第35話 姉と大晦日
はるのことを、『そういう眼』で見るようになったのは、何がきっかけだったっけ。
そう考えてはみても、明確な境は思い出せない。強いて言えば、はるの身体が段々と性徴期を迎えたあたりだったと思う。
段々と大人の身体に移り変わっていく姉を見ながら。私は胸の中で仄暗い熱を持った衝動を、自然と抱えるようになっていった。
最初はそれがなんなのか、わからなかったけど。はるの身体をじっと観察しているうちに、瞼の裏にフラッシュバックしてくる光景で、程なくして答えは理解した。
――たい。
――たい。
――たい。
その欲情の答えを得たところで、また一つ、私は理解してしまう。
自分がやっぱり、あのろくでもない、人でなしの血を引いた存在だということを。
瞼の裏には、女を食い物をとしてしかみていなかった、クソ親父の下卑た笑みが、いつまでも張りついている。結局、私は何処まで行っても、あれと同じだったわけだ。
だから、私はこの薄暗い衝動は、誰にも告げぬまま固く蓋をすることにした。
こんな汚れたもの、間違ってもはるに向ける物じゃない。
大切な相手を、ただ穢して傷つけて、慰みものにするだけの、こんな欲望。
見られることも、知られることも、満たすこともあっちゃいけない。
そう心に、誓ったのは、まだ中学も半ばの頃だったっけ。
この冬、あんなことが起こるまで、私はこの想いを死ぬまで、誰にも明かさないつもり、だった―――――。
―――だったんだけどなあ。
※
はるの意思は、もうあたりまえの如く、一度決定されたら覆らない。
まして今回は、なんだか興味や好奇心が刺激されてしまったらしい。こういう時のはるは、本当に止まらない。
いつかの頃、小説の描写に必要だからって、わざわざ隣の県まで行って、日本で何番目かに高いバンジージャンプ―を跳びに行ったことがあるくらいだ。私が何回も止めたのに、「一回、命の危機を肌で感じてみたいの!」とかいって強硬してたっけ…………。
だからまあ、なんにしても、はるがこうなった以上、抵抗するだけ無駄なんだけど……。
ぽすっと音がする。
私の背後で、はるの服が一つ、床に落ちる音。
あれから、勢いのまま脱衣場連れてこられて、なし崩し的に一緒にお風呂に入ることになった。
なんでこんなことに、なってしまったんだろう。いや、はるとの想いが通じた以上、いずれ起きてもおかしくないことではあったのだけど。
ぽす、ぽすっと音がする。はるが段々と、上着を脱いでいく音。
かちっという音は、ブラのホックを外す音。
しゅるっという音は、ショーツが下にずらされる音。
程なくして、音が聞こえなくなって、でも背後にははるの気配がまだ残ってる。
いま、まさに、背後には生まれたままの姿のはるが、そこにいる。
…………ふーって漏れた息が、熱くて重い。
こっちの気も知らないで……ってわけでもないんだろうけど。多分、はるが思ってるより、今の私は正直危うい。
服を脱いでるだけなのに、心臓が嫌でも早鐘を打つ。期待と、不安と、興奮で、指先が微かに震えてる。
中学の頃から、はや数年。性を自覚してからだと、5年ちょい。
抑え込んできた欲望が、いまかいまかと、胸の中でぐつぐつ湧いている。
口の中を少し噛んで、そんな逸る自分を、どうにか痛みで無理矢理戒める。
衝動のままに触れて、はるを傷つけるなんて、あってはならない。
いくら想いが叶っても、ここで不用意なことをすれば、関係は簡単に壊れてしまう。
それに何より、私なんかの欲望で、はるを穢すような真似はしたくなかった。
だから、そう、いつも通り。心に少し蓋をして、気持ちを殺しながら、向き合えばいい。
そう、いつも通り。
「くろえ…………、そっち、向いていい?」
漏れた息で微かに起こる胸の痛みが、どうにか正気を保たせてくれる。私は最後の下着を、出来るだけ何気なく外して、頭を振った。
「うん、大丈夫」
言いながら、そっと背後のはるを振りかえる。
だけど、一瞬、表情が歪むのが抑えられない。
大事なところはまだ、手で隠されているけれど。
そこにいるのは、文字通り、一糸纏わぬはるの姿。
柔らかい肌も、白くてほのかな丸み帯びた身体も、普段隠されている肩や腰、その境目まで露わになったはるがそこにいる。
ふぅ……っと、どうにか息を抑えながら、痛む心臓を抱えたまま、ため息を吐く。
「え、何その顔。……ち、ちんちくりんだっていうのかよー……」
言いながらはるは少し顔を紅くして、見当違いな抗議の眼を向けてくる。
「違うよ……堪えてんの、色々…………」
今、理性のタガを外したら、このまま唇を奪って押し倒してしまいそうだ。概算5年、生殺しにされてきた欲望が、ぐるぐると唸りながら私の背を引っ掻いてくる。
「………………それはえと、……えっちな意味で?」
「何をいまさら……そうだよ、そういう眼でみてるの、はるのこと」
未だにすこし疑わし気なはるに、私はさらにため息を深くしながら、そう答える。そんな私の言葉に、はるは自分の身体を少し眺めながら、うーっと唸って顔を赤らめていた。
「…………と、とりあえず、お風呂入ろう」
「……そうだね」
なんて小康状態のまま、私たちはにじりあうように間合いを図りながら、浴室の扉を開けた。
家庭用の風呂場は、小さい頃は、二人で入っても充分な広さだったけど、今となってはさすがに少し手狭に感じる。軽く身体を流してから、はるが先に湯舟に入って、向き合う形で私も足をお湯に浸した。
当たり前だけど、お風呂はそもそも一人用だ。だからお互いの足を軽く交差させるようにしないと、二人では入れない。ふくらはぎやふとももに、はるの肌の感触を微かに感じながら、そのまま湯舟に腰を下ろした。
ざぱっという音がして、溢れたお湯が浴槽から零れていく。二人で入った分だけ水かさは多くなる。私とはるの、どちらかの体積分だけ零れていくお湯を、はるはじっと顔を赤らめたまま見つめてた。
「「…………」」
しばらく、何も言わない時間が流れる。
足は、お互いに閉じたまま、交差するように湯舟の中で二人分の身体を揺らす。はるの手は未だに前を隠したまま、私はもう色々諦めているので、前も大して隠してない。大事なところがはるに晒されているのは……まあ、今更ってことにしておく。
「………………」
「で、どう? 『そういう眼』で見れた?」
そんな私の言葉にはるの肩がびくんって揺れる。顔を赤らめたまま、俯いて唇は微かに震えてる。あのままじゃ、あっという間にのぼせそうだね。
「………………うう」
「………………」
そして、案の定というか、はるはすっかり言葉に詰まっていた。まあ、いくら自分から望んだとはいえ、こんな特殊な状況にあの臆病なはるが耐えられるわけもないか。バンジージャンプの時も、跳ぶ前段階までは威勢良かったけど、いざ崖の上から谷底を見たら泣きそうになってたし、足も震えっぱなしだったしね。
そんな様子を見ていたら、少しだけ胸の中の欲望も、溜飲を下げて落ち着いてくる。……いや、嘘。落ち着いた分だけ、はるの身体を観察する余裕が出てる。
なにせ一緒にお風呂入るのなんて、中学生ぶりだから、色々と思い出してしまう。あの時より胸は少し膨らんだかな……、いや、やめよう。我ながらキモい。
「なんか、くろえから、やらしー視線を感じる…………」
「だから、私はずっと『そういう眼』で見てるって言ってるでしょ……」
バレてない時は、絶対に気付かれないように隠してたけど。今となっては、隠す意味もない。むしろちゃんと分かってもらった方がいいのかも。いつまでも、自分の身体に魅力がないなんて思われて、困るのは私だし。
ちゃぽっと音を立てながら、指をそっと水面から出す。そのまま、はるの首筋を軽くなぞる。露わになった素肌を、肩口からそっと撫ぜていくように。
「ふにゅにゅにゅ…………」
「あのね、私ははるが思ってるほど、純粋でも、清廉でもないよ。醜い欲に塗れた、けだものみたいな奴なんだから、油断してるとすぐ食べられちゃうよ?」
そう言いながら、指筋をそっとはるの顎先に沿えて、少しだけそのまま弄ぶ。はるは堪えきれずに、ぎゅっと目元を閉じたまま、ぷるぷると身体を震わせていた。……そういう表情が煽ってるって自覚あるのかな。……ないね、多分。
「うう……、妹が経験者みたいなこと言いよる……」
「……別に経験はないけどさ、これでも大人の汚い部分は知ってるから。忠告してるだけだよ、箱入りお姉さん」
指先を顎から外して、最後につんっとその唇をつっついた。はるは少し涙目のまま、不満そうにこっちを見てくる。
「じゃあ、私と同じじゃん……」
「そうだね、まあ、心の余裕の問題じゃない?」
特に目の前の相手が困惑してると、相対的に落ち着けるのものだから。胸の奥で後ろ暗い欲は、相変わらず滾っているけど、幸いどうにか蓋は出来てる。
このまま、はるを気圧し続けて、のぼせる直前まで時間を稼げば、大丈夫……と思いたいけど。
何かの言葉にふと引っかかったように、はるの言葉が一瞬止まった。
「―――ふうん…………じゃあ、くろえの余裕がなくなればいいんだね?」
「………………」
…………この姉の怖いところは、ここからだろうか。
そっと視線を逸らしてみるけど、横目にこっちをじっと見つめているはるの視線からは逃げられない。
さっきまでの怯えはどこにったのやら、私のことをつぶさに観察するみたいに、瞳が真っすぐとこちらに向いている。
追い詰められた鼠は、猫すら噛むと言うけれど。
これは、そういうレベルの話で済むのかな。
そういえば、色々怯えながら、最後にはちゃんとバンジージャンプ跳んでたんだよねえ、この姉。震えながら、怯えながら、それでも最後は自分で一歩踏み出して。
どくどくと、黒い血が衝動の塊になって、身体を煽っているような錯覚を覚える。
はるは何を想ったのか、前を隠していた手をそっと解いて、私を覗き込むようにゆっくり身体を寄せてくる。
大切な部分を露わにしながら、そんなことまるで気にもしないまま。
まるで、私の心を、欲を、見透かそうとしているみたいに。
「ねえ、くろえ」
「………………なに」
浴室の中、小さなはるの声が、ぼんやりと木霊する。
それから、ぴちょんと、どこからか雫が落ちる音がして。
感覚がぼやけたような、お湯の中、何かが私の腕にそっと重なっていた。
「身体―――触っていい?」
そんなあなたの声がまた、微かな残響を伴いながら響いて、やがて止んでいく。
私は体温がそのまま、お湯と一緒に溶け出していくような、錯覚を感じながら。
腕に触れるあなたの指を、じっと見つめていた。
音がする。
ばくばくと、何かを急き立てるような、鼓動の音が。
たくさんの音が満ちているはずの、その密室の空間で。
今はどうしてか、その心臓の音以外、何も聞こえない。
ああ、大丈夫かな、本当に。




