第46話 妹と旅に出る
『ええーッ! 灰琉先輩、お家にいないんですか!? 初詣一緒に行こうと思ってたのにー!』
スマホの向こうで、盛大にがっかりしたような琥白ちゃんの声に、私はただ苦笑いを浮かべることしか出来ないでいた。
「あ、あはは……ごめんね、私も正直びっくりしてるというか……」
『……? 今、どこに居るんですか? 御実家とか? 急に帰省が決まったとかですか?』
怪訝そうな琥白ちゃんの問いに、私はただぼんやりと周りを眺める。
今……? 今、私は何処に居るんだろう……?
情けなく開いた口をぱくぱくさせ、私は結局目の前の景色をそのまま口にすることしか出来なかった。
「…………海、かなあ」
ざざーんと遠くで、波のぶつかる音がする。冬の日本海は寒く、荒々しく、駅のベンチに座る私の身体を、容赦なく風で煽っていく。
『…………?』
案の定、伝わっていないらしい琥白ちゃんが、電話の向こうで固まる音がする。ごめんよ、文芸部の部長の癖にちゃんと言語化できなくて。
なんてやり取りをしていたら、こつこつと隣から足音が響いてくる。ちらっとそちらの方に目を向けると、厚めのコートにしっかりと身を包んだくろえが歩いてきていた。
「はる、あっちに待合室あったよ、ついでに売店も」
「う、うん……じゃあ、琥白ちゃん、また新学期ね」
『え、あ、はい……お、お達者で!』
なんて琥白ちゃんのどこか大げさな別れの言葉を聞いてから、私は通話を終える。……大げさ、だよね? というか、私は新学期にちゃんと学校に通っているのだろうか。
結局、くろえの唐突な『駆け落ち』宣言の後、私たちは午後には最寄りの駅から北へ向かう旅へと出発していた。
未だに、信じられないスピード感だ。なにせ私が課題を終える頃には、くろえは私の分まで含めた旅行の準備を終わらせていたし。
今朝までゆっくりおせちを食べていたはずなのに、今では私たちは知らない海沿いの街で、キャリーケースを転がしている。旅の先導はくろえがしてるけど、以前から準備してたのかってくらいに、進行はスムーズで迷いがない。
果たして、これが今朝まで落ち込んでいた妹の姿か? この能力は本当に、しごできで済ませていいのか? もはや超能力では? と疑問符を数多抱きながら、くろえがキャリーケースに準備していたカイロで、手を温めながら考える。……ぬぬぬ、抜け目がなさすぎる。
なんて思考をしてると、ふっとくろえの顔が私の首元に伸びてきた。「ひゃっ」と声が漏れかけたから、思わず手で口を抑える。冷たい妹の頬が、首元を掠めたからである、恥ずかしがったとかでは断じてない。
「…………なんか他の女の匂いがする」
そしたら、すんすんと匂いを嗅ぐような仕草で、じっと胡乱な眼が私に向いてくる。
「こ、琥白ちゃんと電話してただけだよ…………いや、だとしても、匂いはしなくない?」
なんておかしな箇所に突っ込みを入れると、くろえはくすっと笑って、首元からあっさり離れた。さては言いたかっただけだな、こやつ。
「ふふ、言ってみたかっただけー」
そして、案の定の答え合わせをして、ゆっくり歩き出すくろえの後ろを、私はそそくさとついていく。二人してキャリーケースを転がしながら。
くろえの足取りはステップを踏むみたいに軽くて、ふわふわしていて、煽られる風にそのまま飛ばされてしまいそうだ。
これを楽しんでいるとみるか、空元気とみるか……。お姉ちゃん検定の試験に出そうなくらいには難問だね……。
「……フィフティー、フィフティーかな」
ぼそりとそう呟くと、くろえは不思議そうにこちらを見て、軽く首を傾げた。私は何でもないよと示すために、首を横に振り返す。
そんな私を、くろえはしばらくじっと見つめて、何気なくすっと手を差し出してきた。私はその手をそっと握り返す。キャリーケースを持っていない空いた方の手を、お互い埋め合わせるかのように。
からからとケースを転がしながら、考える。
さて、私たちはこれから、どうなるのだろうか。
遠く向こうで、ざざーんと音を立てる冬の荒波を眺めながら、私はふぅと一息を吐く。
そんな私の隣で、君は私の手を、ぎゅっと強く握っていた。
その感触が、温かいけど――――少しだけ、震えているような、そんな気もした。
※
「…………聞かないの?」
売店で、ホットココアを買って、ようやく待合室に入ったあたりで、くろえがふとそう尋ねてきた。周りには誰もいなくて、密閉された待合室は少しだけ、外とは別の空間みたいだ。
「…………何を?」
暖房の効いた空間の中では、さっきの波音も少し遠い。次の電車までそこそこあるらしいから、しばらくここで待たないといけないらしい。
「…………なんで、私が急に、北に行きたいとか言い出したか」
そういうくろえは、なんともいえない無表情に近い瞳で、私のことをじっと見ている。ふむと、一つ唸って、私は少し考える。
「……教えてくれるの?」
てっきり明かされないものだと思ってた。
「…………」
自分で尋ねておいて、くろえは少し困ったように視線を逃がす。そんなことだと、お姉ちゃんは思ってたよ。
「くろえが、喋りたくないなら、無理に聞かないよ。言いたくなったら、また、その時教えて」
まあ、いつまでこの旅が続くのかは、聞いておきたいけど。今はそれも野暮な感じがする。
「むー…………なんかはるだけ、大人みたいじゃん」
しかし、うちの妹は何が不満なのか、少しむくれたような表情になる。そして、そのまま何も言わずに、私の隣に腰を下ろした。私は仕方ないなあと、私より少し背の高い妹の頭をよしよし撫でる。
「まあ、お姉ちゃんなのでね。…………それとも、無理に聞きだした方がいい?」
そう言ってはみるけれど、きっとそれは望まれてない。
「…………ううん、自分でタイミング見つけるよ。……目的地に着くまでには、言えると思う」
案の定、くろえは少し俯きながら、そうぽつぽつ言葉を漏らした。私はそれに頷きながら、ホットココアずずっとすする。冬風で冷えた身体を、熱と甘さがゆっくりと溶かしていく感じがする。
人の心が、想いが、形を成すには思ったよりも時間がかかる。
雪がしんしんと降り積もって、段々と厚みを増していくように。
想いが形になるのを、ただ待つという時間も時には必要なのだ。
その想いが、大きく、重く、心の深い部分に触れる物であればあるほど。
時間はかかる。それはたとえ、この即断即決の妹であっても同じだ。
だから、私に出来るのはただ待つだけ。答えが出るその時に、ちゃんと聞いてあげられるように隣に居続けることだけだ。
「「…………」」
そうして、二人で少し、閑散とした海沿いの街をぼんやりとただ眺めていた。乗り換えの駅だけど、不思議と駅に行きかう人はあまりいない。三が日の半ばだし、まだ皆外に出ていないのだろうか。
ふと周りを見回しても、誰もいない。売店が開いてたのが、ちょっと不思議なくらいだ。
少し曇った日本海の特有の空を見上げながら、そうやってぼーっとしていたら、ぽすんと隣から妹の頭が降ってきた。
私の肩にその重みをそっと乗せると、開いた指が手繰るように、私の太ももに乗せられる。
私はココアを啜ったまま、その手に、空いた手をそっと添える。静かに握ってあげると、ゆっくりと手のひらが握り返される。ココアに触れていたからか、さっきよりは少しその手に熱を感じる。
さわさわと少し撫でるように、くろえの指が動くから、眼を閉じてその感触だけをぼんやりと感じてた。柔らかくて、くすぐったくて、少しだけ心地いい。
やがて、どちらともなく、指の間が絡まって、そのままぎゅっと手のひらが握り直される。……まるで恋人がそうするように。
「ねえ、はる」
そう呼ばれた。
「なに、くろえ」
だから、そう答えた。
「今なら、誰も見てないよ?」
そう言われて、少しだけ瞼を開く。肩からこちらを上目遣いに見上げるくろえの瞳は、少しだけじわりと滲んでいるように見えていた。
私はその問いに、軽く頷くと、眼を瞑り直して顔を軽く下に向ける。目を閉じたその向こうで、同じように顔が傾けられる気配を感じながら。
「―――ん」
甘い―――。
なんでだろう、ココアのせいかな。
だとしたら、今の私の唇も少し甘いのだろうか。
同じ味の唾液が、溶けて混ざって、私からくろえへとゆっくりと流れ込んでいく。
少ししょっぱいけど、ココアはきっと関係ない。
何度か食むように唇を動かした。その度に、脳の奥を蕩けさせるような感触が、胸の奥から湧き上がってくる。
あまりこのまましていると、なんだかいけない扉を開いてしまう……。そんな気が何故かして、少し慌てて唇を離す。
水音と一緒に、口もとの感触がなくなって。少し零れた液体が、唇から微かに伝う。
そんな口元を拭うため、そっと手を当てて、閉じていた瞼開いた。
そしたら、くろえがどこか熱に浮かされたような瞳で、私のことを上目遣いで見上げていた。
「…………もう、おしまい?」
…………ぐう。おねだりも完璧かよ、この妹は。
瞬間、脳内の悪魔な私が『もう一回しちゃえばいいじゃん、誰も見てないよ』と妖しい声で囁いてくる。やめなさい、いい子だから。
同時に、脳内の天使な私が『え、うちの妹可愛すぎ? もう食べちゃっていい?』と奥様風に驚いていた。役割を果たせ、お前は。
結局、10秒ほどかけて、脳内の悪魔と天使を、理性で無理矢理殲滅してから、私はぶんぶんと首を横に振る。
「…………まあ、ほら、外だし。……誰に見られるかもわからないし」
そう言って、逃がす視線の先には、びっくりするくらい人がいない。くそう、どうして地方の駅にはこんな人がいないんだと、意味の分からないキレ方をしそうになる。
さすがに苦しいか? と思いながら、ちらりとくろえを見ると、まだ少しとろんとした瞳で私のことをじっと見あげていた。うう、どういう感情ですか、それ……。
「ふうん、じゃあ、見られてない所なら、いいんだ……?」
そう言って、くろえはなるほどと、小さく私の肩で頷いた。私の中の悪魔と天使も納得したように、相槌を打っていた。あれ、なんか逃げ場なくなってないか?
いや、別にね、そういう関係になった以上、いずれ起きるイベントだとは思うのですよ?
でもね、こう、心の準備というかね。この前、踏みとどまった手前、どう接すればいいのかもわからないしね。……そっちがメインじゃないかな、私。
なんて、己の邪な思考と戦っている最中。くろえは、うんうんと、静かに頷いている。それは小さい頃、くろえとオセロで遊んだときによく見た仕草だった。ちなみに私は、くろえと本気でオセロした時に勝てたことは一度もない。
「…………あの、くろえさん? …………その頷きはどういう意図なのでしょうか?」
嫌な予感がしながら、私は恐る恐る、そうくろえに尋ねてみる。くろえは眼を閉じたまま、澄まし顔で頷きながら、ぎゅっと私の手を抱き寄せる。それだけで、ドギマギしてしまう私も、そろそろ末期かもしれない。
「別にー……ところで、はる。次に降りる駅で、旅館予約してるから」
そんなくろえの言葉に、私はああ、そうだよねと軽く頷く。日帰りでない以上、どこかで宿を取らないといけないのだ。既に予約しているあたり、さすがに用意周到と言うべきか……。
「はーい、じゃあ、今日の移動もあと少しだね……」
なんやかんや、半日移動に費やしたので、少し疲れただろうか。身体も凝っちゃったから、ココアを脇に置いて、多少身体をグーっと伸ばしながら息を吐く。
「うん、そしたらさ―――二人っきりだね?」
そう口にしたくろえの声は、静かにでも、どこか妖し気な響きを含んでた。
まるで、まるで、そう―――既に言質は取ったといわんばかりに。
私は思わず、伸ばした腕がぷるぷると震えるのを感じながら、恐る恐る隣の妹の顔を窺ってみる。その顔には、何かを期待するような、獲物を罠に嵌めた肉食動物のような、そんな艶やかな笑みが浮かんでた。
「えと……あの…………」
「続き―――期待していいんだよね?」
そうして、怪し気に笑う妹に、私はただ何も言えないまま冷や汗を流すことしか、出来ないでいた。
『悪魔的には、何処までヤっちゃうのか、気になるところですね?』
あなたは黙ってください、お願いだから。
『天使的には、爪と下着の準備が整っているか、気になりますわね?』
お前は頼むから、私の味方をしていてくれ。
そうして、逃げるように仰いだ日本海の冬空には、冷たく容赦のない北風がただ吹き荒んでいたのでした。
『『で、爪は切れてるの?』』
…………切れてません。……やっぱり、切った方がいいのかなぁ。




