浦島喪失
はてさて、いつのころのことだったか。とにかくもずっとずっと昔の話だ。
浦島という家があった。
それまで、浦島は村でも一番の名家だった。まあ、そもそもが小さな漁村で漁村にそういう事の言えるような家系は村には浦島の他にはなかったのだが。
網本は浦島の家の者だったし、財産も一番持っていた。大きな家も持っていた。
浦島家がおかしくなったのは、元をたどれば、その主人が夭折したことが切っ掛けだったんだろう。
浦島を真っ当に継いだその男は、別段文句をつけられるような男でなければ、特に何に優れていたというわけではなかったらしい。
ごく普通に生きてごく普通に嫁をもらい、子供をもうけた。が、そんな折に、唐突に海に落ちて溺れて死んでしまったという。
悲劇だった――しかし、海辺であればないことじゃない。善人だろうと悪人だろうと、あるいはその男のようにどちらでもなかろうと。
さて、そんな事件があったことで、その男の妻は未亡人となり、息子は父なし子となった。子供の名前は、『太郎』といった。
太郎は浦島家の長男である。いずれは家を背負って立つものと、そういう風に育てられるのだろうと皆が思っていた。
もともとはそうなるはずだったのであろうが、しかしそんな折に件の話である。主人を亡くした浦島の妻は、その悲しみを埋めるように忘れ形見の息子を溺愛した。
もはやこの子ばかりは失うものかと、浦島の財を食いつぶしながら、怯える様に隠れるように過ごしていたという。
そうして母に守られ守られ育った太郎は、どこか浮世離れした呑気な青年になった。
村の皆が漁に出ている頃も、その頃には大分目減りしたとはいえまだ残っていた財産を理由にふらりふらりと何処かへ出歩いていた。
そんな怠け者であれば太郎を嫌うものもいようかと思うが、しかし太郎を嫌う人間は村にはいなかった。
呑気で穏やかな太郎は、それゆえに人に悪意を持つこともなかったし、一人でふらふらしているので誰かに迷惑をかけることもそうなかったからだ。
そもそもの境遇は気の毒なものであったが、明日の漁に明後日の漁にと毎日心を砕かねばならなかった村人たちには、毒にも薬にもならない太郎に関心を持つ余裕はあまりなかったというのが本来のところだったが。
そんな太郎は釣りが好きだった。
一人できること、何も急ぐことなくのんびりとできることなど、太郎の気性に合っていたからだろう。
しかし、母親はそれをひどく嫌っていたという。主人を亡くしたように、息子もまた海で亡くすのではないかと気が気でなかったのだろう。
であれば海辺などに暮らさずどこか遠くへ居を移せばいい、と時折勧められることもあったようだが、主人の遺した家を捨てるのも嫌だという話だったようだ。
そんなわけで、釣りどころか浅瀬にさえ近寄ることを禁じられ船に乗るなどもっての外、と言い含められていた太郎は、それでも釣りをしたがった。
幸いなことに、母は家にこもりがちだったし、漁村である以上海に面した場所なんていくらでも探すことのでき、こっそりと毎日のように釣りを楽しんだという。
特に太郎のお気に入りの場所は、浜辺の近くの岩場から登っていくことのできる小さな崖だった。その崖は鼠返しのように弧を描いており、その下も随分と深くなっていて、魚もたくさん集まっていたという。
皮肉なのは、太郎にとっての幸いは、母にとってはまるで逆となったということだ。
ある日、太郎は家に帰らなかった。
その日、村人たちは息子を呼ぶその叫びで目を覚ました。日が昇るより早く。母親は太郎、太郎と名を叫びながら村中を巡り歩いていた。
尋常ではないその様子に、慌てて駆け寄って事情を聴いた。
そして、太郎が昼間に出かけたきり家に帰っていないこと、名を呼んで探し歩いてもまるで見つからないことと聞いた。
それを語る顔は完全に生気を無くし視線もまるで定まらない様子で、完全に憔悴しきっていた。一睡もせず、一晩中捜し歩いていたのだろう。
まずは村の人間が探すからと無理矢理にも母親を家に帰らせ眠らせた。家に送った人間の話によれば、無理矢理布団につかせたとたん糸が切れたように気を失ったという。
そして村人の間では急遽話し合いの場が持たれた。当然、最後に太郎に会ったのは誰かという話だ。
とはいっても、誰もなかなか声を上げない。そもそも漁というのは大仕事だ。普段からだって暇をしているような太郎と顔を合わせることは滅多にない。
それでも誰かいないか、と探し続けて、見つかったのは子供だった。なんでも、日中に浜辺で打ち上げられたカメを苛めていたところを、太郎に止められたという。
浜辺のどこかと聞けば、やはりというか、普段から太郎が釣りをしていた岩場の傍だった。
結局、そのほかに太郎に関する情報は一切聞けず、村人たちは一つの結論に至るほかなかった。
その結論は、その日の午後、目を覚ました母親に伝えられた。
母親は、話を聞くなりそのまま再びぱたりと気を失ったらしい。
次に目を覚ましたのはそれから更に丸一日たった頃だった。そして、その時には母親はもはや限界を通り過ぎてしまっていたのだろう。
目を覚ますなり、母親を心配して詰めていた女衆を始めとする村人たちを自分の家から叩き出したのだ。
「出ていけ、出ていけっ! ここは浦島の家だ! 家の者じゃない人間なんか、出ていけえ!」
それはそれは恐ろしい剣幕で、その眼の光はもはや尋常のものではなかった。
翌日からというもの、母親はそれまでに輪をかけて家にこもるようになった。その日以降、家の外に出ているところをだれも見ていないほどだ。
かと思えば、誰かが心配して尋ねても罵詈雑言を吐いて戸を開かず、せめてもと外から覗こうとしてみれば恐ろしい眼差しで睨み返された。
母親は、浦島の財を狙って太郎が殺されたのだと思ったのだろう。思い込まざるをえなかったのだろう。あるいは、先に死んだ太郎の父親のこともだ。
かつての浦島は確かに富んでいた。残っていたその富を自分と息子でその殆どを食い潰していたはずだが、母親にとっては、ずっと自分の幸せだったころの浦島であるはずだったのだろう。
彼女だけのもはや細やかな宝を抱え、居る筈もない略奪者に怯える母親の身の上は、もはや誰の目にも、あまりにもあまりにも哀れとしか言いようがなく。村人たちはせめて時間がなにか解決してくれないかと、腫物のように触れずにいることしかできなかった。
後にして考えてみれば、それは間違ったことだったのだろうか? 悲劇がたび重なって襲った浦島に対して、村はいつでも触れないという事しかしなかった。
なまじ浦島が名家であり、それ以外の村人たちは間に壁を感じていたという事もあるが、だがしかし、それでも何かができたのではないか、とは思わずにいられない。それほどに結末も悲惨だった。
白昼堂々火の手が上がったのに気が付かなかったのは、大半が漁に出て留守にしていたことと、やはり浦島の家が他からいくらか離れていたことも理由にあった。
ようやく駆けつけたころには、もはや家の半分は炭と化していたのだ。轟々と火の手を上げていたもう半分も、あっという間に燃え尽きてしまった。
かつての栄華は、黒ずんで元の形もわからなくなってしまった浦島の家。それでも、あの母親の骨だけは弔ってやろうと探したところ、見つかったのは敷地のちょうど真ん中。
立派な大黒柱だっただろう大きな炭の塊に、しがみつく様にしてその骨があった。
一つ一つ丁寧に集められた骨は、やはり丁寧に海に沈めた。せめてあの世では幸せに暮らしてくれ、と誰もが願って……。
――悲惨な話だろう? 六十年も七十年も昔の話だったと思うがねえ。
あれからこの村で海で死んだのは一人も出ていない。浦島の家かの霊が守ってくれているというのか、それ以上に村のみんなが生きることに一層まじめになったからかもしれないが。
しかし、あんたもいい人なんだなあ。話を聞いただけで、そんなにそんなにつらそうな顔をして……。
この村じゃあ見ん顔だが、浦島を知って訪ねてきたってことはどこか縁者かね?
改めて見れば、あんたの顔は、いつかいなくなってしまった太郎にそっくりなような――、そんな気もするな。
ああ、いや、死人にそっくりだというのは縁起が悪いか? 気を悪くはせんでくれ。話した通り、太郎は呑気だが心根の優しい若者だった。それが懐かしくてなあ。
……ああ、そうだ。浦島の家があったのは向こうの開けたところだよ。もっとも、さすがに誰もそこに新しく家を建てようとはできずに、今では何にもないんだが……。
まあ、せっかく来たんだ。少し行ってみてやってくれないか。
ほかの人間ならとにかく、浦島の人間だったら――、あの母親もきっと歓迎してくれるだろうさ。