プロローグ
初めまして、あやPRです。
この作品は、豊かな文化と色彩に満ちた南方の大国を舞台にした、完全フィクションの物語です。
実在の国・民族・文化とは一切関係ありません。
春の夕暮れ。大学のサークル棟から伸びる坂道は、沈みゆく陽に照らされ、まるで世界そのものが茜色の布をかぶったように温かく染まっていた。
巌慈 遥。
どこにでもいる、ごく普通の女子大生。
ダンスサークルで仲間たちと息を合わせ、汗を流し、笑いあい、時々は課題に追われる。そんな、なんでもない日常が確かにそこにあった。
「今日の振り付け、マジで難しかったよね〜」
軽口を叩きながら、自転車を押して坂を下る。息は少し上がり、額には細かな汗。
明日の発表会のこと、夜にやらなきゃいけないレポートのこと、友達とのご飯の約束。
頭の中には、いつもの“大学生活の続き”だけがあった。
――ほんの少しだけ、いつもより帰るのが遅くなった。
――ほんの少しだけ、いつもより道が暗く見えた。
それだけの違い。
その誤差が、人生をまるごと変える“分岐点”になるとは、遥には想像もできなかった。
交差点。
人影はまばらで、車の行き交う音だけが乾いた空気を震わせる。
信号が青に変わる。
(よし、今日も汗が凄いし、帰ったらまずシャワー浴びよ……)
日常の続き方を信じ切ったまま、遥はペダルにそっと足をかけた。
――その瞬間。
視界を焼きつくすほどの白いライト。
耳の奥に突き刺さるブレーキ音。
砕け散るガラスの破片が、夕陽の色を吸い込んで瞬く星みたいに舞い上がる。
「……え?」
時間が止まったように、すべてがゆっくりと見えた。
身体がふわりと浮き上がり、地面との距離が遠ざかっていく。
痛みは不思議と、ない。
代わりに胸の奥がじんわりと温かくなり、夕陽の残光が自分を包んでいくように感じた。
視界の端で人々の叫び声が、遠い世界の音みたいにぼやけて聞こえる。
(私……死んじゃったのかな……?)
恐怖よりも、理解よりも、先に浮かんだのはひどく小さな現実だった。
(明日の発表会……どうなるんだろ……)
踊りたかった。
もっと笑いたかった。
帰ったら食べようと思っていたチョコも、まだ鞄に入ったままだ。
(友達に、ちゃんとありがとうって言えばよかったな……)
涙は出ない。
ただ、思い残したことばかりが、胸の奥に静かに沈んでいく。
――そして闇が訪れた。
すべてがふっと軽くなり、音も色も失われていく。
遥の意識が落ちていくその最中、なにか柔らかな布に包まれたような安堵だけが、そっと抱きしめていた。
◆
次に瞼を開いたとき。
眩しい白い光――ではなかった。
金糸が流れるように編み込まれた天蓋。
石造りの柱に施された異国の彫刻。
空気に漂うのは、甘く香る見知らぬ香辛料。
寝台の下には、触れただけで分かるほど滑らかな絹。
「……え?」
状況が理解できず、遥はゆっくり身体を起こした。
そこでようやく目に飛び込んできたのは、褐色の肌を持つ美しい女性たち。
金の飾りをつけた布を纏い、しなやかな動きで遥の前に膝をつく。
「ミーナ様――ご目覚めになられましたか」
「み……な……?」
遥の声はかすかに震えていた。
(え? 誰? 私じゃない……? ここどこ? 私、生きてる……?)
混乱する視界の中で、女性たちは深々と頭を下げる。
その礼の仕方は、まるで崇拝にも似ていた。
――こうして、普通の女子大生だった遥の“新しい人生”は、静かに、しかし確実に幕を開けた。
ここは事故現場ではない。
病院でもない。
そして、遥が知るどこの国でもなかった。
目覚めた場所は、
絢爛たる宮殿。
人々が讃える『ミーナ』という名の、高貴な女性の寝所。
そして遥は――ある国を統べるべき“マハラジャ”の座にある人物として扱われていた。
運命の交差点を越えた先で、
遥の人生は思いもよらない物語へと踏み出していく。




