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婚約者の隣で小さくなるのを、やめました

作者: ピラビタ

 春の終わりを告げる鐘が、学園の中央塔から鳴り響いていた。


 白亜の回廊を渡る風はまだ冷たく、制服の裾をわずかに揺らす。

 私はその感触を確かめるように、指先でスカートを押さえた。


 ――この学園に通い始めて、もう六年になる。


 貴族子女のための名門、アステリア学園。

 格式と伝統を重んじるこの場所で、私は常に「正しく」振る舞ってきた。


 目立たず、騒がず、誰かを押しのけることもない。

 それが、公爵家令嬢である私――

 セレナ・エルフォードの役目だと、信じていたから。


 そして、その価値観の中心にいたのが、

 幼い頃からの婚約者――

 ルシアン・ヴァルグレイヴだった。


 彼は多くを語らない。

 けれど、隣に立つと、不思議と安心できる人だった。


 だから私は、疑わなかったのだ。

 この関係が、揺らぐ日が来るなんて。


 *


「セレナ様」


 中庭の噴水のそばで、呼び止められた。


 声の主は、

 最近になって急速に存在感を増している伯爵令嬢――

 リリア・ノクターン。


 陽の光を反射する淡金の髪。

 自信に満ちた微笑みは、まるで周囲の視線を計算しているかのようだった。


「突然で恐縮ですが……少し、お話を」


 その丁寧すぎる言葉遣いに、

 私はかすかな違和感を覚えた。


「ええ、構いません」


 そう答えた瞬間、彼女は一歩、距離を詰めてきた。


 香水の甘い匂い。

 それが、逃げ場を塞ぐように広がる。


「単刀直入に申し上げますわ」


 彼女は微笑んだまま、言った。


「――ルシアン様との婚約、解消なさるおつもりは?」


 一瞬、思考が止まった。


 水音だけが、やけに大きく耳に響く。


「……それは、どういう意味でしょうか」


 私の問いに、リリアは眉一つ動かさない。


「彼には、もっと相応しい未来がありますの。

 社交性、華やかさ、そして……野心」


 柔らかな声で、

 それはまるで事実を並べるかのようだった。


「あなたは、とても“良い方”ですわ。

 でも、彼の隣に立つには――少し、控えめすぎる」


 控えめ。


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。


 それは私が、長年“正しい”と信じてきた在り方そのものだったから。


 *


 その日から、学園の空気が変わった。


 すれ違う令嬢たちの視線。

 ひそやかな囁き。


「……エルフォード公爵家の」

「でも、地味よね」


 聞こえないふりをしてきた言葉が、

 次第に、耳に残るようになる。


 夜、一人きりの部屋で、

 私は鏡の前に立ち尽くした。


 淡い色の髪。

 派手さのない顔立ち。


 ――私は、足りないのだろうか。


 その問いに、答えは出なかった。


 ただ一つ分かったのは、

 このままでは、私は自分を見失うということだけだった。


 *


 翌日。


「セレナ」


 背後から聞こえた、落ち着いた声。


 振り返ると、そこに立っていたのはルシアンだった。


 いつもと変わらない表情。

 けれど、その瞳は、私だけを真っ直ぐに捉えている。


「話がある」


 私は、静かに頷いた。


 逃げない。

 選ばれるのを待たない。


 ――ここから、私自身の物語が始まる。


 ルシアンと向き合って座ったのは、学園の図書棟だった。


 高い天井まで届く書架。

 静寂の中に、紙とインクの匂いが満ちている。


 ――ここは、私が一番落ち着ける場所。


 感情をぶつけ合うには、不向きな空間だ。

 けれど今の私には、感情に飲み込まれない場所が必要だった。


「最近、何かあったのか」


 ルシアンは、単刀直入に切り出した。


 その問いに、私は一瞬だけ言葉を探した。

 彼は、決して詰問する口調ではない。

 けれど、その“距離”が、今は少しだけ苦しかった。


「……学園で、少し」


 それだけ告げると、彼は小さく息を吐いた。


「リリアのことだな」


 心臓が、わずかに跳ねる。


 ――知っていたのだ。


「彼女は、最近勢いがある。

 社交界でも、名前をよく聞く」


 淡々とした言葉。

 評価でも、否定でもない。


 私は、拳を膝の上でそっと握った。


「……私、足りないでしょうか」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 自分で言ってしまえば、

 それは“弱さの告白”になる。


 けれど、目を逸らすことはしなかった。


 ルシアンは、少しだけ目を細めた。


「足りないかどうかは、誰が決める?」


 問い返され、私は言葉を失った。


「少なくとも、俺は“不足”だと思ったことはない」


 その言葉は、慰めではなかった。

 断言でもなかった。


 ただ、事実を述べるような声音。


 それが、かえって私を揺らした。


「……でも、私は」


 私は、途中で言葉を切った。


 今までなら、

 ここで彼に委ねていただろう。


 けれど。


「少し、考える時間が欲しいのです」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。


 ルシアンは、何も言わずに頷いた。


「分かった」


 それだけ。


 その距離感が、

 初めて“対等”に感じられた。


 *


 数日後、私は学園の執務室を訪れていた。


 理由は、ひとつ。


 自分の居場所を、自分で作るため。


 エルフォード公爵家は、学園の運営にも深く関わっている。

 その関係で、私はこれまで裏方の補佐を任されることが多かった。


 目立たない仕事。

 評価されにくい仕事。


 けれど――

 誰よりも、全体を見て動く必要がある仕事。


「セレナ様、こちらの書類ですが……」


 後輩の令嬢が、不安そうに声をかけてくる。


「確認します。

 この項目、少し表現を変えましょう」


 私は自然と、指示を出していた。


 驚いたのは、周囲の反応だった。


「……早い」

「分かりやすいわ」


 小さな評価。

 けれど、それは確かに、私の中に残った。


 *


 その頃、リリアは――

 思うように動けずにいた。


 華やかな社交。

 注目を集める振る舞い。


 だが、学園運営に関わる調整役としては、

 致命的に“向いていなかった”。


「また、行き違いが出ています」


「……どうして?」


 苛立ちを隠さない声。


 彼女は、人の感情は読めても、

 “仕組み”を読むことができなかった。


 そして、その皺寄せは――

 静かに、彼女自身へと戻ってくる。


 *


 ある日の会合で、

 運営側の教師が言った。


「今回の件、エルフォード令嬢の調整がなければ、

 混乱は避けられなかったでしょう」


 ざわめき。


 私は、驚いて顔を上げた。


「派手さはありませんが、

 非常に堅実で、信頼できる」


 その言葉に、

 リリアは、言葉を失っていた。


 ――これが、私のやり方。


 声高に主張しなくても、

 静かに、確実に、積み上げる。


 私は初めて、

 自分の足で立っている感覚を覚えた。


 *


 会合の後、廊下で呼び止められた。


「見事でしたね」


 穏やかな声。


 振り返ると、

 見知らぬ青年が立っていた。


 柔らかな灰色の瞳。

 派手ではないが、どこか安心感のある佇まい。


「あなたの判断は、とても理にかなっていた」


 私は、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。

 ですが、まだ勉強中です」


 青年は、微笑んだ。


「謙虚ですね。

 ……私は、アレン・フィオレ。

 王都から派遣されてきた、外部顧問です」


 胸の奥で、何かが静かに動いた。


 この出会いが、

 私の未来を変えることを――

 まだ、私は知らない。


 リリアの評判が、目に見えて揺らぎ始めたのは、それからすぐだった。


 派手な立ち回り。

 人脈を誇示する態度。

 だが、それを支える“実績”が、伴っていないことに周囲が気づき始めたのだ。


「また調整が遅れているそうよ」

「責任者の名前、変わったらしいわ」


 囁きは、以前と同じように静かだった。

 ただし今度は、彼女に向けられている。


 私は、廊下ですれ違ったリリアと視線を交わした。


 彼女は、一瞬だけ唇を噛みしめ、すぐに視線を逸らした。


 ――あの人は、負けたことがない顔をしていた。


 負け方を、知らないのだ。


 *


 夕暮れ時、ルシアンに呼び出された。


 場所は、学園の裏庭。

 人目を避けるように植えられた木々が、長い影を落としている。


「セレナ」


 名前を呼ばれただけで、

 彼の声に含まれる緊張が伝わってきた。


「君は、変わったな」


 それは、責める言葉ではなかった。


「……そうでしょうか」


「以前は、俺の言葉を待っていた」


 私は、静かに頷いた。


 否定しない。

 それは、事実だから。


「今は、違う」


 彼は少しだけ困ったように笑った。


「君は、自分で決めて動いている」


 胸の奥が、かすかに熱くなる。


 それは、評価された喜びではなく――

 理解されたことへの安堵だった。


「だから、聞かせてほしい」


 ルシアンは、真っ直ぐに言った。


「俺は、君の隣に立てているか?」


 その問いに、私は初めて、迷わず答えを出せた。


「……いいえ」


 空気が、静止した。


 彼は、驚いたように目を見開き、

 やがて、ゆっくりと息を吐いた。


「理由を、聞いても?」


「あなたは、悪くありません」


 私は、言葉を選びながら続けた。


「でも、私はあなたの“隣”で、

 自分を小さくしてしまっていた」


 それは、誰のせいでもない。


 ただ、相性の問題だった。


「あなたに守られる私ではなく、

 一緒に歩く私でいたかったのです」


 ルシアンは、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに微笑む。


「……それが、君の答えか」


「はい」


「なら、受け入れよう」


 その潔さに、私は深く頭を下げた。


 長い関係に、ようやく区切りがついた。


 *


 その夜。


 リリアが起こした“失言”が、決定打となった。


 学園運営に関わる重要な場で、

 彼女は焦りから、ある教師を公然と非難してしまったのだ。


「あなたの采配が、すべての原因でしょう!」


 沈黙。


 次の瞬間、冷ややかな声が落ちた。


「――責任の所在を理解していないのは、あなたです」


 その場で、

 彼女は運営から外されることが決まった。


 拍子抜けするほど、あっけない終わりだった。


 だが、それこそが現実だった。


 *


 数日後、私はアレンと再び会っていた。


 今度は、学園外の静かな茶室で。


「無理をしていませんか」


 彼は、私の前にそっと紅茶を置いた。


「……不思議と、楽なのです」


 そう答えると、

 彼は少しだけ、安心したように笑った。


「あなたは、強いですね」


「いいえ」


 私は首を振る。


「ようやく、自分を信じられるようになっただけです」


 アレンは、しばらく私を見つめてから言った。


「では――

 もしよろしければ、今度は“対等な立場”で、お話ししませんか」


 その言葉は、

 口説き文句ではなかった。


 条件でも、評価でもない。


 ただ、ひとりの人間として向けられた言葉。


 胸の奥が、静かに温かくなる。


「……はい」


 それが、私の答えだった。


 春は、いつの間にか終わりを告げていた。


 けれど、私の中では――

 ようやく、新しい季節が始まったのだ。


 私はもう、誰かの影ではない。


 私自身の人生を、

 自分の足で歩いていく。


 それを選んだことを、

 私は、誇りに思っている。





 学園の庭は、春の花が淡く咲き誇っていた。

 空は澄み渡り、微かに香る花の匂いが、ゆっくりと時間を運んでくる。


 セレナ・エルフォードは、いつもの制服ではなく、

 少し華やかな装いで学園の回廊を歩いていた。

 ただし、以前のように目立とうと背伸びはしていない。

 自分らしい、自然な佇まい。それだけで、周囲はすぐに彼女の存在を認めた。


 ――やっと、私は自分の居場所を手に入れたのだ。


 廊下の奥から、灰色の瞳が柔らかく微笑みながら近づいてくる。

 アレン・フィオレ。

 以前より少しだけ大人びた雰囲気になっている。

 それでも、変わらず安心できる存在。


「おはよう、セレナ」


 軽く手を振ると、自然に私の隣を歩き始めた。


「おはようございます、アレンさん」


 互いに肩の力を抜いた距離で並ぶ。

 特別な言葉は必要なかった。

 歩幅を合わせ、歩くだけで心地よい。


 振り返れば、元婚約者のルシアンは、学園の別の行事で忙しそうにしている。

 彼の隣には、以前のリリアのような華やかな令嬢がいて、

 お互いに認め合う静かな空気が漂っていた。


 ――私のことはもう、誰も侵せない。

 静かに、しかし確実に積み上げた日々が、私を守ってくれている。


 花びらがひらりと舞い、私の肩に落ちる。

 自然な春の色と匂いに包まれながら、

 私は初めて、自分自身の人生に心から安心できた。


 アレンと目を合わせる。

 微笑むと、自然に手を差し伸べられる距離になった。


「……行きましょうか」


 彼も、同じ気持ちを抱いているのが分かる。

 言葉にせずとも、互いの歩幅はぴったりと合った。


 学園を出て、広い世界へ――

 私たちは一歩ずつ、静かに、確かに歩き始めた。


 春の光に照らされる二人の影は、

 もう誰のものでもない、私自身の人生を映していた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


このお話は、

「自分で選ぶ側」へと変わる令嬢の物語です。


華やかな舞台や派手なざまぁはありませんが、

静かに、確実に評価を積み上げ、

自分の人生を手に入れる――

そんなヒロインの一歩一歩を描きました。


物語の最後には、

「自分の足で歩くことの喜び」を感じてもらえれば嬉しいです。


少しでも共感した、応援したい、スカッとした、

と思っていただけた方は、


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