第4話 妹にご褒美をあげる―②
自室の扉を開けると、くろえはちょこんとベッドの傍に座っていた。それから、私の方を見ると軽く目配せをする。
視線に誘われるまま、どうにか呼吸が乱れているのを悟られないように、私は自分のベッドにそっと腰掛けた。
二人並んで、しばらくそのまま見つめ合う。
改めてこうしてみると、くろえの整った顔立ちと、長いまつ毛がよくわかる。
小さい頃から、綺麗で大人びた顔していたけれど、改めて見るとそこにいるのは立派に大人の身体になった、一人の女性だ。
意識すると胸が少しだけ熱くなるのを、じっと耐えて誤魔化した。
それから、軽く目配せを交わして、私は自分の布団に潜り込む。そして軽く布団を上げて、くろえをそこに招き入れる。
小さい頃はこうやって、二人でよく一緒のベッドで眠ってた。
あのころと違って、もう二人とも身体が大きくなったから、一人用のベッドでは少し手狭だ。おかげでどう身体を逃がしても、手と肩は触れあってしまう。
大丈夫、変なことはしないって、約束したし。
身体が眠る前とは思えなくらいに、不自然に熱いけど。大丈夫かな、汗っぽいとか、変な感じとか想われていないかな。
くろえはそっとこちらに目配せをすると、小さく静かに頷いた。私もそれに頷き返して、リモコンで部屋の電気を消した。
視界が真っ暗になって、後に響くのエアコンの音と、窓の向こうの夜風の音だけ。
なんとなく、しばらく緊張で身体を固めていたら、ふっと手に何かが触れた。
思わずびくって身体が揺れるけど、その触れた何かは優しく撫でるように、私の手をなぞっていく。
それから、ゆっくりと静かに、水みたいに滑らかで、雪みたいに冷たいくろえの手が私の手をそっと握った。
「手……冷たいよ、くろえ」
ぽつりと小さく言葉が零れる。
「……はるの手が、あったかいんだよ」
暗闇の中で、微かにくろえの唇が動くのが見えた。
「そうかな……普通だと、想うんだけど」
ぽつりと零れた言葉に自信はない、自分の体温が高いかどうかなんて、わからないし。
「ううん、はるの手は、昔から、ずっとあったかいよ……」
くろえの言葉は静かで、抑揚が無くて、まるで眠たい子どもの声みたいだ。
「それは……汗っぽいって意味……?」
思わずむっとなって口をとがらせる。まあ、暗いから見えてないだろうけど。
「そうじゃないって……あったかくて、安心するの……」
暗闇の中で、くろえはそう言って、くすくす笑ってた。
「…………むー」
はぐらかされたようで、いまいち納得いっていない私の手を、くろえの静かにゆっくり撫でていく。まるで指先の感触を繋ぎ合わせるみたいに。
「もう、機嫌直して。はる」
困ったようなくろえの声、表情は見えないけれど、どんな顔をしているのかはわかってしまう。
ちょっと笑って、目を細めて、軽く首を傾げて私を見てる。こういう時、くろえはそんな顔をする。わかってる、だって、ずっと見てきたから。
「仕方ないなあ……」
なんて言ってはみるけれど、子どもっぽいのはどう考えても私の方。
昔からずっとそうだ、私たちは姉妹と言いつつ、私の方ばかりわがままで。
いつもくろえはそんな、わがままな私に、仕方ないなあって言って笑ってた。
「ふふ……小さい頃は、よくこうしてたよね……」
くろえの手がゆっくりと、何かに縋るように握られる。
「そうだね……小さい頃は」
話しながら、瞼がゆっくりと落ちていく。なんだかいつもより、少し眠気が来るのが早いような。
そういえば、さっきまで抱えていたはずの緊張が、いつの間にかどこか遠くへ行ってしまってる。
なんて、当たり前かな、小さい頃から、二人でずっとこうやって眠っていたんだから。あの頃もこうやって手を握ってた。
あの時から、くろえの手は私の手より少しだけ冷たかった。でも、その冷たさが、どうしてだか心地よかった。
強張っていた呼吸がゆっくりと緩んでいく。つないだ手の温度差が、少しずつなくなっていく。
まるでそこから二人の境が溶けていくみたいに、私たちの手は段々と同じ温度になっていく。
そう、昔はずっと、こうやって。
そんなことを、想い出しながら、眼を閉じた。
まるでいつかの頃みたいに。
くろえは初めて見た時は、お人形のようだと想った。
真っ白で綺麗な肌、流れるように真っすぐな黒髪、凛として透き通るような瞳。
表情が動かなくて、あまりしゃべりもしなかったから、余計に綺麗なお人形みたいだと思ったっけ。
こんな素敵な子が今日から、私の妹になるなんて、本当に夢みたいだった。
そうでなくても、ほとんど誰も帰ってこないこの家に、新しい家族が増えたことだけでも、私は嬉しかったんだ。
まあ、くろえを連れてきた義父さんは、すぐ家を出て行ってしまったけれど……。
それでも、私にとってくろえが、何より大事な宝物であることに変わりはなかった。
そのせいか、昔はよくくろえの布団に入りにいったり、くろえを無理矢理自分の布団まで引っ張ったりしていたっけ。
くろえが嫌がらなかったから、事なきをえていたけれど、かなり面倒くさいお姉ちゃんだったと思う。
そして布団に入ったら、一杯一杯、抱きしめた。私はお姉ちゃんなんだから、ってそう誰にかはわからないけど言い聞かせてた。
妹に、寂しい想いはさせないように。妹が怖がったり、不安を抱えたりしないように。
そんな日々をずっと過ごしてたら、くろえも気付けば、何も言わなくても布団に潜り込むようになっていた。初めてくろえ側から布団に入ってきた日は、飛び跳ねてしまいそうなくらいに、嬉しかったっけ。
なんにもできない私でも、くろえのお姉ちゃんなら出来るんだって、そんな些細なことがどうしようもなく嬉しかった。
「…………くろえは寂しがりだもんね」
ぼやけた意識の中、もうすっかり私と同じ体温になった手を握りながら、そう微笑んだ。
「…………そうだっけ」
隣から、なんとも納得いってない声が響いてきて、思わずくすっと笑ってしまう。
「…………ごめん、嘘、…………ほんとに寂しがってたのは、私の方かな」
呟いた言葉は小さく、静かに、でも不思議とすんなりと零れていく。
「………………」
繋いだ手を私の顔の前まで持っていって、ぎゅっと握る。まるで誰かに祈りを捧げるみたいに。
「くろえがうちに来るまで、ずっと独りだったから……。嬉しかったんだ、妹が出来たのが、本当に……」
そう言えば、昔もこうやって、色んな話をしていたっけ。眠る前はどうしてか言葉がすんなり出てきたから、普段言えないようなことを、沢山、喋った気がする。
「………………」
くろえは黙って聞いている。こういう話をするときは、じっと邪魔をせず聞いてくれる。昔から、ずっとそう。
「『お姉ちゃんしてた』なんて、結局、都合よく言ってるだけでさ」
「本当は、させてもらってたんだよね、きっと。くろえが、こんなポンコツな私をお姉ちゃんでいさせてくれてたんだ」
「でも、それが本当に幸せだった」
だって、本当はくろえは、私なんかに頼らなくても、何でもできた。
寂しがってたのも、結局は私だけ。
私がいじめを受けていた時も、最終的に大人の手を借りて解決してくれたのは、くろえだったっけ。
だから、お姉ちゃん、なんて言っても、大したことはできてない。
妹を守るんだなんて言ったところで、くろえに守れてることの方が多かった。
それが少し情けないけど。
でも、だからこそ、何より幸せな時間だったとも想う。
誰より大切な妹を、形だけでも守る立場に居させてもらえた。
おままごとのような姉妹の時間を、それでも一緒に歩んでくれた。
私は、それだけで、幸せだった。
暗闇の向こうのくろえは、何も言わずに私の話を聞いてくれてる。ただ重なった掌が、少しだけぎゅっと強く握られた気がした。
「………………はるは、昔から、ちゃんと『おねえちゃん』だったよ」
そう言ってくれる君の言葉が、私にとって何よりの救いだった。
「うん―――ありがとう、くろえ――――」
そう言った後、思わず手のひらをそっと広げて、目の前にある君の頭をぎゅっと抱きしめた。
こんな感触も、もう何度感じたかわからない。だからこそ、何よりも安心する。
息を吐くたびに感じる痛みも、胸の奥に巣くう小さな寂しさも、明日のことを想うだけで苛む不安も。
こうやって、くろえのことを抱きしめている間だけは、忘れていられた。
そんな感触が心地よかったから、知らぬうちに気が緩んでいたのかもしれない。
「私は―――これからもずっと、くろえの『お姉ちゃん』だからね」
その言葉が持つ残酷な意味に、私は気づかぬまま口を開いてしまった。
「………………」
時間が一瞬止まったみたいに、不意に重い沈黙が流れていく。
…………? どうしたんだろう、腕の中で微かに君が、身じろぎするの感じる。
まるで、何か今の言葉に、引っ掛かりがあったかのように……。
もぞりと、くろえの身体がゆっくりと起き上がる。どうしたんだろう、なんて疑問が解決することはなく。くろえの顔は暗闇の中で、私のことを見降ろしていた。
「………………くろえ?」
表情は見えない。でも握られたままの手が、どうしてかぎゅっときついくらいの力を感じる。
まるで、そのまま私のことを抑え込もうしているみたいだ。
「…………はるにとって、私はいつまで『妹』なの?」
――――。
そう言ったくろえの声は、微かに震えているような気がした。
「……どうやったら、解ってくれるの? どうやったら、『妹』じゃなくなれるの?」
重なる手は震えてる。くろえは気付けば私に馬乗りになっていて、くろえの太ももが私の腰と重なって、そこが焼けるように熱い。
繋いだ手と、逆の手がゆっくりと私の首元に伸びてくる。
どうしたの、どうして――――。
そう思考しようとするけれど。
「どうやったら、ちゃんと『私』のことを見てくれるの?」
そう告げるくろえの言葉は、子どものようにか細くて、泣きだしそうな声だった。
…………………………。
その想いの意味を、きっと私は上手く理解できていない。
でも、その全てに気付かない程、愚鈍にもなりきれない。
『それはね、くろえの思い込みなの』
『きっと、しばらくしたら、忘れてしまうの』
『いつか、ちゃんとね、他の人を好きになれるから』
そう、口にしてしまえばいいはずなのに。
「……………………」
何も―――言えない。
それを口にしてしまえば、くろえの心に消えない疵を残してしまうような、そんな気がして。
わからない、わからないから、抱きしめることしか出来なかった。
そっと抱き寄せたくろえの頭は、熱くて震えてて、段々と私の胸元がその熱で濡れていく。
ぐずぐずと鼻をすする声がする、ぐちゃぐちゃと涙が濡れる音がする。
嗚咽と慟哭を混ぜたような妹の声を聴きながら、私は何も言えないまま受けとめることしか出来ないでいる。
「ごめんね」
こんな言葉が、何の慰めにもなっていないことを理解したまま。
「ごめんね」
ただ君に、贖いを繰り返す。
「ごめんね、くろえ」
暗闇の中、君の泣き顔は上手く見えない。
それでも、どんな顔をしているのかは、わかってしまう。
だって、ずっと見てきたんだから。
ずっと、あなたのお姉ちゃんだったのだから。
それが、あまりに悲しくて。
それが、あまりに切なくて。
なのに、どうしてか、それが微かに嬉しいような。
こんな気持ちが、どうして湧いてくるのかすら。
愚鈍な私には、わからない。
わからないまま、君を抱きしめた。
それくらいしか、出来ることがなかったから。
結局、くろえが泣き止むまで、どれくらいかかったんだろう。
時計もない暗闇の中じゃ、それすらもわからないけど。
何も言えない私に向かって、君は最後に乱暴に唇を奪ってきた。
溶けるように、熱く。
濡れるように、柔らかく。
犯すように、乱暴に。
でも、すごく悲しい口づけ。
どうしてだろう、少ししょっぱく苦い、君の涙の味がしたからだろうか。
そして、こんなに苦しい気持ちで、交わしたキスのはずなのに。
どうしてこんなにも、気持ちがいいのだろう。
わからないまま、抑えつけるように、唇を奪われる感触を、私はただ受け容れていた。
今はただ君に、私の身体を明け渡す。
それくらいしか、できる贖罪がない気がしたから。
しばらくして、始まりと同じように、乱暴に唇が引き剥がされた。
でも、君の泣き声は止んでくれない。
「…………ぅぅ…………ぁぁあ…………」
暗闇の中、君の泣き声がずっとしている。
震えるように、えづくように。
すっと優しく手を伸ばすと、縋るようにくろえの手が重ねられていく。
指と指を絡めていく、まるで恋人がそうするように。
それから君の頭が、私の胸に落ちてきて、私はそれをぎゅっと抱き止めた。
そうして君の泣き声を聞きながら、ゆっくりと眼を閉じる。
私の胸に、じんわりと濡れた感覚が広がっていく。
熱くて、冷たくて、なのに、どうしてか心地が良くて。
まるで、私たちの境がそこから溶け出していくようで。
答えなんて、どこにもなくて。
見つかるあても、ありはしなくて。
でも、離れることだけは出来なくて。
ただ君の心を傷つけながら、今こうして隣に居る。
「ごめんね」
そんな宛てもない言葉を、繰り返すことしかできないまま。
君の泣き声だけが響く小さな部屋の中、ぽつぽつと窓の外から音がする。
ふっと外に目を遣れば、どうにも夜雨が降ってきたみたい。
まだ雪にはならない、冬の暗くて冷たい雨が、窓をそっと濡らしていく。
やがて、大きくなっていく雨音で、君の泣き声も段々と掻き消えていく。
そんな移り変わりに耳を澄ませながら、私はそっと眼を閉じた。
こうやってベッドで泣き始めたくろえは、しばらくすると泣きつかれて寝てしまう。
何度も何度も見てきたから、私はそれを知っている。
もうすっかり泣き声がしぼんで、息が少しずつ静かになり始めてる。そんな君の頭を撫でながら。
「おやすみ、くろえ」
私は小さく祈るように、そう告げた。
眠り行く君の額に、気付かれぬようにそっと、唇の跡を微かに残して。
もし、叶うなら。
このまま、雨の中に、全部溶けて消えてしまえばいい。
私達の境も、想いも、しがらみも。
何もかも溶けて、消えてなくなって。
ただ、暗い雨の中で一つになればいい。
そんなことを想いながら、私も意識をそっと手放した。
重なる身体の重みと、くろえの熱だけを感じながら。
窓の向こうで、雨が降っている。
冬の夜の、冷たい雨が降っている。




