第27話 姉の命令を聞く
答えが出てはいないにしても、私達のこの微妙な関係は、当然秘密にされなければならない。秘密を既に知っている八木原姉妹はともかく、今は役員のみんなが見てる。
「ほら、くろえ―――」
もしバレでもしたら、よく知りもしない他人から、ずっと後ろ指を刺され続けることになる。私のことが目障りな人間が、はるを弱点と知って、喜んで攻撃することだってありえる。
「傅いて―――」
なのに、肝心のはるが、どうしてこんなことを――――。
わからない、答えは出ない。理屈も合理も、何一つとして、現状の意味を教えてはくれない。
ただ、はるはじっと、私のことだけをじっと揺るぎない瞳で見つめてる。
「王様の命令は絶対でしょ?」
ていうか、急にどうしたっていうんだろう。白乃さんの焚きつけが効いた? 姉としてのプライドが刺激された? にしても今じゃなくていいでしょ。
だって―――、と想いはするのだけれど。
頭の中では、半ば諦めに近い感情が、じわじわと湧いてきているのも事実だった。
こうやって、一度やると決めたはるは、誰がどう言いくるめても、決して自分の意思を覆さない。
私はそれを知っている。この10年間で、嫌というほど身に沁み込まされている。
だから、はるがそう決めた以上、この命令は絶対に実行される。もはや私の意思とは関係なく。
脳裏によぎるのは、親父が出て行って、独り取り残された私を、小さな背中で背一杯に庇う姿。
肩を震わせて、泣きながら、喚きながら、叫びながら。
必死に説得しようとする大人たち相手に、私と一緒に自分の部屋に立てこもってまで、わがままを貫いていたあの姿。
『くろえはもう、うちの子なの!! もう決めたの!! お義父さんがいなくなっても関係ないの!!』
『私の妹なの!! 家族なの!! 誰にだってあげないの!!』
『私はくろえのお姉ちゃんなの!!!』
結局あれも、当時7歳のはるに、お義母さんを含めた大人たち全員が根負けして。そのまま、私は羊宮家に向かえ入れられることになったんだっけ。親のいない子どもだから、別に施設に預けても、誰も文句は言わなかっただろうに。
はるだけが、それを許さなかった。はるだけが、私の手を離さなかった。
あの時からわかってる。はるがそう決めたなら、もう私に……いや誰にだって抵抗する権利はない。
だからまあ、現状、私は命令を聞くしかないわけだけど。
「ほら、おいで。くろえ」
そういってあなたは、細められた瞳で、なのにどこか慈愛すら含んだ声色で、私の名前を呼ぶ。
ふぅって息を吐きながら、ちらりと周囲を見回してみる。
役員たちは、はるの急変に何が起こってるかわからず唖然としてる。白乃さんは、どこか真剣な表情で、私たちの様子を観察してる。
琥白には制止を期待したいんだけど……あれはダメだね。顔を手で抑えてるけど、真っ赤になって、息は荒くて……溢れる興味が隠しきれてない。
漏れる息が、どうしても重い。胃のあたりが珍しく、キリキリ痛む。
終わった後、なんて言い訳をすればいい。どうすれば誤魔化せる。
この秘密をどうにかして、誰にも気づかれないようにしないといけない。
ぐるぐると思考が回る。足を動かそうとするけど、泥に沈んだように重い。
いるはずのない誰かの好奇の視線が、じくじくと肌に刺さるような錯覚までする。
こういう感情を何て言うんだっけ………不安? 恐怖?
何にしても、耐えがたい物には違いない。
だって、他人に弱みを曝せば攻撃される。他人はいつも貶める機会を窺っているものだから。
今、こうやって動揺してるのを見られていること自体、本来、あってはならないはずだろ―――?
思考の中で、そんな誰かの声がする。
低くて、冷たくて、私によく似た誰かの声が―――。
「くろえ」
ハッとした。
意識が不意に、いつかの声に飲まれかけた、その一瞬に。
はるが小さく、短く、私にだけ聞こえるように名前を呼んだ。
それだけで、意識が暗い淵から引きずり出される。
「おいで―――大丈夫だから」
そうして、あなたに言葉を貰った、それだけで。
胸の奥の不安は、すっと静かに溶けていった。
足を出す。呼ばれるままに。
誰も何も喋らない。まるではるだけが、この場で言葉を使えるみたいに。
「もっと、近く」
静かな声。まるで子供に、寝物語を言い聞かせているみたいな。
「もっと」
足を出す。あなたの傍へ。
「もっと」
とんと、小さな音を立てて、あなたの眼前まで近寄る。
「傅いて」
言われるがまま、思考すら挟まることなく、足から力が抜けていく。
あなたは、そっとその白くて、細い手を出して。
それを私の前にすっと、持ってきた。
はるの言うことを聞いていると、なんだか不思議な気分になる。
他人に言われるまま行動する。権利も選択も、全てのその人に委ねてしまう。
それは本来、不安と焦りしかもたらさない状況のはずだ。
だって、他人に権利を委ねたら、どう扱われるかわからない。何をされても文句が言えない。
何より私は負けず嫌いで、人から見下されるのが大嫌いだから。
本当は、こんなの耐えがたいはずなんだけれど。
「顔、上げて」
なのに、どうしてか、あなたに命じられるのは心地がいい。
はるの指が私の頬をそっと撫でて、そのまま首筋をゆっくりとなぞってく。
その感覚のくすぐったさに、軽く目を閉じていたら、はるの指が首元に少しだけ潜り込んだ。
チャリっという金属の音がする。はるが、私のネックレスを微かに撫でた音だった。
言葉は発していないけど、はるの首が少しだけ、こくっと傾げられた。
わかってる? って尋ねられているようだ。
妹は姉のものなのだからと、そう確認するように。
私はそっと眼を閉じて、小さく頷いた。
そんなの10年前から知っている。あなたの手から逃げることは、あの誓いの夜に、もう諦めてしまったから。
はるはそれに満足すると、首元から指を離して、そっと頬を優しく撫でながら微笑んだ。
くすぐったくて、心地いい。火照った頬に、冷たい指の温度がゆっくりと染みわたる。
そのまま指が、ゆっくりと唇をなぞってく。
胸の奥がとくんと高鳴る。背筋がぞわっと何かの期待に震える。
私の身体がそれを、今か今かと待っている。
ごくっと誰かが息を呑む音がした。
―――それが、最後の合図だった。
「キスして」
声と同時に、差し出された指に、唇をそっと重ねた。
この世にたった一つの宝物へ、言祝ぐように。
誰より大切なその人に、××の証を刻むように。
不安も痛み、今は忘れて。
ただあなたの言葉に、導かれるまま。
温かい指の、柔らかな感触だけを感じてた。
とくんと、小さな音が、胸の奥から鳴り響く。
とくんと、微かにあなたの指から、鼓動の震えを感じた気がした。
誰も、何も口にしない。
その痛いほどの沈黙が。
今だけは、どうしてか心地よかった。




