第15話 妹の言葉を聞く
「……ねえ、灰琉先輩。一つだけ、お願いしていいですか?」
トイレの冷たい空気の中で、琥白ちゃんは小さくぽつりとそう呟いた。
視線を上げるとそこには、何かの意思をともした彼女の視線が、じっと私を見つめてた。
「秘密は絶対、守ります。灰琉先輩の気持ちが納得するまで、誰一人にだって言いません。でも、その代わり―――」
うすら寒くて、凍えてしまいそうな空気の中で、彼女はしっかり熱のこもった言葉で口を開いた。
「あいつの―――黒江の話をちゃんと聞いてあげて欲しいんです。今から部室に戻ったら、多分、あいつ言いたいことがあると思うんです。ずっとじゃなくていいです。今日だけでいいから、ちゃんと聞いてあげて欲しいんです」
優しくて、温かくて、友達想いな素直な言葉だ。
真っすぐで、誰かのために動くのが当たり前で、それを普通に口にできる彼女だからこその言葉だ。
「………………」
私は、くろえの言葉をちゃんと受け止められるんだろうか。正直、自信はない。きっと私が、姉でも先輩でもなかったら、簡単に逃げ出しているような気もする。
でも―――。
「それだけ―――あいつの友達として、お願いします」
でも、こんな言葉を裏切れるほど、利己的にもなれっこない。
ふぅと漏れた息が少し重い。
琥白ちゃんは心配そうに私の表情を窺ってる。ああ、だめだね。こんなに後輩に心配かけちゃってさ。
しっかりしないと…………。
零していた涙を拭って、どうにか顔を上げる。
私は正直、どうしようもない半端者で、意気地なしだ。
でも、貰った気持ちに、応えられるくらいの想いは示したい。
だから、琥白ちゃんに、真っすぐと視線を返す。
「わかった。ありがとう―――」
※
「はる―――」
「くろえ…………」
何を言えばいいのだろう。
何を伝えればいいのだろう。
少し寂しそうに微笑むくろえを前にして、私は結局言葉を失ってしまう。
何か口にしようとするけれど、口はぱくぱくと動くばかりで、上手く言葉を見つけてくれない。
しばらく、そのまま、お互いに何も言わない時間が流れた。
しんとした部室の外で、沿線の電車ががたがたと通り過ぎる音が、ぼんやり聞こえる。それ以外に聞こえるのは、私の胸の内でどくどくとなり続ける鼓動の音だけ。
「………………はわわ」
…………いや、なんか別の音も聞こえるな。
ちらりと背後を窺うと、そこにいたのは顔を手で覆いつつも、真っ赤な顔で私達の様子をじっと見つめる琥白ちゃん。
………………そうだね、琥白ちゃんは、こういう展開、好きだもんね。
「……ねえ、琥白」
見兼ねたのかくろえは、少しため息交じりに口を開いた。
「な、な、何? あ、私のことは気にせず、続けて……?」
と、言いつつ琥白ちゃんは壁までにじり寄ると、そのままそっとしゃがみ込む。何だろう、あれは。壁に成ろうとしてるのかな……?
そんな琥白ちゃんを見つめてから、私とくろえは少し視線を見合わせた。数秒して、軽く頷きあう。
「仲裁ありがと、ホント感謝してる。でも、今は二人にしてもらっていい?」
くろえはそう言って、軽く笑みを浮かべながら首を傾げた。
「え、あ、そうだよね。……えっと、静かにしてても……ダメ…………?」
苦笑いを浮かべる私。どうにか居座ろうとする琥白ちゃん。無言でそっと琥白ちゃんの首根っこを引っ張り始めるくろえ。
そうして、数分後、結局、琥白ちゃんはくろえによって、ぽいっと文芸部室の外に退出させられた。
あはは……、なんかさっきまでシリアスな雰囲気だったのにね。あっというまに空気がゆるんでしまった気がする。
ドアの傍でまだ粘ろうとする琥白ちゃんを、くろえがなんとか追い出して、結局ばんっと思いっきり扉が閉められて、私たちはようやく二人っきりになる。
「…………」
また少しだけ、時間が止まる。今度は電車の音すら聞こえない、二人だけの空間。
でも、そう長く、沈黙は続かなかった。
「…………琥白はほんとさ、他人のために動くのはいいけど、自分の欲にも忠実っていうか」
「…………だね、いい子なんだけどね。興味が湧いちゃうと止まんなくなっちゃうみたい」
そう言いながら二人で視線を軽く合わせて、笑い合う。
なんだか琥白ちゃんのおかげで、少しだけ気が緩んだというか。ここまで考えてくれていたんだろうか、わからないけど、肝心なところで鋭い子だからね。
そうやって、しばらく笑い合ってから、改めてくろえと二人で、そっと向き合う。
何を言えばいいのだろう。
何を伝えればいいのだろう。
わからないけど、少し気が緩んだから、さっきまでのやり取りを、私はようやく想い出せた。
『あいつの―――黒江の話をちゃんと聞いてあげて欲しいんです』
そう今の私の役割は、まずそれだ。
くろえの言葉をちゃんと聞くこと。
何につけても、全ては、まずそれからだ。
「………………ねえ、はる」
「うん、なに? くろえ」
くろえは視線を逸らしながら、静かに何かを探すように言葉を続ける。
「怒ってる……? さっきの」
そうやって尋ねる言葉は、宿題を忘れた子どもみたいだ。私は思わずくすっと笑って、ゆっくりと首を横に振る。
「怒ってないよ……その、ちょっとびっくりはしたけど」
言いながら、少しだけ顔が火照る気がするのは、暖房のせいだろうか。それとも、口にすることで、さっきのやり取りが想い出せてしまうからだろうか。
「ごめん…………」
くろえは相変わらず、少しバツが悪そうに、視線を下げたまま言葉を続ける。完璧副会長の見る影もないけれど、私にとっては見慣れたくろえの姿だ。
「いいよ、そんなに気にしてないから。でも、びっくりさせちゃったし、琥白ちゃんには、後で一緒に謝ろ?」
そう言って笑うと、くろえはゆっくりと頷いた。うん、素直でよろしい。
ここまでは、いつものやり取り。喧嘩した後の、仲直りのそんな儀式だ。
何度となく、繰り返してきた。10年間、こうやってごめんといいよを繰り返してきた。
ただの『普通』の姉妹のやり取り。
でも、今日はそれで終らないんだろうな―――。
「あとね―――」
くろえの声が、一層小さくなる。まるで、子どもが泣きながら本音を言うみたい。
「嫌だった―――」
静かに、言葉が、部室の中に響いてく。
「…………何が?」
そっと、問いかける。
「…………はると、琥白がくっついてたのが」
まだ引き返せる、笑って、誤魔化して、なかったことにしてしまえる。
胸が痛い、息が震える、そのまま逃げ出してしまいそうになる。
「………………どうして?」
でも。
「好きだから―――」
ああ――――。
君を見た。
少し怯えた顔で、それでも私のことをじっと見つめる君を見た。
「それは―――『姉妹』として?」
胸の奥がじっと弱く脈打っている。冷たいのに、熱い、不思議な感覚。
「ううん」
くろえはゆっくり首を横に振る。
「『家族』として?」
「ううん」
横に振る。
「『友達』として?」
横に振られた。
ずっと、言葉にするのが怖かった。
口にしてしまえば、今までの私たちの関係が、壊れてしまうような気がしたから。
認識して、解かっていても、言葉にして問いただすのはやっぱり怖い。
でも。
じっと、くろえのことを見つめる。
いつも凛々しくて、真っすぐと伸ばされた背筋は、しゅんと折れ曲がって自信なさげに俯いている。可憐でみんなの目を引く大人びた表情は、今は怖がりの子どものよう。
きっと、くろえも逃げ出したいんだ。きっと、くろえも怖いんだ。
私達の姉妹の間に、『普通』じゃない、別の名前を与えることが。
でも、それでも。
湧き上がる想いは、止めようがないのかな。
だって、いくら抑えつけても、心が産んだ想いは、どこにも消えてなくなってはくれないから。
私にとって、いつかの寂しさが、どこにも消えていかなかったように。
きっと、くろえの想いも、受け止めなければ、くろえの胸の内でいつまでも留まったままになってしまうんだろう。そうしたら、いずれ想いは歪んで、淀んでいってしまう。
そうすれば、苦しいのは誰より、くろえだ。
そんな事実を、今更、思い知らされる。
琥白ちゃんに言われるまで、私はこんな簡単なことにも気付いていなかったのか。
最愛の妹の、大切な想いを、ずっと無視し続けてきたのか。
胸が張り裂けそうになる。痛くて痛くて、そのまま私の心まで壊れてしまいそう。
それでも、一つ息を吸って、そんな痛みを少しだけ、そっと吐き出した。
向き合え、眼を逸らすな。
たとえ、私たちの、今の関係がもう戻らないとしても。
他の誰でもない、大切なくろえの想いだ。受け止めろ。
どれだけ今更だとしても、ちゃんと償え。
「それとも―――」
『恋人』として―――?
口に仕掛けて、言葉が震えた。
そこが境だ。私達姉妹にとっての、もう取り返しのつかない場所だ。
そこを越えたら、もう姉妹には戻れない。
でも、くろえの視線は揺るがなかった。
私のことをじっと見て、黒く透明な瞳が、真っすぐに向けられていた。
時間が止まったような―――そんな気がした。
「好きだよ―――はる」
「世界の他の誰よりも」
「一人の『女の人』として大好きなの」
「私は、はるに―――ずっと恋をしていたの」
ああ――――。




