第14話 姉にわかって欲しい
「今のは、ダメです。酷い嘘にもほどがあります」
「ねえ、灰琉先輩」
「いつまで、その気持ちに蓋するんですか?」
どうしてそんなことを言いたくなったのか、上手く言葉にはできないけど。言わなければ、という気持ちだけは、身体の奥からぐつぐつと湧いてきた。
今、灰琉先輩は、とっても酷いことをしている。
黒江に……というより、多分、灰琉先輩自身に対して。
だって、あんな顔してたのに、全部遊びだったなんておかしいよ。
じっと灰琉先輩の瞳を見つめる。真っすぐと揺るがずに。
反対に灰琉先輩の視線は、ぐらぐらと覚束ずに揺れている。
「本当に遊びなら、どうして私が黒江としちゃいけないんですか?」
揺れる。
「本当に遊びで、あんな声出したんですか? あんな顔してたんですか?」
揺れる。
「本当に遊びなら、どうして今、泣きそうな顔してるんですか?」
ぐらりと揺れた。致命的に。
灰琉先輩、動揺してる、見たこともないくらいに。足元はおぼつかなくて、表情はぐちゃぐちゃで、今にも泣き出してしまいそうだ。
そんな姿に、思わず胸の奥がずきんと痛んだ。誰より優しい先輩に、こんな問い詰めるみたいな言い方、よくないのはわかってる。
でも、でも―――。
「そんな顔して、大丈夫なわけないじゃないですか」
今、これを見過ごしてしまったら。
「本当にただの『普通』の姉妹なら、本当にただの遊びなら―――」
この人は、自分の想いに蓋をしてしまう。
「どうしてそんなに―――辛そうなんですか?」
自分の想いを抑えつけて、閉じ込めて、踏みにじってしまう。
それはダメだ。どうしてかはわからないけど、それだけはきっとダメだ。
今、この人の想いを見過ごしちゃ、ダメなんだ。
「本当は灰琉先輩も、黒江のことが―――」
でないと、灰琉先輩の心が―――。
「―――ダメ!!!」
………………え?
聞いたことのない声だった。
今年の四月に出会ってから、いつも穏やかに優しく話してくれた灰琉先輩の。
叫ぶような―――否定の声。
「………………灰琉……先輩?」
言葉が……見つからない。
気付けば、灰琉先輩は、じっと涙を零しながら、何かを堪えるように私の肩を掴んでて。
「ダメ……言わないで……それだけは」
見たことがないくらい、必死の形相で私に縋ってた。
わからない、何が起こったのか、どうして灰琉先輩がそんな声を上げたのか。
そうして、私が、ただ唖然とすることしか出来ない間。
灰琉先輩は、千切れてなくなってしまいそうなほどか細い声で、請い願うように言葉を呟いていた。
「お願い、まだ……言わないで……」
「わかってるの、いつか自覚しなくちゃいけないって……、いつか、答えを出さなきゃいけないって、『普通』の姉妹には、もう戻れないのも…………」
「わかってる、わかってるの……」
「ごめんね、琥白ちゃんは、くろえのことをちゃんと想って言ってくれてるのに……」
「でも…………もう少し、ほんの少しの間だけでいいから」
「私を、あの子の『お姉ちゃん』で居させて欲しいの……」
「いつか、必ず答えは出すから……」
そう言いながら、灰琉先輩の眼から零れた雫は、トイレの床にぽつぽつと落ちていく。
わからない、私は馬鹿だから、どうしてこんなに灰琉先輩が泣いているのか。どうして黒江に想いを告げちゃいけないのか。
わからないけど、ぎゅっと肩を掴む灰琉先輩の指が、どうしようもなく震えていたから。
私は、何も言えないまま、ただ頷くことしか出来なかった。
ぽつぽつと、雫が落ちる音がする。
嗚咽も、慟哭も、何もなく。
冷たい冬のトイレの床に、誰に受け留められることもなく。灰琉先輩の瞳から雫はただ堕ちていく。
優しくて穏やかで、憧れの先輩の背中は今、吹雪の中で凍える子どもみたいに震えて、小さく見えた。
抱きしめたい、そう一瞬思って、手が微かに動いたけど。
でも、すぐに頭を振って、動きかけた指を止めた。
多分、その役目は私のものじゃない。
だから、今、私にできることは。
「ごめんね、琥白ちゃん……」
「…………いいえ、わかりました。くろえには、もう少しだけ……秘密にします」
この秘密をただ守り抜く、それだけだ。
吐いた息が少し重く、微かに震えてる。
寒いからかな、灰琉先輩もずっとこんなとこに居たら寒いよね。
肩にかかる冷たい手に、そっと手を添えながら、そんなことをなんとなく想った。
でも、もう少しだけ、寒いままかもしれない。
「…………ごめんね」
ふっと吐いた息が、白いもやを作って流れてく。
灰琉先輩が泣き止むまで、まだ時間がかかりそうだから。
あと、もう、少しだけ。
※
「……ねえ、灰琉先輩。私から一つだけ、お願いしていいですか?」
ただ、それでも、この人たちには笑っていてほしいと、私はそう想うんだ。
※
『なら、しっかりしろバカ!』
『好きな人に嫌なことしたならすぐ謝る! 好きなら好きってちゃんと言う! しゃんとしろ! あんたはいつも完璧な羊宮 黒江でしょうが!』
誰もいなくなった文芸部の部室の中、机に突っ伏しながら、さっきの琥白の言葉を想い返す。
酷いこと言ってくれるよね、そんな簡単にできれば苦労しないっての。
漏れたため息は、重くどんよりとしてる。胸の奥は、穴が空いたみたいに痛い。
いっそ嫌われてしまえば楽なのに。叶わぬ恋だと諦めて、潔くはるの前から姿を消せるのに。
でも、あの人は、私の手を離してくれない。
初めて出会った時に、手を握ってから、ずっと。
私の思い通りにはなってくれない。
困った姉だ、どうしようもなく。
琥白も琥白で、大概だけど。よくあの状況で、まっとうな感情で怒れるよね。普通もっと動揺したり、困惑したりするもんじゃない? こっちは姉妹でそんなのおかしいって、貶されることまで覚悟してたっていうのに。
ああ、どいつもこいつも思い通りにならないな。
でも、今、一番思い通りになっていないのは、どう考えたって、私自身の心だ。
ブラウスの中の、ネックレスを取り出して、そっと眺める。
小さなネックレスは、当たり前だけど、ただの金属の塊で。これが永遠の絆の保証にはらないし、私をはるが独占するための証明でもない。
それなのに、縋ってしまう。クリスマスに存在しないサンタへ手紙を書く、何も知らない子どものように。
いっそ嫌われてしまいたい。
|叱って欲しい、怒って欲しい《私を見てよ、おねえちゃん》。
こんな気持ちになるのなら、|恋なんてしなければよかった《それだけは絶対できない》。
「…………あは」
矛盾でぐちゃぐちゃに歪んだ心は、我ながら酷く滑稽だ。
独りしかいない部室の中で、眼を閉じて少し息を吐く。
琥白がはるを連れ戻して来たら、私どんな顔してたらいいんだろう。
何を言えばいいんだろう。どう謝ればいいんだろう。
こんな想い、今更言えるはずもないのに。
ネックレスを握った手に、無意識に力が籠って、小さな金属音が耳に届いた。
同時に、こつんこつんと、廊下を歩く足音が二つ響いてくる。
軽く息を吐きながら、ネックレスをそっとブラウスの中にしまった。
私は、何を言えばいいんだろう。
『あんた灰琉先輩のことが……その好きなの? …………なんていうか、特別な意味で』
何を―――言いたいんだろう。
『うん―――そうだよ』
わからない、でも。
あの時、答えは自然と口から溢れてた。
合理的に考えれば、明かす意味なんてなかったはずなのに。
ガチャっと扉が開く。
そこにいたのは、どことなく難しい顔をした琥白と、その後ろで少し目元を赤くして、視線を伏せたはるの姿。
身体の中で何かが、どうしようもなくつっかえている。
吐き出せと、口にしろと、そう訴えながら胸の中で小さく脈を打っている。
……まあ、なるようになるか。なるようにしかならないとも言うけれど。
しばらくじっと見ていたら、おずおずと視線を上げたはると目が合った。
赤く滲んで揺らいだ瞳。泣いてきたのかな、わかりやすいね、相変わらず。
伝えたい想いは山のように大きくて、解って欲しいことは海のように深くって。
でも、私たちが言葉にできることは、きっと、ほんの少しだけ。
「はる―――」
「くろえ…………」
名前呼んで、名前を呼ばれた。
あなたは、不安そうに顔を上げて、それでもじっと私を見てた。
それだけで、微かに微笑んでしまう。
さあ、あなたに何を言おうか。
こんなどうしようもない、私のことを。
あなたは、どこまでわかってくれるだろうか。




