけは嫌だな。綺麗なお洋服とか靴とか履きたいもん」


 山へ帰る烏の群れを見上げて景が言った。


 乙女心には煌びやかな装いに麗しい出で立ちでもって、周囲の目線を釘付けにしてみたいものである。


 景は不意に桜を思い浮かべて「はぁ」と溜息をついた。


「桜が言ってたぞ……一生懸命してる姿は輝いてるって」


「へぇ、桜がね」


 まんざらでもないと言った表情で「ふーん」と続ける景。


「俺も……そう思う……」


 勝は視線を海へ移して小声でそう言った。


「ありがと……嬉し。でも、一生懸命やったって試合で良いところ見せないと駄目なのよねぇ」


「運も実力の内か……」


「まぁねぇ。認めたくないけど」


 天啓に縋りたくなるのは人として生まれた嵯峨だろうか、暗中を模索するくらいであるならば、後光の導きに縋り晴れぬ胸中に区切りをつけたい。


「今日はもう帰ろうよ。おばさんたち帰ってるかもしれないし」


 夕凪のごとく静かな境内にあって、景は早めの引き上げを提案した。


「まだ明るいし、練習やろうぜ」 


 勝は景からの思わぬ発言に驚きがてら、上体を起こした。


「でも、勝ちゃんの手。もうやめといた方が良いって」


 痛々しい勝ちゃんの手の平を見やった景は眉を顰めて言う。


「こんくらいで泣き言いうかって」


 ぺっ、とつばを吐きかける勝。刹那的に表情を歪める限りはバットを握るどころではあるまい。


「明日も付き合ってほしいんだけど……」


「部活あんだろ」


「監督が盲腸だから、どうなるかわかんないし。今日みたいに午前中で終わったら、自主練したいもん」


 勝は短絡的にも血気に逸った行動を反省せざるを得なかった。


 背番号は一日にして成らず。


 潰した肉刺も一日にして治らず。


「今日はこれくらいにしといてやる……」


 先見に気疲れを露呈させた勝は、大層肩を落として負けん気だけをなんとか口走らせた。


 激情家たるは涵養【もくろみ】を目論見とせよ。ひりひりと刺す様に痛む手と重りを巻かれた腰の感覚。とても今日明日と連日練習を行える仕様ではない。


 帰ることにした二人。神社を出ると夕凪の去った海岸線は海から吹き上げる風が汗ばんだ体から大いに温度を奪っていった。


 お下げの解けた咲景は何年ぶりか腰元まである烏の濡れ羽色の髪を風に弄ばせていた。後ろ姿からすれば、到底幼なじみに見えぬ魅力を醸しているのである。


「悪い、バットに血ついた」 


 バットの握りに巻かれた白い布についた、赤い染みを爪で掻きながら勝が言う。


 まき直すから良いよ、と言う景。


「それより、手、大丈夫?こんなになるまでがんばってくれなくても良かったのに。帰ったら消毒するね」


 痛々しい勝の利き手を見やった景は申し訳なさそうに言った。


「こんなんつばつけときゃ治るだろ」


 バットを携えた手を庇いつつも、やせ我慢は男気の醍醐味なのである。譲るわけにはいかない。


「それに俺はバット振るくらいしかできねぇし、約束したろ。俺の出来ることなら協力するって」


 照れて言いにくそうに頬を掻く勝。


そんな勝の姿と言葉が景には嬉しかった。一時は愚行にも己から遠ざかり、距離を置いてなお、幼なじみの縁は切れないと信じていた。


 しかし、それ後悔したのは石切坂 桜に憧れる勝の姿を見た時。勝の眼中にいない自分に焦って、なんとか昔同様に並んで歩きたいと切望していたが、どうやらそれは景の勘違いであったようである。勝は昔と変わらず自分を見てくれている。


「勝ちゃん大好きっ!」


 景はそう言いながら、勝の背中へ抱きついた。


 そう、こうして勝の背中を抱き締めるのは二度目……遠い昔、境内に忘れた麦わら帽子を勝が必死で探し出してくれた時以来……


 背格好はずっと大きくなった。しかし、鼻腔を擽るのはあの時と同じ汗くささ……次の瞬間には『破廉恥よっ!』照れ隠しにも飛び退いた景。


「お前なにやってんだ?」


 呆れた顔で振り返る勝。


 これもまたあの時と同じであった。





     ◇◇





 桜は鼓動を早くして、公民館の門柱を潜った。


 『お父様に桜ちゃんの可愛い姿を披露しちゃいましょう』と帰りの路面電車の中で言い出した咲恵の提案により、海沿い経由のバスに乗車し、公民館前のバス停で降りた二人である。


 公演の終わった公民館は寒々としつつも、明日の準備に余念なきに裏方は忙しなく四肢を動かしている。汗臭い中に涼しくも清らかな白の出で立ちの二人がそこを通れば誰しもが振り返った。まさしく麗人と称すに相違ない。


「お父さんっ!」 


 濡らした手拭いで顔を拭いていた良介に向かって桜が駆け出す。


「……?桜かい?見間違えたなぁ。お母さんの若い頃にそっくりだ」


 良介は華やぐ娘の姿に感歎の声をあげ、わざわざズボンで手を擦ってから桜の頭を撫でた。


 桜はそれこそ、遠足から帰って来た無邪気な子どものように、デパートの顛末を眼を輝かせ父に話して聞かせた。それを見守る咲恵は、越えることを望むとも決して越えられない隔てた一線を見たようで苦笑するに終始してしまった。


「どうも、ご挨拶がおくれまして……どこの麗人が来られたのかと思いました」


 桜を傍らに会釈をする良介。


 うふふっ。と咲恵は口元へ手を添えて上品に笑いをこぼすと、


「まぁ、お上手ですこと」


 と謙遜して会釈を返した。


「おかまいも出来ませんで恐縮です。ご婦人をお待たせする非礼を押して、お願い致します、少々お待ち下さい」


 恭【うやうや】しくお伺いを立てる父に、


「どうぞおかまいなく」


 と咲恵は笑顔をつくった。


 公民館へ消えて行く父の姿をきょとんとした表情で見送る桜。


「桜ちゃんのお父様は、紳士でらっしゃるのね」 


 不意に咲恵が桜にそう言った。


 中退ですけど。と前置いてから、


「大學で勉強していましたから」


 と咲恵を見上げて桜が嬉しそうに言った。


「そうだ、桜ちゃん。その傘公民館へ置いてきちゃいなさいな」


「はい、そうします」 


 赤い傘を大切そうに抱き締めると桜は大きく頷いて、公民館へ走って行った。


 それとすれ違う形で、良介が再び咲恵のもとへ歩み寄ったのは、偶然でもなければ情緒纏綿【じょうちょてきめん】な咲恵の意図したところなのである。


「桜をあずかって頂いてる上にあんな高価な物を……十分にはお渡し出来ませんが、これだけでも受け取ってくださいませんか……」


 疲れた茶封筒を差し出して言う良介。 


「一度お断り致しました物を受け取る訳にはいきませんわ。それに、今日は私が桜ちゃんを連れて行ったんですよ。桜ちゃんは良い子です。とてもとても利口で強い子です。遠慮を知っているし、自分を差し置いても我慢する子です」


 ここ数日、桜と共に寝食を共にした咲恵の感じたところであった。年頃で言うなれば、子どもから脱皮する準備を始める頃だろう。ゆえに咲恵は桜がくるおしく愛おしいのであった。


「でもそれでは可哀想すぎますでしょ?子どもの時にしかわがままも言えなければ、自分の好き勝手も言えない。だから私は、桜ちゃんが家に居る間は、うんと甘やかすつもりです」


 咲恵は口元を綻ばせつつも目元を引き締め凛して言い切った。牽制する意図はない。ただ、御為ごかしではなく本気であると良介に伝えたかったのである。


 すみません……、と言葉を詰まらせた良介。


「私が不甲斐ないばかりにあの子には苦労をかけてしまって……」


 目頭を押さて言う良介は大きな溜息をついた。咲恵の言葉が身に染みた、薄々は感じていたのである。桜が無理をして気丈に振る舞い、健気にも多くを我慢していたことを……それも、それを気に止める余裕もなく、まだ子どもである桜に甘えて来てしまった……珍しくも桜がたっての希望と、筒串家への下宿を申し出た時、些細ながら親心に叶えてやりたいと思った。


 そのために恥を忍ぶことなど、桜が耐えて来た日々を考えれば容易いと思ったのだ。


「ありがとうございます。なんと御礼を言えばいいか言葉が見当たりません」


「いえいえ、頭を上げてくださいまし。お礼を申し上げたいの私の方ですわ」 


 と言いますと……良介は頭を上げ首を傾げて言った。


「見ず知らずの家に、それも、男の子の居るところに大切な桜ちゃんを預ける覚悟をして下って、本当にありがとうございました。随分と恥も耐えしのがれたのでしょう。桜ちゃんのことを承知したあの日、心中をお察しいたしまして、大変心が痛みました」


 今度は咲恵が深々と頭を下げ、良介を讃えそして感謝の意を伝えた。


「桜は人を見る目があるのかも知れません。あなたのような立派なご婦人を見つけてくるのですから」


 咲恵の人柄に酷く打たれた良介は舌を巻いて、今一度会釈をした。


「まぁ、嬉しいですわ。でも、桜ちゃんが心から尊敬しているのはお父様なのですよ」


「いえ、そんな……」 


 言われた良介は首筋を掻きながら照れを隠した。


「これは、桜ちゃんの将来の為に、残しておいてあげて下さい。年頃になると女の子は色々と物いりですから」


 咲恵は、良介が携えている封筒に視線を落としてから、そっとそう言った。


「わかりました……」


 良介はそう言ってから封筒をズボンのポケットへ押し込み、


「桜のこと、どうぞよろしくお願いします」


  と頭を下げようとするのだった……


 しかし、「大丈夫ですか?!」それを咲恵は途中で制した。


「お父さんどうかしたの?」


 丁度、桜が駆けよって来た。


「少し立ち眩んだだけよ」


 咲恵と父の間に立って父を心配そうに見上げている桜に咲恵が言う。


「お父さん。ちゃんと食べて眠ってるの?すぐに無理するから……本当に大丈夫?」


「ああ。ちょっとな、父さんは大丈夫だ」 


 良介は桜越しに咲恵を見やると、視線に感謝を宿した。咲恵はその意を汲み取ると、目を閉じて軽く頷いた。


「またお越し下さいませね」


「ええ、公演の合間に必ず寄せてもらいます。桜、ちゃんと筒串さんの言うことを聞くんだよ」


 良介は桜の頭を再び撫でた。


「はい」


 桜はそう言うと深々と頷き、後ろ髪を引かれる様に何度も首だけを振り向かせて良介の姿を見ていた。


 落日が民家を挟んだ遥か遠くで燃えている。夕風に髪を靡かせて歩く桜は少しも寂しくはなかった。父のことは気がかりではあったが、父であるならば自分がいなくとも大丈夫であると、信頼できたのだ。


「優しいお父様ね」 


「はいっ!」 


 桜は嬉しそうに笑顔を覗かせた。


 うふふっ、と微笑む咲恵。


 やがて農協が見えて来ると今までの道程が嘘の様に商店街は夕飯の買い物で賑わって居た。


 桜はなんだか嬉しくなった。自分とはかかわりのない賑わいだったが、人の楽しそうに話す様子を見ているだけで、その臨場感だけで自然と口元が綻んでくるのである。古今東西、『笑い声』とは人を根本的に惹き付ける魅力があるのである。神話に言うかの天照大神でさえもこの笑い声に引かれ、岩戸を開けたほどなのだ。


 桜はしきりに農協の隣を気にするようになった。樅の巨木を通り過ぎると見える富士ストア、いつしか桜はスカートを握り締めていた……


 それに気が付き、桜の意をすでに察した咲恵は、今回はわざと気が付かない振りをした。


「おばさま……私……サイダーが飲みたい……」


 上目遣いにて恐る恐るやっとそう言った桜。


 桜がはじめて心から咲恵に甘えられた瞬間であった。


「あらあら、そうねぇ。喉乾いちゃったわね。じゃあお母さんの分も買って来てくれるかしら」


 赤ん坊が初めて立った時の母親の顔をして咲恵は桜に小銭を手渡すと「行って来ます!」と小銭を握り締め、桜は一目散に駄菓子屋へ向けて走って行くのだった。


 今にも倒壊してしまいそうな店には夕暮れらしく、幼い子ども達の姿はなく、親子連れ。あるいは桜と同じ様な年頃な子どもであった。


 幸いにして、桜の見たことのある顔はなかった。


 しかし、出で立ちからして、周囲の視線は羨望の眼差しや桜が照れてしまう言葉が囁かれていた。桜は顔を赤くさせながら、店の中に入ると店番をしている老婆にサイダーを二本頼んだ。、老婆は桜を見て「めんこい子じゃねぇ」と言うと手慣れた様子でビンを片手に二本持ち、所々錆び年忌の入った栓抜きで壮快に王冠を店内に飛ばしてくれた。


 細かな気泡が立つサイダーを両手に持った桜は、いち早く咲恵と共に並んで飲みたいと、足取りを踊らせ店先へ出た。


 だが、桜の目前にはいつぞや、カーディガンのボタンを取られた三人組が立っているではないか。


 最悪の鉢合わせに桜は高揚した気分に冷や水をかけざるえなかった……


しかし、不思議なことに、三人組は一様に桜をみて頬を淡い桃色に染め、桜を頭の先から足の先まで何度も往復させている。


 桜は三人を避ける様に駆け出すと、金物屋の前でお喋りをしている咲恵のもとへ走った。こぼれた幾らかのサイダーが手にかかったがそんなことは気にもならない。


「おい、今の濡れ狐だよな……」


「ああ……確か石切坂って言うんだぜ」


「可愛い……」


 鉢合わせた少女は、確か濡れ狐と呼称され学校では在ることないことを吹聴されている転入生である。三人はそれを確認するように一言ずつ言葉を並べた。


「なぁ、お前あいつのボタン持ってたよな、」 


「ああ」


「そいつは良かった…」


 華奢な体躯に陰気な風を纏っていたはずの石切坂 桜。しかし、自分達の目の前に現れたの見るも鮮やか、モダンを身に纏った愛らしい女の子だったのである。これをどうして濡れ狐と蔑んでしまったのだろうか……三人は内心猛烈に後悔していた。このままではねんごろなど妄想にも言語道断なのだ。


「あれ俺にくれよ」


「いや俺にくれよ」


「絶対やだ」


 三人は並んで口をぽっかりと開けたまま間抜けな顔つきで、商店街を通り過ぎて行く可憐な少女の姿を視線で追った。


 今更ながらご機嫌を取るならば、謝罪し可能性を見出すには唯一の鍵は『カーディガンのボタン』だけであると三者共通の熟慮に辿りついたのだ。


 咲恵と共に民家の影へ姿を消して行く桜……見とれる三者。刹那に一度だけ、桜がこちらを向いた。表情すらよく見えなかったが、


「「「可愛い……」」」


 今すぐ万年床で悶々と四百四病外、妙薬難しの恋煩いにたちまちかかってしまった三人は素っ頓狂な声を揃えてあげたのだった。





     ◇





「なぁ景」


「なに?」 


 空き地の前で勝が突然、景に話し掛けた。


「俺なんかお前に酷いことしたか?」


 はい?、と景は首を捻った。


「去年ずっと俺避けてたろ」


「そっ、そんなことないよ」 


 狼狽して言う景。


 勝は気が付いていた。景は嬉しくもあり、言い訳に四苦八苦である。そもそも、それは景の本心ではなかった。ただ、そう言うものなのだと母の言葉を過大解釈してしまったがゆえの愚行なのであった。


「お前嘘下手だよなぁ。まあ、言いたくないなら別にいいけど」


 勝は手を頭の後ろに回すと、空を見上げて投げやりに言う。


 景は俯いて考えた。言うべきか言わざるべきか……せっかく幼なじみに戻ることができたのである。ここで刺激を与えて、この関係が歪んでしまうのは景の恐れるところ……しかし、だからと言って、一本気の勝のことである黙っておくのは、しこりをいつまでも残すことは明白。


「お母さんがね……勝ちゃんも男の子だから……あなたも女の子の自覚持ちなさいよって……だから……」


  純粋なる乙女の心にはそれが男女の契りと聞こえたのだ。勝は景にとって幼なじみであり、一番身近な男の子でもあった。だが、それだけなのである、並んで歩いたとて、それは逢瀬でも密会でもない。だから母の助言は景に勝を男性として見る眼を開いてしまい、純情たる乙女である景は勝といるだけで『異性』を意識してしまうようになってしまった。ゆえに距離を置いたのだ。それが自分の過剰反応であると気が付くのに一年も要してしまった。


 本当のところを言えば、石切坂 桜が転校して来たことが大きかった……勝を取られてしまう……そんな気がした……


「はぁ?なんだそれ?別に結婚するわけでもねぇのに」


 勝は呆れた後、アヒル口で恥じらう景の横で大いに笑った。それこそなんの憚りもなく。


「もぅ笑いすぎ。私は真剣に悩んだんだから」


 事実である。


 結果的に、勝と会えない寂しさを紛らわすため、部活動に励んだその結果が道具を買って貰えたと言うのが皮肉な話しである。


 腹いてぇ、と勝。


「昔から考えすぎなんだよ、景は」


「勝ちゃんが考え無さすぎるのよ」 


 瞼を半分おろして呆れて言う景。


 こうして、再び勝と並んで歩けるようになったは、やっと自分の気持ちに向き合えるようになったからかもしれない。景はにこにこと笑顔を浮かべる勝の横顔を見つめながらそう思った。


「なぁ、あれ見てみろよ」


 勝の笑いが突如止み、急に景の方を向いた。


 わっ、と目があった景は慌てて視線を地面に移した。


「きゅ、急にこっち見ないでよ」


 仏頂面でそう言いながら景は前方に視線を上げる。


 病院の前を全身を純白に染めた優麗な女性が二人何やら楽しそうに喋りながら、歩いて来るではないか、明らかにこの辺りでは見かけないモダンで垢抜けた出で立ち。それを見事に着こなすつば広の帽子をかぶる淑女にも驚いた。


 ただ、手に携えたビンだけが庶民風を吹かせており、どこか不釣り合いである。


「鼻の下伸ばして、情けないな。桜に言ってやろ」


 赤いヘアバンドをした乙女に釘付けとなった勝。微かに頬を赤らめる勝に景は哀憐の眼差しを向けて溜息混じりに言った。


「おっ怒るぞ、景っ」


 狼狽の極みを見せ、慌てて景に檄を飛ばす勝。見苦しいことこの上ない。


 はたして麗人は立ち止まる二人のもとへ向かって歩いて来るではないか、しかし、


「あらあら、勝君と景ちゃんじゃないのぉ」


 とどこかで聞いたことのある声でそう言ったのだった。


「「へっ」」


 調子を見事に重ねた勝と景……


「丁度良い所であったわねぇ。そうだ、このサイダー景ちゃんにあげましょ。おばさん一口飲んじゃったけど、気にしないでね」


 唖然と硬直する景に淑女はそう言うと、自身の携えていたビンを景に手渡した。


 ありがとうございます、と反射的に言った景。


「さっ!桜じゃない!何よ何よ!そのものすっごく可愛らしいお洋服!良いな羨ましいなぁ」


 咲恵の隣で二人を眺めて居た少女が桜であると気が付くや、景は猛獣の如ごとく駆け寄って桜の出で立ちにいちいち、感歎の声をあげはじめた。


「勝君、お母さんどう?」


 残った勝を悩殺すべく母が佳人の格好をつける。一方は腰へ一方は首の後ろへ……渚を飾る鮮麗であることには変わりなかろう。父がこの場にいたのであれば一目を憚らず、抱き締めにかかるやもしれない。


 だが……


「ああ、うん……」


 勝はそんな母は眼中になく、泥だらけ練習着女にあちこち触られ放題の少女に視線を注ぎ続けている。


「勝君ってばっ!」


 心ない返事に納得しない咲恵は大人げなくも勝の頭に拳骨をくれた。


 痛っ。と勝は目から火花を散らした。


「なにすんだ!」


 頭を押さえてしゃがみ込む勝。  


 咲恵は、知らん顔で佇んでいる。


「スカート捲るぞ」 


 目元でひらひらと靡く咲恵のスカートの裾を恨めしく見つめて、苦々しくも鬼気迫る勢いで破廉恥な言動を呻く勝。


「あらぁ、勝君ってば大胆ねぇ」


 咲恵は目を大きくして驚いた振りをすると、大袈裟にかつ愉快にそう言うと、軽快なステップでもって勝の視線から身を外した。


 すると、真正面に見えるのは桜と景の姿である。


 あの……、勝は言わずもがな凍りついた。


 目の前に佇む乙女二人はそれぞれに口元を引き攣らせ、勝を見据えているではないか、桜に至っては両手でスカートを押さえる仕草をしているではないか。


「ちっ違う!」


「破廉恥よっ!」「勝ちゃんのばかっ」


 勝の弁解虚しく……そもそも釈明すらできないまま、乙女達は二人して小道へと駆けて行ってしまった。


「もう勝君たら」 


「母さんのせいだろ!」


 目元を痙攣させて、母に詰め寄る勝。


「せっかく女の子がお洒落しているのよ。それを褒めない男の子がどこにいますか」


 勝の額を人差し指で突きながら咲恵は眉を顰めた。


「そんなん言えるか」


 恥ずかしいこのうえない。男子たるは黙して語らずこそ美学なのだ。


「男の子は一本気と女の子への愛情が大切なの。時には矢面に立って勇猛に戦い、時には硝子扱うように優しく慎重にかつ大胆に立ち回る!勝太郎さんなんて、会う度にお母さんを褒めてくれたものよ。夜なんて、窓から入って来たりして。それはもう大胆だったわぁ」


 途中からただの思い出話と化した母の教授。


「のろけ話かよ……」


 頬を赤らめる母に勝は心底呆れて、溜息のかわりにそう言った。


 なによぉ、と機嫌を悪くして言う咲恵。


「でも桜ちゃん、勝君に褒めて欲しかったと思うわよ。どんな言葉でも良いの、褒められて喜ばない女の子なんていないんだから、ほらお母さんで練習してみなさいな」


 真面目な顔つきで述べた母は、スカートの裾を翼の様に広げ、顔を右斜めに傾けると、片目を瞑って何かを待っていた。


「俺、風呂沸かすから」


 とにかく褒めれば良い。勝はそう解釈し何度か頷いた末に、そうあっさりと言って、咲恵の隣を通り抜けようとした……


「いってぇなぁ!もうっ!」


 再び咲恵の拳が勝の頭上に炸裂したのは言うまでもあるまい。


「勝君ったら、何もわかってないのね。今晩は勝君だけご飯抜きですからね」


 両肘を張って勝を追い抜いて行った母の捨て台詞であった……


 これを横暴と言わずしてなんという。





      ○





 着替えを済ませた景が来てからと言うもの、三人娘達は離れを閉めきってきゃいきゃいと黄色い声をあげながら、楽しそうに何かをしている様子であった。


 無論、勝は桜花の園への闖入を許されるはずもなく。悲しくも孤独にて救急箱を前に包帯と格闘していたのである。


 しっかりきついめに巻いた包帯。勝はすぐに風呂上がり処置すれば良かったと後悔することになった。風呂釜へ水張りをしていると、せっかく巻いた包帯がずぶ濡れになってしまったのである。竈へ火を入れ、乾かそうと悪あがきをしてみても乾くはずもなく、結局包帯を解いて、物干し竿へ掛けておいた。


 燃え上がる竈の中を見つめながら、勝はぼぉっとしていた。ぼぉっと選手権なるものがあれば、優勝できる自信があった。


 母はともかくとして、麗しきも桜の姿を思い浮かべていたのである。着た切り雀みたくブラウスにスカート、そしてカーディガン。ほぼ毎日同じ服装でいる桜。素朴な美は堅牢なる地味を鋭利に突き破り、可憐な魅力を滲み出している。


 しかし、そんな桜が可憐な洋服を着ていたのである。それは想像を絶する領域なのである。高天原や桃源郷と言っても過言ではない。実際に勝には桜が輝いて見えたのだから……


 消毒薬にて痛みがぶり返した手の平を見ながら、景との練習を後悔しないながら、デパートへ行けばよかったなと思うのだった。


 人酔いさえしなければ……順応能力のない自分を責めるしかあるまい……


「勝君。お風呂入っても良い?」


 桜と共に食堂で食べるオムライス!そして輝かしき念願のグローブ!最後に乗るであろう観覧車!妄想に胸を熱くしていた勝に、横から咲恵の声が入って来た。


「入れると思う」


 火を入れてどれくらい経ったのか?ぼぉっとすることに夢中でそんなことはすでに忘却の彼方である。


 さてもオナゴとは傍若無人かな。気楽にも宴会のごとき騒ぎ楽しみ悦楽の限りを味わったあげく、一番に風呂を所望するとは。憤りか呆れか……しかしこれも男子たる『女子への愛情』の一端なのである。得心尽くかつ辛抱強く、苦薬とて見事飲み干してこそ男なのだ。


  江戸川放流口程度の寛大さを胸に、勝は薪を数本竈へ放り込んだ。


はたして風呂場に響くドアの開閉音。それはあまりにも多かった。まさか、と思いつつも勝はそんなはずはないと自身に眉を顰めた。


「まだ少しぬるいみたいだから、先に体すっちゃいましょう」


「私、おばさまの背中流すっ!」


「景ちゃんずるい」


「あらあら、幸せだわ」 


 三娘のお湯浴みである。


 己の勘も満更ではないと、勝は頭を掻いた……


 少年よ!と行者が勝の足下へ推参し言う。


『常世の楽園とはまさに、目前にてこれに立ち会えるは男子たる幸福の極みぞ!』


 ボロボロの和傘を差したまま高らかに言う行者は、恍惚と風呂場から漏れ出でる音を耳にその情景の連想に耽っている様子であった。


 またこいつか。と勝は溜息をついた。過去には勝を桃色の誘惑へと導き、最近では勝を奮起させた。奇妙奇天烈な奴である。


『恋せよ少年。そして誠の愛を見つけるのだ』


 囁く様に言う行者。


「なんのこっちゃい」


 勝はとりあえず項垂れた。


『男子が女子に惹かれるは、悠久の定め。そこに優麗にて艶容たるを見初めたのなら


迷う事はなど笑止!果敢に攻め向かい潔く玉砕してこそ戦人の道と見たり』


 何が言いたい。勝はまるで聞き耳を持たなかった。この場にて行者の官能的背徳的誘いはなかった。


 母の悪戯か企てか陰謀か策略か、勝は桜に嫌われかけている。考えてもみて欲しい、母曰く桜は勝に褒めてほしかったらしい、なれば、勝は褒めないばかりか卑猥にも『スカート捲り』を敢行しようとした阿呆なのである。


 百年の恋人であれ、平手の一つと心中して果てねばならないだろう。


 この上、風呂などを覗こうなら、拭い去るに困難な軋轢を深々と刻み、不埒者の烙印を一生背負わねばならなくなるは必定である。


『少年、それは愛故なのだよ。愛おしいと思うほどに狂おしく指で撫でたくなる。愛とは飴と鞭!純情と欲情とは表裏一体である!』


 もはや支離滅裂である。聖人君子なれば、錬金術のごとく、拡大にして過小な物事をこじつけ、何やら理解の域に達するのかもしれない。しかし、勝にそれを望むのは無粋と言うものである。


「丁度良いお湯加減よ」 


 風呂に入るのだろう、窓の隙間から湯気が漏れている。


 勝は竈から焼けた銅の様な薪を取り出すとわざわざ、足下へそれを置いた。


 行者は勝よりも勘が良かった。『ふはははっ。私を出し抜こうなどと、百年早いぞっ。次は鳥もちでも用いることだな』とすでに勝の踵付近まで退避しいていたのである。 


 次は鳥もちを仕掛けようと勝は心に決めた。


「景ちゃんって髪の毛長いのに綺麗だね」 


 髪の毛がもっとも長い景だけが、最後まで洗い終えた髪の毛を絞っていた。


「まぁねぇ。勝ちゃんがね、長い方が可愛いって言ってくれたから、その日からずっと伸ばしてるの」


 桜の髪の毛を見て景は小さな優越に浸った。体躯は凹凸とて均衡、容姿はやや劣勢気味であるが、髪の長さでは圧倒的勝利である。


「ここまでなるのに五年かかったもん」


 失笑顔でそう言う景。


「景ちゃん、風邪ひいちゃうから、早く湯船においでなさいな」


 乙女の陰湿な抗争を予見した先輩が仲裁に入るべく咲恵が話しの腰を折った。


 今入ります、と言いながら景は髪を束ねると、それをうなじのあたりで結んだ。


「実はね。私も昔は景ちゃんみたいに長かったのよ」 


 少し赤い顔で見る桜と、きょとんとした表情の景が顔を並べる前で咲恵はそう話した。


「でもなんで短く切ったんですか?」


 髪は女の命である。ゆえに髪を切ると言うことがいかに重大であるか。毎日のように髪に気を遣いそれなりに手入れをしている乙女二人には、とても興味があった。


「勝太郎さんがね……勝君のお父さん。が短い姿も見てみたいって言ってくれたから、思い切って切っちゃった」


 半ば拍子抜けの二人は、顔を見合わせた。


 まさに鶴の一声で命と黙される髪を切ってしまうとは……破天荒であろう……


「それだけ……」


「えぇ、それだけ。だって、見て頂く殿方は一人だけで良いの。だから、その殿方が望む様にしただけ。愛のなせるわざよね」


 更に顔を赤くさせる桜と少し赤みが差してきた景は、目を見開いたまま生唾を飲み込んだ。


「愛って愛って……すごいんですねぇ」


 桜が壊れた人形の様に首を傾け、目の色を失って呟いた……


 へぇ、と勝は相づちを打った。その話しははじめて聞くからである。


『愛とは信愛、愛とは深愛、愛とは深淵……』


 歌舞伎役者の様な言い回しでしゃべり出す行者。


 さて、どうしてやろうかと勝はまたも戯れ言を吐き始めた行者を苦々しく見下ろした。


『たとえ乳が垂れ背が曲がろうとも、共に寄り添い果て行く!息子よ!これが愛なのだ! 凋落【ちょうらく】をも互いに笑い!契りを結んだ身の上は墓までもっ!これをもって夫婦道と称するのだ!』


拳を高々と掲げ渾身の力を込めて言い切る行者。淫猥たるその言動からして大凡真面目な語りなのだろう。


 是と非があろうとも、魂を振るわせる叫びとは存在するのであった。決意ともとれる行者の言葉は勝の胸を少し熱くした。


「おばさま、みたいになれるかなぁ」


 景の声である。


「大丈夫っ。景ちゃんも、桜ちゃんも、しっかり成長しているもの、もう少ししたら色々ともっと大きくなって女性らしい体になるわ」


 ええっ、素っ頓狂な景の声が聞こえた。意図せぬ言葉に当惑した様子だ。


「おばさま大胆」


 ふやけたような桜の声がそれに続く。


 勝には刺激の強い猥談は壁越しに少年の頬を桃色に染めるに十分であった。


『時に少年。乳はいいぞ。尻よりも乳にこそ浪漫がある』


 結局、行者の本質的根本は何一つ変化していなかった。


 勝は確信した。これは父ではない、勝の知る父は紳士であり卑猥な言葉を嫌い、そして母にはさり気ない愛情を見せる。そんな男なのでる。こんな心の汚れきった醜悪で汚物の様な人物ではない。


 勝は家へ戻ろうと立ち上がった。


『おぉ、それでこそ男子である!いざ行かん!眼福の世っ!桃……のわっ……』


 勢いづく行者を踏みつぶしてやった。煩悩を剥き出しに風呂場の中へ全身全霊を傾けた阿呆の結末である。その易々さと言えば鳥もちを使うまでもなかったと勝は不埒者の成れの果てを鼻で笑ってやった。




      ○




「はい、これでよしっ」 


 夕餉を前に風呂に入った勝は、景に肉刺の治療をしてもらった。また自分で包帯を巻こうとしたところを、景が気づいたのである。


  ちゃぶ台には着々と四人分の食事が揃えられて行く。咲恵は一人忙しく台所と居間を往復している。


 本来ならば、そこに桜の姿があるはず……


 しかし、顔を茹でたこよろしく、団扇片手に桜はちゃぶ台の横でのびていた。寝間着の着物を着て装いこそ涼しげであったが……


「のぼせるまで我慢するからよ」


 救急箱を閉めてから景が言う。


 景の話しでは、気を失う寸前、湯船の中へ滑るようにして沈んで行ったとのこと。 


「だって、おばさまともっと一緒に湯船にいたかったんだもん」 


 ようやく上体を起こして言う桜。


 のぼせるなど烏の行水を評される勝には、俄に信じられない話しである。


「まぁ、嬉しいわぁ。桜ちゃん、明日から毎日一緒に入りましょうね」 


 お櫃を抱えた咲恵が喜んであられた。


「さぁ頂きましょう」


 茶碗にご飯をついで各々の前に湯気を立てる白米が揃ったところで、咲恵がそう言った。


 合掌の後『いただきます』と三人が唱えると、咲恵は「よろしゅうおあがり」と言葉を添える。


 焼き魚に箸をつけた勝はふっと思い出した。行者は不埒者であり父ではない……しかし、母は確かに『夜なんて、窓から入って来たりして……』と言った。今となっては笑い話ですまされるだろう。しかし、女性の部屋へ泥棒みたく侵入するなど、最上級の不届き者ではなかろうか……


「なぁ、母さん、父さんってどういう男だったんだ?」


 魚の身をほぐしたところで勝が咲恵に問い掛けた。


 そうねぇ……。指を顎のところへやって思い返す咲恵。


 桜と景も箸を止めて咲恵に視線を向けている。


「優しいすけべかしら」


 勝を始め桜にせよ景にせよ、一瞬で凍り付く。景に至っては思わず箸を落としてしまった……


「やっぱりか……」


 勝は項垂れた……父の本性たるは行者に見た軽佻浮薄であり淫猥なるその姿であるのか……


「でも硬派な紳士だったわ。部屋に泊めてもらった時なんて、一夜を外で明かしてれたのですもの」


「部屋に……」


「泊まったんですか……」


 乙女二人はそこに食い付いた。


「それすけべじゃないだろ」


 すけべと紳士は相対する領域の住人である。硬派であるなら尚更、己の欲情に素直に振る舞うは軟派が大前提なのである。


「お礼のかわりに部屋の掃除をしてあげたら、桃色本が沢山あったもの」


 それをすけべと言われてしまえば、世の男どもは全て例外なくスケベである。


 乙女の軽蔑の眼差しを一心に受けたのはなぜか勝であった、「俺は持ってねぇ」と言うも……虚しく……


「でも、とても優しい殿方でした。お付き合いをしている時は一度だって手を繋いでくれなかったし、口づけだってしなかったわ。やっと手を繋いでくれたのは結納が終わってから。接吻は一緒になってからだったもの……」


 夢見る乙女は顔を紅潮させて話しに聞き入っていた。殿方との接吻。それは乙女にとっては未知の響きであり、それだけで小っ恥ずかしい。 


「寂しくなかったんですか?」


 桜が恐る恐る言った。「手ぐらいは……」と続けた。


「そうねぇ、私も手ぐらいならと思ったことはあったけれど、それよりも、私のことを大切に思ってくれているのだと気がつけたから、寂しくなかったわ」


 そう咲恵が言い終えると、余韻を醸すように場が水を打った様に静寂に包まれた。立ち上る湯気の音さえも聞こえてきそうである。


「でも桃色本持ってたんだろ」 


 雰囲気を乱暴にぶち壊したのは勝であった。うっとりと余韻に浸っていた乙女達は一斉に勝に非難の視線をぶつける。


「そんな物は男の嗜みよ。心に決めた殿方ならば、それぐらいを許せないのは乙女の恥です」


 咲恵は目を閉じて重々しく威厳を込めてそう言い切った。そんな婦女にぱちぱちと疎らな拍手が送られる。


 勝は不思議な面持ちであった。母の話では『硬派のすけべ』であり、時として『紳士で阿呆』なのだ。それでは母のいぬ間では『すけべで阿呆』の組み合わせも有効と言うことになるではないか……


 勝は箸で頭を掻いた。


「そうだ、桜ちゃんっ」 


 思い出した様に咲恵が桜に目配せをする。


桜も驚いた表情の後に大きく頷くと、食事中であるにもかかわらず、離れへと行ってしまった。


 残された景は首をかしげ、勝は腕を組んで唸りながら父の正体について考察を巡らしていた。


桜が携えて来たのは、何を隠そうデパートの紙袋であった。


 含み笑いで登場した桜は、「はい、勝ちゃんの」と勝に野球帽を手渡し「これは景ちゃん」と兎を象った髪留めを差し出した。


「かっけぇ!」「わぁ可愛い」と勝と景は思わぬお土産に感歎の声をあげるのだった。


「桜っちゃんが選んでくれたのよぉ」  


 咲恵は自分の事の様に莞爾【かんじ】として笑った。


「桜ありがとう」


 景は素直に瞳を輝かせる一方……


 勝はどこか腑に落ちない面相となった。無論、野球帽は格好が良く一目で気に入った事は言うまでもない。


 しかし、本来自分の手元にあるべき物は帽子ではないはすなのだ。


「グローブは?」


「買ってないわ」


「買ってくれるっていったろ!?」


 咲恵に迫る勝。


「あらぁ、お母さんに〝お洋服買え〟っ言ってくれたのは勝君じゃない。お母さん孝行息子を持って嬉しいなって思ったのよぉ」


 むぅ、とそう言えばそんな事も口走ってしまったかも、と勝は一度身を引いた。


「とにかく買ってくれよな」


 ここで引き下がれば、念願が遥か彼方へ遠のいてしまう。勝は何がなんでも食い下がった。


「そうだ」


「買ってくれんのか?」 


「勝君も出しなさいな」


「何を……?」


 勝はきょとんと咲恵を見つめた。


 咲恵はさりげなさを装っていたが、明らかに全砲門を開いた超弩級艦のごとく勝利を確信している様子であった。


 思わず身構えた勝、拳骨が来るか平手が来るか……いかなる攻勢に耐えうる気概だけは放擲せず、立ち向かう所存である。


「通知簿」


 勝は戦慄した……忘却していた春休み唯一の懸案事項を……春休み前日より何やかんやの大忙しで頭の片隅にも残っていなかった、パンドラの箱、エニグマ。


 戦人は敵を打ち破るべく突撃をしかけてから気が付いた……敵は本気であると。そして己の得物が孫の手であることを……鈍く光る砲口に睨まれた上はどうして矛を交える狂人となり得るだろうか……


「……無くした」


 無論、尻尾を巻いて逃げながら遠吠えるしかないのである。勝は虚勢を張る間もなく、身をすっかり縮ませてしまったのであった。


 助け部ねとばかりに乙女へ視線を泳がすと、一人は殊勝な面持ちで味噌汁に視線を落とし、もう一人は髪留めを色々と傾け見て、悦楽のど真ん中で小躍りを続けている。


 悲しきかな援軍は望めそうにない……


 勝は強行突破とばかりに、配分された夕餉を口の中へ掻き込むと、咲恵の言葉を遮り、


「ごちそうさまっ!」


 と脱兎するほかになかった。





      ○





 食後座布団を囲んで展開された天下三分の計。勝はまわり将棋で万年銀と言う運の見放されつぷりを露呈させると、次なる花札では初心者である桜に完膚無きまでに叩かれ、景が帰った後、最後の決戦と意気込んだ本将棋で桜と対峙するも、女傑、一丈青に見る無人の野を行くが如く飛車戦法に面白おかしく陣中をすっかり蹂躙され、加えて勝自身の自滅も手伝って、王将の終末はまさに四面楚歌。ここまで華麗に四面を囲まれると、苦言のひとつもでやしないと勝は放心状態で盤上を見下ろしていた。


 ここで桜が両手放しで喜ぼうものなら、ふて寝もできると言うものである。


 しかし、桜はまわり将棋でも花札でも勝利の歓喜を上げなかった。小さくは笑ったものの何か心苦しさを抱えている様子であった。


「私おばさまのお手伝いに行ってくるね」


 桜は勝の投了待たず、さっさと台所へ行ってしまった。


 なんとも後味が悪い。ふて腐れようにも桜に見せつけてやらねば、ただ寂しくも拗ねている小人である。


 とりあえず、諸々を片づけた勝は、布団を敷くことにした。本来ならば、一組敷けばそれで事足りるのだが、ここ数日は三組が並ぶのが通例となっている。


 後は母に任せればそれで支障はあるまい。とは言えそう言い切ってしまうのも心情が欠ける。


 勝は秘密裏に布団を三組敷くと、母と桜をほおって一人だけ布団に潜り込んだ。


 想像以上に疲れていたようである。勝は布団に入るなり、仄かに温かいふわふわとした感覚が全身を包み、眠りの神がいるのであれば、それが瞼を力ずくで閉めた上に錠までかけたのである。


 どれくらいの時間が経っただろうか。


「勝ちゃん起きてる?」


 おいてけ堀から囁かれる様な、細い声で勝は瞼をこじ開けた。外もまだ暗く、居間から明かりも漏れている。隣に咲恵の姿がない限りは小一時間程度と言ったところだろうか。


「なんだ」


 寝返りを打つと、母の布団の上に桜が正座していた。


「何してんだよ?」


 目を擦りながら上体を起こす勝。


「ごめんなさい」


 明かりを背中から受けた桜の表情は暗く、不気味なれども不思議な雰囲気であった。     どうした?、と勝は呟いた。


「なんで謝るんだ」


「私がお洋服なんて買って貰わなかったら、勝ちゃんグローブ買ってもらえてた。だから私のせいなの……」 


 桜はそう言うと俯いてしまう。


「あー桜のせいじゃないって、母さんに服かえって言ったの俺だし……」


 勝は頭を掻く。事実なのであるからして仕方がない。


「服だけじゃないの。カチューシャも靴も傘も……食堂でお食事したし、観覧車にも乗った……私が行かなければ、きっとグローブ買えた……」


 そう言うと桜は袖で額を擦った……


 泣くなよ……、狼狽の片鱗を見せつつ勝は余計なことを言わなければよかったと自分の心持ちの小ささを呪った。


「グローブがあれば勝ちゃん仲間はずれにされないで、野球できるじゃない」


 もはや桜の涙は止められない。


「桜が貸してくれるから良いんだって」


 一様被害者の体であった勝。いつしか立場は逆転、勝が加害にて桜を泣かせてしまった絵に見えなくもない。正直に勝は現在さほどグローブを欲しいとは思わなかった。グローブを持っていれば仲間には入れてもらえるかもしれない。


 しかし、勝の大暴騰癖は遺憾なく健在であり、そんな勝が試合に出られるはずもない。結局は球拾いに落ち着くのである。ならば、グローブはなくとも桜を相手に腕を磨いた方が賢明であろう。


『道具は無くとも努力でそれを越えられる』のである。


「お金は持ってないけど、私に出来ることならなんでもするから……」


 勝の気持ちろは裏腹に桜は責任を感じ全てを背負い込むつもりである。桜を責めるなどと、男子として人として唾棄すべきである。問答無用で責め立てるのであれば母親である!


 通知簿の乱平定の暁には、一番槍で持って攻める所存。


 しかし、それを口に出すには及ばす、どうすれば興奮して泣きじゃくる桜を宥められるだろうか……とそればかりを熟慮していた。


 泣き疲れるまで待つは一見して得策のようで実は愚策である。


「お土産嬉しかったし……」


 取り繕う様に言った一言。


 桜は、はっと顔を上げた。相変わらず頬には涙が伝っていたが……


 うぅ、と勝は唸った。


 小っ恥ずかしいかったのだが……


「あの洋服も似合ってたし……な」


 最上級の勝的褒め言葉である。


 えっ……、と呟いた桜。


 女心と秋空はなんとやら、今鳴いたカラスがもう笑ったように、桜は涙を止めると口元を微かに綻ばせたのである。


「カチューシャどうだった……?」 


 咲恵の言う『褒められて喜ばない女子はいない』これまさに。単純明快に嬉しそうな桜は控えめにはにかむと指と指を付き合わせている。


「多分似合ってたと思う」


 カーチューシャとは?勝にはその単語が意味する物がわからなかった。


「多分ってなに?!」


 手をついて身を乗り出した桜、凹凸の少ない胸元こそはだけなかったが、じりじりと迫り来る桜の顔に勝は狼狽し、


「もういいってばぁ!」


 と大声を上げてしまった……


 驚いた桜は着物を直す仕草をして、咲恵の布団の上に鎮座し直し、勝は柱を背に胸をなで下ろした。


 しかし、安息とは花火の如く刹那である。


「勝君っ!なに大声出してるのっ」


 障子を両手で勢いよく開いた咲恵に閻魔大王の姿を見た勝は、『地獄は現世にある』とこの後自身に降りかかる最悪を予見して合掌をした。


「桜ちゃん泣かしてっ!なにしてんのっ!」


『少年よ雪冤し身の潔白を明らかにせねばならぬ!』行者が叫んだ気もしたが、咲恵は問答無用と渾身の拳骨を勝の頭に雷のごとく落とし「勝君は言葉が悪いから、ごめんね桜ちゃん」と桜の肩を抱いたのであった。


「納得いかねぇ……」


 ぬれぎぬである。あくまで勝は被害者なのだ。


「早く寝なさいっ」


 勝は鉄の帳を投げられたように、戦々恐々と布団を大袈裟に被った。


 桜は申し訳なさそうに勝を何度か見ていたが、勝の悪事を持って災難に見舞われたのは桜であると思い込んだ咲恵は桜に喋らせる暇を与えず、布団を被せてしまう。


 あくまでも被害者は勝なのである。





      ○





 久方ぶりに頭痛にも似てじんじんと熱を帯びる頭頂を我慢しながらふて寝した。再び閻魔大王が居間に戻った後、桜の声が投げ掛けられたが勝はそれに背を向けて答えた。その夜はそれか目を開けることはなかった。


 それはカラスの啼かぬ間のこと。


 珍しく夢見が良かった勝は、浅い眠りを謳歌していた。


 奇想天外なその夢を筆舌するにはあまりある、各々読者諸賢の想像力にお任せしたい。


 夢とはこうあるべきであると、悦に入った勝の口元は綻んでいた。


『少年よ目覚めよ!今をもって目覚めぬは男の恥ぞ!』


 行者の声が頭の中に木霊する。


 不逞の総代である行者と愉快痛快の希少たる夢。いずれの誘いを受けるんかと問われれば択一する必要さえも皆無でああろう。


 無論、勝は行者を無視し、堪能すべき益夢に満場の一致を見た。


 しかし、その後間髪入れず、勝の頬に中に温かく柔らかい何かが触れたのである。埃にしてはっきりとした感触であり、それはまるで綿菓子の様であった。朧気ながら鼻腔に広がるすがすがしい石鹸の香りとて埃にあらず。


 行者を受け入れるは愚なれど、不可解な事象を確認するは万物の本能なのである。最悪、早起きの家蜘蛛であったならば、即座に飛び起きて天誅を加えねばならぬ。


 勝は朦朧と薄目を開けた。滲んだ視界には覆い被さる影がある、蜘蛛であったなら今まさに勝は食われようとしているはずだ。


 だが、影には微かに輪郭があったように見えた。


 それが何であるかは露ほども考えつかなかった。青白い光が窓から差し込み、影がやがて小さくなる。どうやら眠りを妨げる害虫の類ではないようであった。


『少年よ。千載一遇の時を逃したのだぞ……』


 溜息混じりに言う行者。


 幻聴か勝は『行ってきますっ』そんな桜の声を耳にした後、再び益夢再びと瞼を閉じてしまった。


 愉快な夢を所望するは万人の望にて、『良見夢』なるいかがわしい薬まで、夜の闇で暗躍するのであろう。


 富と権力を得た亢竜とて切望するは不老不死にあらず。現実主義者の昨今、始皇帝のように蓬莱へ仙薬を取りに行く者もいなければ徐福なる方術士に財産を託す阿呆もいないのである。


 全ては現世での悦楽を追求するのみ。


「勝ちゃん朝ご飯」 


 いつも通り桜に起こされた勝は生気なく上体を起こした。


 まず、枕が頭もとにあることを確認する……どうやら枕がえしに蝕まれてはいない様子である。


 思いだしてもおぞましい……なぜ、かような良夢がいかの変遷と宙返りを繰り返せばこのような悪夢に取って変わるのだろう……


 空腹には堪らない朝食の香りに吸い寄せられる様に勝は居間へ向かう。そこには夢から覚めた様にブラウスとスカートの桜が先に座って居た。


 同じ目覚めであれば、桜を見ている方がずっと心地よい。


「勝君も桜ちゃんを見習ってもう少し早く起きなさいね」 


 茶碗にご飯をよそいながら、咲恵が呆れ顔で言った。


 厳かにして粛々と朝餉の時間が過ぎて行く。別段会話がないわけではない。ただ眠気を拭いきれない勝が参加できないだけで、咲恵と桜は何やら楽しそうに会話をしている。


「勝君。そろそろ薪拾いに行って来て頂戴。今月は農協に薪を頼まなかったのよ」 「はいはい」


 風呂番である勝とて今月は薪の補給がないことを訝しんではいた。「返事はいっかい」と続ける咲恵を無視して、勝は『また山登りかと』しみじみと味噌汁を味わった。


 朝餉の後、背伸びを勝は継ぎ当ての施されたズボンに着替えると、納屋の中にある背負い子を出し、土間まで背負って戻った。


「桜も行くのか?」 


 板間に水筒をたすき掛けにした桜が立って居た。


 見たことがない桃色のカーディガンを着ている。デパートで買ったのだろうと勝は別段気にも止めなかった。


「二人とも、気をつけて行って来てね」


 土間に並んだ二人を板間で見送った咲恵が言う。


「行ってきますっ」


嬉しそうな桜とは対象的に勝は無言で戸に手を掛けた。 


「ねぇ、神ノ峰って遠いの?」


「そんなにかかんねぇよ。走って登れるしな」


 向かうは神ノ峰は。神社の境内から続く登山道を登る。古から続く民間信仰の対象である神ノ峰の山頂付近には社が建てられ、初日の出を御山で拝みそのまま山頂の社で初詣済ませるのがこの辺りでは恒例なのである。


「勝ちゃん」


「なんだ」 


「呼んだだけ」


 残念そうに桜が言う。


 桜はなぜかとても嬉しそうであった。勝は無言で首だけをひねると、背負い子を背負い直した。


 そのまま、無言のまま選果場の前を過ぎ、鳥居が見えて着た頃になって、


「このカーディガンおばさまが編んでくれたの」


 と桜が吐露した。「へぇ」と勝は言うに止まった。


 連日夜なべ仕事で何をしているのかと気にはなっていたが、まさか桜のカーディガンを編んでいようと思いもよらなかった。


「私、お母さん居ないから。手編み初めてなの。おばさまに編み方習うつもりなんだぁ」


 言葉にせずとも、桜が喜びと感服の様子は表情と醸す雰囲気を見れが窺い知ることなど雑作もない。


「母さん、編み物上手いからなぁ。俺もセーターとか腹巻きとか編んでもらった」


「羨ましいな」


 そこにある幸福や幸せなどとは気が付かぬがゆえに幸せであり幸福の体を成すのである。実際に勝は未だに母の手編みの品々を取り留めて有り難いと思った事はない。


 そうか?。と勝は登山道へと足を進める。


 裸の広葉樹が多くを占める森はこの時期とても明るいのでああった。石畳にそって、所々くねった山道を一気に登って行く。中腹からは直線の道となるがその分勾配がきつくなって行く。


 枝の間を縫って大海原が見えた。視線をひけば木々の枝には黄緑色の新芽が着実に育っている。肌寒い今日とて、春はすぐ側へやって来ているのである。


「見てっ、櫻が咲いてる」


 カーディガンを脱いで腕に掛けた後続の桜が指を差した。


 殺風景な山肌の中に唯一の暖色が鮮やかに賑わいを醸し出していた。早咲きの櫻はその優美の花弁をこれ見よがしに見せつけ、さぞ優越なことだろう。


「山頂に行けばもっと見られるぜ」


 井中の蛙ほど、嘆かわしいものはない。


 そそり立つ様に階段を上りきれば、視界が急に開ける。社務所の様な小さな小屋があり、その隣には社があった。社の前方階段にして数段降りた所に鉄骨で作られた展望台があった。


「わぁ、良い眺め」  


 展望台が見えるや一番に駆けだした桜は胸元まである手すりに手をかけて、目の前に広がる絶景に感動の声をあげた。


 眼前には、無名の山が屹立と聳えている。その山の中腹、丁度この展望台と同じ高さの山肌の一角に、桃色の絨毯が敷かれているかの様に山櫻が早咲きしていた。


「伐採した後に櫻植えたんだって」


 勝は枯葉がのった木製のベンチに背負い子を置くと、桜の隣へ立った。


「そうなんだ」 


 世の中にはなんと粋な人がいるのだろうと桜は思った。少し汗ばみ、呼吸も荒々しくなった。今では汗が冷えて肌寒い。


 しかし、これだけの眼福を味わうことができるのであれば、そんな些細なことは気にならなかった。


「薪拾いに行って来る」


 勝はそう言うと、社の前を通り過ぎて、山道よりも道幅の広い道へ歩いて行った。「私も」っとそれに桜が続く。


 道を進んで行くとやがて小さな小屋に行き着いた。道もこの小屋で途切れている。どうやら、この小屋へ向かうのが目的であった様子である。


 勝は「足下気をつけろよ」と言うと枯葉に覆われた地面を歩き小屋の裏側へ向かった。小屋の裏側に出て見ると、どうだろう、枯れ柴の束が山のように積まれているではないか。


 桜は……、と考えた勝は、


「一束でいい」


 と束を一つ桜の足下へ置いた。


「うん」


 両手にそれぞれ柴の束を持った勝は来た道を帰る、桜は柴を抱えてそれに続いた。


「ねぇ、あれ勝ちゃんが全部集めたの?」 


 展望台へ戻った勝は、背負い子に柴を積むと、それを背負い子に巻いてあった針金で固定している。


 いいや。と平然と言う勝。


「じゃあ泥棒なんじゃ……」


「別に気にしなくて良いんだ。どうせ、秋になればみんなで手分けして集めるんだから」


 俺は去年三束分は集めたからな。と腕を組んで言う勝。


「でも……やっぱり、いけないよ」


 と苦言を呈す桜であった。


「売ってる奴だっているんだ。自分で集めた分取るぐらい悪いもんか」


 さも当然と勝はそう言うと展望台から降ろされた梯子を降りて行った。


 桜が欄干に手をやって下を覗くと、勝の姿がない。


「勝ちゃんっ?」


「危ないから下がってろよ」 


 そんな声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には斧で割られた薪が展望台へ向かい飛んで来た。「きゃっ」と思わず頭を抱えてしゃがみ込む桜。


 勝が意地悪でもしているかのように、ある薪は桜の足下へ落ち、ある薪は手すりを打って再び下へ落ちて行った。


 たかが薪されど薪である。乾いた着地音と共に跳ねる薪であったが、体に当たれば相応に怪我するであろう。その上は下手に動くわけにも行かず、桜は動くに動けなかった。


 どれくらいが展望台の床に散らばっただろう。桜が顔を上げると、丁度、勝が顔を出した時だった。


「勝ちゃん危ないよ」


 頬をおたふくみたく膨らませて怒る桜。


 一方の勝は頬を紅潮させて、頭を掻いている。


「もうっ!勝ちゃんのすけべっ!」


 桜はスカートを気にしながら急いで立ち上がると、足下に落ちていた薪を拾い上げ上投げで勝に向けて投げた。


  ちょっ、と勝は顔面蒼白で間抜けな声を出した。


「見てないってっ!見えそうだっただけだっ!」


 火に油を注ぐ弁明の後急いで顔を引っ込めた勝。


 薪が放物線を描いて吸い込まれるように勝の頭上へ落ちて行ったのはその刹那であった……


 大層尻餅をついてしまった勝は、腰をさすりながら、ベンチ座ると「ごめんね。大丈夫……?」と言いながら桜が入れてくれたお茶をすすった。


「大丈夫。あの……その、本当に見てないからな」


 今更ながらと思ったが、見ていない以上、そこは白黒をはっきりとしておかなければ後味が更に悪くなる。


 断言して勝が見たのは桜の膝と太股の一部だけなのである。


「うん……わかった……」


 まさか勝が梯子から落ちるとは想像もしなかった桜は、殊勝にも薪を拾い集め献身的に薪を縛るのを手伝った。


 怪我の功名とはこれ以下に。尻餅をついたお陰で、完全に盗品である薪を桜に言及されずに済んだのである。


 後先考えずいつも通り、展望台下に保管されてある夏祭り用の薪をくすねた勝。後に桜に追求されれば、役者でもあるまいし気の利いた言い訳は疎か、咲恵に露呈することさえ必死であった。されど、終わりよければ全てよし。


 こうして平穏無事に茶などすすって居られるのである、今後の憂いがあるわけがない。「なに?」 


 茶をすすりながら、桜を見つめていた勝に桜が首を傾げた。


「なんで頭飾りしてんのかなって」


 カーディガンよりも色の濃いカチューシャを桜は身に着けていた。気が付いていなかったと言えば嘘になる。


 ただ、今頃になって気になったのである。


「昨日、勝ちゃんが似合ってるって言ってくれたから……多分だけど……」


「あー」


 そんなことも言ったかと勝は頬を掻いた。


「本当は、せっかくお出掛けするんだから昨日、買って頂いたお洋服と靴で来たかったんだけど……汚れちゃうから、これだけにしたの」


 桜は頭を傾けて、新品のヘアバンドに優しく触れた。黒髪に映える赤。その明暗比は絶妙な見栄えを醸している。


 一目で桜がそれを気に入っているのだとわかった。


「桜、似合ってるぞ」


  勝は桜の瞳にそう訴えた。


 もはや何も考えるまい。事実である前にそう言わぬは男にあらず。


「そんな面と向かって言われると、恥ずかしいな……」


 桜は勝から顔を背けると、絡ませた指をもじもじとさせながら徐に立ち上がり、欄干まで足を進めた。


「今から少し独り言、言うね……」


 背を向けたままそう言った桜は、視線を空へ移した。


「私ね。勝ちゃんが桃色本持ってても気にしない」


「ばか、持ってねぇって」


 桜の背中に向かい、濡れ衣である!と勝。


「独り言っ!」


「ああ……」


 それは不公平ではなかろうかと勝は、茶の入った水筒の蓋をベンチの上へ置いた。


「私、多分もうそろそろ転校しちゃう……でもね、初めて、離れたくないって思ったよ。この町からも勝ちゃんやおばさま、景ちゃんとも……」


 それを言うと桜は俯いた。


「それも独り言か……」


「……うん……」


出来ることならその日まで目を背け続けたかった……すでに桜が近々転校する事は橘先生から聞き、知りおいている。


 だが、勝はその事実から逃げるしかできなかったのである。『出会いがあれば別れもある』そんな慰めで胸の内を鞣すなど、得心を欺瞞するための詭弁でしかないのである。だからと言って何をどうするも、何もできずにいる勝は急激にもどかしさに苛まれてしまった。


「じゃあ俺も独り言うからな……桜が転校すること知ってた……橘先生が教えてくれた。それから……短い間だけど、桜と仲良くしてやってくれって……」


 桜は驚愕の表情を浮かべ振り返った……宙を舞った髪が遅れて肩に落ち着く。


「でも俺はそんなんで仲良くしてるわけじゃないからな」


「そんなのわかってるよ」


 桜は当惑した様子ながら、勝の言葉だけは全身で受け入れた。勝がそんなに器用でないことぐらいわかっている……


「独り言だって」


「ごめん……なさい……」


 出しゃばって失敗したウエイトレスのように、桜は再び視線を床に落とした。勝の表情を窺おうと、上目遣いにて何度か視線を合わせたが、その度に桜は視線を逸らすのだった。


「俺、桜が転校するって聞いた時、どうしたら良いかわからなくなった。だけど、後悔はしたくないんだ……」


 後悔だけはしたくない。ただ、それだけが言えた。本気でそれは思っていたのだ。桜と共に愉快に笑ってさえいれば、残酷な懸案さえも忘れられる……今までのように……これからも……


「勝ちゃん……」


 桜もどうして良いかわからず、拳を膝の上に置いて勝の隣に腰を降ろした。


 勝とて桜とて互いに言葉を掛けられずに佇む他になかった。それだけ考えたくなかったのである。


 その瞬間を頭に思い浮かべるだけで胸が締め付けられ、 虚心にも切なさだけ溢れんばかりに感情を混乱させるのである。


 現実とはさも酷なことか。


 それから二人はしばらく押し黙ったままであった。いつしかお茶の湯気さえも霞と消えてしまった。


 そんな頃、救世主たる人物が気まぐれにも姿を現したのである。


「二人してなにしてんの?」


 眉間に縦皺をつくって景が言う。


 密会……?。と言及すると。


「ちっちがうわいっ!薪拾いだっ!」


 背負い子に積まれた柴や槇を指さして言う勝。


「薪拾いねぇ。じゃあなんで桜はたかが〝薪拾い〟にお洒落してるわけ?」


 乙女ゆえに桜の格好には気になるのである。薪拾いなど汚れ仕事であるにもかかわらず、明るい色の上着にカチューシャまで……景からすれば疑いどころ満載なのであった。


「勝ちゃんが喜んでくれるかなって……」


 水筒を弄びながら、背中越しに言う桜。


出し抜かれたわ……。っと景は勝達の後方にあるベンチへ乱暴に座り込むと、


「部活さえなきゃ……」


 溜息と共にそう吐露して項垂れた。


「まぁ、一緒に住んでんだもんねぇ。悔しいけど」 


 続けて諦めた様に景は言うと、靴の紐を解き始めた。


 景の言動に顔を見合わせる勝と桜。


 新しい靴の紐は馴染んでおらず、解くのさえ困難な様子であり、その様子を見ていた勝は、少し考えてから、


「景。それって……」


 景が脱いだ靴に顔を寄せて勝が呟いた。


「にひぃ。スパイクよっ!」


 「「おぉ」」っと勝と桜二人して、新品のスパイクに視線を釘付けた。


「部活終わって家に帰ったら届いてたのよぉ。だからっ自主トレもかねて、スパイク履いて山登りしてみたってわけ」 


 鼻高々と景は淡々と語る。嬉しくて自慢したい気持ちがありありと前面に出ていた。


「すっげぇなぁ」


 野球道具憧れる勝にとって、スパイクはまさに憧れのまた憧れである。野球部を除き、友人とて所詮はグローブ止まりであり、スパイクなどと言う至宝を足に空き地を駆ける姿はない。


「触ってもいいか?」 


「別に、そんな大層なもんじゃないわよ」 


 素足をばたばたとさせながら、「大袈裟よ」と微笑む景。


「これで踏まれたら痛そう」 


 勝が手に取ったスパイクの裏を見て桜が表情を歪ませた。靴裏には銀色に光るの歯が何本か並んでいる。


桜の発言に思わず、足を踏まれた想像をしてしまった勝は、


「ほんとうだな……」


 と桜の方を向いて声を詰まらせる勝だった……


「それにしても、今日は部活早いんだな。いつも一日やってんのに」


「そうなのよぉ。監督が入院しちゃってさぁ。毎日午前中だけ走り込んで終わりなのよねぇ」


 頭を抱える格好をして「練習になりゃしない」と続けた。


「腹痛でか?」


「うーん、盲腸……って……腹痛だと思うけどさぁ」


 腕を組んで首を左右に振る景。『盲腸』とは未だ勝と景の認識は『腹痛』の域を脱して居なかったのである。


「盲腸って……お腹切らないといけないから、腹痛じゃなくて、大変な病気だと思うけど……」


 うーん。と考える景と勝の横から桜がそう静かに言った。


「うっそぉ……」「それほんとか……」


 『お腹を切る』その言葉に幻滅した二人は声を揃えた。


「本当。お父さんが昔、盲腸で手術したって。お腹に傷もあったもの」


 むぅ、と景は自分の腹を押さえて声を漏らした。


 はたして想像出来るはずがない。腹を切開せねば治らぬ病などと……あわよくばそのような悪病に関わりない一生を切望する二人であったが、それは誰とて同じであろうと思いなおした。


  景の『脱 球拾い!背番号獲得試合』のことや、試合が終わった後三人で遊ぼうと朗らかな陽気に似合った会話で盛り上がった三人は、水筒の中身が空になったところで下山することにした。


 先頭を勝が歩き、続いて景。桜がしんがりとなった。背中に重りを背負った勝は自然と足取りが速くなり、途中何度か振り返りながら、登って来た山道を下った。


 その内、休憩を求める桜の声が聞こえ、二度ほど休憩をとった。しかし、求めた本人である桜は随分と涼しい表情でおり、むしろ座り込む景を心配している様子であった。


 事態が動いたのは丁度神社の境内まで来た時であった。


「勝ちゃんたち先に帰ってて、私少し休んでいくから」


 と額に脂汗を浮かべて景が階段へたり込んだのである。


大丈夫……?、と傍らへ腰を降ろす桜。


「景ちゃん足が痛いんじゃないの?途中から歩き方おかしかったし……」


「景。靴脱いでみろ」 


「もう、大袈裟ねぇ。大丈夫だって」


 気丈に振る舞うも額にへばりついた前髪からして、大丈夫ではない。


「勝ちゃんいいってば」


 勝は背負い子を階段へ立て掛けると、嫌がる景を尻目に靴ひもを解き、強引にスパイクを脱がせた。


 痛っ。その瞬間に顔を歪める景。


「お前な」


勝は景の足を見ると、呆れて溜息をついた。


 景の踵には大きく皮が剥がれ出血していたからである。俗に言う靴擦れであった。


「よく我慢できたね。すごいよ景ちゃん……」


両踵に痛々しく除く肌色以外の色に桜はポケットからハンカチを取り出すと、出血の多い右踵へ優しく巻いてやった。


「ありがと桜」


 気にしないで、と桜。


「ったくよ」


 その隣では悪態をつきながら、勝が背負い子に固定してあった針金を解いて柴やら薪やらの束を乱暴に砂利の上に転がしていた。


「ほら、乗れよ家で手当してやるから」


  軽くなった背負い子を背負った勝は、そう言うと景の前にしゃがみ込んだ。


「いいよ、少し休んだら歩けるし、第一恥ずかしいし」


 両手を顔前でぶんぶんと振って拒否する景。


 しかし……


「明日練習できなくなったらどうすんだ。父ちゃんに良いとこみせんだろ。だったら恥ずかしいとか言ってんな。さっさと帰って薬塗って治せ」


 勝は景の言葉など意に介さず本気であった。


 愚昧なことをしたものだ。勝の言葉が突き刺さった景は「うん」と背負い子に乗ることにした。自分の為にスパイクまで買ってくれた父や朝早くから夜遅くまで働いてくれている母に報いる為にもなんとしても背番号を手に入れる。そう志を固めたはずだった。しかし、一時の感情に流され、目標を一瞬でも見失ってしまった……なんと情けないことだろうか……


 勝の言うとおり、恥ずかしいなどとそんな戯れ言を吐いている場合ではない。勝とて掲げる目的と行動の矛盾にさぞ腹を立てただろうと、景は項垂れて溜息をついた。


「お前頑張り過ぎなんだよ」


 しかし、次に景にかけられた言葉は意外であった。


「えっ」


「足が痛いなら痛いって言えよな。別に俺たちは急いでるわけでもないんだから。それに、練習だって、一人でしないで俺達にも手伝わせろよ。俺達、友達だろ」


 勝の表情は窺い知る術はなかったが、きっと顔を赤らめているだろうと景は嬉しくなった。


「景ちゃんよかったねっ。私も練習手伝うから」


 そんな景を覗き込むようにして言った桜。


 わぁっ、景は視線に突如現れた桜にたいそう気の抜けた間抜けな顔を見られただろうと、景は背負い子の上で手足をじたばたとさせた。


「暴れんな、ただでさえ重いんだから」


「女の子に向かって重いなんて失礼でしょ」


 むくれた景は勝の頭を何度も叩いた。


「いってぇなっ。重いもんは重いんだっての。でか尻っ!だから足が遅いんだろ」


 叩かれた腹いせにと少々言葉に毒を織り交ぜた勝。


勝は忘れていたのだ、背負い子で身動きが取れないの景の他にもう一人乙女がたことに……


「勝ちゃん言い過ぎっ!景ちゃん可哀想」


 横に並んだ桜は、強い口調で勝に顔を近づけた。


 桜は怒った顔とてこれいかに……またひとつ桜の魅力を発見した勝は景への暴言など、すでにどうでもよかった。


「反省してないでしょ!」


 面持ち良く桜の顔を見る勝に桜は更に怒り、手に持っているスパイクを振りかざしたのだった。


 えっ!、みるみる勝の顔から血の気がひいて行く……振りかざされたスパイクには陽の光を浴びて鈍く光る鉄の歯。『踏まれたら痛そう』そう言った桜の言葉が鮮明に脳裏を過ぎる……そして、思った……『殴られた方が痛いに決まっている』と……


「ちょっ、ちょっと待った桜っ!。それは死ぬって!」


 駆け出す勝。 


「問答無用っ!」


 追い掛ける桜。


「勝ちゃん、落ちるって吐くってっ!」


 赤べこの様に首を忙しなくと揺らしながら景が絶叫する。


「桜に言えよっ」


「駄目よ景ちゃん。同じ女の子として許せないもの!」


 桜はどうしてもスパイクで一撃天誅を加えなければ気が済まない様子。


「だぁーかぁーらぁー。私は乗り物酔いするのよぉおおっ!」 


景をそっちのけて怒りの砲口を勝へ向ける桜はもはや赤色に狂う闘牛である。逃げる勝とて、剣を忘れて闘技場の舞台へ立ってしまったマタドールよろしく永遠と逃げ続けは必定なのである。


 果たして景の運命やいかに。





      ○





 翌日の昼過ぎ、有言実行と桜と勝はグローブとボールを持って階段で佇んでいた。すでに軽くキャッチボールを終えての小休止である。 


「お待たせ」  


 景がかちかちと靴を鳴らしながら、境内へ入って来た。


「へぇ、桜グローブ二つも持ってるんだ」 


 勝と桜が携えるグローブを見て、景が感心する。


「これお父さんのなの」


 と桜。


「さっさと始めようぜ」


 久しぶりに出来る野球に勝は肩をぶんぶんと回し、意気込みを見せつけた。


 肩慣らしと、三角形に広がった三人は時計回りにキャッチボールを始めた。


 その記念すべき第一球目は勝の手の中に。勝は大きく振りかぶるとグローブを構える


桜へ向けて、全身の力を込めてボールを放った。


 その瞬間に桜は手を頭にやり、グローブを頭に被せるようにして、階段の方へ逃げた。


 カタパルトから放たれた石のように放物線を描いて飛んで行く白球は、例の如く床板とドブ板を華麗に踏み抜き、ものの見事に角燈に命中した。


 無惨に地面に落ちた角燈は波線を四散させ、それは目も当てられない状態となってしまった……


「あーあぁ」


 一球目からの大暴投である「勝ちゃんのノーコン忘れたわ……」と出鼻をくじかれた景は、肩を落とした。


 そもそも桜は戦力外の予定であり、頼みの綱であった勝もこの有様。こんな調子で満足な練習ができるはずがない。精々ノックが関の山である。


 桜は迅速に角燈へ駆け寄ると。目立つ残骸を勝に習って熊笹の中へ放り投げた。


 うわぁ、と桜の暗黒面を見たようで景は思わず声を出してしまった。


「桜も結構……わるよね」


「見つかんなきゃ大丈夫だって」


「そう言う問題じゃなくってさ」


「勝ちゃん、力んじゃだめっ」


 桜はボールを拾い上げてから、唇を尖らせて言った。


「わりぃ」


 勝は土産でもらった野球帽を取ってそう返事した。


「桜も力まなくていいわよぉ」


 景はほいほいっと、桜の山ボールを予測し幾分前進してグローブを構えた。


 それを見た桜は、すでに温まっている左肩を何回か回すと、最速投法の構えに入った。


 大きく振りかぶり、スカートゆえにやや低めに上げた左膝。


 景は『まさか』と心中で思ったが、所詮はこけおどしだろうと、判断を誤ってしまった。後ろに捻り上げられる肘は肩よりも高く、なんと理想的なフォームだろうと景は思ってしまった……


 一瞬の躊躇……


『出来るはずがない』部活動にも従事していない桜が『出来るはずがない』。むしろ『できてたまるか』と毎日練習に明け暮れる景は思っていた。


 だが、桜の手から放たれた白球は流星のごとくに一線を描き、気が付いた時には景の目の前に迫っていた。


「わっ」 


 景は何とかグローブに収めたものの、反応が遅れた分無理な体勢で捕球した為に尻餅をついてしまった。


 信じられないと言った表情で桜を見た景。


 桜はまるで挑発するかのように、グローブに右手拳を数回叩き付けて見せた。


 明らかなる宣戦布告である。


 景は目元を痙攣させると、「景ほら早く投げろよ」と言う勝を完全に無視し、距離を取ると、ボールを右手で握り締め桜に突き出して見せた。


 それは偏執的衝動にも似ている。ソフトボール部に所属汗を流しての鍛錬を重ねる景にとって、自負すべき誇りがそれを見逃すわけにはいかなかったのである。球技部に身を置く上は負けられぬ戦いなのある。 そして、桜と同じ最速投法にてお返しとばかりに渾身の力で投げ返したのであった。


 そんな応酬が勝そっちのけで何度かあったが、互いに一歩も譲らず結局勝敗は決するに至らなかった。


 当然、勝は面白いはずがない。力を押さえて投げればグローブにめがけることができるのである。初っ端からだい暴投を披露したことに桜と景が怒っているのかとも思ってみたが、両者の闘争心を勘ぐりただ、自分がのけ者にされているのだと悟った。


「なぁ、ノックしようぜ」


 呼吸を荒げる、二人を尻目にバットを手に素振りを始めた勝が提案した。


 丁度頃合いだろうと、桜は景の後ろへ駆けて行き。ようやく、勝が練習へ参加することができたのである。まだ潰れた肉刺が痛んだが、包帯をしっかり巻いている限りは悪化することはないだろう。


 勝は両手につばを吐きかけて、気合いを入れると前回同様、終始全力でバットを振り抜いた。


 途中景の髪ゴムが切れ、一時中止を挟んでから、ノックが続けられその次は景のたっての希望で、本番さながらの対戦形式の練習をすることとなった。バッター勿論景であり、ピッチャーは桜が務め。残るキャッチャーを勝が担当した。


 三者三様、額に汗し、衣服を泥まみれになるまで練習に打ち込む。


 夕日が顔を出し始める頃、桜と勝は階段に腰かけ腕立て伏せやら走り込みなど、自主トレーニング行程をこなす景を見ていた。


「景ちゃん毎日こんなに練習してるんだね」


 私もうくたくた。っと桜が続けて言った。


「俺は腹が減った」


 腹の虫を鳴かせて勝が階段に背をもたせる


 私も、と桜もお腹を押さえて言った。


「今日の晩飯なんだろうな、椎茸の煮物はやめてほしい」


「勝ちゃん、椎茸嫌いなの?私大好きなんだけどな」


 肉が食いたい……。呟く勝であった。





       ○





 直向きな努力こそ明日への栄光へと繋がるのである。先人は言った『努力の道は全て栄光へ通ず』と。


 後悔をせぬように後腐れのなきように、三人は連日境内にて爛柯【らんか】として鍛錬に勤しんだ。


 しかし、練習を重ねども景の不安は杳として晴れなかった。練習にも量にも限界があり、果たして己の技量向上に役立っているのか?毎朝起きては母が用意してくれたささやかな朝食を一人で食べながら景は物思いに耽るのである。


 しかし、練習着に着替えるなり先見で憂うのは凡愚の所行であると、不安を散らす為に一心不乱にグランドで走り込みをするのであった。残った疲労感だけが、充実感が唯一景の後ろ向きな心胆を和らげてくれた。


 夕焼けが沈む頃、景は決まって勝の家で風呂に入り夕餉を共にしてから家に帰る。家のドアを開けると夢から覚めたような気持ちになった。『お帰り』と言ってくれる人のいない家の中は不気味なほど静謐であり、電気をつけたとて明るくしたとて、それは何ひとつ変わらなかった。


 景は決まって家中の電気をつけてから、居間で母の帰りを一人待つのである。


 勝の家には咲恵がいて桜がいて。一時であってもととも温かくて賑やかで……ゆえに景は照らす電球にの光が冷たく感じるのであった。


 


      ○





 その日、庭の畑への野菜の種まきでいつもより遅めに境内へ到着した勝と桜は、丁度良い頃合いに景がやって来るだろうと、キャッチボールを始めていた。


 連日の投げ込みで桜の投球には今ひとつ力がなかった。


 だが、コントロールには磨きがかかっている。それを言うなれば勝とて、同じである。


 全力投球に後一歩まで迫っているのだ。とは言え、肉刺が治らぬうちにバットを振るのである、いかに包帯を巻こうとも握力の限り白球を握ることはできなかった。


 それはさておいて、景はそれでも現れなかった。本来ならばキャッチボールを終えてノックをしている頃合いだろう。


 主役を欠く二人は、どうしようもなく汗ばんだところで休憩することにした。


「景ちゃん遅いね」


「居残り練習でもしてんのかもな」


 上着を脱いでシャツ一枚となった勝が言う。


「もう勝ちゃん」


 顔を背けて言う桜はカーディガンを脱ぐに止まった。


 しばしの沈黙、風の音と潮騒が静寂を良しとしなかった。別段話題もない。確かに勝は気がかりなことはあった。


 だが、それは口に出すのは避けたかったのでる。真相心理において桜の機微を知るのは恐れ多く、そして、熟論を交わすのさえ自虐的なのである。いかに激論を交わそうとも得心など得られようはずもなく、仮に残酷な真実へ辿りつこう物なら即座に愚昧蒙昧との奈落へ飛び込む覚悟であった。ただでさえ常日頃は烏兎匆々【うとそうそう】と春休みとてすでに折り返しているのである。あまつさえその時は刻一刻と確実に堅実に迫り来ている。ことさら怯えはしなかったが、考えると自分の無力を改めて突き付けられたようでやりきれない気持ちになるのだ。


「ねぇ」


 桜に心中を見透かされたようで勝は思わず顔を上げた。


「なんだ」


「漢字の試験、どうして見なかったの?」


 そんなこともあったなと勝は、ほっと胸をなで下ろした。


 『ブス事件』の日に行われた漢字試験はさぞかし担当教諭は採点が楽だったろうと、勝は思った。なにせ、適当に書き殴った象形文字とお粗末な自作漢字がぽつぽつと枯れ木も山の賑わいと回答欄に並び、後は虚しくも空欄なのである。未だ母に見せていない惨憺たる通知簿に荷担したことは明白であろう。


「そんな卑怯なことができるか」


 とは言え、己の内に潜むいじましい道化に怯まず、内発的自爆を持って己の誇と尊厳を守り通した点では、ささやかな自己満足なのであった。


「机に書くのも卑怯だと思うけどな」


 桜は唇を尖らせて言った。その横顔は繊細微妙な乙女心に憂いを配合した趣のある横顔であった。阿呆男は油断している、百度の戦いに敗れてなお、一度の決戦に勝利した男はまさに隙だらけであり、今晩にでも常備菌などに日和見感染してしかるべきである。


「あれは自分で書くからいいんだ」


 ぶざまな言い訳である。


「やっぱり、ずるっこだよ」


「じゃあ、なんで桜は、俺に答案見せようとしたんだよ。見る方もずるっこなら見せる方もずるっこだろ」 


 踊る阿呆も見る阿呆も同じ阿呆に変わりない。あながち逸脱していない主張である。


 しかし、いかに不正を肯定しようと足掻いた所で土石流を遡上しようと藻掻くに等しく、所詮、不正と言う黒にどれだけ色彩にを加えようと黒は黒なのである。


「朝のこともあったし、机に書いてて先生に見つかったらそれまでだもの、答案を見るだけなら、跡も残らないし」


「でもさ……俺の答案と桜の答案が間違ってるところが一緒だったら、ばれるんじゃないのか?」


 素朴な疑問である。


 あっ、と桜は間の抜けた声を出したが、


「私、満点だったもん!」


 取り繕う様に桜は言ってから頬を膨らませ「ちゃんと勉強してるもん」と続けた。


「キャッチボールしようぜ」


 ささくれだった心を静めるべく、勝は大きなあくびと共に立ち上がった。


 うん?、涙を擦りながら鳥居をくぐって来た人影を見つけた。


 その少女は肩につくか否か微妙な長さの髪の毛を後ろでひとつに束ね、中央で分け、まるで背を向け合った円月刀の様に反った前髪は頬にかかっている。野球部を思わせる練習着にバットとグローブを携え、胸元には『竹下』と名字が縫い込まれていた。


「景っ!髪どうしたんだ!」「景ちゃんっ!」


 勝と桜は遅れてあらわれた景のもとへ駆け寄った。


 見事に腰元まであった黒髪は姿を消していた。


「誰かにやられたのか」


「いや、そう言うんじゃなくって……ね……」


「ガスで焦がしちゃった?ちりちりって……」 


 言及はともかくとして、桜も切実な眼差しで景の心中を察していた。 


「その、私も気合いを入れたのよ」


「「気合い?」」


 桜と勝は声を重ねて互いの顔をみ見合わせた。


「みんな頑張ってくれてるのに、なんか私だけ気合いが足りないなぁって、ほら、練習中も髪の毛が解けてたでしょ。試合中は結ぶ時間待ってくれないもん」


「あぁ……」 


 景の言う事は勝や桜が思い描いた原因よりも、よっぽど論理であった。


「だからねっ。誰にやられたわけでも、ガスでちりちりになったわけでもないの」


「ならいいけど……」 


 得心はいったが、妙な歯切れの悪さを勝は感じた。


「さぁっ!練習しましょう!今日は髪を切ってもらってたから、遅くなっちゃったしね」


 身装こそ練習着であったが、髪型が変われば少女の印象が変貌しないわけがないのである。新鮮な景の姿に勝は違和感を感じずにはいられない。どうしても、景の髪へ視線が行ってしまう、とても集中などできようはずがなかった。


 桜とて勝同様に、浅薄な理由で景が数年越しに蓄えた髪の毛をひと思いに切ってしまうだろうかと、友愛にも景の心胆へ迫ろうと熟慮をかさねるもこれには遠く。かと言って、これ以上の言及は勝との不文律であった。


「よしっ!」


 砂利に触れて軌道を変えたボールを景が横っ飛びでグローブに収め、勝ち鬨をあげた。友人二人が見守る中景は、快哉であると会心の笑みを浮かべていた。


 杞人憂天であろうかと、練習に打ち込んでいく間に勝と桜も考えない様にした。家に帰った後、咲恵を交えて話しをすればやがて明らかになるだろうと思ったのである。 


 さすがに持久戦ともなれば、日々鍛錬のかくありきが差となってありありと鮮明に出てくる。連日の練習に桜と勝の体にも疲れが溜まってきているのだ。


 痛みもなければ倦怠感もない。しかし、明確に調子が悪いのである。勝は空振りをする回数が増え、桜も明らかに投球の冴えが失われている。


 ゆえに今日は実践練習の際、ノックのごとくほぼ全球桜の頭上を越えて行った。それらと比較するなら、景の持久力たるや断然ぬきんでていると言えよう。


 それこそ日々鍛錬の賜なのである。


「景……?」


 二人して階段で休憩し、景の走り込みを眺めていたのだが、突如景が砂利の上に倒れ込んだ、仰向けになって何かを必死に我慢している様子である。


 勝が疑問符を浮かべてのんびりとしている傍ら、その光景を見ていた桜は無言で立ち上がると、景の元へ駆けよっていた。


「勝ちゃんはつま先押してっ!」 


 桜は後から駆けつけた勝にそう言うと、景の膝を両手を乗せ体重をかけて膝を伸ばしていた。


 おう、勝は言われたまま、つま先を押すべくスパイクの裏に手の平をあてた。丁度鉄の歯が手に食い込む形となったのは、この際諦める他あるまい。


「これでいいか」


「うん」


 桜の表情は真剣そのものである。


「ありがと、楽になった」


 ふぅ、と行息をついた景は、桜に肩を借りて階段まで行くと、全身の力が抜けたように崩れ落ちた。


「助かったぁ」


 ふくら脛をさすりながら景が言う。


「捻ったのか?」


 どうやら違うであろうと、見当はついていたが……


「痙攣よ。前にも部活中にあったの、その時は監督に伸ばしてもらったんだけどね。まさか桜が知ってるとは思わなかった」


「ありがとね。桜」と続ける景。


 頷く桜。勝は今ひとつ要領を得ていなかった。


「景ちゃん疲れが溜まってるんだよ」


 かもねぇ、と景は項垂れた。


「なんか損した気分」


 桜の助けを得て、重傷化を免れた景。しかしまだ走り込みは道半ばであり、最後まで練習をやりきれなかった後悔の念は否めなかった。


 しばらく石段に腰を置いて、足をさすっていた景は、眼前でキャッチボールを行う勝と桜の姿を見ながら何度となく溜息をついた。


 だが、不幸の後には必ずちょっとした幸福が訪れるものである。それを人生の妙味と思索するは阿呆か夢想家の類であったが、景にとっては無論そんなことはどうでも良い。


 結果として幸福が訪れたのだ。


「ほら景、おぶってやるよ」


 今一度記す。景は桜による的確かつ早期の処置によって、重度化は免れたのである。


 しからば帰路を歩む程度であればなんら支障はない。


「歩けるから大丈夫よ」


 と言いつつ……


「いいから」


 と言う勝の言葉待ってみる乙女心。


 景は桜の顔を見やると、桜も微笑みを浮かべて頷き「靴は私が持つね」と言うのだった。


 じゃあ。と景は勝の背に身を任せる事とした。


「服汚しちゃったね」 


 勝の背中についた泥を気にして言う景。


「別に良いよ、洗うの俺じゃねーし」


 後で咲恵に謝っておこうと思う景であった。


 思い出とはかくも過去を彩る。幼少のみぎり、膝を擦り剥いた景は今回同様、勝の背におぶられて家に帰った。あの時はただ泣いていた記憶が朧気ながら残っているだけである。より鮮明と言えば、最近、背負子でおぶられて帰ったことであろうが。


 ただ、とても安心できたことだけは忘れず、肌身に残っていた。いささか恥じらいが先立も、やはり、幼少の記憶は偽りではなかったと景は、背中に額をもたせた。


 勝の背中こんなにが大きく頼もしくなっていたなど、気が付きもしなかった……


「明日俺たち釣りに行くけど、景も来るか?」


 そうだ、と勝が思いついたように言った。


「行こっかなぁ。明日部活休みなのよねぇ」


 景は満更でもない。っと背番号争奪戦前、最後の休日であることを明かした。


「おっ、そんじゃ行こうぜっ」


「景ちゃん行こうよっ!」


 思わせ振りは時として大罪となる。


「休みは本当だけど、ごめん。練習しなきゃ……」


 冗談でも口走ってしまったことを景は深く反省するのであった。


「んだよぉ。嘘つき景」


「嘘じゃないもん。行くって言ってないでしょー」 


 景は握り拳をつくって勝の頭に近づけ殴る真似をして見せた。


 傍らを歩く、桜はそれを見て含み笑いをした。桜が笑うので景は楽しくなって、それを何度となく繰り返していたのだが……


「そうだっ」


 っと不意に勝が頭を上げ時は、不可抗力であると景は全力で弁明したかった。


 いってぇっ!。勝が唸ち声をあげた。


 景の拳に勝が頭を打ち付ける形で交差したのである。


 うそ……、景はぽつんとそう言うに止まった。


 予期せぬ出来事に咄嗟に気の利いた言葉など出てこようはずもない。景は拳に残る感触を無視して「わざとじゃない、わざとじゃないのよっ!」っと堰を切って釈明を試みる。それと同時に、勝がさすれない代わりに景が勝の頭を一心にさすった。


「ったく、暴れんなっ。ただでさえ重いんだから」


 憮然として言う勝。


 言葉に幾ばくかの棘があるのは致し方ないと景は納得した。むしろ喧嘩にならなかっただけで良しするべきであろう。


 しかし……


「勝ちゃん女の子のそんな言い方ないと思う」


 意外な所に飛び火してしまった様子である。


まぁまぁ、と景。


「いや、桜、私気にしてないから」


 言われた張本人を飛び越した火種は、桜の顔に皺をこしらえていた。景は嫌な予感がした。先日も同じ様な経験をしたからである……既視感すらある。


「本当に重いんだぜ、景少し肥えたか?」


 悪戯な笑みを浮かべながら、戯れと勝が言う。


「ちょっと傷つくなぁそれ」


 これに対して景もささやかな反論を試みるも、心ここにあらず、景は密かに劫火を宿す桜の動向が気になってしかたなかった。


「勝ちゃん!酷いよっ、毎日運動してる景ちゃん太るわけないでしょ!」


 ついに噴火してしまった。


「だから桜……」


「景ちゃんは黙っててっ!勝ちゃんが悪いんだから!」


 景の言葉を遮って桜は勝の前に踊り出た。


「桜なに怒ってるんだ?」


 首を傾げる勝。


「景ちゃんに謝って」


「何で」


 唇をきゅと結んだ桜は徐に右手に持っていた、スパイクを振りかざした。


「あの……桜……それ死ぬって……」


 先日の再来……顔から血の気が引いて行く勝の背では景が再び今後待ち受けているであろう厄難を予見し、顔面を蒼白とした。


 夕陽に照らされて、鈍く光る鉄の歯は猛獣牙の如く、それを手に持って殴りかかろうなら、明確な凶器以外のなに物でもない。


 桜の横をすり抜けるよにして駆け抜ける勝。


 荒波にもまれる笹舟のごとく景の首が縦横無尽と振れる。


「勝ちゃん私乗り物酔いするんだって」


 景はすでに胸の辺りに産声をあげつつある、嘔吐感に一抹の不安を抱えて抗議してみるも、「桜に言えって」背に腹は替えられまい。勝は景をおぶったまま風のように走る。後ろには鬼婆のごとくに凶器を振りかざした桜が追随するのである。


 背負子よりも随分と揺れは酷い。景は無我夢中で勝の首にすがりついたが……


「もぉーっ。私吐いちゃうってばぁああっ!」


 勝が走り続けるかぎり、景が救われることはないのである。


 追う者と追われる者。依然として構図を変えない二つの影。海岸線に景の切実な叫び声が永遠と木霊していた。





      ○





 夕餉を前に順番に風呂に入った景と勝はさっぱりした様子でテレビ観賞に勤しんでいた。ブラウン管には、白熱した野球の試合が投影されている。


 一球一球に声をあげる勝に比べると、景は随分と控えめである。


「やっぱ後悔してるんだろ」


 毛先を指で弄びながらもやはり物寂しげであった。


「ちょっとね。首の後ろもなんか寒いし」


 乙女が黒髪を切り落としたのである。哀愁のひとつ零してこそ道理である。


「俺は短い方が好きだな。うっとおしくなくて良い」 


 うんうん、と頷く勝。


「嘘つき。長い方が似合ってるって行ったくせに」


 口先をアヒルの様にして言う景。


「んなこと言ったか?」


「言ったわよ。でもありがと」


  嬉しい、っと景はラクガキの様な笑顔を見せるのだった。


 ちゃぶ台には着々と夕餉の準備が進められていた。今晩の献立は菜の花の胡麻和えと、大根の味噌汁に鯖のみそ煮である。


「景ちゃん明日お休みなんですってね。勝君達と魚釣りに行ってらっしゃいな」


 白飯を詰めた櫃を抱えて来た咲恵が正座しながら景に話しかけた。


「でも練習しないと、試合も近いですから」


「だからこそ、しっかり休憩と気分転換をしなきゃあ。最近、景ちゃんが部活動ばっかりで、相手してくれないって、勝君も寂しがってるのよぉ」


 景はすぐさま勝の顔を見やった。


「ばかっ、んなこといつ言った!」


 顔を赤面させて言う勝。


 そんな勝を見て景は溜息を一つ落とした。


「でも……やっぱり……」


 と景は指を絡ませながら視線を俯けた。


「じゃあ、ちょっと昔話」


 と咲恵が言うと、景と勝に向き直って話し始めた。


「私が景ちゃんくらいの時のお話」


 咲恵の両親はそれぞれに忙しい身であり、咲恵に対しては暇を見つけては無類の愛情を注ぐ反面、学校行事に姿を現すことはなかった。


 子どもながらに両親の多忙ぶりを心得ていた咲恵は、決して文句を言うことはなかった。しかし、友人などは両親に晴れ舞台を見てもらえるのである。子供心に内心羨ましかったことは言うまでもない。


 そんな日々において、好日が訪れる。なんと体育大会に両親が揃って観覧に来ると言うのである。無論、咲恵の喜びようたるは盆と正月が一度にやって来たそのほかになかった。


 咲恵は両親の前で有終の美を飾るべく。走って飛んでと練習に余念がなかった。


 一日とて無駄にはすまいと、休日も早朝から走りに出、昼は学校のグランドに通った。ただ、雨の日はどうしようもなく、練習の出来ない憂鬱と不安を胸に窓の外を眺めるのであった。


 大会が迫るにつれ一日、一時間、練習が減れば減るだけどうしようもなく不安を抱くようになり、誰かに抜かれてしまうのではないかと払拭できない思いは、咲恵を雨の降りしきるグランドへと向かわせたのである。


「それで、一等取れたんですか?」


 景は身を乗り出して咲恵に尋ねた。


 まさに今自分自身が置かれている立場、心境と酷似しているではないかと、事の結末に興味を抱いたのである。


「それがね。体育大会当日の朝に熱を出してしまって、お休みしてしまったの。無理をして練習したのがいけなかったのねぇ。お昼頃には高熱になって歩くことも出来ないくらいに……両親には心配をかけてしまって、後悔したけれど後の祭り」


 その切なさを口元を綻ばせて語った咲恵。しかし、その眼には未だ後悔の念を物語っていた。


 えぇ……。と景は顔色を青ざめて、ゆっくりと姿勢を戻した。


「だから、景ちゃん。休める時にはしっかり体を休めなさい」


 岐路に立たされている。そう悟った景は悩んだ。咲恵の話を聞く限り休んだ方が良いに決まっている。だが、自分が軽佻浮薄に釣り糸を垂れている間に、対抗者達は一心不乱に鍛錬に励んでいるかもしれないのだ。


  咲恵はそれ以上何も言わなかったが、景の機微に触れ窺い知る様子であった。


「そういや、景と遊ぶの久しぶりだよな。去年は家にも来なかったもんな」    


 少女の葛藤の狭間。勝はふっと思い出した様に呟いた。


 だって、と景は言いかけて途中でやめた。


 勝は男子であり景は女子なのである。今更は大袈裟に考え過ぎたと思うばかりであったが……一年前は恍惚の境地、と真剣に考えていたのである。


「明日、釣りに行く。しっかりと休みます」 


 忙中閑あり。玉響【たまゆら】の気散じには丁度良いだろう。とは言え、不安などは一向にに晴れやしなかった。


 しかし、勝の言うとおり景は幼なじみと遊ぶのは一年ぶりなのだ。


「でもなんで釣りなの?」 


「私が勝ちゃんにお願いしたの」


 と桜が髪の毛を拭きながら居間へ入って来た。


「お父さんも釣りしないから、私もやったことなくて」


 ちゃぶ台の上、櫻の花弁が描かれた茶わんの伏せられた前に桜は腰を降ろすと、なんだか楽しそうにそう話すのである。


「お弁当持って楽しんでらっしゃいな」


 桜が揃ったところで、咲恵はそう言ってから「さぁ夕餉にしましょっ」とお櫃を開けると、炊きたての白米から仄かに甘い香りが広がった。





      ○





 別段、釣りに行くことなど勝からすればなんら珍しくない。暇を持て余すようならば毎日と行くぐらいなのである。


 ゆえに明日、釣りに行くからと言って意気込むこともなかった。


 しかし、終始夕餉の席で興奮気味に明日の魚釣りについて語る桜を見ていると、老婆心にも道具の手入れをやら仕掛けの準備やらをしなければと勘違いな使命感に苛まれるのである。


「竿って長いんだね」


 土間を望む板間で作業をしていると寝屋の手伝いを終えた桜が興味津々と駆け寄って来た。


「結構重いから、桜のはこの短めのやつな」 


 手入れを終えた竿を桜に手渡すと、「おぉ」と目を丸くして桜は言った。積極的に釣り具に触れる桜、はじめて目にする仕掛けには特に興味がある様子であった。


「ねぇ餌は?」  


 空のバケツを覗いて桜が言う。


「明日、取りに行く。穴場しってんだ」


「私も手伝うね」


 と意気込む桜だったが……


「気持ち悪がってたあの虫だぜ?」


 あっさりと言う勝。


「うにょうにょ……手袋すれば……うぅ……」


 桜は目を閉じて顔色を悪くした。


「桜ちゃんはお弁当手伝ってねぇ」


 助け船とちゃぶ台を拭いていた咲恵がそう言った。


「そうしろって、一人で大丈夫だし」


「うん……ごめんね」


 申し訳なさそうに言う桜であった。


 緩やかに過ぎていた時間。カーディガンを編み上げた咲恵は、戸締まりを確認すると、桜や勝と同時刻に寝屋へ入った。


 勝はすでに布団に入り、蹌踉【そうろう】と心地よい睡魔に身を任せようとしていた。一方の桜は、枕元に座り床に入る前に櫛で髪の毛をときほぐしていた。


 そんな二人を順番に見てから、咲恵は自分の布団の上に正座して見せた。


 げっ。と勝は蛙の鳴き声のような声をあげ、威厳を放つ母の前に飛び起きると姿勢を正した。それを見た桜も慌てて勝の隣へ駆け寄ると姿勢を正し座する。


 二人は生唾を飲んで咲恵の言葉を待った。


 蛇が出るか鬼が出るか……


「景ちゃんの髪はお母さんが切りました。大切な試合が近いことも聞きました。泣いていなかったけれど、胸の中で泣く声を聞きました。景ちゃんは髪を切って、女の命である髪の毛を切って、覚悟を見せてくれました。お母さんは今日から試合が終わるまで、精一杯景ちゃんを応援すると決めました!」


 二人を前に咲恵は轟々と燃える火炎を瞳に宿しそう宣言した。


 ぱちぱちと桜から拍手が起こる。


 なにかと思えば……、勝は溜息混じりに呟いた。


「でも俺達、もう景の練習に付き合ってるしな」


 勝は桜の横顔にそう言った。 


「うん」


  と桜。


「ただ、景ちゃんの覚悟を知って欲しかっただけ、勝君と桜ちゃんはいつも通り練習がんばってね。そうそう、帰りに少しでも良いから薪を持って帰ってくれるかしら、今年の冬は暖かかったから豆炭も残っているし、それでお風呂の心配はないわね」


 咲恵は天井にへ視線をやると、指折り数えて言った。


「もう寝てもいいか」


 よもや隠していた通知簿が見つかってしまったのか……心中穏やかでなかった勝。


 しかし、蓋を開けてみれば何のことはない。一度は凛々と吹き飛んだ眠気も、拍子抜けと共に再び沸々と込み上げてきたのである。


「もう一つっ!」


 低い声で迫力をまして言う咲恵。


 今度こそ来るのかっ!勝は思わず眠気にかまけず、身構えた……なんとか逃げおうせる手立てはないものか……


「桜ちゃんっ!」


 桜っ?。勝は間抜けな声を出して桜に首を向ける。


「へっ」


 桜とて予期せ事態に恐慌状態である。


「今晩、お母さんは桜ちゃんと一緒に寝ます!」


 ここに咲恵は高らかに宣言した。


「えっ、あっ、はいっ」


 見る見る微笑みを浮かべた桜は、「勝ちゃんおやすみ」と言い残し足取り軽く自分の枕を取りに行ってしまった。


 咲恵をみやると、してやったりと言わんばかりの満面の笑みであった……


「勘弁しててくれよな」


 勝はそう言いながらぽてっと布団に倒れ込んだ。


 我が母ながら心臓に悪い。





      ○





 花冷えの朝。勝は鼻につく焦げ臭い匂いで目を覚ました。ねむた眼を擦りながら背伸びをする。窓から差し込む陽は弱く、畳みの上にできる日溜まりも見当たらない。


 外を見ると薄い雲が空一面、ベールの様に広がっていた。『釣り日和だ』と勝は、欠伸をしながら居間へと向かった。


「おはよう勝君」 


 居間には寝癖をそのままに、寝間着姿の母が苦笑を浮かべてちゃぶ台の前に座している。その対面には、割烹着を着た桜が俯いて座っていた。


 おはようさん。と呟くように言う勝。


 朝一番から異様な雰囲気の漂う中ちゃぶ台の上へ目をやると、真っ黒な魚のような物と、踏みつけたみたいにぐしゃぐしゃになった卵焼きが並べてあった。


 細い目をして腰を降ろした勝は文句を言う前に、起きていない頭で熟考することにした。母がこのような失態の場面に出会したことはない。それに、寝間着で食事の支度をするほど無頓着でもない。


 と言うことは…………そう言うことである。


 勝は悄然とした桜の姿を見て納得した。


「さぁ頂きましょう。今朝は桜ちゃんがつくってくれたのよぉ。お母さんお寝坊さんしちゃって」


 湯気の立つ味噌汁が配られ、いつも通り朝餉が始まった。


 この黒い物体は残すとしても、辛うじて卵焼きと味噌汁で飯が食えるだろう。勝は安直に考え、味噌汁を一口含んだ。


 それは茶色をした水であった……味が薄く、具材もない……


「うーん。もう少しお味噌を入れた方が良かったわねぇ」


「おばさま、ごめんなさい」


 桜は恥ずかしいやら申し訳ないやらで、立ち上がって深々と頭を下げた。


 丈の合っていない割烹着は桜の初々しさも手伝って、不似合いであった。世に言う『嫁姑戦争』を見ている幻想を抱くのは、多少なりとも桜との願望を持つ勝が悪いのである。


「どうして謝るの?ちょっと失敗しちゃっただけじゃないの」 


 そう言いながら、咲恵は真っ黒焦げの何かを口へ運んだ。唇を煤で黒くしながら「少し焼き過ぎかしらと」と微笑みを絶やさないのである。


 勝はその姿に眉を顰めた。さすがに、これを食えと強要されたなら、文句の一つでも言わねばなるまいと思っていたからである。


「おばさま無理しないで下さい……叱ってくれてかまいません」


 桜は立ち据えたまま神妙な面持ちでいる。


 お座りなさいな。と言いながら咲恵は桜の元へ歩み寄ると、両肩を押さえるようにして桜を座らせ、その傍らに自分も腰を落ち着かせた。


「どうして桜ちゃんを叱らなければいけないのかしら?桜ちゃんは私と勝君のために早起きして、一生懸命つくってくれたのでしょう?見た目はちょっと悪いけれど、とても愛情が籠もった美味しいお料理よ」


 咲恵は桜の髪の毛を梳きながらさらに優しい微笑みをなげかけた。


  前髪にはじめり、髪の毛が弓の様に弧を描いた寝癖のままでは、説得力に欠けると勝は思いつつ、朝起きれば朝食が用意されている当たり前の『日常』に疑問を持ったのである。


 当たり前、とはまことに厄介なものである。特別でない以上は、気にも止めなくなってしまうからだ。母が言うように、桜は母よりも早く起き出して朝餉の料理に勤しんのだろう。


 今回それが『失敗』だったがゆえに、特別なものとなった。


 だが、桜が咲恵同様にいつも通りの朝餉を用意していたとしたならば……きっと勝はなんとも思わずただ食べただろう。取り留めもない日常。しかし、その中には誰かが誰かの為に無比の愛情を注いでいる。それに気がつかず日々を過ごせるとは何と幸せなことだろうか、当たり前に洗濯された服を着て、当たり前に太陽の匂いがする布団に横になって、毎食温かい料理が食べられて……


 それに感謝ひとつせず無頓着にも毎日を過ごせるはなんと幸福なことか。


 勝はそれに気がついた瞬間、母に対して無比の感謝を噛み締めると共に、申し訳ない気持ちで一杯になった。


「失敗は成功の母です。少しずつ上手くなっていけばいいのよ」


「おばさま、私にお料理教えて下さい」  


 桜は小さく頷くと、そう言って咲恵を見上げた。


「喜んで」


 己が失態に反省し肩を落とす桜に咲恵は決して、言及し咎めることはしなかった。それが逆効果であることを周知していたからだろう。


「いただきます!」


 勝は見るも無惨な食材に視線を落とし、口元を引きつらせながらも気合いの合掌と共に、怒濤の如く並べられた料理を口の中へ押し込んだ。


 誰がなんと言おうと美味には遠く及ばず、魚だろう黒い塊を押し込んだ時にはしゃししゃりと砂を噛んでいるありさまであった。無論、これを体が良しとするはずも無く飲み込んだそばから嗚咽の拒絶行動の嵐である。これには味噌汁で流し込むしか手立てはない。


 それでも勝は着実に完食へ近づいて行ったのである。


 その光景に咲恵と桜も目を見張っていた。





 愛情は最良にして絶妙な隠し味。


 そして、空腹は最強にして劇的な調味料。


 この二つが揃いし時、この世の塵ひとつとして食えぬ物は皆無なのである。






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