第53話 姉と眠る夜
あなたの眼から零れ落ちた涙を、指でそっと拭った。
暗闇の中、熱い雫が、私の指をじわりと濡らしていく。
それをゆっくり掬ってから、なんとなく自分の口元に持っていく。
そうして自分の指を軽く食むと、しょっぱいような微かに甘いような、そんな不思議な感覚が舌の上に広がっていく。
随分と現金な話だけれど、たったそれだけで、胸の中に抱いたわだかまりが少しずつ解けていく感じがした。
10年間、ずっと抱えてきた、消えようのない痛みと苦しみ。
終わりなんてないと想ってた。私という生き物には、決してぬぐえない傷なのだと想ってた。
でも、どうしてだろう。
あなたが、私の痛みを想って、泣いてくれる、それだけで。
胸に残った傷跡が、少しずつ和らいでいく。
……変だね、愛した人の涙なんて、見ないに越したことはないはずなのに。
どれだけ自分で涙を零しても、その痛みが消えることはなかったのに。
ただ、あなたが代わりに泣いてくれる。それだけで。
どうして、こんなに救われるのだろう。
わからない、人を騙すために磨いてきた知識の中に、その答えを教えてくれるものは一つもない。
そうしてあなたを見ていたら、私の頬からもぽつぽつと何かが落ちていく。
あーあ、自分で笑ってって言った癖に、世話ないね。
零れる雫が溶け合って、漏れ出る声が重なって、繋いだ指が絡まって。
二人の心も、まるで混ざり合ってしまったよう。
あなたの痛みが、私の痛み。あなたの涙が、私の涙。
全ての想いを、全ての心を、分かち合うことは出来ずとも。
この場所にある泣き声だけは、きっと同じだ。
それでよかった。
それだけでよかったんだ。
私は、結局初めから。
泣けない私の代わりに、泣いてくれるあなたがいたら。
それだけで、救われてたんだ。
ああ、もうこれ以上、何も要らない。
今ただ、このまま、二人で。
小さな部屋の布団の中。
泣き疲れるまで、泣いていたい。
※
「…………なんが……一生分泣いた気がずる」
いい加減目が慣れてきた暗闇の中、すぐ隣からぼそっとそんな声が聞こえる。
「…………そう? はるは相変わらず、これからも泣きそうだけど」
なんなら、明日にはまた些細なことで泣いてそうだ。ただ、そんな私の返答に、隣からむっとした気配を感じる。
「なんだよー……泣き虫だって言いだいのかよー……」
はるの声は涙で濁って、ちょっとおばあちゃんみたいになってる。少し可笑しくなって、くすっと笑ったら、余計にむっとされてしまった。
「まあ、良いところじゃない? 感受性が強いってことだし」
そう言いながら茶化したら、隣からははあ……と、随分深いため息が漏れていた。
「それ、小学生の頃、成績表にずっと書かれてた……」
「ああ……そうだね、懐かしい」
「まあ……先生も他に書くことなかったんだろうな……ふふふ」
「そんな自虐しないの。……私は、それが本当にはるの良いところだと思ってるよ?」
そうやって、少し落ち込みモードに入ったはるを慰める。相変わらずどうしてそんなに自信がないんだろうね、いざって時は誰よりも頼りになる癖に。
「ぐにゅぅ…………、そんなの言ってくれるのくろえだけだよ……」
そう言って、はるは布団の中でもぞもぞと膝を抱えだす。あらあら、なんか変なスイッチ入っちゃったかな。
よしよしと隣でその頭を撫でてみると、はるはぐぬぬと唸りながらも甘んじて受け入れていた。人に愛される自信がどうのとか言っといて、肝心の自分には自信がないよね、はるは。まあ、そういうとこが可愛いんだけど。
……さて、どう自信を取り戻してもらおうかなと、悩むことおよそ数秒。
わさわさと少し湿った髪の毛を撫でながら、ふと思い立った言葉を口にしてみる。
「そういえばさ……」
「…………うん?」
脳裏にふと浮かぶのは、いつかのクリスマスの夜、あなたが泣きながら口にしてくれた私への想い。
今でも目をつぶれば、堕ちる雫の一粒まで、鮮明に想い出せる、そんな光景。
「前に言ってたよね、もし……私達が今の出会い方じゃなかったらって」
「……え、う、うん」
あの時、はるはそうしたら、私達はもう出会えないって言っていた。姉妹じゃなかったら、住む世界が違うから、きっと今の私たちの様にはなれなかったと。
それは確かに一理あるかもしれない。あなたの心の奥の強い部分も、もしかしたら知らないままだったかもしれない。
でも、同時に想うこともある。
「案外、私は違う出会い方でも、結局、今みたいになってたんじゃないかなって気がするんだ」
「………………え?」
もしはると出会わなかったら?
そしたらきっと、私はあのクソ親父の元で、粛々と人でなしとして育っていたのだろう。人を操って、人を嘲って、自分のために誰かを否定し続けて。
そんな私として、高校まで育っていたら、多分白乃さんも見限るだろう。琥白は友達になんて、なってくれないだろうし。そしたらきっと、誰一人も信用することなく、ただ孤独に喘いでいたのだろう。
そんな私を見て、あなたは一体どうするのだろう。
蔑むだろうか、怖がるだろうか、一見騙されやすいようで、簡単に騙されてくれないのだけは経験則として分かっているのだけれど。
「多分だけどね、はるだけは気づくんだ。私の心の奥の方の、どーしようもない部分に、きっとはるだけが気づいてくれるんだ」
「………………」
都合のいい妄想のような気もする。そんな深い仲になるとこまで行かない気もする。ただ、それでも、少し想像をめぐらすだけで、簡単にその光景が浮かんでしまうのも事実だった。
「私が遠ざけようしても、はるはきっと気づいて、見逃してくれないんだよ。そんでお節介焼いてきて、結局、私は絆されて……」
「………………」
あなたはきっと、そんなどうしようもない私にさえ、手を伸ばすのだろう。
「それでまた―――はるを好きになる」
「…………くろえ」
うーん、言ってて少し恥ずかしい気がする。私の情けない部分ありきだし、なんか他力本願だし……でも私が情けないのは、ただの事実だしな。……というか、この関係、私がはるを好きなることはあっても、はるが私を好きになる理由がなくないか?
「それで……まあ、そしたら私も頑張るよ。今度、はるに私を好きになって貰わないといけないから……まあ、多分死ぬ気で頑張るでしょう」
なんて口にしながら、私大丈夫かなあって少し心配になる。他人の好意を操る術には長けてるつもりだけれど……。多分、そういう技術は、この場合はあてにならない。
「…………ふーん」
はるはそんな私の言葉を、どこか口を尖らせて聞いていた。……どういう感情ですか、それ。
「…………ご不満ですか?」
幾分拙い筋書きだったので、本職の物書きさんはお気に召さなかっただろうか。
そんな私の言葉に、はるは少し唸ってから、ゆっくりと首を横に振る。
「うーん……多分、スタートがね。その場合、私の一目惚れから始まると想うの。くろえを見て、こう……びびーんって、淡い憧れから始まるの」
それはない。
「絶対、逆。……私がなんか思い詰めてる時に、はるが助けてくれるところから始まるよ」
賭けてもいい。この人は無自覚に、人を惚れさせるとこから始まる。
ただ、そんな私の言い分に、はるはさっぱり納得してくれない。ぷりぷりと頬を膨らませて、ぶんぶんと首を横に振る。
「えー、違うよ。くろえの完璧美少女っぷりにね、いいなーって遠くから見てるのが始まりなの。それで段々ちょっとずつ目を奪われるようになってね―――」
「いやまず、はるに出会ってない私は根本が邪悪だから。多分はるはそれに気づいて最初引いてるよ。……で、その癖、私がなんか思い詰めてたら大丈夫? って聞いてくるでしょ―――」
「でも―――」
「だから―――」
そんな、他愛もないやり取りを繰り返す。
たとえ、どれだけ『もしも』を積み重ねても、今の私たちは別にどこにもいかない。
この愛も、この想いも、この柵も。
だからこそ、その全てが愛おしく思えるけど。
もし一つ惜しむことがあるとするなら―――。
「でも、もし姉妹じゃなかったら―――」
「――――今よりもうちょっとだけ、堂々と出来たかな」
言いながら、なんとなくはるの方に向かって手を伸ばすと、そっと向こうからも手が伸びてくる。そのまま、指を絡めて、ぎゅっと握りあう。
「………………でも、それもちょっと寂しいね」
そうして、あなたの惜しむような声を聴く。
「…………そうだね、きっと寂しいよ」
そんな、些細な想いを紡ぎ合う。
姉妹であること。それは間違いなく、私たちにとって枷であることに違いはないけど。
でも、それを理由に離れるには、もう心が近づきすぎてしまった。
溶けて、混ざって、絡まって。
歪なまま、不安定なまま、私たちは繋がりあってしまった。
だからもう、これは仕方がないのだと想う。
たとえ、この選択を否定する人がどれだけいても。
たとえ、この選択が私たちをどれだけ不幸にしても。
それでも、あなたが隣にいない人生を、もう考えることはできないから。
だから、きっと。
「ねえ、はる」
「なあに、くろえ」
もう後戻りはできないのだろう。
「傍に居て」
「…………うん」
かつての私達には、きっともう。
「離れないでね」
「……うん」
引き返せない。
「愛してる」
「うん、私も。大好きだよ」
もう姉妹には戻れない。
でも、それでいい。
最後に少し寂しそうに笑うあなたと。
そっと、お休みのキスをして。
私達は静かに眼を閉じた。
小さな布団の中で抱き合ったまま。
出会ったばかりのころと同じように。
寄り添うように眠りについた。
これがあなたと言葉を交わした。
私達の―――最後の記憶。




