一人目――二銭銅貨(伍)
「そういえば、君。名前を聞いてもいいかな、学生さんだよね?」
僕が子どもだからだろうか、桂さんの口調はやや砕けたものになっていた。でも僕はそれを気にすることなく、問われておずおずとうなずく。確かにこんな時間帯に制服姿の学生がふらりと喫茶店だなんて、学校によっては校則違反にも当たるのかもしれない。もっとも、うちの高校はそのあたりは自由な校風だったから、それほど厳しくはないのだけれど。
「平井って、いいます。今日は体調が悪かったので早退したんです」
「あら。じゃあ、何か元気の出るものがいいわね」
僕の言葉にうんうんとうなずきながら、彼女は冷蔵庫からミルクを取り出す。すでに抽出を始めているコーヒーに混ぜてくれるのだろうか。
そんなことを思いながら僕は店内をきょろきょろと見回して。
店のなかは全体的にレトロで重厚。だけれども、どこか懐かしさも漂う、そんな店内。コーヒーのふんわりとした香りはコーヒー好きでなくてもなんだかどきどきするような、そんな不思議な感じすら覚える。
「はーい、今日の気まぐれコーヒーですよ。やけどしないように気をつけてね」
ふと気がつくと、目の前で桂さんがそういいながら湯気の立つコーヒーカップを差し出してきた。コーヒーカップは真っ白で、だけどどこか上品で、おそらくは外国のブランドものなのだろう。
ついでに口直しなのだろうか、ソーサーにはクッキーも添えてあった。
コーヒーは、厳密にはカフェオレのようだった。ミルクたっぷりで、コーヒー独特の苦みは確かに少なそうだ。更に聞いてみると蜂蜜を入れてあるらしく(滋養のためらしい)、独特の甘い香りも漂っている。
僕は息で少し冷ましてから、一口それをすすった。
口の中が、ふわっとした甘みとどこか懐かしさのある香りに包まれていく。コーヒーをこれまでにも飲んだことはあるが、これほどまでにおいしいと思ったのは初めてだった。
「……おいしい」
素直な感想が、口をついて出る。その言葉を聞いた桂さんはうれしそうに微笑んだ。
「やっぱりおいしいっていってもらえるのは一番よね。コーヒーにとっても、飲んでもらうひとにとっても」
その気持ちは何となくわかる。喜んでもらえることは、確かにうれしい。
「そうですね。僕も、喜んでもらえる相手がいればなって、思います」
と、桂さんは目を丸くして、そのあとなるほどとうなずいた。
「うちの店に来たのはそういうことか。キミ、そういう言い方をするってことは、今は『喜びを分かち合える相手』がいない、ってことなのかな?」
ドキリ、とした。
親友と呼べる相手は、確かにいない。高校ではもちろんだし、予備校でも、中学以前にも親友は存在しなかった。クラスメイトたちとつるむのがどうにも苦手で、僕はたいてい一人でいることが多かったのだ。
この人は、そのことを微妙なニュアンスの言葉だけで読み取ったのだろうか。
「そういうひとって、結構いるからね。友達作りが下手なひとって、多いよ」
「そうなんでしょうか」
「そういうものよ。だって、人間ってたくさんいるけれど、完璧にわかり合えるひとなんて存在しないし、一部でもわかり合える人がいるのならそれだけですごいことだと思うのよ」
いわれてみれば、確かに何となく納得できる。いわれるとおり、完璧な意思疎通なんてきっと不可能に近いことで、だから少しでもわかり合える相手を探して、それを友達と呼ぶのだろう。徒党を組んでわいわいしているのだって、きっとわかり合える相手がいないから、お互いに何かをフォローし合える関係を作っているのだ。
「――でもね、キミ」
桂さんは柔らかな笑みを作った。
「この店に来たあなたなら、きっと大切な誰かを見つけることができる。君は、きっとそれを知るために、この店に来たんだから」
そう言い終わると、桂さんはもう一つクッキーを僕に差し出した。
「これは特別製ね。あなたのこれからの行く道を示す、きっと手助けになる」
僕は彼女の言っていることがよくわからなくてただ呆然とするだけで、言葉も出ない。でもその根拠のない言葉が僕を励ましてくれているのはわかるから、ぺこりと礼をした。きれいな包み紙に入っていたそれを、僕はなんだか食べるのももったいなく感じて、カバンに突っ込む。
……それに、言われたことをまったく納得できないわけでもないのだ。
人間なのだから、完璧にわかり合えるわけがない。そして、きっと何か些細なことが、現状を打破するきっかけになる。たとえば、今手渡されたクッキーのひとかけらとか。
そんなことを思っているうちに、コーヒーカップは空っぽになっていた。もう少しこの場所にいたいような気もしたが、今日は早退しているのだから、そろそろ家でちゃんと安静にしている方がいいだろう。
「ごちそうさまでした」
僕は立ち上がると、桂さんに深々ともう一度礼をする。桂さんは、にこにこと微笑みながらうなずいた。
「いえいえ。お代は結構――といっても納得しないわよね。じゃあ、このキーホルダー。これをもらっていいかしら」
桂さんの指は、僕のカバンにぶら下がっている小さな三日月型のキーホルダーを指していた。
「え?」
桂さんの言葉に、僕は驚く。お代は結構とか、どういうことだろう。そんな形じゃあ、この店は経営が危ういのではないだろうか。一応経済学部を目指している僕は不安になってしまう。が、僕の心を読んだかのように、その心配はない、と桂さんは言った。
「元々この店自体がマスターの道楽みたいなものだからね。お代を取るとかよりも、人に何かを与えたいって言うのがモットーなの」
つまりこの店は普段は営業していないようなものなのだろう。きっと、どこか別に本業があるのだ。そういうことなら、僕も何となく納得できる。
「……本当にこれで、いいの?」
僕はもう一度、念を押すようにして確認をとった。彼女がにっこりと微笑みながら頷いたので、それならばと、僕はカバンについていた三日月の形をしたそれを外し、桂さんの手にしゃらりとおいた。そのときわずかに触れた彼女の指が驚くほどに冷たくて、一瞬僕はどきりとする。
そう、まるで人のものではないような――
いや、いくら何でもそれはない。僕は小さくかぶりを振って、そして桂さんの顔をじっと見つめた。彼女は初めて会った相手なのに、どうしてか初めてという感じのしない不思議なひとで、だから口べたな僕も話ができたのだけれど、彼女はそんな僕の小さな不安を見てとったのだろうか、大きくうなずいてくれた。何も恐れるものはない、そういいたげな風にうなずいてくれた。
「じゃあ、有り難うございました♪」
桂さんはまたきれいな笑顔を見せて、そして手を振ってくれた。
カランコロン、とドアベルの音をたてて――僕はその店、『観月館』をあとにした。
僕は振り返らなかった。だから気づかなかったのだ。
さっき出てきたはずの扉が、跡形もなく消え失せていることに。
そして知らなかった。二度と、あの店を見ることがないことに。