第6話 姉と仲直りをする―②
カチャンという音に誘われて、眼を開く。
ぼーっとしてる、頭が。
眼が痛い。喉も痛い。
風邪を引いたみたいな感じだけれど、そうじゃないことは寝ぼけた頭でも理解してる。
昨晩のことは、夢だったらよかったけど、当たり前だけどそうじゃない。
身体を起こして、眼元についた跡を拭った、どれだけ泣いていたのやら。きっと今、死ぬほどみっともない顔をしている。
軽く咳き込みながら視線を回す。窓から差し込む光は、どことなく薄暗くて、今日は曇りの日だろうか。まあ、ここら辺の冬場は、いつも曇りばかりだけれど。
ベッドの隣にははるがいたはずのくぼみがあって、まだ少しだけ微かな温かさが残ってた。私はそれを指で感じて、軽く頭を振ってから、ベッドから立ち上がる。
カチャンと、カチャンと、リビングの方から音がする。
食器を食卓に並べる音、最近、私の方が早く起きることが多かったから、あまり聞かなくなってた音だ。
リビングの扉に手をかけた時、少しだけ胸が痛んだ。
何を言われるだろう。どう思われたんだろう。
今更、そんなことを考えても仕方がないけど。それでも考えずにはいられない。
私の根っこはそれなりに人でなしだから、この世界の誰が敵に回っても、まあ、そういうこともあるかと思えてしまう。それでも、はるに嫌われるのだけは、怖かった。
私の心の中の、揺らいではいけない軸のようなものが、壊れてしまうような気がするから。
そのまま少し逡巡していたら、不意にガチャリとドアノブが勝手に回った。
「あ、くろえ、起きた? もう出来てるよ、今日はホットケーキだぞ! ほら、座って座って」
扉を開けた先から、顔出したはるは、明るくて、笑顔で、まるでいつも通りみたいだ。あんな許されないことをされた、翌日とは思えない。
「………………」
違う、あえてそういう顔をしてくれているんだ。私に気負わせないように。
何も言えない私を、はるは少し心配そうに首を傾げる。でも、しばらくすると、仕方ないなあという風に、息を吐いて、そっと私の手を取った。
温かい、まるでいつもと変わらぬように。
「ほら、お座りなさーい。飲み物はいつものカフェオレでいい? 砂糖ミルク多めで。ちなみに、今日は追いバターOKだよ?」
そのままあなたに手を引っ張られて、半ば無理矢理、着席させられる。
何も言えない私の前に、あれよあれよという間に、あたたかなホットケーキとカフェオレが並べられていく。そうして、はるは自分の分も準備して、いそいそと私の隣に座った。
「ほら、食べよ。くろえ」
そう言って、はるは屈託のない笑顔を私に向ける。
視界の端からは、バターが溶けた匂いとはちみつの香りが混ざって、柔らかな湯気と一緒に私の思考を揺らしてくる。
幸せだ。こんな時間が、何よりも。
でも、だからこそ、私は受け取っちゃいけなくて。
喉の奥が熱さで震えそうになる。
一度眠って、抑え込んだはずの想いが、また零れていきそうになる。
安心で、隠していた想いが、ぽつぽつとまた落ちていく。
「ごめん」
口から、気付いたら、言葉は漏れていた。
「………………」
「昨日、そういうことしないって約束してたのに、ごめん」
口から出て行く言葉は、力が無くて、感情が抜け落ちた機械音声か何かみたいだ。
「…………くろえ」
「酷いことした、はるにとって嫌なこともした。信じてくれてたのに、それも裏切った、ごめん」
ぽつぽつと言葉が落ちていく。ぽつぽつと雫が落ちていく。
声から感情は抜け落ちて、きっと顔にも感情なんて籠ってない。
私の心はもともと、こんな機械みたいだ。こんなのが結局、私の本性だ。
「―――くろえ」
「許されないのはわかってる。私といるのが怖いなら出て行くし、それで償いきれないなら、何でも――――」
結局。
「くろえ」
短く。
短く、静かに、名前が呼ばれた。
同時に、ふわっと唇に何かが触れる。
温かくて、柔らかくて、しょっぱくて、甘い。
まるで溶けそうなくらいに。
「謝る前に、まず私の顔を見るべきじゃない?」
言葉に誘われるまま、隣を見る。
はるは私の口元に、ホットケーキをすっと当てながら、じっとこちらを見ていた。
静かに、落ち着いて、私のことをただじっと。
「どう? 怒ってる?」
そう尋ねるはるの表情は、静かに穏やかに、優しく―――微笑んでる。
「………………ううん」
「でしょ、怒ってない人に謝っても仕方がないと想わない?」
ホットケーキで私の唇を弄びながら、はるはそっと首を傾げた。
「…………でも、謝らないといけないくらい……酷いことした」
たとえ、姉妹であっても、姉妹であるからこそ。許されないことがある。
「あれはまあ、一緒に寝るのを許可した時点で、半分、私の落ち度みたいなものだし。そもそも、くろえのご褒美でしてたんだから、別にいいよ。くろえなりに、気持ち抑えてたんだなってのは……その、感じたしさ」
はるは、小さくふぅとため息を吐く。何のため息だろう、失望だろうか。でもはるは、そういう穿ったため息の吐き方を、あまりしたがらない。
「ていうか、私もちょっと反省した。くろえにこんなに抱え込ませてたんだなって……」
そう言って、はるは少し視線を下げた。まるで、何かを悔やむみたいに。
「だから……なんて言うんだろう。気にしてない……は、違うんだけど、そんなにどうしようもなく傷ついてはないよ」
言いながらはるは、そっと私と視線を合わせる。『わかる?』とそう尋ねるみたいに、首を傾げる。
「それでも納得いかないなら、そうだね……。くろえが謝るなら、私も謝る」
じっと私の瞳を逃げることなく、見つめ続ける。わかってる、はるは、こういう人だ。
「ごめんね、辛い想いさせて。気づけなくて。くろえが抱えてたこと、ちゃんわかってあげられなかった。許されることじゃないけど、本当にごめん」
静かにじっと、言葉は紡がれ続ける。逃げることなく、揺らぐことなく、私の心をそのまま受け止めきろうとするみたいに。
「もし、許されるなら、私はくろえと仲直りがしたい。今回のことがあったからって、くろえとぎこちなくなったり、一緒にいて辛い思いはしたくないから」
わかってる、こうなったら、私に勝ち目なんて、そもそもない。
「…………くろえは今、どんな気持ち?」
そう言って、はるは小さく、首を傾げた。少し心配そうに。
私はしばらく、その真っすぐな瞳を見つめて、ふうともう一度息を吐く。
どうもこうもあるもんか、そこまで言われてこれ以上意固地になれない。
「…………仲直りしたい」
「うん、私も」
そういって、あなたは優しく笑った。
「ごめんね、くろえ」
「…………ごめん、はる」
そうやって小さく言葉を零したら、そっと頭を撫でられた。
「はい、仲直りおしまい。ほら、口開けて」
そうしてあなたは軽くにいっと笑みを浮かべると、私の口元に添えていたホットケーキをうりうりと押し当ててくる。
「あーん、ほら、この前くろえもやってたじゃん」
そう言いながら、ちょっと楽しそうにフォークを動かし続ける。
………………ああ、オムライスの時の仕返しかな。抵抗する気力もないから、そのままそっと口を開ける。
はるのフォークに刺さった、ホットケーキを優しく暖かく、甘くしょっぱく、私の口の中に入ってく。朝の空腹のお腹に、糖分がゆっくりと染みわたっていく。
はあ、幸せだ。すごく不本意な気はするけれど。
結局、私はこの人の掌の上から、いつまでたっても抜け出せないままだ。
そのまま、餌を与えられるひな鳥みたいに、はるにホットケーキを食べさせられた。
少し屈辱的な気もするけど、同時にそれに安心してしまっている自分もいる。
それに、空腹が満たされて、気持ちが落ち着いてくると、少しだけまあ仕方ないかなって気もしてくる。
何せ手強いのだこの姉は、それを私はこの10年で嫌というほど知っている。
そう簡単に堕ちるものか、でもだからこそ、諦めることもできない。
この胸に宿った想いは、残念ながら夢のように消えることなく、今日も残り続けてしまっているから。
否定されない以上、私は縋るように求めることしか出来ない。
たとえそれすら、この人の掌の上だとしても。
最後の一口を啄んだら、はるは満足げににっこりと笑った。
そんな笑顔を見ているだけで、自然と胸は軽くなる。
ああ、まったくもって、どうしたもんかな。
とりあえず、やられた分の仕返しはしよっか。はるの分は私が全部食べちゃったからね。
そう想って、フォークでホットケーキを切り分けていた時だった。
「そうだ、くろえ、今日何か用事ある?」
小さく首を傾げるはるに、私は少しだけ思考を回す。今日……用事……。
「ちょっとだけ、生徒会の予算の詰めと、課題レポートしたかったくらいかな……。でも、それがどうしたの?」
そう返事を返すと、はるはあら、と少し戸惑ったような表情になった。それから指を手前でつんつんとつつきながら、気まずそうに視線を逸らす。
「そ、そっか……暇だったら、一緒にお出かけしよっかなって思ってたんだけど」
……お出かけ、と小さく口が動いていく。いまいち理解できない言葉を、繰り返すみたいに。
お出かけ、はると。
最近してなかったから、久しぶりに。
そうやって、脳内で反芻しているうちに、感情が事実にやっと追いついてくる。
お出かけ……お出かけ!
はると、一緒に!
思わずがたっと立ち上がりそうになるのを、必死に抑えて、はるにがばっと視線を向ける。
「今、暇になった、大丈夫」
別に今日のは急ぎの用事じゃない。明日でもいいし、今日の夜でもいい。
「え、い、いいの……? そんな、大した用事じゃないんだけれど……」
「いいから。で、何するの? どこ行くの?」
そう言いながら、若干食い気味になってるなと、自省する。はるは少しだけ後ずさりしながら、ちょっと居住まいを正すと、びしっと私を指さしてきた。
「そ、それじゃあ、遠慮なく。私の分のご褒美がまだだったでしょ? だから、今日は私のご褒美で、くろえは私とお出かけです!」
言われながら、私は思わず、ふむっと唸った。そうだ、昨日のことですっかり忘れてたけど、はるのご褒美もあるんだったね。なるほど、それは仕方がない。なにせご褒美だもの、他の用事なんてしてる場合じゃない。
「ん、わかった。つまりデートだね」
ちょっと、おめかししよっか。最近おろした服もあるし、化粧も派手になりすぎない程度にしっかりして。念のためシャワーも浴びて。うん、やること色々あるね。
「デート……デート? いや、デートか。うん…………まあ、いいかな?」
提案した側の割に若干はるは、現状に戸惑ってるけど、私としてはもうそれどころじゃない。久しぶりのお出かけだもの、気合入れていかないと。
ただまあ、先のことを見据えすぎて、足元が疎かになるのもよくないよね。
「うん、とりあえず、早く残り食べよっか。はい、あーん」
何せ、今からホットケーキをはるに食べさせるっていう、大事な用事が残ってるんだから。
はるはしばらく、戸惑ったような表情を浮かべて、自分の皿にもうホットケーキが残ってないことに今更気付いてた。
私はそんな様子に軽く笑って、改めてはるにホットケーキを差し出した。
それにしても、デートが決まったくらいで、こんなに元気になって。我ながら現金だね。
それが少し気恥ずかしいも気もするけれど、はる相手なら、それでいいかという気もしてくる。
さっきまで、悩んで苦しんでいたのが、嘘みたいな。こんな甘い時間を味わいながら。
私は、紅い顔で、懸命にホットケーキを頬張るはるを、じっと眺めてた。
窓の向こうでは、曇りがちだった空から、微かに日差しが差し始めてて。
結局、こんな夢のような想いから。
私はまだ、覚めることができないままでいる。




