文字化け
ホラーでなく、怪奇と幻想です。
古来森仁は役所勤めの、長身痩躯だがパッとしない人物だった。
年は四十三で、離婚歴があり、鼠色のスーツしかもっておらず、昼食はいつも日替わり定食を注文した。仕事はそこそこ無難にこなし、煙草は吸うが酒は飲めず、パチンコや麻雀には関心がない。無遅刻、無欠勤で、特別な事情でもない限り、黒のショルダーバッグを肩にかけて八時二十分に出社し、午後六時前には帰宅につく。平凡な面白みのない男。そう思われても仕方がない古来だが、実際のところそれだけというわけでもなかった。
古来は、好事家、数寄者、物好き、と称される輩のひとりであった。好きな食べ物はオムライスだった。子供の時から本が好きで、家にこもって本ばかり読んでいた。興味の赴くままになんでも読み、生まれついての性向なのか、珍奇なもの風変わりなものが特に好みだった。その嗜好は、猟奇、怪奇、幻想へと古来を導き、おのずと彼の人となりを作っていた。昼より夜を好み、外に出るより家の中にいるほうを好んだ。人が忌み嫌うものに興味をもち、この世にありえないはずのものを追い求めた。数々の読書体験は糧であり、それが精神の血肉となっていた。そして古来は、そんな自分をよく知っていた。
たとえば。古来が中学生のころには、どこの本屋も、彼が好むような怪奇小説の類は、奥の、人目につかない、十八歳未満禁止の棚の隣の棚に並べてあるのが通例だった。小さい本屋だと同じ棚におかれてさえいた。その棚の前に行くたびに古来は、羞恥心と嘆かわしさを味わっていた。自分の世界とポルノが一緒くたにされているのは、思春期の古来には不当なことにしか思えなかった。自分が社会から疎外、誤解されているように感じていた。しかし長ずるに及び、そういう考えは消滅していった。自分の好みが、世間において異端であることを理解し始め、それを受け入れ、その境遇に甘んじなければならないと気づきだした。生と死でなく、性と死であることがわかると、ポルノの横に怪奇があるのは至極当然のこととして受け止めることができるものになっていた。
ホラーブームが起こり、本屋の平台にその手の本が山積みされ、ベストセラーなども出だし、これまでの怪奇と幻想の小説の類も、日の当たらない場所から日の当たる場所へと移動され出した時には、ようやく自分の趣味も理解され始めたかと喜んだものだが、それが間違いであることに半年もしないうちに気づいた。歓迎されている小説の大半が、読んでみると、ホラーとは名ばかりのエンターティナー路線の作品だった。どれもこれもつまらなかった。そういう小説を、ホラーの傑作として持ち上げる出版社もマスコミも大衆も、彼には理解しがたいものであった。また、ブームをきっかけにホラーファンと称する人たちが続出、増殖したことには、歯がみするほかなかった。彼らのせいで、かえって古来の愛する世界は浸食され、片隅に追いやられていた。多勢に無勢というか、彼らが似非であるということが、通用しなくなってきているほどだった。
所詮ブームなどというのはこんなものだとつくづく思い知った。むかしからの愛好家には、騒々しいぶん迷惑でさえあった。それによく考えれば、怪奇と幻想が、大衆にあまねく浸透することなどありえない話である。うす気味の悪い話を喜ぶ人などそういるものではない。やはり、日の当たらない場所こそがふさわしい。ヒカリゴケのように闇の中にあってこそ光り輝くものなのだ。異端は、人から白い目で見られるから異端なのだった。
まわりのことなど気にかけることなく、古来は淡々と、静かな日々を送っていた。人の友人は少なかったが、ちょっと見まわせば、亡霊、吸血鬼、墓地、枯れ木、古城、棺、沼、井戸、妖怪、物の怪、地下室、人魂、鬼、巫女、月光、柳、廃墟、蝋燭、開かずの間、呪い、伝承、妖虫、喰人鬼、されこうべ、丑の刻参り、蝙蝠、屍体、カラス、義眼、人狼といった、子供の時からの友が本の間からいつもそばにいてくれていた。孤独や疎外感も心地よくさえあった。休日には、なにするでもなく、昼日中から幽霊画や無惨絵を飽きもせずじっと見入るのが古来の楽しみだった。
古来が、好事家である由縁はそんなところにあった。
さて、或る四月の雨がしょぼつく日、古来は仕事の帰りに、駅裏の古本屋をのぞいてみた。よく行く店で、少なくとも週に一度は顔を出すのが習慣だった。濡れそぼったコウモリ傘を、表の傘立てにいれ、上着の雨滴をハンカチで拭いてから店の中に入った。
個人経営の五坪ほどの店である。三階建てのビルの一階にあり、戸口に、白文字で古本と印された紺の暖簾がかけてあった。棚は、今の店にしては珍しくコミックの類がおかれてなく、いわゆる読み本、書物で埋めつくされていた。納まりきれない本があちこちに山積みされていたが、手入れは行き届いていた。見ようによっては、古本屋はこうあるべきだという意味合いでの、飾り付けとして山積みされているように、見えないこともない。壁際に背丈の高い棚がおかれ、中央には、万引きの用心のためか、店内を見渡せるように大人の胸までの高さの棚がおかれていた。古本特有の黴くささが立ち込め、天井から下がった電球が背表紙を照らし、床は板張りになっている。
店主は六十年配の初老の小男で、左隅のレジ台の向こうに座って、小型テレビをイヤホンを耳にして見ているのが常だった。その日も、店主は古来のほうへ視線を動かしたが、なにも言わず、興味なさそうにすぐにテレビへと視線を戻した。無関心が、この店の接客の仕方である。雨のせいか、客は古来ひとりだった。
古来はゆっくりと棚に目を走らせていった。店内はむっとし、雨の匂いがこもっていた。宵の口の古本屋には侘び寂びの趣があった。棚の本は、一応大雑把に分類されている。とりあえず程度だ。小説本は一括りにされ、純愛小説の隣に『女教師・恥辱の放課後』が臆面もなくあったりする。文庫本は別な棚だ。学術書の並びに、唐突に熱帯魚の飼い方が挟まれていたりもする。そういうところが古本屋の楽しみだと古来は思っていた。個人の本棚を覗き見しているような味わいがあるなら、突然の出会いのようなものもある。時によってはシュールさを感じることもあった。
古来は右の棚から始めて、時計とは反対の左回りに棚を見ていった。目を本の背に注ぎ、時折、肩からずれたバッグのベルトを元に戻す。耳に聞こえるものといえば、表の雨音だけであった。
三番目の棚の前に来た時になって、古来は引っ掛かっかるものを感じた。本好き人間特有の勘みたいなものだった。目にした本のどれかが気になっていた。無意識に見、そのまま見過ごしてしまった本だ。こういう感覚というのは大切である。この勘みたいなもので、幾度か貴重な本を手に入れたことがある。そういう際には、自分が選んでいるのでなく、本から選ばれているのではないかと古来は思うことがあった。本が人を見つめ、語りかけ、それが気配となって人に伝わることがある。
いままで見た棚を、丁寧に古来は見直していった。確かにそれがあるという気がしている。顔を近づけ、一冊一冊の背表紙を口の中で読んでいく。
二番目の棚の中ほどにそれはあった。原色植物図鑑と占星術百科の間に挟まっていた。薄めの本で、厚手の本の間にあったせいで見落としていたのだった。引き出すと、本が息を吹き返したような感じがした。
くすんだ灰色の表紙に、黒で『文字化け』という題があった。作者はHとなっている。紙質や装丁から見て、自費出版であるのがすぐわかるような代物だった。自費出版にしても、かなりの廉価ものだ。
古来にはその題と作者のHという名に胡乱だが覚えがあった。呪われた本、禁断の書のひとつとして、ネットサイトか本で見た記憶がある。Hは無名の作家で、この本を自費出版したのち自殺をしたと紹介されていた。確かまだ二十代の若さだったはずだ。内容については不明とされていた。
古来はふふんと鼻で笑んだ。呪いの本の類にはあまり興味がなかった。それというのも、それらが、こけおどしだけで内容の伴わない代物ばかりだったからだ。読んだら呪いがかかるとか、死ぬという脅し文句で人の気を引こうとする本にろくなものはない。中身に自信がないことの証拠と思ったほうがいい。また、書物を扱った怪奇譚といえば、本に書かれている内容と同じ現象が現実に起こってくるというのが決まりで、演出の仕方や文章力で傑作秀作になったものもあるが、大半は同じストーリーの二番煎じにすぎないものばかりだ。それらを、わざわざ探し求めてまで読みたいとは古来は思わなかった。まして、読んだら死ぬとかいう惹句があったりしたら白けてしまう。
しかし、そういう風評のある本が、いま目の前の、自分の掌中にあるとなると話は違ってきた。呪われた本を実際に手にしたり見たりするのは初めての体験であった。古来は表紙を開き巻頭に目を通した。
『この世には人が知ってはならぬ世界があるように、書物の中にも決して読んではならぬものがある。この書もそのひとつだ。たぶん貴君は読み終えることができぬであろう。否、もし終えたとしても、すぐにこの本を処分するなり焼却するなりして欲しい。おお、この本は、それほど危険極まりぬものなのだ。
文字というものは生きものである。邪悪な生きものである。字のひとつひとつに、独自の魂を潜ませている。詩人たちはそのことをうっすらと感じ取り、我がそれに気づき時はすでに遅し。中島敦は『文字禍』で文字に精霊が住みつきしことを見抜いたものの、それがそれのみで息づいているというあやまりを犯した。文字は、我らが読むことによって初めて命を得るものなり……』
Hの書き出しは下手だった。おおげさだし、時代がかっている。『文字化け』という題にしても、これが書かれた当時はワープロもパソコンもなかったと思われるが、変換ミスのことと思う人もいるだろう。
購入すべきか迷った。つまらない確率九十パーセント――が、残りの十パーセントに一夜の戯言として賭けてみるのも面白いかもしれない。呪われた本の現物として、本棚に飾っておくのも一興だろう。年月を経てページの端々は黄ばんでいるが、中は白く、活字がくっきりしていて、読まれた形跡はほとんどない。
値段しだいだと、うしろの見返しを見てみた。この店は、そこの隅に鉛筆で価格が記入されている。が、『文字化け』にそれは記入されていなかった。古来は店主に価格を聞いてみることにした。
本を手にした店主は、老眼鏡をかけて本の表題を見、それからノートを出して調べていたが、口を半開きにしてひとりでうなずいた。
「こりゃ、うちの本じゃないね」
浮かない表情の古来に店主は続けた。
「たまにあるんですよ。本を捨てにこられることがですね」
「売るのではなくて、捨てることがですか」
「ええ、どういう料簡かわかりませんが、そういうことあるんですよ。売れない本というか、売っちゃいけない本というのがあるみたいなんですよ。で、処分したいんだが、燃えるごみに出すのも気が引けるっていうわけで、うちみたいな古本屋に捨てにくるわけです」
店主は口角を上げて笑んだ。
「不動産に、いわくつき物件とか理由あり物件というのがあるでしょう。あれと同じなんですよ。いわくつき本というわけです。だから、そうむやみに捨てることができない、かといって持っておくのも気持ちが悪い、そこで古本屋に捨てていくんですな。神社なんかに持って行って、お焚きあげしてもらえばいいのに、そこまでするのはお金がもったいないし、めんどくさいってことです」
困ったもんですと、店主はつけ加えた。
そんな本があること自体古来には初耳だった。そうなるとこの本は、どういう経緯があったのかはわからないが、誰かがこっそりとここに捨てていったということになる。欲しくなった。好事家の古来としては、むやみにこの本が欲しくなった。
「それじゃあ、この本は売ってもらえないんですか」声がやや興奮している。
店主は手にしている本を見、それから古来を見た。老眼鏡の奥の小さな目が光っている。迷ったようにしていたが、歪めていた唇から息を吐き出すと、古来にそのまま本を差し出した。
「よかったら、このまま持っていかれてかまやしませんよ。うちの本じゃありませんから」
本を受け取りながら古来は尋ねた。
「問題はないんですか。あとで持ち主が取り返しにきたりとか」
「そんな心配はいらないね。それに勝手に捨てていった本です、私の知ったことじゃない」
店主は老眼鏡をはずして、長身の古来を見上げた。
「ただし、あとでなにがあっても私は知りませんよ。いわくつきの本ですからね。――私なら、まず読みゃしませんね」
「ご忠告ありがとうございます。では、遠慮なくいただいていきます」
店主は右手を顔の前でひと振りすると、もう関心がなくなったようにテレビへと視線を移動させ、古来は本をバッグに入れて店を出た。表の雨はやみそうになく、傘を差して古来は歩きだした。
家に帰った古来は着替えをすませ、途中のスーパーで買ってきた惣菜で夕食をとった。ご飯はまとめて炊いたものを、お握りにして冷凍している。それを電子レンジで温め直すだけだ。あと、インスタントの味噌汁に湯を注いだ。
築数十年の木造の平屋に古来は住んでいた。鬼籍に入った両親が残してくれたもので、持ち家である。玄関前にやつでが植え込まれ、家屋のところどころが傷んではいるが手を入れることはほとんどない。長い間この家にひとりで住んでいた。三十をすぎたころ、人のすすめで見合いをし妻をめとったが、古来が夫と呼べない人物であることに彼女が気づくのには三ヵ月も要さなかった。一年がすぎたころには、古来のために一生を台無しにすることはないと気づき、新たな良人を作り、印を押した離婚届をおいて出て行った。古来はそれを静かに受け止めた。純白の花嫁より浴槽の花嫁を、生身の女より絵の中の女を愛す古来には、初めから結婚は向いていなかった。ここ数年は訪ねて来る者も誰もおらず、古来はずっとひとりで暮していた。
風呂に入り、さっぱりしたところで、古来は『文字化け』を持って私室に入った。
書棚と本で埋まったような部屋だった。ドアと対角線上の窓際にデスクと椅子がおいてある。そこを除けば、壁は本で一杯の書棚で占められ、床にも本が積み重ねられている。本来窓は南側にもあるのだが、それは書棚で塞がれてしまっていた。しかしこの部屋だけでなく、家のいたるところで本は見かけられた。居間にも台所にも本は無造作におかれていた。食器棚の中にも本があったりすれば、玄関口にも花瓶の代わりみたいにして本が積まれていた。下駄箱の中にあったりもする。無精なせいであるが、古来は、どこにいても本が目につくそんな家に慣れ親しんでいた。
椅子に座り、デスクの卓上ライトをつけた。デスクの上には、あとノートパソコンがおいてあるだけで、そこだけは別世界であるかのように片づけられていた。そこまで乱雑にするとなにもできなくなるからだった。
デスクの上で『文字化け』を開き、古来は読みだした。十五分もしないうちに退屈をおぼえ始め、その五分後にはうんざりし始めていた。古来は一度本を閉じると、デスクの一番下の引き出しからガラスの大きな灰皿を取り出し一服つけた。
わけのわからない内容だった。簡単にいえば、昭和の高等遊民のひとりと思われる主人公が、多大な読書体験を経て文字そのものに魅了され、その起源を探り、秘密を解き明かそうする話であった。が、一向に話が先に進もうとしない。それは怖ろしいとか、恐怖におののくとか、信じられない光景とか、目を疑うばかりとか、髪の毛が総毛立ったとかいった言葉ばかりが羅列されているだけだ。肝心のところに話が進もうとすると、決まってそれが飛び出し、あげくのはてに、この世には知ってはならぬこと、読んではいけない書物があるという、書き出しの部分みたいなところに戻ってしまう。その繰り返しが続いている。主人公もひとりきりで、なにを考えなにをしているのか、当人もわかってないみたいだ。作者のHがどんな人物なのか見当もつかないが、駄作もいいとこであった。しかし、もしかしたらこのあと急展開があり、なにがしかの面白みを感じることができるかもしれないという、かすかな期待がないでもない。もう少し辛抱して読んでみるかと、古来は煙草を消すと続きを読み始めた。
それから三分の一ほどまで読み終えた時点で、これはひどい出来だという確信をもつに至った。またしても、書き出しの部分に舞い戻っていた。これで六度目だ。相変わらず登場人物も主人公ひとりだけである。しかも行動はせず、なにやら考えてばかりいて、ひとりで怖ろしいとか呟いては震え上がっている。
我慢しながらとはいえ、よくここまで読んだものだと古来は自分に感心した。読んではいけないとは、読めた代物じゃないからで、読み終えることができないというのも、そのせいとしか思えなかった。そいう意味合いでは、確かに呪われた書、禁断の書でありえた。
そう思うと笑いが込み上げてきた。
――と、なにかが目をかすめた。
両手で開いたままの本を古来はまんじりと見つめた。左のページの真ん中あたりでなにかが動いている。それは黒い粒みたいなもので、斜めに、古来の左手の方角へと移動していた。やがて、見ている前でそれは、古来の左親指の爪へと這い登ってきた。それが、『独』という文字であることに古来は気づいた。『独』は親指の上を、もそもそと動きながら真っすぐに移動していく。信じられなかった。そんなことがあるとは思えなかった。目の迷いだと思いたかった。しかし『独』の動きは、目だけでなく皮膚を通しても古来に伝わっていた。『独』は親指の付け根あたりで休むように動きを止め、ぶるっと自分の文字体を震わすと、今度は古来の腕に向かって移動し始めた。
古来は右手の人差し指で、『独』を上から押さえつけた。指の先につぶしたような感触があり、左手首と右人差し指の腹にインクの汚れが付着しているのを、古来は呆然と見つめた。
なにが起こったのかわからなかった。自分がなにをしたのかもわからなかった。どう考えても、あり得ざるべきことではなかった。
古来は本に目を戻した。両手で持ち直し、顔を近づけ活字自体を目で追った。左ページの四行目に『孤独』という単語の『独』がなくなって、その部分が空白になっている箇所を発見した。まるで、『独』がひとりで抜け出したかのようであった。
「馬鹿な」と古来は声に出した。
古本屋の店主の顔と言葉が断片となって古来の頭の中で甦った。
いわくつき本というわけです、捨てていくんですな、お焚きあげしてもらえばいいのに、まず読みゃしませんね……。
その時、目の前の活字がさわさわと微動しだすのを古来は見た。黒い活字のひとつひとつが動き出していた。
古来は慌てて本を閉じると、デスクの上においた。『文字化け』はなにごともないように、そのままだった。ページの間から、文字がぞろぞろと這い出してくることなどなかった。
煙草に火をつけた。額に手をやると汗がにじんでいる。目は『文字化け』に向けたままで、せわしなく煙草を吸った。怖れているようなことはなにも起こらない。
気のせいだと古来は思った。今夜はどうかしている。右人差し指の腹を見ると、やはりインクの汚れがある。煙草を消し、たて続けに煙草をくわえた。やはりなにも起こらない。気のせいだと、古来は自分に言い聞かせた。本を開きもう一度確かめればすむことだった。しかし、どうしてもそんな気にはなれなかった。古来は煙草を灰皿に押しつけると、ライトを切った。『文字化け』には触れる気もしなかった。椅子から立ち上がり、灰皿をしまうと、古来は天井の蛍光灯を消して私室を出た。もう寝るつもりだった。疲れている時は、そうするのが一番だった。
台所に行って丹念に手を洗った。仏壇のおいてある畳部屋が寝所だった。布団の中に入ってもなかなか寝つかれず、何度も寝返りを打ち、寝入ったのはかなり経ってからだった。その夜はなにも起こらず、雨の音がしていたが、その雨も未明にはやんでいた。
次の日古来は、いつも通り出勤した。いつも通り仕事に従事し、そしていつもとは違い残業した。同僚たちは驚いたが、なにも言わなかった。帰りには駅前の食堂に入って天麩羅定食を食べ、家に着いたのは十時をすぎたころであった。風呂に入り、そのあとすぐに就寝した。
翌日も古来は残業をし、洋食屋でハンバーグセットを食べ、帰宅すると早めに床についた。三日目も同じだった。その夜は中華飯店でレバニラ炒めと餃子を註文した。明日は休日で久しぶりに映画を観に行くことにしていた。なかなか寝つかれず、深夜遅くまで、滅多に見ないテレビを見て時をやりすごした。
この三日間、なにも変わったこともなく、なにも起こりはしなかった。
その日朝寝をした古来はトーストと目玉焼きにベーコンの朝昼食をすますと、予定通り市の中心街に映画を観に行った。映画は期待したほど面白くなく、かといって、それほどつまらないものではなかった。CGを極力使用しないようにしている点には好感がもてた。街はうるさいほど賑やかだった。どうしてこうも皆がさんざめいているのかが、古来にはよくわからなかった。大型書店を見てまわり、小腹が空いたので、ミスタードーナツに入った。
オールドファッションに口をつけながら、古来は昨日までの三日間のことを考えた。あの夜以来、家にいることが怖ろしいことのように思え、なにか起こるのではないかという不安におびやかされていた。しかし実際のところなにも起きることなく、不安は形のないものであった。やはり、目の錯覚か気のせいだったに違いない。手が震え、それで本が震えたので、文字が微動しだしたように見えたのだ。『独』は最初から抜け落ちていて気づかなかっただけで、指でつぶしたのは虫だったのだ。いまの古来にはそういうふうにしか思えなかった。三日の間に古来は本来の自分に立ち戻っていた。怖れることなどなにもない。家に帰ることにためらいをおぼえていた自分が、いまは可笑しく思えた。古来はドーナツを噛みしめ、薄いコーヒーを飲みながら、くすくすとひとりで笑った。今夜は、あの『文字化け』を読み終えるなり、中途放棄するなりして片をつけてやろう。古来は紙ナプキンで、砂糖のついた口を拭った。
家に帰りついたのは七時ごろだった。澄みきった夜空に月がかかり、家はしんと静まり返っていた。
服を着替え夕食の準備をした。好物のオムライスを作るつもりだった。鶏肉がないので豚肉を使う。チキンライスでなくポークライスだ。ケチャップで炒めるのは変わらない。古来は、半熟ふわふわのとろりオムライスなどでなく、むかしながらのオムライスのほうが好きだった。だからしっかり火を通す。ソースもデミグラスなどはだめで、ケチャップに限る。フライパン全体で焼いた卵の上に炒めたライスをのせ、皿の上にひっくり返して木の葉型に包むのは慣れたものであった。黄色い卵地に赤いケチャップをかけて完成。この色合いがいいのだと古来は思う。スーパーで買ってきた千切りキャベツを添えて、古来はオムライスを食べた。
食器を片づけ、一服してから古来は台所の椅子から立ち上がった。私室にいき蛍光灯を灯した。四日ぶりだった。そんなに寄りつかなかったのは初めてのことだった。この部屋は古来の城であり、心の在りどころであった。
部屋は空気がいくぶん淀んでいるような感じがした。だがそれ以外に変わったところはないようだった。デスクの上の『文字化け』も、あの夜おいたままの位置にあった。古来はドアを閉めると、中に入り、デスクの前に座った。『文字化け』をじっと見る。この、たかが本に、数日の間おびえていたと思うと馬鹿らしくさえ思えた。
古来は本を手にすると、肘をついておもむろに開いた。そして愕然とする破目になった。目はいまにも飛び出さんかのように、大きく見開かれ真ん丸になった。活字がなくなっていた。文字があったはずのページは白紙になっていた。めくってもめくっても、どのページもどのページも白紙になっていた。
なにがあったのか古来はわからなかった。どうしてこうなったのかわからなかった。いや、ほんとうはわかっていた。抜け出したのだ。あいつらは本を出て、この家のどこかを這っているのだ。
古来は白紙になった本をデスクにおくと、ゆらりと立ち上がった。見つけ出して始末せねばならなかった。あいつらを、一字たりとも、このまま放っておくわけにはいかなかった。
椅子を引いて、デスクの下のほうを見、それから部屋全体を古来は見渡した。他の部屋に移動している可能性もあるので、私室を出て、家の各所を点検していった。寝所、居間、台所、客間、玄関先を見、なにげなく顔を上げた古来は目を釘づけにした。玄関から通じている廊下の天井に、黒々と、群れとなった文字たちがいた。おのおのの動きのせいで不規則に形を変えながら、天井に広がった黒い染みのようにして、文字たちは天井を這っていた。本のページ数からみて、およそ十万から十五万の数の文字であった。群れているせいでひとつひとつの字体は読み取れないが、一字一字が生きて動き、上になり下になり絡み合っているさまは、吐き気をもよおすほど醜怪なものであった。闇奥から這い出てきた諸悪の源のようにして、文字たちは蠢いていた。それは、この世に存在してはならぬものであった。
古来は居間に取って返して、新聞紙と紙パック交換型の電気掃除機を廊下に運んできた。掃除機のコードを引き出しながら、クソ文字どもめ、一字残らず片づけてやると内心で憑かれたようにおらんでいた。プラグをコンセントに差し込み、パイプを最長まで伸ばしてスイッチを入れた。ウウーンと掃除機のモーターが唸り、文字たちの動きが止まった。みてろ、思い知らせてやる。鼻息も荒く、古来はパイプの先端を天井の文字の群れへと近づけた。チィチィチィとかすかな鳴き音のようなものがし、黒い群れがいっせいに爆ぜた。文字たちは吸い込まれ、あるいは四方へと逃げまどった。パイプを忙しく動かしながら、目をぎらつかせて古来は文字たちを吸引していく。生きものと化した文字たちの、のたうち、悶え、阿鼻叫喚する声がまざまざと聞こえてくるかのようだった。ぱらぱらと天井の文字たちが廊下に落ちてき、蜘蛛が八脚をあやつるように、気味悪く文字体を蠢かして古来のほうへ向かってくる。それを古来は吸い取ったり、丸めた新聞紙でつぎつぎと叩き潰していった。狂っていた。すべてが狂っていた。
ようやく一段落ついた時には、古来は息をはずませていた。汗で髪の毛が額に張りついている。廊下には点々とインクの黒い染み粒が残り、新聞紙は潰された文字たちで黒く染まっていた。
古来は大きく肩で息をついた。まだ終わってはいなかった。あと、あの本を片づけねばならなかった。『文字化け』を燃してしまわなければならない。掃除機や新聞紙をその場に残し、古来は真っすぐ私室へ向かった。
部屋はなにごともなかったように静かだった。『文字化け』は古来がおいたままに、デスクの上にあった。灰皿を出し、古来は『文字化け』をつかむとページを引き裂いていった。細かくちぎって、跡形もなく燃やすつもりだった。
その時だった。古来は気配を感じた。うなじの毛が電気にでも触れたようにぴりぴりし、憎悪と敵意が一度に部屋に満ちあふれた。古来は体ごと振り返り部屋を見まわした。さわさわという、ものがすれ合うような音がどこからともなく聞こえだしている。古来は目を皿にし、耳をそばだてた。
さわさわは大きくなり、ざわざわとなり、書棚と書棚の隙間、書棚と壁の隙間から、ざわりざわりと黒い文字の群れが溢れ出てきた。
古来は『文字化け』を放り出すと、反射的に両手で口を覆った。得体の知れぬ恐怖が喉元にまで込み上げていた。無我夢中にすぐ近くの棚の本を取り出し、ページを繰ると、活字があったはずのページは白紙になっていた。投げ捨て、別な本を繰るとそれも白紙だった。つぎつぎと取り出すが、どれもがすべて白紙になっていた。
伝播していた。『文字化け』が伝播していた。古来がこれまで集め読んできた幾千の本たちの文字が、生命を得て動き出していた。古来は、今度こそ悲鳴を上げた。
書棚から、文字の群れに押し出されるようにして本がばさりばさりと床に落ちていった。床に積み上げていた本のページの間から、文字たちがうようよと這い出てきた。とうてい数えきれないほどの文字であった。何千万、何億という数の、生きて動く黒い文字たちで、天井が床が棚が黒く覆われていく。それは群れ、波打ち、蠢き、いまでは無数の文字で作られた巨大な黒いうねりと化していた。それが古来を目がけて迫りつつあった。
逃げなくてはいけないと古来は思った。しかし逃げ場はなかった。ドアの向こうからも、隙間をくぐって文字が押し寄せていた。それに目前の床はすでに、文字たちで埋まり、そこに足を踏み出すなんて怖ろしくてできなかった。しかしこのままでは、文字に呑まれてしまう。ざわざわ、チチチという音が部屋に響く。携帯電話はバッグの中に入れっぱなしで、いまは居間にある。窓を塞いだりするんじゃなかった。そうだ窓だ。デスク側の窓だ。古来はそちらを向いたが、すでに窓も文字たちが群がっている状態だった。それを目にして古来はびくっと身を引いた。全身の毛穴から汗が噴き出た。ノートパソコンがあることに気づき、古来はそれに飛びついた。助けを呼ぶしかない。電源を入れ起ち上げる。パソコンで緊急通報ができるのかどうか知らなかったが、これほどネットが普及しているのだから、なんとかなるはずだ。検索画面になり緊急通報と打ち込んだ。画面が変わり、すると、そこから文字がこぼれてきた。文字はキーボードの上にぱらぱらと落ち、それから手へと這い登ってくる。古来は叫び、両手を叩いて文字を払った。ネットの文字が画面からぞろぞろと這い出、パソコンを覆い、デスクを黒く塗りつぶしていく。急いでパソコンを両手で持ち上げ、デスクの上に叩きつけた。もうどうしていいのかわからなかった。文字の群れはそこまで迫っていた。足に文字たちがまとわりつき、古来は悲鳴を上げた。必死になって文字を払う。しかし払いきれない。椅子があった。半ばを文字で黒く覆われた椅子が。そうだと、古来は椅子に両手をかけた。椅子を窓に投げつけ突破口を作るつもりだった。そして、やや屈んだ姿勢の、中途まで持ち上げた時、天井から文字たちが降り注いできた。髪の毛の間に文字たちが入り込み、襟首から背中へと文字が入ってきた。古来は叫び、背を伸ばすと反射的に椅子を手離した。頭を掻きむしり喚きながら身体をよじらせ、バランスを崩した古来は、文字たちの群れる床に倒れ込んだ。
文字が古来に襲いかかった。つぎつぎと文字たちが古来へと群がっていった。古来は転げまわった。立ち上がることもできず、手足を振りまわし、のたうつしかなかった。文字が古来の、手を脚を胸を腹を覆い尽くしていく。首筋から頬へと文字は這い、鼻孔へ口中へと入り込んでいった。強烈なインクの匂いに古来はむせた。両手の指を口の中に入れ文字を掻きだそうとするが、無意味な行為に等しかった。耳孔から侵入してきた文字が鼓膜に達し、古来は気が狂いそうになった。内側から頭を叩きつける激痛が絶え間なく続き、頭が割れそうであった。これが止まるならなにもいらないと思った。思考などもはや不可能だった。激痛と苦悶しかなかった。口から入った文字が気道を通じ肺へと侵入し、気管が文字で塞がれていく。
わずかに残った意識で、これまでの人生で読んできた数億の文字たちと自分が、いまひとつになろうとしていることを古来は知った。
それは――恐怖であった。
古来の遺体が発見されたのは、それから三日後のことだった。無断欠勤が二日続き連絡も取れないので、様子を見に行った職場の同僚が、口に本の破片をこぼれ出るほど詰め、白い膜がはった目を、両目とも開いたままの古来の亡骸を発見していた。
通報を受けた警察は、現場に、ノートパソコンが壊されているとかいった争った跡があること、及び遺体が苦悶の様子を呈していることも考慮し、事件の可能性もあると判断した。死因は、千切れた本の破片が口から気道を塞いだための窒息死であった。その本が、なんという題のどんな本であるかは誰にもわからなかった。
ただ、捜査員のひとりが驚くべきことに気づいた。家には、本が数千冊ほど所蔵されていたが、どの本もページが白紙となっていた。まるで本の中の文字が一夜のうちに忽然と消え失せたかのようであった。どうしてこうなったのか、どうすればそういうことができるのか、あったはずの文字はどこへいったのか、誰ひとりとして説明のできる者はいなかった。
が、その後の捜査でもなにも出ることはなく、古来の事件は、謎のままとして残された。
その年の初冬、ひとりの浮浪者が古来の住んでいた家に入り込んだ。夜のことである。
家は、古来の遠い親戚が引き取っていたが、古来の死が不自然だったために妙な噂が立ち、いまのところ、貸家にすることもできないなら住む者もなく、放置されたままであった。そろそろ寒さがこたえるころになった浮浪者には、もってこいのねぐらだった。
男は荷物を詰め込んだリュックと、スーパーで買った百五十ミリリットルの紙パックの日本酒を持ち込んでいた。ストローを使って酒を飲み、少し体が温まったところで、男はそのままごろんと横になって眠った。
目を覚ましたのは音のせいだった。いまが何時なのかはわからなかった。闇の濃さからみて、深夜だろうと思う。さわさわ、かさかさという、虫が這うような音がしている。男は目やにだらけの目をこすって上体を起こした。
暗くてなにも見えない。ただ音がしているのだけは間違いない。かさこそ、かさこそ。なにかがいた。小鼠かゴキブリだろう。放っておいてもいいが、数が増えてきているみたいに、音が大きくなってきているのが気になった。
男はリュックから、浮浪者必需品の懐中電灯を取り出した。そして音のするほうに照射した。懐中電灯の丸い光芒の中に、畳の隙間から、床下から、粒のような黒い虫みたいなものがわさわさと這い出ているのが浮かび上がった。
男は唖然とした。懐中電灯を持っていない、畳においてある左手になにかが群がり、男はびくっと身体を震わせると、思わず畳から上げた左手を照らした。数十の黒い虫みたいなものが掌を甲を這いまわっている。いや、虫じゃない、文字だ。
男は声を上げ、そこから逃げようとした。
が、遅かった。床下に潜んでいた数億字の文字たちが、群れと化して男に襲いかかっていた。
(了)
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さて、ここでもうひとつのエンディングをやらかしてみたいと思います。DVDの特典みたいですね。それやると作りものであることが顕著になり、作品の質と完成度は落ちますが、たまにはそういう趣向の小説も面白いかもしれません。
では、もうひとつのラストバージョンをお楽しみください。
役場の同僚が古来の家を訪ねたのは、古来が二日間無断欠勤をした日の翌朝だった。無断欠勤だけでも信じられないのに、電話も通じず、もしやなにかあったのではと懸念した上司から、ご苦労だが、明日の朝でいいから様子を見てきてくれないかと頼まれてのことであった。出勤時間が遅れるのは構わないとも言われていた。
彼が古来の家に着いてまず気づいたのは、新聞受けに溜まった新聞だった。留守なのかとも思ったが、嫌な予感のほうが強かった。家のほうへ顔を向けると、家は朝の光を浴びて穏やかな佇まいを見せている。玄関先にやつでがあり、あたりは静かだ。
表札が『古来』となっていることをいま一度確かめてから彼はチャイムを押した。家の中で鳴っているのが、彼の耳にも届いた。しかし反応はない。
このまま引き上げようかとも思ったが、上司になんと言えばいいのやら。それに、病気とか突然死とか、もし万一のことがあったとしたらどうする。それに、溜まった新聞も妙に気になるではないか。
彼は門扉を開け、敷地内に入ると玄関の戸に手をかけた。鍵はかかってなく、戸はするりと開いた。頭が入るぐらい開け、おはようございますと中へ向かって言った。それから古来の名前を呼んだ。しかしどこからも返事はなかった。
家の中は外と違ってうす暗かった。返事はないものの、誰かがいるような気配が漂っていた。それは漠然とした感じとしか言いようがないものであったが、確かに誰かがいるように思えた。
「すみません。勝手に上がらせてもらいます」
家の奥の見えない誰かにそう声をかけ、彼は靴を脱ぎ中へと入って行った。嫌な予感がしきりにする。
きょろきょろと彼は家の中を見まわした。そのうち、かすかだが音がしているのに気づいた。なにかを齧っているような音であった。冷や水を浴びせられたようだった。その音には本能的に不快なものが感じ取れた。朝なのに、いまがまるで深夜であるような気もしてくる。これ以上はやめたがいいと思ったものの、確かめずにはおれなかった。そろそろと彼は、音のほうへと近づいていった。
音がしだいに大きくなる。鼠が壁を齧っているような音だ。台所の先のドアの内側から聞こえている。
ドアの前で彼はためらいながらも、二度ノックした。そして古来の名を呼んだ。音がぴたりと止み、底の知れない深い静寂がその場をつつんだ。いまにもなにかが起こりそうな気配がし、いまにもなにかが、と、ようやく音がふたたび聞こえだした。
彼は安堵のため息をついた。助かったと思った。これ以上ここにいるのは嫌だった。このまま帰るべきだという思いが何度もする。しかしそういうわけにもいかない。朝っぱらからなにをびくついているんだと、彼は臆病な自分を笑い飛ばし、ドアノブに手をかけた。掌が汗ばんでいる。
ゆっくりとドアを手前に開いていく。覗くと、書棚と本で埋まったような部屋が見えだし、音が明瞭になってきた。思いの外明るく、彼はおそるおそる一歩足を踏み入れた。ほぼ正面の窓から日が差し込み、そこに彼は見た。
部屋には大きな虫のようなものがいた。灰色とも黒ともいえる、芋虫とも幼虫とも思える生きものだった。大きさが人ほどあり、それが本を食べていた。ぬめっとした皮膚が光を浴びて、てらついている。
彼はその場に凍りついた。どう見てもそれは作りものではなかった。そして、この世のものでもなかった。言い知れぬ恐怖に彼の毛髪は逆立った。悲鳴すら出ない。よく見ると、それの皮膚は半透明っぽくて、その上に無数の文字が浮き出ているせいで黒っぽく見えるのがわかった。皮膚が緩やかに上下し、それに合わせて、漢字、ひらがな、カタカナ、記号、ローマ字と、入り乱れた黒い文字たちが蠢いていた。ガリガリと、それが本を齧る音が彼の耳に聞こえている。
その場に倒れそうになり、ドアノブをつかむことで彼はなんとか持ちこたえた。音を立ててしまい、ぴたっと齧る音が止んだ。気づかれたと彼は思った。怖ろしさで身体が震えた。
それがゆっくりと動き、いままでよく見えなかった頭の部分が見えた。その頭が彼のほうへ振り返った。
古来だった。死人のように青ざめた顔色をした古来の顔がそこにあった。黒い、吸い込まれてしまいそうな目が彼のほうへ向けられ、ノコギリのようになった歯を剥きだした、紙の粉だらけの口が笑んだみたいに動いた。
彼は全身で金切り声を発した。いまにも気がふれてどうにかなりそうだった。本能的に後退りし、彼は転げるようにしてその場から逃げだした。そのまま家を飛び出、とにかく無我夢中で走った。走って、走って、走った。まわりのものはなにも見えなかった。頭の中には、あの家で見た文字虫のような化け物のことしかなくなっていた。あれがなんなのか考えたくもなければ、知りたくもない。自分がなにをしにきたのか、なんのために走っているのか、それさえわからなくなっていた。
とにかく、あそこからほんの少しでも遠のくことができるなら、もうそれだけでよかった。
(了)
いかがでしたでしょうか――。
文字体、朝昼食、鳴き音など、いくつか勝手な造語を使っていることをお断り申し上げておきます。