第41話 姉に救われる―①
「喚くな」
眼を閉じて、真っ先に浮かぶのは、そう言い放つの男の姿。
「そんなことしても、俺はお前を見ないし、興味も抱かないし、関心もない」
手に持った本を、つまらなさそうに眺めながら、文字通り私に視線すらくれずに、言葉だけを投げつけていく。
「とっとと、理解しろ。無駄だと、解れ」
そんな声を聴きながら、私はただ呆然と、何も言えないまま立ちすくんでいた。
「俺の血を引いてるんだ、餓鬼と言えど、その程度はもう分かってるだろ」
そうして、ぽつりと落ちた音に誘われて足元を見た。
「そんなことしても、誰もお前を見やしない」
そうして私は、幼心に理解する。
今、足元に落ちたこの雫に。
頬が濡れる、この感触に。
何の意味もないことを。
そうして、いつしか私は。
誰かの前で、泣くことを、やめた。
※
初めの記憶は、女の人の金切り声。
乱暴に掴まれる手。浴びせられる怒鳴り声。
小さなベッドの冷たい感触。
私の実母は、今にして思えば、多分あの男に棄てられた人だったのだ。
私が出来たことで棄てたのか、それとももっと前から棄てる予定だったのかは、わからないけど。
そして、それに怒り、狂い、絶望し、あてつけのように私を置いて、母親だった女は消えた。
そんなことを、いつかの頃、あの男はつまらなさそうに話していた。
私はそれを、自分の産まれに関する呪いのような話を、ただ茫然と眉一つ動かすこともできないまま聞いていた。
あの男は、家で私の世話なんて一つもしなかった。
三歳の頃には、自分の食事は自分で準備させられたし。風呂も、掃除も、洗濯も自分でさせられた。できずにいると、心底呆れたように、舌打ちが飛んできた。
だけど、あの男は、外ではまるで理想の父親のようだった。
明るくて、穏やかで、相手の話をよく聞き、愛情深く、たった一人で懸命に娘を育てている。そんな表向きの顔を演じていた。
保育園の先生も、地域の大人も、かかりつけのお医者さんも、その笑顔に騙されてあの男を信用していた。
「コツはな、眼と声だ」
そう言って、あの男は無造作に、私の頬を指で歪めて、感情のこもってない瞳でじっと見た。
「相手の目を真っすぐ見て、信用させろ。声色は聞き心地いいように、整えろ」
まるで物を扱うように、人形の表情を無理矢理、思った通りにするように。あの男の指が、私の頬の形を変えていく。
「それが出来たら、相手の目線と指先を見ろ。そいつが何をしたいのかは、大体そこに書いてある。あとは、それをただ口にしてやればいい」
そんな、男の言葉を、私はただ黙って聞き続ける。
「どうせ、出来るだろ? お前は―――俺の血が混じってるんだから」
そうして告げられた呪いは、私の胸の中で、冷たい氷の塊のようになって。
未だに残り続けてる。
※
この話の何よりも救えない点は、私は実際、あの男が言った通りの人間だったということだ。
相手の眼を見て笑うこと、明るくてよく通るように声を響かせること。
相手の瞳の揺らぎを見ること、その指先の震えから、抱えている欲望を見つけること。
あとは、それを口に出すだけ。
男の言葉の通り、私にはそれが簡単に出来てしまった。
望む通り言葉を吐いて、望む通りに手を差し伸べてみれば、誰も彼もが簡単に私を信用する。なんなら私を子どもと侮っている分、子ども達より大人の方が遥かに騙しやすかった。
保育園の中で、その眼と声を使って立ち回れば、私は簡単にみんなの代表のような立場になっていた。子ども達も先生も、みんなの私を見ると笑顔になった。
ただ、そうやって誰かの信用を勝ち得た私を、あの男は心底つまらなさそうに眺めていたっけ。まるで、答えが全て解りきっているテスト用紙を眺めているような、そんな瞳を私に向けて。
多分、『普通』はこんなことしていたら、罪悪感を感じるのだと想う。琥白がやったら、一日で自分から全て白状しそうだ。おそらく、顔を真っ赤にして、泣きながら。
でも、私はそうじゃなかった。息をするように、当たり前に、他人を騙すことができてしまった。それに何も思わない、何も感じない。どれだけ作り物の笑顔を浮かべても、胸の奥は穴が開いたように空っぽだった。
そんな間、あの男は、時々女を連れ込んでは、いつものような嘘の笑顔を浮かべて、その女たちから金をだまし取っていた。
女たちは私のことを見ると、一瞬むっとしたけれど、すぐに猫なで声になって私に笑顔を向けた。そうすることで、あの男の気が引けるとでも思ったのかもしれない。
私もそれに応えるように、笑顔を返して、仲睦まじい親子を演じた。だって、そう望まれたから。
「馬鹿はいい。騙しやすい。どいつもこいつも愛情に飢えてるから、それっぽい言葉を与えてやれば、簡単に何でも差し出してくる。お前も狙うなら、そういう奴から狙っていけ」
あの男はそう言って、色のない瞳で、他人の騙し方を私に教え続けた。
幼い頃だから、記憶は曖昧だけど、たくさんの女の人があいつに入れ込んで。そして、空き缶のように棄てられた。毟るものを毟ったら、それでおしまい。その都度、私たちは知らない街に移って、また理想の親子のふりをする。
そんなことを繰り返しているうちに、段々とうつろのような、ぽっかりと空いた穴が、私の胸の中で大きくなっていく。
あの男の笑顔に騙される人を見るたびに、私の声を信用する人を見るたびに。
じわじわと、痛みと不快感ともつかない何かが、胸の内で広がっていく。
そう、どうせ、みんな馬鹿なのだ。
こんな嘘に、こんな笑顔に、こんな声に。
簡単に騙される、どいつもこいつも。
どうせ、どうせ。
そして、そんな馬鹿を食い物にする私もまた。
きっと醜くて、悍ましい生き物なのだと。
理解したのは、一体いつの頃だっけ。
これが私という、人間のフリをした紛い物の。
その、始まりの記憶。
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