第52話 妹と月明かりの夜—③
「…………親父が、そういう人間だった」
空気が、少しだけしんとする感じがした。
零れたくろえの言葉は静かに、何かを訴えているようで。
思わずふっと、息を呑む。さっきまで、不機嫌そうにしていたくろえの様子が、途端に弱弱しく見えた。
「…………女を食い物にする奴だった。人を騙すのが当たり前。金以外の全てがどうでもよくて、誰も彼もが、あいつにとっては金を稼ぐ道具だった……私も含めて」
そっとくろえの髪に手を伸ばして、優しくなぞる。そこにある傷を、可能な限り慈しむように。
「それで、…………私はそんな奴の血を立派に引いてた。人は簡単に騙せたし、誰かに好意を向けられるのも、思った通りに出来た」
ああ、と思わずため息が零れる。この子の抱えていたものを、私はきっとうまく理解することもなく、10年間隣に居たのだ。そんな事実を、今更ながら思い知る。
「……そうなりたくはなかったけど。気づいたら、人を騙してる。いいように使って、思う通りに動かして……そんなことをするたびに、自分があいつの子どもなんだって思い知らされる」
軽く頬を撫でると、そんな手に甘えるようにくろえは顔を寄せてくる。口にする痛ましさとは裏腹にその様子は、落ち込んではいるけれど、どこか無邪気にさえ見えた。
「だから、そんな私の欲望で、はるに触れたくなかったの。こんな醜い欲をぶつけるくらいなら、離れた方がましだって、ずっとそう想ってたし……そのための準備もしてた」
胸が少しずつ痛くなる、じわじわとこの子の痛みが、そのまま私に流れ込んでくるような気がする。
「そんな時に……あいつが来た」
そうして、くろえは消え入りそうな声で、そうぼそっと呟いた。
「改めて思い知らされた。……私は人でなしなんだって」
その過程を、その痛みを、その苦悩を。
溢れるほどの、その葛藤を。
私はきっと、一匙ぶんだって、正しく理解してあげることはできない。
それなのに、今、この胸は張り裂けて、潰れてしまいそうなほどに痛んでる。
「違うって想いたかったけど……あいつの話を聞いてると、ああ、やっぱりそうなんだって。私なんかじゃ、はるの隣に居ちゃダメなんだって……そう見せつけられてるみたいだった」
この小さな呟くような慟哭を、私はずっと知らずに隣に居たんだろうか。
息が微かに震える感じがする。顔が少しだけ熱くなる。
思わず唇を、微かに噛む。声を漏らさぬように。
そうして、君の頬を撫でる手に、ほんの僅かに力が籠っていた。
「…………はる?」
そんな私に、君は少しだけ目線を向けて、そっと手を伸ばしてくる。
それから、私の頬をゆっくりなぞった。
すると、何かが滑るように、くろえの指を濡らしていく。
「泣かなくていいよ……、もう終わったことだし」
そう君は言ってくれるけど、その事実を、その痛みを。
君はずっと独りで抱えていたのに。
なのに、私は隣で何にも気づかないままで。
「…………だから、ほら、そんな顔しないで」
零れる声がみっともない、息がぐちゃぐちゃに荒れて、上手くできない。
喉がむせて、何度か咳き込んだ。涙が鼻から逆流して、喉が熱く仕方がない。
自分が許せないし、何より君がそんなに傷ついていたのに、何もできなかったのが悔しくてたまらない。
怒りが、後悔が、不安が、痛みが。
どうしようもなく止まらない。
もっと抱きしめてあげられたのに、もっと励ましてあげられたのに。
なのに、私は何も知らないままで。
「………………ふぅ」
うまく呼吸ができない私を見ながら、くろえはそっと、何かに頷いた。それから、少しだけ身体を起こすと、浴衣の袖で、私の情けない泣き跡を拭き始める。
「ねえ、はる……何か勘違いしてるみたいだけれど」
そういって、君はそっと微笑んだ。
まるで、お姉さんが、小さな子どもに言い聞かせるみたいに。
「はるが助けてくれたんでしょ?」
「あの時、もうダメだと想った」
「私はもう、はるの隣に居ちゃいけないんだって」
「私の心は、もうどうしようもなく壊れてるんだって」
「そう、思いかけてたはずなのに」
「はるがね、助けてくれたの」
「あの時、はるが守ってくれたから」
「私は今ね、こうしてはるの隣に居られるの」
「こんな想い、一生叶うこともないんだって想ってたのに」
「はるが、見捨てないでくれたから」
「今、こうして、笑って話しができてるんだよ?」
「だからね、はる」
「笑って? お願いだから」
「大丈夫、私はもう、大丈夫だから」
「はるが笑ってくれないと、私も上手く笑えないから」
「うん、そう」
「大丈夫」
「もう大丈夫だから」
※
愛するなんて誓っても、10年、姉妹として隣に居ても。
全てを知れるわけじゃない。心は決して一つにならない。
きっと私たちはこれからもずっと、そんな些細で、時に致命的な擦れ違いを続けながら隣に居るのだろう。
その事実を想うと、胸がぐしゃぐしゃに潰れそうになるくらい、痛くなるけど。
それでも、この手を離すことだけはしたくなかった。
たとえ私がどれだけ、愚かで、罪深くあろうと。
この子の隣は、この場所は。
誰にも譲りたくはない。
嗚咽を零しながら、君をぎゅっと抱きしめる。
さっきと立場が逆だけれど、今はそんなことすら忘れたまま。
ただ泣き崩れて震える私を、君の手があやすように撫でていた。
静かで暗い部屋の中、月明かりすら届かない、その場所で。
声を抑えることすら、ないままに。




